慰安婦問題について、いろんな報道: 番外編 朝日新聞の手にかかると、新選組も迷惑らしい ・・・ 土方歳三の苦悩生々しく 京都・西本願寺で新選組文書発見

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2014年9月3日水曜日

番外編 朝日新聞の手にかかると、新選組も迷惑らしい ・・・ 土方歳三の苦悩生々しく 京都・西本願寺で新選組文書発見

写真・図版朝日新聞デジタル
新選組駐屯、迷惑でした 西本願寺の文書見つかる
久保智祥 2014年9月3日00時02分
寺が新選組に金500両を貸すと、新選組は借金をしたその日に寺の家臣を自分たちが開く相撲に誘ったとの記述もあった=2日、
京都市下京区の西本願寺、戸村登撮影

 幕末の京都を警護した「新選組」が浄土真宗本願寺派
本山・西本願寺京都市下京区)に駐屯した際の
やりとりを記録した文書が、同派の本願寺史料研究所で
見つかった。研究所が2日発表した。
親長州派の西本願寺が幕府側の新選組を警戒していた様子や、
新選組副長・土方歳三の交渉ぶりがうかがえる。
 「本願寺史」刊行のための調査で、寺務方らの「諸日記」など
3種類に計14本の記事が見つかった。

寺は、戦国時代に織田信長と戦った石山合戦で毛利家の支援を受けた縁から
親長州派だった。 
池田屋事件や長州藩が起こした「禁門の変」(蛤御門〈はまぐりごもん〉の変)で名を上げた
新選組が境内北側の北集会所(きたしゅうえしょ)に駐屯したのは、
1865年3月~67年6月の約2年3カ月。
寺と長州藩との関係を警戒する幕府が壬生(みぶ、京都市中京区)から
移らせたともいわれる。
 移転前日の記事では、隊士への不作法は寺側の不行き届きとなるので
「諸事温順ヲ主(むね)とし、強慢不遜之振舞(ごうまんふそんのふるまい)
無之様(これなきよう)」(何事も穏やかに対応し、傲慢〈ごうまん〉な振る舞いの無いように)
と寺侍(てらざむらい)ら家臣に注意を促したり、当時の広如(こ うにょ)宗主の
外出経路を北集会所から遠い南側の門へ変更したりする記述があった。

新選組は寺の後、近くの不動堂村(京都市下京区)に移ったが、移転後の
67年7月13日の記事では、宗主が「御案慮思召候(おぼしめしそうろう)」(ご
安心された)とあり、転居を実現した家臣に褒美が贈られたとの記述もあった。

 寺が新選組に迷惑していたことについては、寺侍だった
西村兼文の「新撰組始末記」が知られており、隊士が境内で砲撃訓練し、
切腹などの刑を科すため、「極楽ニ地獄ヲ合併シタルガ如シ」と記している。

 一方、新選組局長の近藤勇と親交のあった幕府御典医、松本良順(りょうじゅん)の
回顧録には、総勢170~180人の隊士の3分の1が病人で、滋養のために境内で
豚や鶏を飼育させたとの記述がある。
 65年6月22日(6月25日の誤記)の記事によると、北集会所が
1畳に1人が寝るほど手狭で、
「炎暑之時節、誠々以凌兼(まことにまことにもってしのぎかね)」
(炎暑に本当に本当に耐えかね)、病人も出ているとして、土方から南隣の
阿弥陀堂の一角を「無体成願(むたいなるねがい)」(無理なお願い)だが
拝借したいと訴えがあった。

寺側は北集会所の板敷きの部分に畳を敷くなどの工事に翌日から 取りかかると返答し、
6月25日の項に「惟亦忝仕合(これまたかたじけなきしあわせ)」とする土方からの
礼状が書き写されていた。

 新選組に金500両を貸し渡したとし、新選組は借金をしたその日に寺の家臣を
自分たちが開く相撲に誘った(65年3月21日)との記述もあった。

大石学・東京学芸大教授(日本近世史)は「招かれざる客を迎えた寺側の
本音が見えてくる。日常の新選組を記した史料は珍しく、寺との窓口役を
そつなくこなす交渉人・土方の姿も興味深い」と話す。

 史料は来年度に刊行予定の「本願寺史」第3巻に収録されるが、
史料の一部は11月11日に東京・築地本願寺で、12月12日に
西本願寺・聞法会館で開かれる公開講座で披露される。
北集会所は、兵庫県姫路市の亀山本徳寺に移築されている。(久保智祥)

毎日新聞
新選組:待遇改善を直談判した土方歳三 
浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)に残された幕末の文書から、
新選組が西本願寺に駐屯した当時の様子を示す記録が見つかった。
本願寺史料研究所が2日発表した。駐屯を始めた直後、寺に多額の借金を願い出たり、
隊士の待遇改善を副長の土方歳三(ひじかた・としぞう)自らが
寺側に直談判したりするなど、組織維持に苦心したさまが浮かび上がる。

 研究所が当時の日記やメモ書きを精査。新選組に関する記述が14カ所で見つかった。

 新選組は1865(元治2)年3月、壬生(みぶ)寺周辺から西本願寺の北集会所に
移り2年余り駐屯。記録には駐屯を始めた11日後の3月21日に「金五百両也」
「新撰組ヨリ拝借願ニ付、今日御貸下ニ相成候事」との記述があり、寺が200両、
残りを商人から工面していた。同じ日に新選組が
「相撲を開催するので見物に来ないか」と誘うなど気遣いも見せていた。
ただ、当時このような借金は返されないことが多かったという。

 6月25日には土方が寺の担当者と面談し、
「1人1畳くらいのスペースしかなく暑くてたまらず、
隊士からも不満が出て抑えられない」とし、阿弥陀 (あみだ)堂(本堂、
現在は重文)を50畳ほど借りたいと要求。
寺側は応じず、集会所の未使用部分に畳を敷き、壁を取り外して
風通しを良くすることで対応 した。
その日のうちに土方から
「無理な願いを早速聞いていただき、かたじけなく思う」とする礼状が届いていた。

 一方、寺側の警戒ぶりもうかがえる。新選組が来る前日の3月9日には、
寺の各所に「隊士に不作法な態度は取るな」
「隊士と出会っても直接に対応するな」と通達。
また、寺のトップである門主の外出ルートが北集会所に近いため
「(北集会所から離れた)車御門から輿(こし)を通過させる」としていた。

 同研究所の大喜(だいき)直彦・上級研究員は
「西本願寺に駐屯していた頃は新選組の結束力が弱まり始める時期。
土方が引き締めに必死になる様子が浮かぶ」と話している。

 研究所は今回の成果を受けた公開講座を11月11日に築地本願寺(東京都)、
12月12日に聞法会館(京都市下京区)で開く。
申し込み方法などは後日、本願寺史料研究所のホームページに掲載する。
問い合わせは本願寺派(075・371・5181)。【花澤茂人】
 ◇「新選組」隊士たちの具体的な姿がきちんと裏付けられた

 「新選組」などの著書のある歴史家の松浦玲さん(日本近代史)の話 
西本願寺側の当時の記録はこれまでほとんど知られていなかった。
想像するしかなかった隊士たちの具体的な姿が時系列も含め
きちんと裏付けられ、大変興味深い。
 ◇新選組の動き
1863年 2月 新選組の前身「浪士組」が京都に到着(文久3)し、
       壬生寺の周辺を屯所とする
1864年 6月 池田屋事件。7月には禁門の変で薩摩(元治元)、
       会津藩などとともに長州藩と戦う
1865年 3月 壬生寺周辺から屯所を南の西本願寺に(元治2)移す
1867年 6月 西本願寺から現在のJR京都駅に近い(慶応3) 
          不動堂村の新しい屯所へ移る
      10月 徳川慶喜が大政奉還
1868年 1月 鳥羽・伏見の戦い。旧幕府軍が薩摩、
(明治元) 長州藩など新政府軍に敗れ、新選組も江戸へ敗走
        4月 近藤勇処刑
1869年 5月 函館・五稜郭の戦いで土方歳三戦死
(明治2)
 
2014/09/02 19:44 【共同通信】               

 

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