慰安婦問題について、いろんな報道: 番外編 例の反日TBSが満州戦の番組をするらしい ・・・

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2014年8月24日日曜日

番外編 例の反日TBSが満州戦の番組をするらしい ・・・

【宮脇淳子】未来への指標〜満洲国とは何だったのか? [桜H24/2/6] SakuraSoTV
満州 まんしゅう、拼音:Mǎnzhōu)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と
呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた
北東アジアの特定地域を指す地域名。
渤海金朝後金清朝を建国した満洲民族や、夫余高句麗を建国した濊貊族、
鮮卑烏桓契丹などモンゴル民族の故地である。
「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。
しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。

満洲をめぐる略史 満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が後金を起こして同地を
統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国内地全体が
満洲民族の支配下に入る。
清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、
奉天府を置いて治めた。



当初は「遼東招民開墾例」(1644年)をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し,
漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り
漢民族が移入することを禁じた。
近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間で
この地域をめぐる紛争が数度起きた。

1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満州全域が正式に
清朝の国土と定められた。
その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。
しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日の
アイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の
黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。

そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を
農地に変化させた。
この民族移動のことを「闖関東」という。
1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスク清国人数千人が虐殺される
アムール川事件が起きる。
1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていた
ロマノフ王朝の満州における鉄道・鉱山開発を始めとする権益は日本へ引き渡された。

弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。
翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による
群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖軍閥の支配下となる。
清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。

 清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。
1920年には赤軍によってニコラエフスク破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、
日本人も700人余りが殺戮された。

1929年にソビエト連邦は満洲に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破り
中東鉄道の権益を確保した。
1931年に日本(大日本帝国)は満洲事変を契機に満洲全域を占領して、
翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀
元首(執政、のち皇帝)とした。満洲国は日本の傀儡政権といわれ、この時期の満洲は
事実上日本の支配下となった。
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The capital of Manchukuo 1/2 満州国国都、新京《前編》
戦前の満州への旅 ソヴィエトの脅威 れいなちゃんねる。(参)  
日本は南満洲鉄道満洲重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に
工場を建設した。結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んだ。
一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を
移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策も実施した。

1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊した。
1946年、ソ連は今に至るまで外満洲を占拠している。
その後中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。
日本が満洲に残した産業インフラは、経済基盤が脆弱であった建国初期の
中華人民共和国を大きく支える力となった。
クルスクの戦いで対ドイツ戦で優性に転じたソ連に対し、同じころ対日戦で
南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のために
ソ連への対日参戦を画策していた。
1943年10月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、
コーデル・ハル国務長官からモトロフ外相にルーズベルトの意向として、
→千島列島樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。
このときソ連はドイツを破ったのちに参戦する方針と回答した。
1945年2月のヤルタ会談ではこれを具体化し、ドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束。

ソ連は1945年4月には、1941年に締結された5年間の有効期間をもつ
日ソ中立条約の延長を求めないことを、日本政府に通告した。
ドイツ降伏後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、
巨大な軍事力の集積を行った。

ハル・ノートwikiより、ソ連の思惑
独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンに とっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる
日本が背後からソ連を攻撃することであった。
当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があ るとドイツとの戦線も
持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせるための
あらゆる手を打った。
米国に親ソ・共産主義者を 中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの
中枢にも及んだ。

その最重要人物がハル・ノートの原案を作成したハリー・ホワイト財務次官補である。
「コミンテルンのスパイ」 ホワイトはソ連コミンテルンのスパイであったことが、
ベノナ文書[9]により確認されている。

日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった
(ホワイト原案には日本が満州から軍の主力を撤兵させる項目がある)。
ちなみに原案の表題は 「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題への
アプローチ」であり、米国のメリットとして、日米戦の回避、太平洋艦隊を他地域の任務に
向けるこ とによる海軍力の増強、英ソ援助に全力を傾注できることなどを挙げている。
ただし、ホワイトへのソ連の影響についての確証はない[93]

日本側にはリヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築き、日本の目が
ソ連に向いていないかと関東軍特種演習などの情報を収集し、報告し続けた。

ノモンハン事件ジューコフ将軍  1937年から1939年におよぶスターリンによる
赤軍の大粛清を生き残ったが、依然として政治的に不穏な情勢にあったモスクワを避けて、
1938年第1ソビエト・モンゴル軍集団の司令官に就任した。・・・

第二次世界大戦 1941年6月、ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破って
ソ連への侵攻を開始すると(バルバロッサ作戦)、ジューコフはレニングラード軍管区に
司令官として派遣され、同都市防衛の任務に就いた。
そこでジューコフは目覚しい軍事的手腕と非情なまでの決意を見せることで、
浮き足立つ防衛軍の規 律を回復し、市民の協力をも得ることができた。
これにより1941年の秋にはレニングラード南の郊外でドイツ軍の進撃を停止させた
レニングラード包囲戦)。

1941年10月にはモスクワにドイツ軍が接近しつつあったため
(タイフーン作戦・モスクワの戦い)、ジューコフはモスクワ防衛の指揮官に
セミョーン・チモシェンコを任命するとともに、極東から冬季戦の訓練を受けた部隊を
続々と鉄道輸送させた。
ドイツ軍の攻勢に同調した日本軍の極東ソ連への侵攻計画なしとの
10月4日付のゾルゲからの東京情報にスターリンは安心してソ満国境に配備された
冬季装備の充実した精鋭部隊をモスクワ前面に移送して首都防衛を強化した。
ドイツ軍は守勢に立たされ、戦うことよりも自分の生命を守ることを優先するほどであり、
退却を重ねた。
1941年12月、ソ連軍の反撃によりこの方面のドイツ軍を後退させることに成功した。

1942年8月、ジューコフはソ連軍の最高司令官代理に任命された後、
ドイツ軍の猛攻を受けていたスターリングラード防衛のため同地に派遣された。
スターリングラードの戦いでは、参謀総長のアレクサンドル・ヴァシレフスキー大将とともに、
100万人の将兵と戦車980両で両側面のルーマニア軍を粉砕し、
スターリングラードの第6軍を逆包囲するという「天王星」(ウラヌス)作戦を立案する。
ソ連側にも枢軸軍と同等の100万人の死者が出るほどの激戦を制し、
包囲したドイツ第6軍、第4装甲軍、ルーマニア軍約20万の生存者9万を
1943年2月2日に降伏させ、ドイツ東部戦線の転換点を実現した。

居留民への措置
関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について
作戦立案上検討している。
交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、
およそ132万人と考えられていた。 

・・・結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙として
国境付近の居留民は置き去りにされた。
これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、
ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は
後退できなかった。特に国境付近の居留民の多くは、「根こそぎ動員」によって
戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や
暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ、
ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や(麻山事件佐渡開拓団跡事件PDF)、
各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。

弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。
また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が
途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や
満州人の妻となる人々も出た。
当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、
8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。
軍人関係家族 2万0310人
大使館関係家族 750人
満鉄関係家族 1万6700人
民間人家族 240人

この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長
秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と
供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。

当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる「流れる星は生きている」では、
避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には
告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出したと記述している。
また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が
牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて
駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。

引き揚げ (ひきあげ)とは、1945年(昭和20年)の敗戦まで、日本の植民地や占領地での
生活基盤を有する一般日本人が、日本本土に戻されることをいう。
これに対し、軍人や軍属を召集解除または解雇し、軍籍から外すことを「復員」 という。
軍人軍属が日本本土以外にいる場合は、日本への帰還が完了することで
最終手続きとなるため、所定の「復員手続」を済ませて、帰郷旅費を支給するま での
面倒を見ることまでが「復員業務」とされた。

日本国外にいる軍人、軍属は陸軍が308万人、海軍が45万人であり、合わせて
353万人にのぼった。これに一般人300万人を加えた、約660万人が海外にいたことになる。
ソ連軍管区(旧満州地区、北緯38度以北の朝鮮樺太千島列島
在留日本人の概数161万人(在留全日本人の24パーセント)

引き揚げ事業の実施  実際の引き揚げ事業も上記5つの軍管区ごとに実施された。
さらに「日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべし」
との連合軍の指示により、軍人軍属の帰還よりはじめられた。
陸軍の復員業務は、ソ連軍管区地域にて抑留された軍人を除いて、1948年1月までに
ほぼ完了した。海軍の復員は、1947年(昭和22年)末までにおおむね完了した。
その後、一般の日本人の帰還が行われた。

引揚者 敗戦時には軍人・民間人計660万人以上が海外に在住し、
引揚げした日本人は1946年末までに500万人にのぼったが、残留日本人の数や
実態については現在も不明である[2]
満州、朝鮮北部  1945年8月12日、日本人開拓団がソ連軍と満州国反乱兵によって
襲撃された麻山事件、8月13日には武装した暴徒に日本人避難民が襲撃される
小山克事件が、翌8月14日には葛根廟事件が、東満省では牡丹江事件が発生した。
8月27日にはソ連兵によって連日集団強姦されていた日満パルプ製造敦化工場の
女性社員が集団自決する敦化事件が発生した。

朝鮮半島の北緯38度線以北にいた日本人は、引揚事業の費用負担をソ連のどの省が
負うのか責任の先送りの間に栄養不良や病気で約3万人以上が死去した。
そうした環境から自力脱出し北緯38度線を越えアメリカ軍による引揚で
日本に帰国した者が20万人で、正式にソ連が1946年12月に始まる朝鮮半島の
北緯38度線以北から引揚させた日本人は約8000人で[3]1947年になってようやく完了した。
20130812知られざる脱出劇北朝鮮·引き揚げの真実~」

ソ連兵は規律が緩く、占領地で強姦・殺傷・略奪行為を繰り返したため、
戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。
朝鮮人も朝鮮半島でソ連兵と同様の行為をおこなったと言われており[4]
強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の記録では、
相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、
台湾人・フィリピン人各1人となっている[5]
              ■終戦から62年 日韓それぞれの引き上げ02
■政府が黙認してた秘密病院 二日市保養所のこと  ひめのブログ
ライダイハンより二日市保養所?跡地に行って来た randomyoko2
夫の前でソ連兵にレイプされ、青酸カリで自殺した婦人もいた[6]
興南の日本人収容所ではソ連兵が「マダム、ダワイ!(女を出せ)」とわめき、
女性を発見すると暴行した[6]。日本人女性は暴行されないように短髪にしたり男装や
顔に墨を塗った[6]
また、中国共産党軍朝鮮人民義勇軍は在留日本人に強制徴兵や
強制労働を課したため、それに対する蜂起とその後の虐殺などで
1946年2月3日の通化事件のような事件が起きた。
引揚列車に乗車後、乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された婦女子もいた[7]
シベリア抑留  在満朝鮮人の引揚げ 中国国民党政権による送還
  産経ニュース
【TVクリップ】二階堂ふみ 満州戦の悲劇「苦しみの末に
亡くなった子供たち… 事実を知るきっかけに」 2014.8.24 18:00
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 TBSテレビ、25日午後9時
終戦直前の昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻により、満州では多くの在留邦人が殺害された。
生き延びた人も、匪賊(ひぞく)の襲撃や食糧不足、厳しい寒さ など過酷な環境により、
次々に命を落とす。そんな状況で有希子は、肩を寄せ合って生きる子供たちを
懸命に励まし続ける。「有希子は本当の意味で力強い女性 だと思います」と語る。
 
ドラマ「遠い約束」に主演する女優の二階堂ふみ(鴨川一也撮影)
ドラマ「遠い約束」に主演する女優の二階堂ふみ
(鴨川一也撮影)

 子供のころ、沖縄戦を経験した祖父母から、
当時の話を何度も聞いた。
「沖縄は地上戦になった場所。
その時代を生きた祖父母の話は、
全てが心に残っ ています」。
戦争関連の本や映像に自ら進んで接し、
とりわけ茨木のり子さんの詩
「わたしが一番きれいだったとき」を読んで「衝撃を受けた。
当時の女性がどういう気持ちで日々を過ごしていたのかが分かり、すごく印象的だった」と
振り返る。 孤児と養父の禁断の愛を描いた映画「私の男」(6月公 開)での
妖艶(ようえん)な演技など、実力は高く評価されている。将来的にはニューヨークでの活動も
視野に入れているといい、「力強くて、アーティス ティックで、ハングリー精神があって…。
ゆくゆくは拠点を置きたいくらい好きな場所です」。
ロケの合間の取材のためか、終始真剣な表情だったが、このとき は若さあふれるすてきな
笑顔を浮かべてくれた。(本間英士)
【TBS】90秒でわかる!8/25『遠い約束~星になったこどもたち~』
事実に基づいたこどもたちの “奇跡” tbspr  
1945年 (昭和20年) 7月 ─── TBS 
戦況は悪化を極め、開拓団に入れば軍隊に取られないと言われていた民間人も軍に徴兵され、
それぞれの開拓団には多くの女性と子供たちが残されていた。  
日本 軍は防衛線を南下させる作戦に方針転換したが、開拓民も一緒に避難を始めれば、
作戦がソ連に知られてしまうことを恐れ、彼らには状況を知らせることはしなかった。

8月9日 ─── 広島に続き長崎にも原子爆弾が落とされたのと同じ日に、ソ連軍が
国境を越え、 満州へ侵攻を開始。開拓民たちは避難を余儀なくされた。

戸田英一 (松山ケンイチ) たちが必死でソ連軍と戦っている頃、三江省にある
静岡村開拓団PDF の水野有希子 (二階堂ふみ) と母・有枝 (伊藤かずえ)、 
弟・勝 (二宮輝生)、妹・かよ (矢崎由紗) は着の身着のまま他の村民たちと駅へと急いだ。
途中、有希子の生徒・佐竹三郎 (加藤清史郎) と再会を果たすが、三郎の母は爆撃で  
すでに命を落としていた。  

父を兵隊に取られ、ひとりぼっちの三郎は有希子たちと行動を共にする。
がしかし、列車は開拓民たちの前を通り過ぎていく。  

置き去りにされた有希子たちは、満州の首都・新京まで、およそ600キロの道のりを
歩くしかなかったが、その道のりは苦難の連続だった。  
当時、日本人が匪賊 (ひぞく) と呼んだ現地の人々が襲って来たり、ソ連軍の攻撃を受けたり、
多くのものが道中で命 を落とした……。

8月15日、終戦 ─── 日本は終戦を迎えたが、満州ではなおも戦いが繰り広げられ、
爆撃を受け、 倒れた英一が左腕の激痛とともに目覚めたとき、あたりには誰もいなかった。  
それか ら、やっとの思いで新京の関東軍司令部まで辿り着いた英一だが、  
そこは関東軍が去った後で、そこで初めて日本が負けたことを知る。 
新京の街を彷徨い、“日本鬼子 (リーベンクイズ)” と呼ばれ、満人から 殴る蹴るの
暴行を受けた英一が再び目覚めたのは、新京の中心地、 日本人居住区にある
小学校校舎だった。
「満州に行けば土地が手に入る」 「豊かな人生が待っている」 王道楽土
夢と憧れを抱いて満州へと渡った日本人たちの末路とは? 
そして英一と、子供たちの運命は !? 歴史の中に埋もれていた、敗戦後の辛い時代を
懸命に生きた日本人の姿が蘇る……。

原作は、戦争の悲惨と平和の大切さを考えさせる増田昭一さんの本と絵本です。

1945年8月15の日本の敗戦の後も、戦争の悲劇は続きました。
中国残留孤児や従軍慰安婦の問題は新聞やテレビ、雑誌などのマスコミに
たびたび取り上げられ、多数の人びとに関心を持たれてきました。
しかし、生きて再び日本に帰ることのできなかったおびただしい数の孤児たちや、
難民収容所における子どもたちの悲惨な生活、真実の叫び声、子どもたちの友情は
だれも口を閉ざして語ることがありませんでした。
そんな中、難民収容所で孤児たちと生活を共にした増田さんは、
「子どもたちとの約束を守り、生きた証を伝える」 ために書きつづけています。
1冊1冊に込められた孤児たちの深い悲しみ、真実の叫びを、次の世代に伝えたいと思います。

満州の星くずと散った子供たちの遺書 
新京敷島地区難民収容所の孤児たち
極寒の旧満州で父母・兄妹に死に別れ、数限りない死を見つめた孤児たちは、
栄養失調や病気と闘いながら、必死に生き抜こうと仲間たちと励まし合う。
難民収容所で共に暮らした著者が、生きて帰れなかった孤児たちの悲しみと
真実の叫びを初めて明かす。定価:1,500円+税

戦場のサブちゃんとゴン
誰も書かなかった満州の兵隊と子どもたちの戦争、「ふるさと、突撃!」 と叫びながら
戦車に飛び込んだ兵隊たち。
少年を探しつづけた愛犬ゴンは 800km 余りの道のりを経てサブちゃんと奇跡の再会!
 二つの命の輝き、戦争の悲惨を訴える。 定価:1,800円+税

約束 満州の孤児たちの生命の輝き
忘れていませんか !?  自らの命の日が絶えるその日まで、孤児たちは仲間との約束を
果たそうと懸命に生きぬいたことを。
旧満州から生きて帰れることができなかった孤児たちの心の叫びを。
定価:1,500円+税

● 出版社 『夢工房』 神奈川県の緑の砦・丹沢山麓にある出版社。
1988年の創業以来、地域の歴史・自然・生活文化を耕し、地域に暮らす人々の 生活の
息吹を形にする出版活動を続けている。

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