慰安婦問題について、いろんな報道: 古森 義久、見境なく日本を叩く中国、今度は日本人戦犯の“告白”を公開 欧米メディアは「醜い反日キャンペーン」と報道

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2014年7月30日水曜日

古森 義久、見境なく日本を叩く中国、今度は日本人戦犯の“告白”を公開 欧米メディアは「醜い反日キャンペーン」と報道


見境なく日本を叩く中国、                     
今度は日本人戦犯の“告白”を公開
欧米メディアは「醜い反日キャンペーン」と報道
  2014.07.30(水) 古森 義久
中国当局が、第2次大戦中の日本軍将兵に対する
戦争犯罪裁判の資料を公開し始めた。
中国の多数の新聞が、裁判資料の中には
「日本軍による中国人民の大量殺害、強姦、奴隷化、拷問」
などの生々しい“告白”が記載されているとして、その内容を掲載している。
 だが、米国のニュースメディアは、この「再公開」を中国共産党による
「醜い反日キャンペーン」と見なし、

日本を叩いて国民のナショナリズムを煽ることは
逆に共産党政権への非難につながる可能性がある、と指摘している。
大々的に公開される45人の戦犯の供述
中国当局の重要資料を保存する中央公文書館は、
7月3日から、かつての日本人戦犯の
「供述書」の内容の公開を始めた。
 中華人民共和国当局は、日中戦争での日本側の戦争犯罪者として、
1950年の時点で1100人以上の身柄を拘束した。
そして56年から軍事裁判で裁き、
うち45人を重要戦犯として種々の有罪に処した。
 今回のキャンペーンは、
その45人の戦犯の供述を改めて公開するものだ。
7月3日から8月15日の日本の降伏の日まで毎日1人分の供述を公開している。
この供述はこれら被告の取り調べ中の「告白」だとされる。

 国際的な司法の慣行では、一度、裁かれた事例や被告は、
再び裁きの対象になることはないという
一事不再理の原則」が確立されているが、
今回の中国当局の措置は、
70年以上も前の「犯罪」を60年ほど前の「供述」を基に
再び糾弾する行為に等しい。

 今回、中国当局によって7月下旬までに再公開された
「戦争犯罪の供述書」には、
以下のような具体例が含まれていた。
・日本軍の他の高級将校は中国人女性50人以上に性的暴…
・日本陸軍の一将校(原文は実名を公表)は1938年から45年までの間に、
中国民間人700人以上を殺し、39人の女性を強姦し、
2人を生体解剖したことを認めた。
・日本軍の一高級将校(同上)は日中戦争中、中国軍の捕虜600人以上を
日本軍の銃剣術の「教材」として部下に殺害させた。
・日本軍の他の高級将校は中国人女性50人以上に性的暴行を加え、他の
中国民間人多数をスパイと断じて、拷問し、殺害した。
・日本軍の高級将校は中国と朝鮮の女性多数を誘い出し、
拘束して、慰安婦にした。
・日本軍の一兵士は中国北部で腸チフスやコレラの病原菌を使って、
中国民間人多数を殺した。
 こうした「供述書」が連日、中国各地の新聞に掲載され、
「日本は現在も過去と同様に中国への軍事侵略を計画している」
といった記事とともに報道されている。

中国の意図を読み解く「ワシントン・ポスト」紙
米国や欧州の多数のメディアは、中国でのこうした日本攻撃の
キャンペーンの様子を詳しく伝えている。
ただし中国に対する批判も多い。
 例えば米国大手紙の「ワシントン・ポスト」(7月18日付)は、
中国各紙が日本の戦犯の告白を70年後のいま掲載 
」という見出しの記事でこの動きを報道した。
筆者は北京支局長のサイモン・デ二ヤー氏である。
この記事には以下のような記述があった。
 「日本軍将兵が70年も前に実行したとされる
戦争犯罪の物語がホコリを払われ、
新しい日中対決の時代に合わせて再提出された」
 「このキャンペーンは、日本に戦時の過去を認めさせるだけでなく、
中国国内のナショナリズムを煽り立て、
中国共産党こそが中国人一般の保護者としての
価値を有することを宣伝する意図がある」
 「このキャンペーンは中国側の穏健な知識人たちを困惑させる一方で、
国民のナショナリズムにアピールして、醜い日本叩きになりつつある」

結果的に非難の的になるのは中国政府
ワシントン・ポストの同記事は、この反日キャンペーンの背景を
次のように分析する。
・現在の中国共産党にとって、中華民族の国家に「恥辱の世紀」の後の
「偉大な復興」を果たさせることが歴史的な使命であり、習近平国家主席が唱える
「中国の夢」がその使命の基盤となる。その場合、日本が極めて手軽な標的となる。

・中国指導部は、東シナ海の島(尖閣諸島)についての日本の対中抗議を
自国内のナショナリズム高揚に使い、日本側が過去の戦争での罪悪を認めず、
安倍首相の靖国神社参拝が示すように軍国主義を復活させようとしていると、
中国国民一般に向けて宣伝している。  
また同記事は、中国の「この種の醜い反日キャンペーン」の極端な実例として、
中国共産党系週刊誌「重慶青年報」が7月上旬、
「日本がまた戦争を望 んでいる」と断じた長文記事を取り上げ、
批判的に伝えた。
この記事は広島や長崎に原爆投下を示すキノコ雲のイラスト図を描いており、
日本でも報道された。 
日本政府はこの記事について中国政府に正式に抗議したが、
中国側は日本の抗議を「くだらない」と退けた。
 さらに同記事は、以下のように伝える。
・中国の一般向けのインターネット論壇では、
「日本はかつて軍事力を背景に中国を威嚇し、屈服させようとした。
だから中国はいまやその復讐を果たさ なければならない」とか、
「『中国の夢』というのは、日本が地震など激しい天災に襲われ、
壊滅的な被害を受けて、日本人の大多数が死んでしまい、
もう復興はできないというところまで落ち込むことだ」
というような主張が多くなってきた。

・中国系のある米国人学者は、中国政府がこの時点で
日本軍の戦犯の古い記録をあえて持ち出してきた理由として、
「中国共産党の一党独裁統治を半永久 的に正当化することが目的であり、
そのためには日本がなお軍事的に危険だということの強調が欠かせなくなる」
からだと主張する。

・別の米国人識者であるポール・ハンル氏
(米中共同のシンタンクの中国駐在研究員)は、
「日本を叩き、中国内部での日本嫌いの感情を煽ることで、
中国側のナショナリズムと日本人憎悪が激しくなると、
中国指導部にとっても対日関係の冷静な運営は
難しくなる」と見ている。
 同記事は「ただしナショナリズム高揚は危険なトラの背に乗るようなものだ」と強調し、
「多数の識者たちが、激しいナショナリズムの感情は中国政府自体への
非難にもなり得る可能性を指摘している」と結んでいた。
 日本側としても、欧米メディアの中にはこうした冷静な見方が存在することは
知っておくべきだろう。
中国公文書館、「戦犯」の供述書をサイト上で公開              
産経ニュース中韓首脳会談に合わせ日本批判 
2014.7.3 22:46
【北京=川越一】中国中央公文書館は3日、
公式サイト上で旧日本軍の
「戦犯」の供述書などの公開を始めた。
中国政府が国連教育科学文化機関(ユネス コ)に記憶遺産として申請した、
いわゆる慰安婦問題に関する詳述も含まれており、
中韓首脳会談に合わせ、歴史問題で日本を揺さぶる狙いがうかがえる。
 公開が始まったのは、
1956年に中国国内で起訴された45人の供述書など。
1日に1人のペースで供述書を公開していくという。
初日の同日は、「鈴木啓久陸軍中将」の供述書が公開された。
  同日、北京で記者会見した同館の李明華副館長は、
鈴木中将が慰安所の設立を命じたことや、
41~45年に複数回にわたり
計約140人の中国人女性らを慰安婦として誘拐したことを認めていると強調した。
また、南京事件に関するユネスコへの申請資料として、
米国人牧師が撮った記録映画や裁判記録などを挙げた。
 李副館長は
「安倍内閣は公然と白黒をゆがめ、対外侵略と植民地支配を美化している」と主張。
「日本の右翼勢力が種々の悪行などを否定していることに反撃し、
侵略中の反人道的な暴行を暴き出す」と公開理由を説明した。

慰安婦:中国政府、女性誘拐した日本人戦犯の供述公開
記事入力 : 2014/07/04 09:3  朝鮮日報

中 国 戦 犯 に つ い て  ― 今もつづく影響力 ―
1    中 国 戦 犯 と は だ れ  1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦以降、
満州国(現・中国東北部)に駐留していた日本軍を中心に、満州国官吏を含めた
日本人約60万 人が、日ソ中立条約を一方的に破り、侵入してきたソ連軍によって
武装解除され、ほとんどがシベリアに送られました。
質量ともに最悪の食物しか与えられず、 酷寒の地で重労働によって多数が死亡、
輸送途中の死者も含め約6万人が命を失ったのです(もっと大きな調査数字もあります)。

 これら「捕虜」のなかから 969人 が中国に引き渡され、「撫順戦犯管理所
 と称する監獄に送られました。1950(昭和25)年7月のことです。内訳を見ますと、
第59師団 の将兵260余名、第39師団 の200余名の順に多く、そのほか63師団
117師団、それに満州国高官らが含まれていました。

 一方、中国山西省では、日本の降伏後も国民党系の閻 錫山 (えん・しゃくざん)軍と
共産八路軍(はちろぐん)が戦闘状態にありました。
閻 錫山は「日本人居留民を帰国させる」などの条件をつけ、日本軍
第1軍、司令部・太原=たいげん)に残留を要請します。
日本軍はこれを受け入れ、閻軍とと もに八路軍と戦うことになりました。

結果は共産八路軍の勝利に終わり日本軍は投降します。
第1軍関係者それに他の理由で捕まった若干名を合わせた140名 が、
太原戦犯管理所」 に送られました。

撫順(ぶじゅん)太原(たいげん)の両管理所(監獄)に収容された 「1109人」
 「中国戦犯」 といわれる人たちです。
ここでは、主に「抑留者」という言葉を使うことにします。
 抑留者が釈放され、帰国するのは1956(昭和31)年以降ですので、
ほとんどの人は6年間、残りの人はそれ以上の抑留となりました。
ですから、ソ連の分と合わせれば実に10年以上も捕らわれの身となったのです。
中国に抑留されていた6年の間に、「学習」などを通して、 
「洗 脳」 問題があったと言われていることはご存じのことと思います。

 また、抑留者は帰国後に「中帰連」 中国帰還者連絡会)を組織し、
さまざまな活動を行ってきたことも、周知の事実です。


突っ込みどころ満載とは - ニコニコ大百科 - ニコニコ動画
突っ込みどころ満載とは、ニコニコ動画において、
作画やストーリーにおかしい点が多く見られる
動画に付けられるタグである。
主に、変なアニメやカオスなMADに多くつけられる。
鈴木啓久 中将



第117師団 (日本軍)
歴代師団長
鈴木啓久 中将:1944年(昭和19年)7月14日 - 終戦

鈴木師団長の「供述」と「述懐」 
― 「ああ、そうですか」と肯定 ―
中国抑留者のなかに師団長が4人、
含まれていました。
 第39師団長・佐々 眞之助第59師団長・藤田 茂

第63師団長・岸川 健一、それに
第117師団長・鈴木 啓久(ひらく)で、
階級はいずれも中将でした。
岸川・63師団長は抑留中に亡くなっていますので、
「供述書」を残したのは3人と思います。

藤田 茂師団長が率いる第59師団は
260名という最大の中国抑留者を出した師団で、
既述の『天皇の軍隊』(朝日文庫)はこの師団のデタラメぶり、
非道ぶりを記したものです。
藤田師団長は抑留者が組織した「中国帰還者連絡会」、
略して中帰連 の初代会長となり、長い間、会長職にありました。

 鈴木師団長(左写真)は帰国後に長文の「手記」 を2編残していますので、

「供述書」を検証するうえでとても役に立ちます。
 佐々師団長については、手がまわらなかったために、かつての部下の「証言」

などと突き合わせができていませんが、ある程度のことは類推が可能と思います。
 ここでは、鈴木師団長の「手記」等を中心に話しを進めていきます。


1     有罪者45人の「供述書」が日本側の手に
 1998年4月5日付け朝日新聞は、戦犯裁判で有罪となった45人の「供述書」を

報道写真家(新井 利男)が入手したとし、〈 行為の「 全体像 」浮かぶ
などの見出しをつけて大々的に報じました。
 この報道写真家は「中帰連」ときわめて近い関係にあり、中国から手に入れた
今回の「供述書」を朝日新聞社と共同通信社に持ち込みました。

このため、多くの地方紙、ブロック紙が報じたようで、 

「慰安所の設置命令 市民に毒ガス」 
あるいは「中国女性140人誘拐 」などと見出しをつけて
大々的に報じた新聞もありました。
また、藤原 彰元一橋大学教授が出演したテレビのニュース番組もありました。
 これでまた、「日本軍の底なしの悪行」が日本中に知れわたったわけで、

国民の多くは「あの人たちはとんでもないことをしてくれたものだ 」
あらためて思ったことでしょう。  何度もくりかえしますが、
今回もまた、裏づけ調査はまったく行われずに報道されました。

頭から「供述書」を事実と決め込んでいたのでしょう

(あるいは、報道機関にとって、日本軍を叩くためにはその方が
都合がよかったのかもしれませんが)。  
中国人慰安婦の問題など、供述の中心をなしたものは、
鈴木第117師団長といってよいでしょう。 
ほんとうに、鈴木師団長をはじめとする「供述書」は
信用できるものなのでしょうか。
当の鈴木師団長はどのようなことを「手記」などに残したのでしょうか。

ここでは概略を記すことにして、中国人慰安婦狩り」 

「北支(華北)の戦闘実態」 などは別に
項目を立てて検討していくことにします。

2     鈴木師団長の「述 懐」

鈴木師団長「手記」
 鈴木中将は自筆の「手記」2編、 
中北支における剿共戦の実態と教訓 
(左写真、以下「剿共戦」と略)と第百十七師団長の回想 
(以下、「回想記」)を書き、いずれも防衛庁の戦史室に託されました。
この記録は、一定の期間(50年?)が過ぎないと閲覧できませんが、
鈴木師団長の親族にお願いしたところ、「正史を残すべし」とし、
こころよく許可していただき、コピーを入手することができました。

 (1)    インタビューでの発言
 インタビューは1979(昭和54)年6月、出身校だった

仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」の手で、
会津若松市にある師団長の自宅で行われました。
「どんな事実でも、やはり事実は事実として

後世のために残しておくべきではないでしょうか」
の冒頭の質問に、「私は明治の化石と称しているの。明治の化石で、
現在の役には立たないんだと。もう資料は全部破いて捨てることに した。
ただ、防衛庁に出したものは残っているかもしれない。
戦史課の方へ出したんだが。あんなものは残すもんじゃないと思っている」
と語っています。 その提出資料が上記の「手記」2編というわけです。

 中国抑留中に日課とされた「学習」について

、「ソ連は勉強しろなんて言わなかったが、中国は反対に学習ということになると
目の色かえてやった。マルクス 経済学で、みんな忘れちまったけど、
読んで各節にわたって問題を出されて、その問題の解釈なり答解を出す。
それが学習です。・・」と話し、
「中国ではどんな裁判だったのですか」 の問いには次のように答えています。

 〈 軍事裁判で一審だけですからな。弁護人だって

”上官の命令を受けてやったんだから、仕方ないじゃないですか”
と言うだけだから、あまり弁護にもなり ませんよ。

そして、ありもしないことを住民はな何だかんだといいますからね。

”鈴木部隊が、ここにこういう風に入ってきた”と住民が言うので、
”そんな所 に私の兵隊を配置したことはありませんよ”といったって、
”住民の言うことに間違いはない”と言うんだから。

まあ、他隊の者がやったこともあるでしょう し、広い場所だから、
やっぱり止むを得ないんですよ。
罪を犯した本人が居らなければ、
そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って

”ああ、そうで すか”って。
※つまり供述なんてデタラメだったと述懐されており・・

中国でも人民裁判で殺された人間は、どれだけあるか判りませんよ。
一説に4千万人といわれていますね。・・ 〉

 「ありもしないことを住民が何だかんだといいますからね・・」についてですが、
「ありもしないこと」は、おそらく次のようなものも含めた話だと思います。

 「1942年4月、被告人は所属部隊を指揮し『豊潤大討伐』を行なわしめ、

河北省遵化県 魯家峪郷において ・・・平和的居住民220人余りを虐殺した。

・・・18歳の娘は毒ガスにあてられながらも逃げ出したところを輪姦されて死亡、
・・・の妻の李氏は強姦を拒んで腹を裂かれ、妊娠中の胎児をえぐり出され、・・・ 〉

 妊婦の腹を裂き、胎児を取り出したうえ投げ捨てたと証言する

「平和的住民」の申し立てはほかにもたくさんあり、
抑留者の記録(例えば「手記 胎児」)などもその一例です。

(1)    「百十七師団長の回想」より少し
 「回想記」の中で、「660名虐殺」 とした罪行を問われたことに対し、

以下のように書いています。
 〈 戦犯として調査を受けたる際、

・・・村民660人を虐殺した事件があったと告訴された。
之に関し「討伐は滑県南側で終了したので
長垣県には一兵も進入しない」と説明したが、
其の地方住民の報告として、
「鈴木部隊の兵が衛輝長垣間道上、
数箇所に駐屯していた」と称する要因によって聞き入れず、
之亦 「師団の兵力の関係上、斯くの如く多くの兵を広範囲に
分散すること不可能」たる由を説明したが、之亦納得する至らなかった。
しかし、之れも事実が存する限 り、師団長の責任と認める外なかった。
此の要因に対する真偽は論駁する資料がないので否定出来ないでしまった。〉

 既述した「ああ、そうですか」 といって罪を認めたのは、

この「660名虐殺」等についてと思います。
そして、〈 もとより戦犯として判決されたのは、
前2例のみに依るものでないが、起訴の事実の中には
釈然たらざるものあることは、前2例のようなものも相当に
含まれおるに思いを浮べ感無量である。
特に「戦 犯」とは敗者のみが負わしめられる刑となるにおいておやだ 。 〉
 と記してありました。師団長のあきらめの想いがつたわってくる内容です。 

魯 家 峪 (ろかこく)における戦闘について、
師団長は詳しい記録を残していますので、
余裕があれば紹介したいと思っています。
―2005年 4月 9日より掲載―

2 日本陸軍 
2.2 師団長の権限等
「師団司令部条例」(明治21年5月12日勅令第27号)によると、
師団長の権限等としては次のものがあった。
2.3 師団司令部の構成
「師団司令部条例」(明治21年5月12日勅令第27号)によると、
師団司令部は原則として次の構成とされていた。 
  本部
師団長(師団長1名は中将。合計1名)
参謀部(参謀長1名は大佐、参謀1名は中少佐、参謀1名は大尉
参謀部及び副官部に通じて書記9名は
曹長・同相当官・1等軍曹・同相当官・2等軍曹・同相当官)
副官部(副官1名は少佐、副官1名は大尉、副官2名は中少尉。
参謀部及び副官部を通じて合計16名)
計官(計官1名は中少尉。
1・2・3等書記2名は曹長・同相当官・1等軍曹・同相当官・2等軍曹・同相当官)
以上、監督部を除いて、中将1名、佐官同相当官4名、尉官同相当官12名、
准士官・下士18名の、合計35名とされた。

※そもそも師団長である中将とは確かに師団のトップではあるものの
いちいち虐殺やら命令はしません。
もっと大枠の作戦計画をし、詳細は参謀や支部でもって命令されるもの。

鈴木師団長は、師団長として責任をとり、中共の言うがまま
従ったというのが実態です。

北・中支における中共軍との戦闘実態
―鈴木師団長の見た実相―

鈴木啓久中将は1940(昭和15)年8月、南京とその周囲一帯を警備地区とする
第15師団67連隊の連隊長(大佐)としてはじめて中国に渡り、
ここで13ヵ月間の任務に就きました。

次いで、1941(昭和16)年10月から27師団隷下の第27歩兵団長(少将)として
冀東地区(きとう。冀は河北省の古称)の警備にあたりますが、
この2年3ヵ月間が苦労した期間であり、記録の中心をなしています
(左写真は唐山においた第27歩兵団司令部)。

 その後、独立歩兵第4旅団長を経て、新設された117師団長に就任しますが、
すぐに終戦を迎えました。
したがって、終戦までの約5年間が中国での軍隊生活となります。

鈴木中将が中北支における剿共戦の実態と教訓(以下、「剿共戦」)および
第百十七師団長の回想 (以下、「回想記」)の2編の「手記」を書き残したことは
すでに記述しました。この記録は手記「剿 共 戦」の副題にあるように、
「中共軍と戦った5年間」ということになります。
なお、南京の警備経験もあったわけですが、南京虐殺 については
一言も言及がありません。
1     北支(華北)の状況
日本軍は將介石軍と中共軍(北支・満州では八路軍)の双方を相手に戦っていました。
1941(昭和16)年5月にはじまる日本軍の大規模な掃討作戦であった百号作戦
 (中原会戦)の打撃などで、將介石の「直系中央軍」は重慶方面に退きましたが、
「傍系軍」はいまだ多く徹底抗日をさけんでいました。
 これらの傍系軍を日本軍が駆逐しても、時を移さずその後に中共軍が
進出してくるといった具合です。
というのも、日本軍は駆逐した地帯を確保するだけの兵力がなかったからです。

 將介石軍を叩くことは中共軍の進出に手をかすという見方は当時からあり、
中共軍こそ先に叩くべしという声もあったのです。
まれに見る大勝利という「百号 作戦」にしても、中共軍の浸透を許すから、という理由で
作戦自体に反対の声が方面軍の参謀からもでていたくらいでしたし、
戦果をあまり評価しない向きもあ りました。

 というような次第で、鈴木27歩兵団長(少将)の北支時代は「百号作戦」の
後になりますので、主敵は共産八路軍ということになります。
 支那駐屯歩兵1連隊~3連隊の3個連隊が少将の配下になりますが、
1個連隊が師団直属になったりで、3個連隊を指揮することは少なかったのです。

2     鈴木中将の見た共産軍

では、共産軍はどのような軍隊だったのでしょうか。鈴木中将は
次のように書き残しています。

〈この共産軍は正規の軍隊、つまり自他共に常時軍隊として現れてくるのではなくて、
或る時は「正規」の軍隊の姿で現れ、或る時は便衣に鉄砲といった形で現れ、
或る時は一般住民の姿として存在しているのであって、
今日は部隊をなして現れているかと思うと、明日は全く姿を隠してしまい、
昨日は程遠い処に居るとの情報を得たかと思うと、今日は足下近くから
飛び出てくるという始末であって、数時間も経たない前は全く安全で通った処が、
其数時間後には、 雲でも湧き出たようにいつの間にか大軍となって
目の前に迫ってくる。 〉 この記述から明らかなとおり、共産軍との戦いというのは、
主に「ゲリラ戦」 だったことがわかります。

 列車妨害、電信柱は切り倒され、電線は持ち去られる。主要な道路に地雷は
埋められるといった具合です。
しかも、日本軍にとって一般人との区別がつかない敵と戦うのですから、
難しい問題を抱えこむことになります。
 討伐行動も中共軍によって常に察知されますので、この敵と戦うには確かな情報を
いかに手に入れるかが重要になります。情報の量と質は居住民の協力に
かかっていましたので、中共軍を駆逐し、いかに住民を味方につけるかの戦いと
いってよいのでしょう。
つけ加えておきますと、密偵の情報の確度は非常に低く、 当てにできなかったようです。
 当時、治安の状況に応じて、以下のように地域を分けて対策をとっていました。
鈴木中将の記述そのままに書きますが、方面軍の参謀部も同様な分類をしていました。

  治安 地区    単独兵でも危険なく行動できると認められる地区
  准治安地区    小部隊(分隊程度)が危険なく行動できると認められる地区
  未治安地区    中隊以上の部隊でなければ行動に危険を感じる地区

 日本側は治安地区に生活必需品や医薬品などを配る、運動会までするといった
対策をこうじ、准治安地区を治安地区に引き上げようと図るのですが、
時の経過とともに治安地区が准治安地区に、准治安地区が未治安地区へと
次第に変貌していったと記しています。
3     「空撃」つづきの出動 
このような状況ですから、情報の質はますます落ち、
討伐行動は非効率になっていきます。
敵集結との情報を得て出動しても、到着してみればもぬけの殻、
といった状態が頻発します。
 中将は 「空 撃」 という言葉を多用してこの状況を説明していますが、
北支時代にかぎらず、南京時代にも討伐出動の多くは「空撃」だったとし、
カラ振りつづきの実態を説明しています。

そして、「大部隊を補足することは極めて稀であって、多くの場合、空撃するのは常」
であったとし、「 魯家峪で殲滅したような成果を挙げたのは全く例外で、
其他は殆ど空撃であった」 と記しています。

 この「 魯 家 峪 」での戦果を「約300殲滅」
(「剿共戦」の数字。「回想記」は「200人余り」)とし、このような大戦果は、
〈 八路軍と交戦した5年間で只1回のもの 〉  であったと書いています。
5年間という長い期間での最大の戦果がこの程度ですから、
私たちが持つ戦闘のイメージとは違いすぎるといってよいのではと思います。

 ですが、これが実態だったのだと思います。

というのも、華北と背中合わせにある熱河省(満州国)でも、同じように八路軍と
対峙していたのですが、多くの参戦者から私が聞き取った話と酷似しているからです。
 
この「魯家峪の戦い」を、中国側は「住民虐殺事件」だとし、
しばしば引き合いに出してきます。
別項の「鈴木 啓久中将」のなかに記したように、「妊婦の腹を割り・・」といった
残虐な罪状が問われていました。この出来事は中将の代表的な
「罪行」にあたりますので、別途、取り上げる予定にしています。

 中将の「手記」はさらに興味深いことを記しています。
〈 だが、討伐はいつも空撃であろうか、いやそうではなく之は
大部隊を以って討伐した場合のことで、小部隊で出掛けると殆ど補足するのである。
しかし、此の場合には之亦、殆ど例外なく不利な戦斗となるのが多い。〉
 というのも、〈 日本軍が優勢の場合は地下にモグッテ何事もない平穏で、
武装部隊などは絶対に居らないように見せあげ、日本軍が著しく劣勢だと見ると、
どこから湧いて来たかのように此の平穏な地区に突如として相当有力な部隊が現れる 〉
 からだというのです。日本軍は見えない敵に翻弄される実状がよくわかります。
鈴木中将も負傷しています。
 そして、初めて目にして驚いたのですが、次のように記しています。

 〈全般に公表されることが少ないので、一般からは
あまり目に立たないのであるが、損害を累計すると敵に比して
我が方が非常に多いことになるのである。〉

 人的損害が中共軍より日本軍の方が非常に大きかったというのは、
初めて読みましたし、漠然と考えていた中共戦線との違いに驚いた次第です。
でも、こうだったのかもしれないのです。

 中国側の人的損害「3500万人」、言いもいったりです。


―2005年 4月13日より掲載―

中国人「慰安婦狩り」
―嬉々として報じるわがメディア―

中国人の慰安婦問題は朝鮮人慰安婦問題にくらべて話題にのぼることが
少なかったといってよいでしょう。
朝鮮人慰安婦の方に目が奪われたこともあるでしょうが、日本側からの証言者が
でなかったことも一因と思います。
 韓国・済州島で200名もの若い女性を強制連行したなどとする吉田清治証言が
「偽 証」 と立証された時点(1992年5月頃)で、強制連行を証拠だてるものは
なくなったはずでした。
 そこに師団長という最高位の指揮官から慰安婦狩りを認める「物的証拠」 が
出たというのですから、
「待ってました」とばかり、われらがメディアの大報道になりました。 

1   抑留された元師団長の「供述書」
 「物的証拠」というのは、中国に抑留されていた鈴木 啓久
( すずき・ひらく)・第117師団長の 「供 述 書」 のことでした。
 1998(平成10)年4月、軍事法廷で有罪となった45人全員の「供述書」を
中国から入手した報道写真家・新井利男が、これらを朝日新聞社 と共同通信社
に持ち込んだことは既述のとおりです。
 45人のなかには鈴木中将を含め師団長が3人、満州国の高官など
高位者が多く含まれていました。
「供述書」には虐殺、慰安婦狩り、毒ガス作戦など新聞社
の喜びそうな記述が溢れていましたので、
朝日はもとより共同通信社に加盟する地方紙の多くが飛びつくことになりました。
この項は「慰安婦狩り」だけを取り あげますが、慰安婦狩りの証言者は鈴木中将
ただ一人だったと思います。
 
左の写真は「福島民友」の紙面(1998年4月5日付)です。
 ご覧のように、 「慰安婦連行」軍の命令 と白抜きの大見出し、その下に 
侵略の全体像浮き彫り 、タテには 旧軍の中将が認める とあります。
 見出しを読んだだけで、慰安婦強制連行が疑う余地がないものと受け取れます。
記事を見れば、「 高級将校が慰安所の設置や連行を認めた九三年八月の
政府調査に関する官房長官談話をあらためて裏付けた形になった 」
とありますから、強制連行は既定の事実だと読者はあらためて理解したことでしょう。
 1993(平成5)年8月の官房長官談話というのは、確かな証拠もないままに、
政治的要請から強制連行を認めてしまった
河野洋平・内閣官房長官の談話を指しています。
 日本の各地でこうした報道が行われ、日本軍への「悪のイメージ」が
積み重なっていくのですから、「異論」など日本人の頭に入る余地はありません。
これは慰安婦問題にかぎった話ではありませんが。

    2    日本側は真っ向から否定

 鈴木師団長の「供述書」の該当部分は次の2ヵ所にでてきます。
いずれも短いものですので、全文紹介します。
 〈 日本侵略軍の蟠居する所に私は各所(豊潤、砂河鎮其他二、三)に
慰安所を設置することを命令し、
中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。
其婦女の数は約60名であります。 〉

 〈 日本侵略軍の蟠居地には私はいわゆる慰安所の設置を命じ、中国並に
朝鮮人民の婦女を誘拐して所謂慰安婦となしたのでありまして、其の婦女の数は
約60名であります。 〉

 前者の供述は27師団の隷下にあった第27歩兵団長時代(少将)、後者の供述は
第117師団長時代(中将)のものです。

 鈴木中将は帰国後に長文の「手記」2編を書き残しています。
別項で内容を紹介しますが、このなかに慰安婦についての言及はまったくありません。
ですから、ことの真偽を中将に確かめることはできませんが、
当時の関係者は真っ向から否定しています。

 前者の供述については、鈴木歩兵団長の副官経験者2人を含む約20人、
後者は副官1人を含む数人に聞いたところ、全面否定でした。

 27歩兵団の傘下にあった支那駐屯歩兵1連隊内海 通勝戦友会会長は、
「軍が慰安婦狩りなどやるわけないよ 」  と穏やかな調子で話します。
実際に聞いてみればわかることなのですが、
誰にきいても同じような答えが返ってきます。

外地での従軍経験がある程度あれば、「その話は変だ、おかしい」くらいは
肌で感じられるのだと思います。
右写真(1997年3月23日付け産経新聞)はビルマで従軍経験のある
作家・古山高麗雄 の話として、「 慰安婦狩り あり得ない」 
「最近の議論には違和感」 とでています。

 古山は、「自分の知っているのは南方の慰安所だけで、他の慰安所については
知らないが」と断り、〈 一部の不良兵士がレイプ事件を起こしたことはあるし、
業者が軍の意向に沿って動いていた側面も確かにあるだろうが、
軍隊が組織をあげて「慰安婦狩り」のようなことをすることはあり得ない 〉

 と話しています。自らの軍隊経験に照らして、肌で感じたことを
そのまま述べたものに違いありません。
 高級副官が空席であったあったため、次級副官として鈴木歩兵団長に仕えた
炭江秀朗 は、〈  昭和17(1942)年4月から副官であったので、
冀東作戦(きとうさくせん)はすべて作戦命令に目を通してきた。

歩兵団長の意向を受けて作戦命令を起案、裁可を得る。副官の側印がなければ
作戦命令は出せない。 だから、慰安婦狩りが事実なら知らないわけがない 〉
と明確に否定しました。

 また、鈴木が師団長時代の副官・森 友衛 も「聞いたことがない」といい、
「師団長の人柄からしてあり得ない」と話します。
師団長は「古武士風」「謹厳実直」、
酒、タバコに縁がなく、習字や読書で過ごすことが多かったといいます。

    3    例によって裏づけ調査なし
この報道を読まされた読者は、
裏づけのとれた間違いのない報道と受けとったはずです。
ですが、裏づけ調査をしなかったことは明らかです。
 先入観とは恐ろしいものだと思います。
吉田清治の「虚偽証言」、日本政府が
「慰安婦強制連行」を認めた河野談話とつづけば、
この「慰安婦狩り」もフリーパス、
ひたすら日本軍断罪に向けてひた走ります。
事実関係などそっちのけにして 。
 その報道を国民が無批判で受け入れ、
糾弾の声が広がっていく、といった風ですから、
救いようがないのかもしれません。
―2005年 4月 1日より掲載―

中国帰還者連絡会  
中帰連から転送) 
中国帰還者連絡会(ちゅうごくきかんしゃれんらくかい)は、
中国の撫順戦犯管理所戦争犯罪人として抑留された旧日本軍の軍人が
帰国後の1957年9月24日に結成した団体。略称は中帰連(ちゅうきれん)。 

概要会員資格は「中国を侵略して戦犯となり、中国の寛大政策により
帰国したもの」としている。
活動731部隊南京事件強制連行などについて積極的に証言し、
証言者への協力を行なうことでも知られる。
上記の活動について『撫順戦犯管理所に抑留された旧日本軍将兵が
中国側に洗脳されたもの』と主張するものもいる[1]
2002年に全国組織としては解散され、撫順の奇蹟を受け継ぐ会へ事業が引き継がれた。

批判
「死刑」や「無期」、「長期刑」に処されるべきところを、寛大な恩赦によって
自由を得たものたちは中国共産党政府に深く感謝したが、その実態は、
思想教育の結果有用なものは、その思想の伝播者として、あえて無罪放免という
恩を着せて野に放った意図が否定できない。[2]

 最終更新日:2006年04月01日

撫順戦犯管理所(ぶじゅんせんぱんかんりしょ、簡体字:抚顺战犯管理所)は、
撫順市順城区にあった中華人民共和国による戦犯管理所。
満州国時代は、撫順監獄であったところを戦犯管理所に改造し、
1950年ソ連より引き渡された900人以上の日本人や満州国の戦犯を収容した。
撫順の奇蹟を受け継ぐ会
撫順の奇蹟を受け継ぐ会(ぶじゅんのきせきをうけつぐかい)は
中国帰還者連絡会 (中帰連)の後身団体。 
入会資格
前身である中国帰還者連絡会の会員資格は「中国を侵略して戦犯となり、
中国の寛大政策により帰国したもの」とされていたが、
撫順の奇蹟を受け継ぐ会においては目的への賛同と会費の納入以外特に条件はない。
旧中国帰還者連絡会の会員は特別会員として扱われている。

南京事件に関するユネスコへの申請資料として、
米国人牧師が撮った記録映画 
ジョン・マギー牧師
ジョン・ギレスピー・マギー(John Gillespie Magee、1884年 – 1956年)
はアメリカ合衆国の牧師。
 日本軍による南京占領期間中は、南京国際赤十字委員会委員長・
南京安全区国際委員会委員を務め、外国人の大邸宅を借用して難民を収容した。
日本軍による南京事件について記録・証言をする一方で、
日本人将兵の良心的な行動も評価してきちんと記録している[3]

極東国際軍事裁判での証言
これに対してブルックス弁護人は「それでは只今のお話になった不法行為もしくは
殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身いくらくらいご覧になりましたか」
との反対尋問を行い、マギーは
「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思いますが、
ただわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」と回答し、
日本兵に後ろから誰何されて驚いて逃げ出した中国人が、竹垣があって
行詰りになったために逃げられなくなったところを、日本兵が追い詰めて
殺した件のみが自身が目撃したものと証言した[6]
「マギーフィルム」
マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、南京事件
犠牲者・被害者を撮影したと解説する8リールの16ミリフィルム
(通称「マギーフィルム」)がある。
その多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、字幕の説明によれば、
日本軍の暴行を受けた幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っている。

フィルムの解説文はドイツ外交文書『ローゼン報告』 の中で読むことができる[13]
なお虐殺場面とされる映像については字幕の説明のみで肝心の映像は写ってなく、
写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか
日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなど、
記録映像として疑問を呈する声もある[14] 
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