慰安婦問題について、いろんな報道: 番外編 NHKドラマ「ごちそうさん」のエピソードは本当だったらしい ・・・ 

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2014年8月2日土曜日

番外編 NHKドラマ「ごちそうさん」のエピソードは本当だったらしい ・・・ 


【記憶の中に】
産経ニュースwest『ごちそうさん』は本当だった、大空襲の夜に救援電車が走った
…規定違反、消された運行の歴史  westピックアップ
2014.8.2 18:00 (1/3ページ2/3ページ3/3ページ

「あの夜、地下鉄が走ったという正確な記録は残っていない」
 大阪市の中心市街地が焼き尽くされた昭和20年3月13日深夜から
14日未明にかけての大阪大空襲
前作のNHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」で、
一つのエピソードが物語に織り込まれた。

  《火の手に囲まれる中、大阪市職員として市営地下鉄建設に携わった夫、
悠太郎の「地下鉄に逃げれば安全だ」というアドバイスを思いだし、
駅員に頼み込んで 心斎橋駅に避難したヒロイン、め以子たち。
命からがら逃げ込んだホームに、この時間運行しているはずのない電車が入ってきて、
め以子らを比較的安全な梅田 方面へと運んだ-》

 大空襲のさなか、市民の命を救った「救援電車」。
市交通局の広報担当者は
「あの夜、地下鉄が走ったという正確な記録は残っていない」と話すが、近年の調査で、
実際にあった出来事だったことが明らかになった。

地下鉄に入れ!

 交通局職員の労働組合の関連機関、公営交通研究所が平成10年にまとめた
調査結果に、救援電車に関する証言がまとめられている。
 「(空襲で逃げ場がなくなり)『もう、あかんね』と顔を見合わせたとき、
煙の中から『命が惜しかったら地下鉄に入れ!』と何度か呼び声がした」

熱風と火の粉が舞う中、心斎橋駅に逃げ込み、救援電車で梅田に向かったという
別の女性は「交通局の当時の方々のおかげで今、元気に過ごしております」と回顧。
「地下鉄は救いの神」という声もあった。

  当時は、空襲時に市民を地下鉄の駅構内に避難させてはならないという決まりがあった。
理由について、交通局の担当者は「地下鉄駅はもともと避難先として想 定されていたが、
東京大空襲で地下鉄のトンネルが破壊されたことで、やはり構内を使わない方が
いいということになったようだ」と説明する。
大阪大空襲の4 日前に起きた東京大空襲では、10万人以上が死亡したとされ、
東京の下町などが焦土と化した。

 地下鉄は深夜から未明にかけて電気が止められていたため、通常なら電車を
走らせることはできない。
だが、地下鉄に電気を送る変電所職員の証言などによると、当夜は
「特別な指示」があり、終電後も電気が送り続けられていたという。

  残念ながら運行に関する資料が残っていないため、どの時刻に何本が走ったのかや、
運行のきっかけが職員の機転だったのか市民の要請だったのかなどは定かで ない。
資料は終戦直後、軍の指示により焼却処分されたという。
地下鉄駅に市民を避難させること自体が規定違反となることが影響したのか、
運行が語り継がれ ることもなかった。

失われてなかった助け合いの精神
 それでも、凄惨(せいさん)な状況の中で救援電車が避難者を乗せて走ったことは、
半世紀のときを超えて史実として浮かび上がった。
それを可能にしたのは、関係者らの数々の証言だ。証言がなければ、
救援電車の存在は歴史から忘れ去られていた。
 
 

エキサイト朝ドラ「ごちそうさん」で描かれた大阪大空襲・救援電車の真実
エキサイトレビュー 2014年3月7日 11時00分 1 2 3 4 
ニュース
ライター情報:近藤正高
・・・もっとも、空襲下に地下鉄を走った救援電車について公式な記録は
一切残っていない。
というのも、戦時中の地下鉄は軍事輸送に使われることも多く、
その運行ダイヤや職員の勤労内容などは「機密扱い」の対象であり、
それら事業資料は戦争が終わると、アメリカをはじめ連合軍からの
戦争責任の追及を恐れてすべて処 分されてしまったからだ。
これ以降、救援電車の話はあくまで噂レベルで、人づてに語られるにとどまっていた。

それがあらためて世間に注目されることになったのは1997年、

「朝日新聞」に京都大学名誉教授の村松繁(免疫学。当時64歳)が
空襲下での自らの体験を投書、掲載(3月11日付「声」欄)されたことがきっかけだった。

投 書によれば、市街を周囲から中心へと渦巻き状に爆撃が続けられるなかで、

退路を断たれた被災者の多くは中心部に逃げざるをえず、村松が
心斎橋にたどり着い たときには周囲は完全に火の海であったという。

そのとき地下鉄のシャッターが開き、村松たち被災者は駅員から「早く入りなさい」と
ホームに誘導され、ほど なくしてホームに入ってきた電車に乗り無事に梅田へ
避難することができたのだった。
村松は投書を
《あの大惨事に際して、当時の地下鉄関係者の冷静で適切な措置には、
今もって感謝と敬服の念でいっぱいである》と結んでいる。

この投書に触発され、大阪市交通局の職員で組織される大阪交通労働組合は、

地下鉄を含む市営交通が空襲で受けた影響について公営交通研究所に調査を依頼、
経験者の証言や数少ない資料によって事実を解明することにした。

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調査を通じてあきらかになったことは、翌98年、労組の機関紙「大交」に
「大阪大空襲の証言と資料が語る埋もれた史実」と題する連載にて発表
(のち公営交 通研究所発行の冊子『大阪大空襲と市営交通事業』に再録)されている。
同時期には、NHK総合テレビでも「大阪大空襲の夜 地下鉄は走った」という
ドキュ メンタリー番組が放映され、救援電車の話は広く世間に知られることになった。

「大交」の記事ではたとえば、戦時中、四ツ橋に下宿していた女性

(証言当時73歳)の証言として、次のような話が紹介されている。

下宿で 空襲に遭った女性は、御堂筋(みどうすじ)方面へと避難した。

火の粉が着ている衣服に振りかかるなか、やっとのことでデパートの
大丸心斎橋店の前まで来たものの、そこでもまた火の粉と熱風が渦巻いており危険だった。
このとき、憲兵の誘導で大丸前の地下鉄入口から心斎橋駅構内に入った彼女は、
やはり入線して きた地下鉄に乗って梅田駅まで行き、そこから京都経由で
奈良の叔母宅に落ち着いたという。

べつの女性(証言当時70歳)は、電車にこそ乗らなかったものの、

地下鉄の大国町駅構内に逃げこむことができた。
その証言によれば、周りを火に囲まれ、一緒に自宅から避難してきた母親と
「もうあかん ね」と顔を見合わせたとき、煙のなかから
「命が惜しかったら地下鉄へ入れ!!」と何度か呼びかける声を聞いたのだという。
声のほうへ走っていくと、そこは 駅に降りる階段だった。

《地下鉄に逃げ込むなんて思いも寄らなかったけれど、もうけむたくて熱くて

二、三十人の人となだれこみました。
―中略―なだれ込んだ最後の人の頭と肩が燃えていました。
―中略―切符売場に出ると何百人かの人達が逃げのびていました。
その広場で大勢の人ごみに 入って初めて助かったな、と思いました》 
(「大交」1998年3月15日付)

ここまで読んで、「ごちそうさん」のくだんの回を見た人は、
ちょっと話が違うと思うかもしれない。
そう、村松繁や「大交」で紹介された証言者らは、いずれ も駅員なり誰かに誘導されて
地下鉄に避難したと語っているからだ。
それに対しドラマでは、め以子が駅に行ったとき、構内への入口は鉄格子で閉鎖されており、
それを駅員との押し問答の末(冒頭にあげた夫の手紙を見せながら)
ようやく中に入れてもらうことができたのだった。

実際に、空襲時に地下鉄の駅へ逃げこもうとしたものの、構内への扉が閉まっていた

との証言も少なくなかったようだ。また、空襲当時、国民学校(小学校)5年生だった
ある男性は、大国町の駅まで避難したときのことを次のように記している。

《「地下鉄や、地下鉄しかない」。

大人たちに続いて私たちも、直ぐ傍らの地下鉄の階段(今もある)を降りた。
鉄格子はしっかりと閉まっていた。
「規則で開けられない」と言い張る地下鉄職員に、大人たちは
怒声と迫力で中から扉を開けさせた》 
(藤田道也「大阪大空襲で地下鉄に避難し助かる」、福山琢磨編
『孫たちへの証言 第11集』

そ うやって駅構内に避難した人々は、プラットホームの上に所狭しと腰を下ろしたり

横になったりして一夜を明かしたという。
前出の女性は、やはり大国町駅付近 で誰かから「地下鉄へ入れ!!」と言われて
助かったと証言していたが、それはきっとこのような経緯で駅が開放された
あとのことだったのだろう。

じつは戦時下の日本では、空襲時に地下鉄に避難することは禁じられていたのだ。
政府発行の『時局防空必携』昭和18(1943)年8月改訂にも
「地下鉄道内への避難は許さぬ」との条項があった。

その理由としては、いくら地下鉄のトンネルが頑丈でも重たい爆弾が直撃すれば
ひとたまりもないこと、また避難民が殺到して二次災害が発生することへの懸念が
あげられる。だが、それ以上に、
「地下鉄は非常時であればあるほど重要な使命を果たすべきものである。
だから空襲時に地下鉄を避難所にして、重要な人や資材を運ぶという
使命を失わせることは許されない」との考えが為政者側にはあったようだ
(中川浩一『地下鉄の文化史』)。

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