慰安婦問題について、いろんな報道: 番外編 チルボン島事件を蒸し返し ・・・ 依然、確たる証拠も無し ・・・

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2014年8月15日金曜日

番外編 チルボン島事件を蒸し返し ・・・ 依然、確たる証拠も無し ・・・



Yahoo!ニュース韓国人が「日本軍の虐殺・人肉食に抵抗して蜂起」
米軍の写真資料で明らかに―韓国メディア
XINHUA.JP 8月15日(金)20時28分配信 
韓国国史編纂委員会は13日、米国で保管されている
米海軍の資料写真から、太平洋戦争末期に
日本に強制徴用された韓国人が、日本軍による
韓国人虐殺に抵抗して蜂起したことが分かったと明らかにした。
韓国KBSワールドの中国語電子版が同日伝えた。
報道によると、写真は米国の国立公文書記録管理局が保管しているもので、
1945年3月、南太平洋のある島で強制労働させられていた韓国人193人が、
日本軍による虐殺行為に抵抗して蜂起したことが分かる。蜂起した人々のうち
68人は日本軍の手の及ばない場所に逃げ、米海軍の助けで生き延びたという。
同委員会は「太平洋戦争末期に日本軍は極度の飢餓状態に陥り、韓国人を殺害して食べた。
韓国人たちの蜂起はこうした野蛮な行為への抵抗だった」と指摘。
日本軍が人肉を食べていたという状況は、米国立公文書記録管理局が保管する
日本人の戦犯の裁判記録から明らかになっているとした。
(編集翻訳 恩田有紀)
日帝に対抗した韓国人強制徴用者  
中央日報2014年08月14日13時05分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版 
太平洋戦争当時、南太平洋で米軍に救助された
韓国人強制徴用者などが写っている写真が初めて公開された。
この資料は韓国国史編纂委員会が
米国国立文書記録管理庁から入手し、12日に公開したものだ。
写真の中の徴用者などが日帝の苛酷な労働と飢 えに苦しめられ、やせこけている。
米海軍が作成した写真説明には1945年3月に韓国徴用者193人が
日本軍の奴隷生活に反発して抵抗したため100人余 りが日本軍によって虐殺され、
生存者68人だけが救助されたと記録されている。 

http://japanese.donga.com/植民地下のマーシャル諸島朝鮮人虐殺が明るみに
OCTOBER 26, 2006 06:58
1918年、日本帝国は第1次世界大戦の戦勝国として、
ドイツ領だった南太平洋のマーシャル諸島を占領した。
2次大戦中、太平洋戦争を起こした日本は、米軍の反撃に備えてマーシャル諸島に
大規模な部隊を派遣した。
この時、マーシャル諸島だけでも3万6千人あまりの朝鮮人が強制動員された。
マーシャル諸島の東南側の端にあるミリ環礁にも800人あまりの朝鮮人軍属がいた。
このうち170人あまりが チェルボン島で無差別に銃殺された。
反乱を起こしたという罪をかぶせられたからだ。
当時の生存者たちは日本軍が朝鮮人の人肉を食べたという衝撃的な証言も している。
60年余り前、マーシャル諸島のミリ環礁では果たしてどんなことが起こったのだろうか。
当時、ミリ環礁に連行されたが、天の助けで生き返った李インシン(83)氏が
1985年に書いた手記をもとに、当時の日本帝国の蛮行と
朝鮮人集団虐殺の状況を再構成してみた。 

●食料補給が途絶えて草木で延命
1942年初め、日本帝国は農村を回って朝鮮人青年を手当たり次第に戦場に連行した。
李氏も同じく、1942年3月23日、釜山(プサン)港で船に載せられた。
それまで一度も耳にしたことのない南太平洋のマーシャル諸島のミ リ環礁に着いたのは、
それから13日後の4月6日だった。
船酔いで今にも死にそうになったが、李氏を含めて数百人の朝鮮人軍属は、
熱帯の猛暑の中で、ただ ちに労働現場に駆り出された。
彼らは主に滑走路をつくる仕事をさせられた。
マーシャル諸島は米国への爆撃のための前哨基地だったからだ。
日本人監督官たちは少しでも作業が滞ると、容赦なく棍棒で殴りつけてきた。
1943年2月ごろ、食料をいっぱい積み込んだ日本の貨物船がミリ環礁に
停泊しようとした矢先、米軍の戦闘機の爆撃を受け、あっという間に沈没してしまった。
この時から、本国からの食糧供給は完全に途絶えた。 

ミリ環礁にあった日本軍指揮部は、部隊運営が厳しくなると、部隊員を40あまりの
周辺の島々に分散・配置して、自ら食料をまかなうように指示した。 

●チェルボン島の悲劇
チェルボン島に行かされた数百人の日本人や朝鮮人は、豆の葉っぱのような草木で作った
かゆを食べながら何とか食いつないでいった。
1945年初め、チェルボン島で一人の朝鮮人軍属が失踪する事件が起きた。
朝鮮人数人ずつが一つのチームになって、何回もこの朝鮮人を探し回ったが無駄だった。
それから数日たったある日、チェルボン島の周辺にあっ た無人島に魚釣りに行った
朝鮮人たちは、目も当てられない光景を目撃した。
失踪した朝鮮人の死体を発見したが、太ももの肉がまるで刺身を切り取ったかのよ うに
切られていたのだ。
彼らをさらに驚かせたのは、数日前、日本人たちが気前よく手渡した鯨肉だった。
当時は久々に食べる肉だったので飽満感も感じたが、もしかし たらその肉は
鯨肉ではないかもしれないという気がして、体中に戦慄が走った。
何の装備もなかった日本人たちが鯨を取って朝鮮人に分けてくれるはずがなかっ たからだ。
それから数日後、再び一人の朝鮮人軍属が失踪したが、その軍属もやはり
同様の姿で見つかったという。
朝鮮人たちは押し寄せる恐怖心になすすべもなかった。
結局、島を脱出することにした。
島の周辺には米軍の艦艇があったので、日本人たちさえ殺せば、米軍の軍艦に
助けを求めることができた。
1945年3月18日、ついに朝鮮人たちが立ち上がった。
7人の日本人を殺して脱出を試みた矢先、耳元に機関銃が鳴り響いた。
ある朝鮮人が 歩いて一時間距離にあったルコノール島へ行って、このことを密告し、
重武装した50人あまりの日本軍討伐隊がチェルボン島に押し寄せてきたのだ。
手を上げ て降伏した朝鮮人にも容赦なく銃弾が浴びせられた。
倒れた朝鮮人には銃剣が飛んできた。抵抗を主導した5、6人の朝鮮人は、
何の罪もない朝鮮人たちを死な せたという罪悪感から、互いに抱き合って
ダイナマイトで自爆した。 

当時、チェルボン島の虐殺の時に生き残った朴チョンウォン
(2000年代初め死亡)氏によると、2人の負傷者を含めて15人ほどだけが生き残ったという。 

●60年間、悪夢にさいなまれる
チェルボン島の虐殺事件が起きてから20日あまりが経って、死体の始末のために
チェルボン島に行った金ジェオク(82)氏は、
「船が島に近 づくと、海には死体がいたるところに浮かんでいた」とし、
「島全体が親指のつめほどのハエの群れで覆われていた記憶が今でも生々しい」と語った。
李氏は、「95年、再びミリ環礁を訪ねたが、虐殺の跡はなにも残っていなかった」とし、
「しかし、当時の残酷な記憶は永遠に忘れられず、手記を書くことにした」と述べた。

日本人と韓国人 その似て非なる事
ミリ環礁朝鮮人抵抗事件 (2)   作成日時 : 2010/10/09 06:55
調べてみると、2006/10/26の東亜日報の 
『61年ぶりに明かされた徴用朝鮮人の悔しい死~日本軍が170人虐殺~』 
という記事とその関連記事がありました。

韓国語:『手を上げて降伏する人も無差別射殺』
日本語:『植民地下のマーシャル諸島朝鮮人虐殺が明るみに』

ミリ環礁朝鮮人抵抗事件 (5) 作成日時 : 2010/10/15 06:39
引用の殆がウィキペディアの「チルボン島事件」ですが、それは2006年東亜日報の記事が
大元です。  重要なことは・・・
「朝鮮人を殺して肉を食べ、それに反抗する朝鮮人軍属や現地の人を日本軍が
虐殺したということが事実であるかのようになっていく恐れがあるということ」
だと考えます。

今回は、これまで得られている情報(今回の報道、2006年の東亜日報、
1991年アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件での訴状)を比較してみます。
なお、今回の報道に関しては「朝鮮日報、中央日報、東亜日報、聯合ニュース」
を元にしています
文中、今回のマスコミ各社(朝鮮、中央、東亜、聯合)を「報道」

2006年の東亜日報は「東06」、1991年の訴状は「訴状」とします。
今回の4社の報道で異なる場合は別途記載します。
 ■日時について
「訴状」 : 3月1日未明、同月28日の海軍陸戦隊約60名の攻撃
「東06」 : 3月18日
「報道」 : 2月28日 東亜:記載なし
 
■チェルボン島に居た人数について
「訴状」 : 日本人軍属約20名、朝鮮入軍属約125名
「東06」 : 日本人148人、朝鮮人軍属184人 
「報道」 : 日本人11人 朝鮮人約120人
■原因について
「訴状」 : 日本人が朝鮮人を殺して食糧にするのは必至であることを思った
「東06」 : 恐怖心から日本人を殺して米軍の軍艦に助けを求めようと思った
「報道」 : 日本軍の食人行為に抵抗
 
■日本人の殺害について
「訴状」 : 殺害計画を実行に移そうとしたが計画は中途で発覚
「東06」 : 7人の日本人を殺して脱出を試みた矢先、耳元に機関銃が鳴り響いた。 
「報道」 : 日本人7人を殺害
 
■日本軍の救援を求めた者
「訴状」 : 日本人軍属ら
「東06」 : 朝鮮人がルコノール島へ行ってを密告
「報道」 : 記載なし 
 
■日本軍の数
「訴状」 : ルクノール島の海軍陸戦隊約60名
「東06」 : 重武装した50人あまりの日本軍討伐隊
「報道」 : 朝鮮・中央・聯合:武装した日本兵15人 東亜:日本軍

 ■銃殺の人数
「訴状」 : 朝鮮人軍属約100名およびマーシャル人住民約30名
「東06」 : 朝鮮人軍属170人あまり
「報道」 : 朝鮮人100人余り 中央:120人余り
 
■脱出者の数
「訴状」 : 朝鮮人軍属15名
「東06」 : 15人ほど
「報道」 : 中央:15名 朝鮮・東亜:記載なし 聯合:一部 


もう一つの情報として、「日本政府の文書」の『海軍軍属身上調査表』という
海軍軍属の個人毎の身上調査表があります。
聯合ニュース等にも示されていました。
この記録は1995年10月8日に、79,348 人(死亡名簿含む)分が他の資料と共に
日本政府から韓国政府にマイクロフィルムの形で渡されました。
 (内閣参質一六九第一五三号に対する答弁書)
画像
枠部分
所属・身分が「四施・工員」となっていますので「第4海軍施設部所属の工員」
死亡年月日:昭和20年3月18日 死亡場所: ミレ(銃殺)

画像
■日時 
「8」が「日」に見えるので「3月1日」に見えますが、「3月18日」です


■チェルボン島に居た人数  日本人14名●●、軍属184名と書いているようです。
「東06」では「日本人148名」となっていますが、よく見ると「14名」です。
「名」を「8」と間違って「148」にしたと思われます。
 ■行為「●●及内地人工員を殺害逃亡の目的に反乱を●し、
翌日●●より討伐隊を●●に際し●●● ●●●で反乱●で処置せられた。
4施ミレー派遣●●主任 中川清人●●」

連合ニュースは、この写真のキャプションに 

隊長と内地人工員を殺害、逃走を目的として、反乱を起こし、翌日、この島からの
討伐隊が派遣され、反乱の銃殺」と付けています。

これまでの情報の比較でわかったこと
■『海軍軍属身上調査表』を元にした2006年東亜日報記事■生存者の数「15人」は、
朴鍾元さんの訴状の数をそのまま 
■虐殺された数は、単純な引き算 
■チェルボン島で殺されたとする日本人の数は根拠が不明
朴鍾元さんの訴状では、「計画は中途で発覚して日本人と朝鮮人の問で銃撃戦となり、
日本人軍属らは島から脱出して救援を求めた。」
となっていて具体的に殺害されたのではありません。

「海軍軍属身上調査表」では「工員を殺害逃亡の目的に反乱」ですから、

どちらとも言えませんが具体的な数字も出ていません。

2006年の東亜日報には「7人」を殺して脱出を試みようとするとき、ある朝鮮人が

日本軍に朝鮮人反乱を密告して討伐隊に虐殺されたとなっています。
「殺害して、逃亡するときに」というように見れますが、当初日本人は148名です。
従って普通は「148人いた日本人の中の7人」という書き方はしませんので
 「7人」と書いています。ただ根拠は示されていません。

「報道」では、監視のために日本人が11人いた事になっていますから、

「そのうちの7人」と言う書き方ですが、この「11人」という数字は、今回の報道で、
初めて出てきた数字で、根拠が不明です。

この7人という数字は何から出てきたのでしょうか?

李仁申さんの手記だとしたら、誰からの情報でしょうか? 

■討伐隊は「第66警備隊」
朴鍾元さんの訴状では「海軍陸戦隊60名」となっていて、

「朝鮮人軍属およびマーシャル人住民に対する鎮圧と迫害は、 
ミレー島警備隊司令志賀大佐の指揮監督下に行なわれた」と記載しています。
『海軍陸戦隊』とは、日本海軍に属した陸上戦闘の為に編成される部隊で、

そのうち占領地などに置かれた臨時の海軍基地を防衛・管理するための部隊を
海軍根拠地隊」と言います。
マーシャル諸島に置かれたのが「第6根拠地隊」で、さらにミレー島に配属されたのが

「第66警備隊」で『志賀正成海軍大佐』が司令です。
クエゼリン島で本隊は玉砕した後、62~66警備隊は第4根拠地隊に吸収合併されました。)


従って、討伐隊は「第66警備隊」と考えられます。


■討伐した日本軍の数の不思議
討伐隊の数が「60人→50人→15人」と減っていっています。

これも不明な数です。
環礁の浅い内海(ラグーン)を渡って行くのは上陸用舟艇ですが、

60人なら大発動艇、30人以下なら小発動艇ですが、ミレー島では1944年1月の時点で 
米軍の爆撃で舟は全部沈められていたので、舟大工の経験がある兵士が
電柱の柱を板にして舟を作り、水陸両用戦車のスクリュウと自動車のエンジンを載せた
十 人乗り程度の舟しかありませんでした。
こう言うことも討伐隊の兵士の数が減った理由でしょうか。
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現在知られている情報を比較してみましたが、さっぱり具体的な姿が見えてきません。

【参考】
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(1)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(2)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(3)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(4)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(参考資料)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件(参考資料 その2)』
『ミリ環礁朝鮮人抵抗事件とは・・・』 


         ↑
チルボン島事件チルボン島事件(チルボンとうじけん)とは、太平洋戦争末期の1945年3月、 
マーシャル諸島ミリ環礁のチルボン島(Chirubon island、チェルボン島とも)で起こった
島民と
朝鮮人軍属による反乱事件

事件の背景
事件が起きた1945年、マーシャル諸島は米軍によってすでに制圧され制海空権を
奪われていた(ギルバート・マーシャル諸島の戦いを参照)。
飛び石作戦により米軍が素通りし、孤立した島では慢性的な飢餓が発生していた。
そのため、事件が起きたミリ環礁に駐屯する日本海軍の第66警備隊は、
警備隊司令部が置かれたミリ島に一箇所に集めていた各部隊を、ミリ環礁の各島に
分散配置し、食料は自活自給するとした。
兵士たちは鼠、蛇、魚などを食べて飢えをしのぐ一方、島の各所で食料の徴発も行ったが、
これに抗議したチルボン島の族長を日本兵のひとりが殺害したため、
島民達の反感を買っていた。
朝鮮人軍属の証言
以下は全て韓国側の証言である(省略)。
また手記自体は公開されておらず、今後の検証が待たれる。
https://web.archive.org/web/20140817012644/http://www.ktv.jp/info/press/050815.html
福岡県在住の金丸利美さんは、元日本海軍軍人。
韓国のソウルに住む李仁申(イインシン)さんは、元日本軍の韓国人軍属。
二人はいずれも81歳。
60年以上前の太平洋戦争中、中部太平洋のマーシャル諸島にあるミレー島で米軍と戦った。
日本の敗色が濃くなった1943年末ごろ、連日の米軍による猛攻撃で、

第2南海丸」が撃沈され、ミレー島への食料などの補給路が絶たれた。
その日を境に、約5700人の日本軍人や韓国人軍属にとって、飢餓との戦いが始まった。
極限状況と飢餓地獄の中、ミレー環礁のある島で韓国人軍属による反乱事件が起きた。

日本軍の鎮圧隊によって、100人以上の韓国人軍属が殺された。
李さんはその時、別の島にいて助かった。金丸さんは1970年代の前半から、度々ミ レー島に
眠る3100人余りの英霊たちのために、慰霊の旅をするようになった。
そこで偶然、金丸さんたちは、遺骨の収集に来ていた李さんら元韓国人軍属に 出会う。
当然、険悪な雰囲気になった。
あの反乱事件の鎮圧隊とは関係ないのに、金丸さんは李さんに辛く当たられる。
それでも一緒に、慰霊の旅を続けているうちに、ミレー島で生死をともにした金丸さんと
李さんたちは和解する。 
あれから10年。
あの時、ミレー島で一緒だった元日本軍人や元韓国人軍属たちの中で、今も健在なのは、

金丸さんと李さんだけになった。
李さんたちが、日本政府を相手に裁判 を起こした「戦後補償訴訟」は去年12月、
最高裁判所で敗訴が確定した。
現在、戦後補償については、韓国政府が「個人補償」を担う流れに変わりつつある。

戦後、日本と韓国でそれぞれ異なった人生を歩んできた「金丸さん」と「李さん」。

お互いに「人生の黄昏」を迎えている。
実は10年前、ミレー島で戦後初めて、日本軍人に出会った李さんは、金丸さんに
「あの時の非礼」を詫びる手紙を出していたのだった。
その時、二人の心に通 じ合える何かがあったのかも。
「戦後60年」を迎える現在、戦争体験者は少なくなりつつある。
「戦後70年」を迎える10年後には、彼らのような人たち が、どれだけ生きているのだろうか?

番組では、金丸さんと李さんのそれぞれの戦後の人生を軸に描きながら、「戦争の悲惨さ」、

「人間とは」、「家族とは」、「国家とは」などを浮き彫りにする。
「戦争の記憶を風化させまい」、「日韓国交正常化40周年」を節目に、未来志向的な
「日韓関係」を願いながら、後世の人たちにメッセージを託す。

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