慰安婦問題について、いろんな報道: 呉善花さん

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2014年8月8日金曜日

呉善花さん

 
産経ニュース
【話の肖像画】評論家・呉善花(57)(1)日韓理解は価値観の違い認識から
2014.8.4 03:05 (1/2ページ2/2ページ話の肖像画
出版するまで大変時間がかかりましたが、いろいろな方々の協力があって
本を出すことができました。
出版してすぐに、読者からたくさんの手紙が来ました。
いずれも目からウロコが落ちた、深く感動したという内容で、
うれし涙がとまりませんでした。
自分の考えを書いたものが、日本社会で共感され、受け入れられるという
感動がありました。
その一方で、韓国の留学生や韓国のマスコミからは
ものすごい批判 を浴びました。
批判は本の内容ではなく、「売国的言辞を弄した」ということで、
私を個人攻撃するものがほとんどでした。
残念でしたが、韓国はこんなにもレ ベルが低いのかと思いました。

日韓関係がうまくいかないのは、文化・習慣・価値観などの違いが
互いによく認識されていないことが出発点にあると私は指摘したかったのです。
それを指摘しない限り、日韓はうまくいかないと考えました。
本では文化・習慣・価値観の違いをたくさん書いています。
日韓の相互理解を深めるとともに、日本社会が韓国に対して
虚心坦懐(たんかい)に意見を言えるきっかけを作ったのではないか、
と自負しています。(聞き手 是永桂一)

【話の肖像画】反日に染まりながら母の教え忘れず
「日本人はすごく親切よ」 評論家・呉善花(57)(2)
2014.8.5 03:14 (1/2ページ2/2ページ話の肖像画
〈1956(昭和31)年、自然豊かで開放的な気風とされる
韓国・済州島に生まれた。母の影響もあり、日本への憧れが育った〉
 済州 島の東海岸側で生まれました。
故郷はいつも日の出が美しくて、そういう景色をずっと見て育ち、
海のかなたを思っていました。
家族は両親と姉が2人、兄と弟 と妹が1人ずつ。
私は真ん中でした。
母は日本の話をよくしてくれました。
戦前、大阪に親類がいて、母は一時期、一緒に暮らしていました。
母は父と結婚して 一度韓国に戻り、そして鹿児島に行き、父とともに
親類親子と一緒に終戦になるまで働きました。

母からよく聞いたのは「日本人はすごく親切なのよ」
「日本に は泥棒がいないのよ」といった、思い出話でした。
とにかく、日本人にどれだけ親切にされたかを具体的に話してくれました。
母の話は鮮明に覚えています。

小学校に上がると反日教育があり、私もどんどん反日に染まっていきました。
来日した時は「悪い日本を変えてやらねばならない」という気持ちが
人一倍強かっ たのですが、次第に日本人とは何かということを
自分で探ろうと思うようになったのは、子供の頃に母から聞いた
「よき日本の思い出話」が大きかったと思います。

〈海のかなたに憧れる少女は高校、看護学校を経て1976年に軍隊に入る〉
 軍隊での生活は4年間続きました。
すごく厳しかったのですが、私は前向きにできるだけ楽しむようにしました。
新しいものに挑戦することも好きでしたし、
挑戦が厳しいものであるほど楽しみでした。

除隊後は病院に勤めたのですが、臨床病理を専門とするために
米国留学を考えていました。
当時の韓国では米国留学はかなり困難でしたので、
ひとまず日本に行 こう、そうすれば米国留学の道もひらかれるのではないか、
と考えました。病院の近くに日本語教室がありましたので、
私は昼ご飯の時間を利用して日本語を勉 強しに通ったんです。
幼い頃の日本への憧れが再び、頭をもたげてきたのです。(聞き手 是永桂一)

【話の肖像画】韓国との違いに苦しんだ日本での生活
  評論家・呉善花(57)(3)
2014.8.6 03:36 (1/2ページ2/2ページ話の肖像画
〈1983(昭和58)年に来日し、日本での生活が始まる。
日本との触れあいは驚きにあふれていた〉

 日本で初めての生活の場は、東京都北区十条の2階建てのアパートでした。
6畳間とキッチンがある部屋でした。
韓国よりずっと商品が豊富な商店街が魅力的で、買い物などもよくしました。 
日常的な日本人の方々との触れ合いがありました。
商店街界隈(かいわい)では盛んに情緒が飛び交い、
日本人をよく知ることができました。

  日本の第一印象は、人はみんな親切で、優しく、思いやりがあり、
治安もとてもよい、というものでした。
ある時、電話ボックスに財布を忘れてしまい
数時間後に気づいたのですが、あるわけもないと行ってみると、
なんと私の財布がそのまま置いてありました。

あり得ないことだと思いました。
ある時は、お店で小さな 袋に入ったお米を買って炊いたらバサバサするんです。
玄米系の米だったらしいのですが、買ったお店に持っていったら、
そのまま新しいものに換えてくれまし た。信じられない思いでした。

〈楽しいはずの日本での生活だったが、その風土に慣れるのに従って
違和感が芽生えてくる。日韓の間で、壁に挟まれていった〉

 言葉がある程度できるようになると、だんだん日韓の違いに
苦しむようにもなりました。楽しい日本生活がスタートしましたが、
2、3年たって一歩踏み込んだ関係へと入っていく段階で、
いろいろと問題が生じました。

美容院で、わざわざ「きれいにしてくださいね」と言って、美容師さんが
気分を悪くするという こともありました。
韓国風の親しみを込めた言い方が、プロの職業人への
嫌みに聞こえてしまうのですね。
また、青果店で、キムチを作る白菜を買うときに
「白菜をたくさん買うから良い白菜をくださいね」と言いながら、
白菜を手で何度もひっくり返したのです。
ものすごく気分を悪くさせてしまいました。

  そこで、深く悩み、苦しみました。
日本人は差別的だから韓国人が日本で成功することは
至難の業だと聞かされていました。
やはりそうなんだと思いましたが、 日本人にはどこか
韓国人に対する特有な親和性があるとも感じられるのです。
そこに接点を持てれば、うまくいくかもしれない。
そう自分自身に言い聞かせて、 行き違いや誤解を重ねながらも
日本人とのつきあいを深めていこうと思いました。
 ある機会から、日本人ビジネスマンとの月1回の勉強会に参加しました。
そこで真剣に議論したり、食事や飲み会を重ねたりしました。
そうしていくうちに、自分の考え方や感じ方と日本人のそれとの
ズレがわかるようになり、次第に自分の方のよくない点に
多々気づくことになりました。
その体験が自分を変えていくきっかけになったと思います。
(聞き手 是永桂一)

【話の肖像画】日本への傾倒、韓国とのギャップ 帰化
そして祖国 評論家・呉善花(57)(4)
2014.8.7 03:18 (1/2ページ2/2ページ話の肖像画
〈『スカートの風』(三交社)の出版をきっかけに本格的な評論活動に入り、
1988年に日本に帰化する〉
 評論活動を続けていくうち に日本がさらに好きになりました。
東京外語大の大学院では米国のことをずっと研究していたのですが、
結局は日本にすごく魅力を感じるようになり、米国行きはやめました。
仕事の依頼も多くなって、主に日韓比較論や日本人や日本文化について
書くようになりました。日本人とは何かを探っているうちに、日本と自分が
切り離せなくなったのです。
日本人がずっと住んできた日本という国に強くひかれていったんです。

 おのずと物事への感じ方や考え方が日本的になっていきます。
そういう自分が韓国人と会うと、ものすごいギャップが生じる。
韓国というものを外から見ている自分を発見しました。
客観的に見ると韓 国の矛盾や問題点がすごく見えるようになったんです。
韓国の悪いところ、日本人が気がつかない日本の良いところ、
この2つを引っ張り出すのが私の仕事の役割だと思うようになりました。
日本を愛するようになっているのは極めて自然な流れだと思いました。
そこから日本に帰化するのが自然だと思うようになったの です。
〈愛する日本と祖国・韓国、苦渋の帰化だった。
そんな選択は思わぬ波紋も呼んだ〉
韓国からの攻撃はずっと続いていました。日本での著作活動を続けていると、
韓国の治安当局からも「韓国を批判する本を書くな」
と指弾されるようになりました。
韓国のマスコミ、政府からも個人攻撃を受け続け、彼らの批判のあり方の
レベルがあまりにも低いと絶望もするようになりました。
私が帰化を決断し たのは日韓の社会のレベル差を強く感じたからです。

国籍を変えるということは、韓国の家族や故郷を捨てるということではありません。
きょうだいたちにも納得してもらいました。

 韓国のマスコミ、政府から攻撃を受けていて、韓国人のままだと
何をされるかも分からない、という気持ちもありました。
自由な言論活動をしていく上で、帰化という選択は必須とも思えました。
親日言論が韓国では抑圧されますが、決してそうされたくなかったのです。

  しかし、平成19年、当時の盧武鉉政権の下で、母の葬儀に出席するため
韓国へ行ったのですが入国を拒否されました。
理由を尋ねても、当局は「上からの命令 だ」としか言わない。
その時は、母の葬儀以外の活動に参加しないという条件付きで
なんとか入国が認められました。
しかし、昨年7月、親類の結婚式のために 入国しようとしたら、
また入国できませんでした。
もっと開放的になるべき韓国が北朝鮮みたいになっている。
過去に戻っているということに対して、心を非常 に痛めています。
 (聞き手 是永桂一)

【話の肖像画】今の韓国なら「では結構」と距離置いた方がうまくいく 

評論家・呉善花(57)(5)
2014.8.8 03:06 (1/2ページ2/2ページ話の肖像画
 〈日韓関係が悪化する中、自問自答する日々が続いている。
関係改善に必要なことは何か-。
日韓の距離の取り方が再び問われている〉
  外交や政治問題があっても、民間交流や文化交流があれば
日本と韓国はいつかは通じ合えるといわれ続けています。
その甘い日韓の幻想を突いたのが『スカート の風』(三交社)でした。

日本人の多くが話し合えば通じ合えるといわれますが、通じ合えません。
政治的な駆け引きで勝つか負けるかしかありません。

  なぜ今、日韓関係が悪化しているかというと、基本的な考え方の違いや
ギャップへの深刻な認識のないまま、政治的交流や
文化的交流をしているからです。
大きな溝を互いに見つめ合わず、ただ関係を前に進めよう、
話し合いをしようとするから副作用が噴出するのです。

韓国は今、中国にべったりとひっつこうとしていますが、
日本は無理に今のような韓国と付き合おうとせず、
「それならば結構です」といったん、距離を置いた方がうまくいくと思います。

 関係改善のために韓国の方々に対して呼びかけたいことがたくさんあります。
「これだけの違いが日韓にありますよね」ということです。
私は日韓に横たわる問題 を丹念に指摘して多くの本にしていますが、
韓国では私の本は全く翻訳されていません。近刊の
『なぜ「反日韓国」に未来はないのか』(小学館)を、
私は韓国語に翻訳しましたが、韓国の出版社は
「出せば売れるけれど会社がつぶれる」ということで、
どこも受け入れてくれません。
それで今、英語に翻訳しています。 
韓国ではことごとく私の本を読まないで批判してきますので、
韓国や世界で少しでも読む人がいればと思っています。
韓国語版を電子出版したいとも考えています。

 〈幼少期の憧れから始まり、気がつくと韓国より日本で重ねた歳月の方が長くなった。
今もわが国への愛情は日増しに募っている〉

私が 子供の頃に思っていた日本は、ほとんど今の日本そのままだと思います。
やさしく親切な人が多く、世界で最も貧富の格差が少ない
豊かな社会があって、世界で 最も治安の良い平和な国です。

日本の文化、精神性を今も探り続けています。
世界が理想としながらつくり上げることができなかった社会、
それを日本はつくり上げることができた。

 それはなぜか。

日本人に特有な
「和をもって尊しとする」調和の精神があるからこそです。
日本人はことさら対立を嫌い、ことさらに融和を好む他に例を見ない
平和な国民だと思います。

世界の一部で誤解されていますが、今はそこに気づいている人たちが増え続けています。
自身に誇りと愛情をもっていただきたいと思います。
対立ではなく融和、それはこれからの世界をつくっていく
人類的な課題にほかならないでしょう。
(聞き手  是永桂一)

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