慰安婦問題について、いろんな報道: 日朝修好条規で清の属国ではないと認めた日本を侵略者呼ばわりする李漢洙(イ・ハンス)記者の記事  朝鮮日報。

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2014年8月2日土曜日

日朝修好条規で清の属国ではないと認めた日本を侵略者呼ばわりする李漢洙(イ・ハンス)記者の記事  朝鮮日報。

WSJ Japan日清戦争から120年、中国の日本専門家に聞く
 「不平等条約ではなかった」
2014 年 8 月 1 日 18:50 JST
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成歓・井邑・景福宮=李漢洙(イ・ハンス)記者  
共同企画:東北アジア歴史財団
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

朝鮮日報  ChosunOnline
記事入力 : 2014/07/29 11:03
日清戦争120年:韓国人に忘れられた韓国内の古戦場
日清戦争120年・現場を行く(3・完)成歓・豊島・景福宮
日清戦争初の地上戦があった成歓

日本が占領した景福宮、農民軍1万人が死んだ
公州・牛禁峙
「虐殺現場に『嘆きの壁』設置し今後の悲劇を防げ」

カーナビの検索窓に
「忠清南道天安市成歓邑、成月・水郷道路」と入力した。
車が向かった先は、成歓の月峰山。清と日本は、この一帯で
最初の地上戦を 繰り広げた。
円光大学のパク・メンス教授が今月20日に案内してくれた。
パク教授は、日本の防衛省の文書などを通じ、日清戦争における戦闘の現場を
考証・ 調査してきた。
ここは海抜83メートルの山。現在は浄水場がある。山に登ると、
成歓の邑内が一望できた。
「軍事学では、こういう場所を『瞰制(かんせい) 高地』と呼びます。
低い山ですが、敵の活動を観察するには良い場所です」

■日清戦争に関する案内板・展示館はなし
  成歓の戦いは、1894年7月29日に行われた。
当時の朝鮮政府は、同年春に起こった東学農民軍の蜂起を鎮圧するため、
清に派兵を要請した。清は、6月8 日から数度にわたり、牙山湾経由で
約3000の兵力を送り込んだ。主力部隊は平壌に陣を張った。

※ 7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、
牙山清国軍撃退が要請され、7月26日に混成第9旅団
約4,000人 (旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。

日本軍約7000人は、仁川に上陸した。
日本は、清のソウル進軍を防ぐため、約3000の兵力を成歓に投入した。
午前3時、平沢との境界に当たる安城川付近で戦闘が始まった。
日本軍は、清軍の主陣地が置かれた月峰山をわずか5時間で奪った。
清の敗残兵約2000人は江原道に迂回(うかい)し、平壌で合流した。
清軍は平壌の戦いなどで次々と敗北し、その後、清軍が 
朝鮮の地を踏むことはなかった。

 日清戦争は、清と日本が朝鮮を取ろうとして朝鮮の地で繰り広げた戦争だった。
にもかかわら ず、当の韓国の古戦場には、このことを伝える表示がない。
パク教授の案内で、戦いが起こった月峰山や安城川、清軍の補助陣地があった
牛新里(旧牛歇里)一 帯を回ってみたが、当時のことを伝える説明文や
表示板は見当たらなかった。
ある住民は「清と日本がここで戦ったという話は聞いたことがない」と語った。

日清戦争初の海戦の舞台となった牙山湾沖の豊島は、日帰りできない孤島だった。
仁川を出発する旅客船が大阜島を経由して1日1回、乗客や荷物を運ぶ。
大阜海運の関係者は「一度豊島に行ったら1泊しないと戻れない」と語った。
  韓国には、日清戦争関連の常設展示館もない。
全羅北道井邑の東学農民革命記念館に付随的に展示してあるだけだ。
パク教授は「韓国の日清戦争の現場は、完全 に忘れられた場所。
韓国の運命を左右した戦争なのに、よその国のことだと考え、
国内問題にばかり没頭して国際情勢に対する認識が足りないからだ」と語っ た。



高校講座HOME  >> 日本史  >> 第30回  日清戦争
1860年代半ば以降、フランスやアメリカは、朝鮮半島を支配していた朝鮮王朝に
開国を迫っていました。日本も、朝鮮に対して条約締結と開国を迫り、
1876年に日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。

しかしその一方で、清国も朝鮮への介入を強めていきました。
甲申事変天津条約甲午農民戦争
朝鮮国内では清国を支持する勢力と日本を支持する勢力が対立しました。
1884年、日本の協力を得て国内を改革しようとする金玉均(キム・オッキュン)らの
グループがクーデターを起こします。「甲申事変」です。
これに対し清国は朝鮮に軍隊を送り、鎮圧しました。

翌1885年、日本は清との関係を修復するため伊藤博文を清に送り「天津条約」を結びました。
この条約で、今後、朝鮮に重大な事件が起きて出兵する場合には
互いに連絡しあうことを決めました。

1894年春、朝鮮南部で大規模な農民の反乱が起こりました。
甲午農民戦争」です。
役人による不当な課税などに対して民衆が怒り、そのころ朝鮮で広まっていた
新興宗教「東学」の指導者を中心に武力蜂起したのです。

朝鮮政府はこの鎮圧のため、清国に出兵を要請。清国からは2000人余りの軍隊が
派兵されました。
これに対して日本は、朝鮮にいる日本人を保護するためとして、
朝鮮への出兵を決定、およそ4000人を送りました。

ところが、日清両国軍の介入に危機感をもった朝鮮政府と農民軍は和約を結び、
反乱はいったん収まります。
そこで、日本政府は清国に共同で朝鮮の内政改革を行なうことを提案しましたが、
清国はこれを拒否しました。

日本政府は独力で朝鮮の内政改革にあたるとして、そのまま兵を置くことを決めました。
そして、朝鮮王宮を占領。
清国寄りの政権を倒し、国王の父で日本を支持していた大院君(テウォングン)を
政権の座につけました。
そして、清国軍を追放をしてほしいと、朝鮮王朝から日本に依頼させたのです。
その2日後の1894年7月25日、プンド(豊島)沖で遂に日清両軍の艦隊が戦いに突入、
日清戦争が始まったのです。

なぜ日本は清と対立してまで朝鮮半島にこだわったのでしょうか。
それを考えるためにこのころの東アジアの状況を整理してみましょう。

中国は清王朝が支配していました。
19世紀末、世界の強国としてイギリスと対立するロシアが
東アジアにも勢力を伸ばしていました。
こうした対立に拍車をかけたのが、1891年に始まった、ロシアによるシベリア鉄道建設です。
この鉄道の終点はウラジオストクです。
当時日本政府の要職にいた山県有朋は、シベリア鉄道が完成すれば、ロシアの
朝鮮進出が容易になると危機感を募らせました。

そして、日本の安全を守るためには国境を守るだけでなく、その外側(周囲)、
つまり朝鮮の安全を確保する必要があると考えました。

一方、甲申事変後、朝鮮への影響力を強めるには清国を討たなければという主張も
メディアに出てきました。
こういう状況で1894年に起きた「甲午農民戦争」が引き金となって日清戦争が始まったのです。

日本が戦争に進んだ背景は2つあります。
一つは、国内の事情です。開戦前の1894年には政府は衆議院の政党勢力と
対立して追い詰められ、衆議院を2回も解散するほどでした。
国内的には、もう一つ、清国と戦える軍事力がこの時期になって整備されたということがあります。
また対外的には、イギリスとの関係です。
1894年7月16日、開戦の直前に、イギリスと日英通商航海条約が結ばれました。
これによって、清と戦争になっても最強の国イギリスが戦争に介入するおそれがなくなりました。

・・・この1年後、日本軍は再び景福宮に乱入し、明成皇后(閔妃〈びんひ〉)を殺害した。

乙未事変   この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、
議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。
議論はノートを参照してください。2012年4月
乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、
三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、
朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件[1][2]
韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。 
1.3 朝鮮政府の対応
高宗は1906年、韓国統監代理・長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」
(私の部下の中に犯人が居た)と述べており[24]、また、ロシア公使館から
閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)[25]
禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李斗璜(訓錬隊第一大隊長)、
李軫鎬(親衛第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、権濚鎮(当時警務使)の
6名ついて、「王妃を殺害した張本人である」として処刑を勅命で命じている[26][27]
1.4 事件の首謀者
日本政府が直接関与したかについては否定的な見方が多く、秦郁彦
日本政府の関与については「証拠不足」との見解を示している[32]
背後関係について言及した近年の学説では、崔文衛が前任の公使であった
井上馨の主謀論[33]金文子が井上が「更迭」され、後任として三浦が
川上操六ら大本営の意を受けて送り込まれたとの説[34]が ある。

なお、事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、
政府の意思ではないだろう(「我政府の内意に出でたるものにあらざ るべし」)が、
前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため
処分について当惑していると記されている(10月19日付)[19]
1.4.1 朝鮮政府内部首謀説

事件直後に朝鮮政府は朝鮮国内で行った裁判で興宣大院君(高宗の父)の
首謀とする判決が出たことや[14]、朝鮮人実行犯の証言等から、事件の首謀者を
大院君とする見解は根強く[10]、また閔氏一族の横暴や怨嗟の声が
国中に満ちていることを憂慮していた朝鮮人らが積極的に参加していたとの
見解や[11][12]、決定的な証拠がないため不明とし、実行犯が日本人か
朝鮮人かを巡って、小説やノンフィクション、テレビドラマなどで現在でも
様々な意見や主張が出されているとも言われる[13]

禹長春
禹 範善(ウ・ボムソン、우범선、1858年 - 1903年11月24日)は乙未事変
閔妃殺害に加わった朝鮮王朝末期の武官
1894年日本軍が閔氏勢力を失脚させた後、開化派が政権を掌握すると、
軍国機務処甲午更張に参加し、1895年日本主導で訓練隊が創設されたとき
李斗璜李周会ら親日派軍人たちとともに大隊長を引き受けた。

このころ閔妃の反日、親露路線によりロシア勢力が拡大することが予想され、
閔妃殺害計画を立てた。

禹範善は訓練隊軍人動員の責任者で、焼却された閔妃の死体の最後の処理にも関わった。
しかし翌年の俄館播遷により親日の金弘集内閣が倒れ、禹範善は日本に亡命し身を隠した。
その後東京で亡命生活を送っている最中に日本人の酒井ナカと出会い、結婚した。
当時三浦梧楼が禹範善に対して
「人は好きだがいつ殺されるかもしれない人」
と評したにもかかわらずプロポーズを受け入れたと言う。

1898年、のちに「韓国近代農業の父」と呼ばれることになる長男禹長春
東京赤坂で誕生。
その後1903年に呉に転居、引っ越し祝いをした当日に他の事件で亡命していた
高永根に閔妃を殺害した復讐として暗殺された。
彼の遺骨は広島県呉市の神應院と
栃木県佐野市の妙顕寺とに分骨されている。[1][2] 

東学農民軍は、清と日本の軍隊が入ってくると解散した。
朝鮮政府は、両国に撤退を要求した。
日本はもともと退く気はなかった。平壌の戦いで日本が大勝利した直後の10月、
東学農民軍は再び蜂起した。
今度は「斥倭(日本排斥)」がスローガンだった。
日本軍は無差別的に虐殺を行った。
昨年公開された、日本のあ る軍人の日記によると、この軍人は朝鮮の農民を刺し、
火で焼き殺したという。少なくとも3万人が虐殺された。
日本の学界も認めている事実だ。だが日本政府 は認めていない。
韓国も、この人々を記憶していない。パク・メンス教授は「韓国側の方が問題だ。
加害の責任を問うためには、正確に知っておくべきなのに、 
関連事実すら知らない。
悲劇が繰り返されないために、(朝鮮の農民軍約1万人が死んだ)
公州・牛禁峙のような場所に『嘆きの壁』を作るべき」と語った。 
 
甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)第二次蜂起
全琫準は日清両国が軍を派遣して間もない7月には既に第二次蜂起を起こそうとしていた。
しかし、平和的な解決を望む東学の上層部の説得に時間が掛かり、蜂起したのは
10月に入ってからであった。
今度は朝鮮の新政権と日本軍を相手にする反乱であった。
全琫準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。
11月末に忠清道公州で農民軍と日本軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に
農民軍はあえなく敗退する。
農民軍は全羅道に逃げ帰り、全琫準らは淳昌で再起の機会をうかがっていたが、
1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で処刑された。井上馨日本公使は
全琫準の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、
朝鮮政府は井上が帰国している間に、処刑を執行した。 

なお、大院君は閔氏政権によって投獄されていた東学の巨魁2名を釈放し、
1人を内務衙門主事に1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に
密使を送って東学の扇動を命じた。

また密使は、忠清道の東学巨魁任箕準、徐長玉に、全羅道の東学巨魁全琫準、
宋喜玉に、それぞれ会って東徒の召集を促し、慶尚道に於ては直接に
東徒の糾合を呼びかけた。

呼びかけにより10、11月に相次いで蜂起する。
そして大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように 命じ、

平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。
これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から 発見された。
(東学党事件ニ付会審ノ顛末具報 明治28年9月20日の別紙第二号)

その後も大院君と李埈鎔の扇動教唆の手紙を発見し、また後に逮捕された
部下たちの供述によって発覚し、日本公使の追及によって、
国王、大院君、李埈 鎔が謝罪して認めた(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 
1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」p23)。
このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく日本を放逐せんとする
大院君の思惑も働 いている可能性がある。 

内田樹氏「慰安婦問題、日本は抗議する権利がない」
内田樹・神戸女学院大名誉教授インタビュー 朝鮮日報

 内田教授は2005年、若者が学業や仕事から逃避する現象を分析した著書
『下流志向』で日本社会に衝撃を与えた知識人だ。
最近は安倍政権の右傾化を批判する講演活動などを活発に行っている。
韓国でも『下流志向』をはじめ、複数の著書が翻訳出版されている。

「教育に市場原理が導入されれば、学生はできるだけ少なく勉強することが
利益だと考えるようになる」
内田教授は「若者の下流志向は個人の問題ではなく、構造的な問題だ」と語った。
―競争が学力を低下させるのか。

 「日本で最も学力競争を させるのは大阪だが、学力水準は一番低い。
学校を株式会社のように運営すべきだと考える人は、国家の未来に対する考えがない。
競争を促せば短期間は効果が あるかもしれないが、全体の学力は低下する。
助け合い激励しながら尊重することが発展には必須だ」

―助け合う共同体? 理想的な話に思えるが。

  「いや、現実的な話だ。
大阪地区の一部の学校はビジネスマンを校長に招いた。
1000人の志願者から11人を選抜したが、うち6人が
暴力、わいせつ、横領 などの事件を起こした。
教育を民間企業のように運営することが完全に失敗だったことを示している。
学習努力を通じ収益を得るのが自分だけであれば、努力を してもしなくてもよい。
自分が努力しなければ、周囲の人が困る場合、人間は努力するようになる。
これはリアルな話だ」

―安倍政権が慰安婦の強制動員を認めた「河野談話」の検証結果を一方的に発表し、
 最近韓日関係がさらに悪化した。

「日本軍の慰安婦は明白な戦争犯罪だ。国家が犯した犯罪は無限責任だ。
韓国が今後50年、100年批判を続けたとしても、日本は抗議する権利がない。
加害者は被害者が『やめてもよい』というまで謝罪を続けなければならない。
ドイツはそうしている」

―韓国社会に対する印象は。

 「韓国も日本と似た政治・社会的問題がある。
しかし、韓国は困難に直面しても、病気にはかかっていないように思う。
日本は深刻な病気にかかっている」             記事より抜粋。


李漢洙(イ・ハンス)記者

ログ速 > 板一覧 > 哲学 [街場の売文家]内田樹[人の褌で相撲]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1397495652/
9 考える名無しさん[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 22:07:17.09 0
「立憲デモクラシーの会」設立 学者ら50人
http://www.asahi.com/articles/ASG4L5S9WG4LUCVL01V.html
憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使容認を目指すなど、安倍政権の
政治手法は憲法自体を破壊しかねないとして、著名な学者らが18日、
「立憲デモクラシーの会」を設立した。「憲法に従った政治を取り戻そうと
広く呼びかけたい」(共同代表の山口二郎・法政大教授)という。

法学者や政治学者だけでなく、内田樹・神戸女学院大名誉教授(哲学)、
池内了・名古屋大名誉教授(宇宙物理学)ら約50人が呼びかけ人となった。 
まるでSTAP論文の共著者リストを見るようだなw

中身確認してないけど、画像取り違えと再現実験確認してません、みたいな。
なにかあった時に「ほら言ってたろ」と言うのための一枚噛んどけ、的連名。
活動の具体性まるで無し。
15 考える名無しさん[] 投稿日:2014/04/22(火) 17:02:32.75 0
内田建ってすげえむかつく文章書くよな
リアルでも人をムカつかせる天才なんだろうな 
18 : 考える名無しさん[] 投稿日:2014/04/23(水) 15:41:11.96 0
>>16
ひとりではいきられないのもゲイのうちって短編集みたいな糞エッセイで
原始共産主義的な生き方を賛美するような節があって、こいつの本性って
超エゴイズム丸出しなのによういうわって思った 
22 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 21:10:35.74 0
「現状維持=俺様安定」だからな

内田の心底はただそれだけのこと

カモは<内田信者=C,D層>のお客様♪
 
                                               以上、引用。
            哲学板という専門板でこれだけ共感の得られていない人も珍しい・・・ 
内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本哲学研究者思想家倫理学者、 
東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
学位は修士(東京都立大学・1980年)。 

経歴
東京都大田区下丸子に生まれ育つ(は、満鉄、戦時中は政府機関に所属した。
戦後、サラリーマンを経て会社を経営し、日中友好協会にも関わった)。
1963年に大田区立東調布第三小学校を、1967年に大田区立矢口中学校を卒業。
1966年、東京都立日比谷高等学校に進むが、高校2年で成績が学年最下位になり、
のち品行不良を理由に退学処分を受け、ジャズ喫茶でアルバイトをする。
しかし家賃も捻出できず、親に謝罪し家に戻った。

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