慰安婦問題について、いろんな報道: ナチスにシンパシーは感じません しょせん白人ドイツのものです。 ソースロンダリングしてNYTの田淵ひろ子記者も絡んでた模様・・・

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2014年9月13日土曜日

ナチスにシンパシーは感じません しょせん白人ドイツのものです。 ソースロンダリングしてNYTの田淵ひろ子記者も絡んでた模様・・・


2014年10月21日火曜日 旧日本軍がユダヤ人に何かしましたか? 
日本に対し韓国とつるんで恩を仇で返しているのがユダヤ系人権団体
「サイモン・ウィーゼンタール・センター」。
 ・・ ゴールデンブック 樋口季一郎将軍

チャンネル桜動画より、このツーショット騒動について
西村幸祐(評論家・作家)氏のニューヨーク・タイムスの田淵氏についてコメント
1/3【討論!】大捏造メディア・朝日新聞を糾す![桜H26/9/13]より
https://twitter.com/HirokoTabuchi/status/508593937167437824


だから、日本の修正主義反発を呼び出し、
このRT'd 1000回を参照してくださいすることを奨励 
miyamoto  宮本徹 @miyamototooru
原発なくすこと、こどもの城存続、平和憲法守ることに取組中。
2012年総選挙日本共産党比例名簿登載者。6才と2才の娘と妻と目黒区で暮らしてます。
人生に影響をあたえたのはブルーハーツ、灰谷健次郎、本多勝一、宮沢賢治。ブログ

 ニューヨーク・タイムズ 日本関連の記事 
2013年4月26日、猪瀬直樹東京都知事による『(2020年の夏期五輪招致の
ライバルである)イスタンブール批判』を田淵広子記者とケン・ベルソン記者がスクープし
話題となった[17]。 これについて猪瀬は謝罪[18]をしたが、同時に
「質問者に一定の誘導があった」との主張もしている[19]

田淵広子記者は橋下徹の慰安婦に関する発言についても
日本の男の品格は最低である」という趣旨の記事を書いている[20]
2013年6月11日、田淵広子記者は上田秀明の「黙れ」発言にも反応している[21]が、
これは拷問禁止委員会における「日本の」NGOの笑いに対して[22]行われたものである
(「もちろん、我々は大使の激怒と
反論の馬鹿馬鹿しさに笑ったところ」[23]と当事者が証言)。 

高市・稲田氏が極右男性と撮影…菅氏問題視せず
2014年09月11日 19時02分 YOMIURI ONLINEホームへ


極右代表と撮影、高市総務相のコメント全文 
「撮影時、どんな人物か不明だった」 
2014.9.10 17:10 産経ニュース
高市早苗総務相が、
極右団体代表の男性と写真撮影をしたとの
報道に関し、10日に出したコメントは次の通り。
            ◇
  1、男性(※コメントでは男性の姓)とは

会談どころかほとんど会話をしておりません。
男性は、3年以上前だと思うが、
雑誌のインタビュアーの補佐(メモを 取る程度の係)
として議員会館に来訪されたそうです。
そのインタビューが終わった後、
男性が「一緒に写真を撮りたい」とおっしゃったので、
ツーショットで 撮影しました。
もちろんその時点では
彼がそのような人物とは全く聞いておりませんでした。

 1、上記の通り、撮影時に彼がどういった人物で あるか不明でした。

出版社に確認したところ、彼はもともとフリーのライターをやっていたようで、
たまたまインタビューの時に同行されたようです。
その後、 出版社と彼との契約はないようです。
なお、出版社も彼がそのような思想であったことは知らなかったようです。

 1、男性との付き合いは以前も以後も全くありません。

出版社がスタッフとして連れてきた方がツーショットを撮りたいとのことで、
それに応じただけです。
こちらとしては出版社を通じて、男性に写真の削除を依頼しております。

 2014年9月10日 高市早苗事務所


写真一緒の極右代表は取材同行者 稲田氏がコメント
2014/09/10 13:21 【共同通信
自民党の稲田朋美政調会長は10日、極右団体代表の男性と
撮った写真が団体ホームページに一時公開されたことについて
「雑誌取材の記者同行者として一度だけ会い、その際に
写真撮影の求めに応じた」とのコメントを発表した。
同時に「記者の同行者という以上に、
その人物の所属団体を含む素性や思想、名前も把握していない。
それ以後、何の関係もない」とした。 

高市氏らはネオナチ非難すべき 在米ユダヤ系団体
 【ロサンゼルス共同】高市早苗総務相らが極右団体代表の男性と撮った写真が
団体ホームページに一時公開されたこ とを受け、ユダヤ系団体
サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)の
クーパー副所長は9日、「議員らは(同団体が掲げる)ネオナチの思想を
明確に非難すべきだ」とコメントした。

極右団体はホームページにナチス・ドイツの象徴「かぎ十字」やこれに似た
マークを数多く掲載。議員側は男性の人物像などを「知らなかった」と説明した。
2014/09/10 13:18 【共同通信】

稲田朋美大臣をはじめとする自民党の国会議員が、ネオナチ団体
「国家社会主義日本労働者党」と接触しています。
橋下発言で欧米から強い批判を受けている中、この事実が外国に
知れ渡ってしまうのはヤバイかも・・・
更新日: 2013年08月04日 hongehongeさん

高市総務相と稲田政調会長「ネオナチ」とツーショット
「写真を撮りたいと言われて応じただけ」
2014/9/ 9 19:40 J-CASTニュース

2014.9.9 20:47  サンスポ
高市氏らが極右代表と写真 海外主要メディアも報道
総務相・高市議員らと極右団体代表との写真がホームページに一時公開


高市氏らが極右代表と写真 海外主要メディアも報道
 2014/09/09 21:41 【共同通信

団体は「国家社会主義日本労働者党」で、
ホームページにはナチス・ドイツの象徴「かぎ十字」やこれに似た
マークを数多く掲載。
英紙ガーディアン(電子版)など海外主要メディアも報道しており、
国際的に波紋が広がる可能性がある。
当該のページは既に削除されている。

国家社会主義日本労働者党
(こっかしゃかいしゅぎ
にほんろうどうしゃとう、ドイツ語
:Nationalsozialistische Japanische Arbeiterpartei)は、
日本の国家社会主義思想を掲げる極右団体、
いわゆるネオナチである。
略称はNSJAP。
この団体は、1952年(昭和27年)1月に

「国家社会主義民主青年同盟」が発足し、
同年2月に「国家社会主義労働者党」に改称後に活動停止となったが、
1982年(昭和57年)に
「国家社会主義日本労働者党」が発足した、と主張している[1]
戦前の高畠素之石川準十郎
「精神的・理論的指導者」と主張し、また福田素顕
西光万吉赤松克麿らの「正統的な継承者」とも主張している。

同団体の主宰者である山田一成は、

ヒトラーの思想に共鳴したという会社経営者
だということで、主な主張としてネオナチ主義を掲げ、GHQなどによって
(再)構築された現代日本の戦後体制の脱却、
反シオニズムを掲げ、アメリカイスラエルへの反目も表明している。
またニューカマーなどに代表される外国人労働者の排斥を訴えている。

1980年代初頭より海外のネオナチ団体と親交を深め、特に米国の

NSDAP-AO,ロシアのパミヤーチ(Pamyat)との関係が深い

1990年代にインターネット上に団体の

ウェブサイトを設立して団体の主義・主張を掲載した。
当ウェブサイトでは、朝日新聞で同団体の
パンフレットや主張が取り上げられたとしており、
構成員は20名程度だが
「日本国内の外国人労働者にとっては脅威となっている」
と主張している。
また、ナチス・ドイツによるユダヤ人への
ホロコースト(絶滅計画)は無かったと主張している。

1991年(平成3年)4月20日に、
同団体他計4団体を統合して極右団体の
国家社会主義者同盟が結成された。後に関係を解消。 
1999年(平成11年)5月に米国の
WAR(White Aryan Resistance)の
トム・メッツガー(Tom Metzger)を日本に呼んで講演会を開く。

自治省(当時)の政治団体名簿では1988年(昭和63年)設立として

1995年(平成7年)版まで掲載されていること、
また当団体の代表者である山田一成が、
書籍「誰も知らない日本共産党のホンネ」
の出版社である雷韻出版の社長と同一人物である事が判明した、
しんぶん赤旗が報じた[2]


2000年(平成12年)9月に「在日朝鮮人の殲滅」
2000年9月付け声明)などの主張を行った。

肥後亨 (ひご とおる、1926年3月25日 - 1964年3月8日)は、鹿児島県[1]出身の
政治活動家。広義の行動右翼に該当するが仁侠系人士ではない。
1950年代から1960年代にかけて、各地の選挙に出馬して奇怪なパフォーマンスを

繰り広げた右翼活動家である。
個人的な信念によって選挙に出馬しているように見えたが、実際は政界の大物から
資金の提供を受け、革新陣営に対する選挙妨害を目的とした政治ゴロであった。

高田がん (高田巌、たかだ がん、1930年5月23日 - )は愛媛県八幡浜市出身、 
東京都世田谷区在住の政治運動家、特殊株主
反共全国遊説隊 」隊長、元自称「参議院比例代表研究家」。
広義の行動右翼に該当するが仁侠系人士ではない。

国家社会主義 (こっかしゃかいしゅぎ)は、
国家と社会主義を関連づけた思想や体制。 
日本では翻訳の関係もあり、
以下の複数の内容の異なる思想を指す用語として使われている。
 

国家社会主義(英語: state socialism) - 国家が社会主義または社会主義的諸政策を
推進する思想[1][2][3][4]。 
ドイツのフェルディナント・ラッサールの主張した社会主義[5]や、
オットー・フォン・ビスマルクの行った社会保障政策、ソ連型社会主義などの
社会主義国家[6]が、「国家社会主義」と呼ばれる場合がある。

国家社会主義(英語: national socialism) - ナショナリズムと社会主義を結合した思想。

国民社会主義、民族社会主義とも訳される。
省略形の「ナチズム」(英語: Nazism)から辞書等では「ナチスの思想」と説明される
例が多いが[7][8][9][10]、最初の使用は1890年代のフランスのモーリス・バレス[11]
ドイツ語(ドイツ語: Nationalsozialismus)では1914年の思想を支持した
ルドルフ・チェーレンが最初に使用した。

ネオナチ 詳細は「ネオナチ」および「ファシズム#一覧」を参照
上記のナチスの思想を受け継ぐと称する、いわゆるネオナチのうち、

「国家社会主義」を称する団体には以下などがある。
国家社会主義運動(NSM、アメリカ
国家社会主義白人党(アメリカ)
アメリカ国家社会党(アメリカ)
国家社会主義日本労働者党(日本)
国家社会主義者同盟(日本)

また、「国家社会主義」との名称ではないが、ナショナリズム的側面の強い社会主義には、

左翼ナショナリズムバアス党(アラブ社会主義復興党)、ビルマ式社会主義などがある。

国家社会主義(日本) - 戦前の日本において高畠素之赤松克麿らがとなえた
 
「国家社会主義」。これは上述の各思想とは異なる。
そして赤松は、自著では「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」と称している。
また北一輝の思想も「国家社会主義」と呼ばれる事がある[12]

国家社会主義者世界連合 
ネオナチ  (英語: Neo-Nazism、ドイツ語: Neonazismus)とは、ナチズムを復興しようとする、
または類似性を持つ、第二次世界大戦後の社会的あるいは
政治的運動の総称である[1][2][3][4]
「ネオナチ」という語は、それらの運動のイデオロギーを指す意味でも使われている[5]
ネオナチのイデオロギーは、オリジナルのナチスやナチズムに近いものから、
相違点が大きいものなどさまざまである。概して部外者に使う言葉である。

多くの国に組織があり国際的なネットワークも存在するなど、

世界的に見られる現象となっている。
密着24時!日本のネオナチ - A Japanese Neo-Nazi VICE Japan
2014/05/07 に公開
ここ日本には、山田一成という国家社会主義者がいる。
彼は現在のネオナチ・グループ(­NSJAP)のリーダーとして活動している。
今回VICEは、山田氏の一日に密着取材­。民族の意思同盟と共にアメリカ大使館へ
抗議にいく様子も捉えた。
Swastikas, Hitler worship and German marching music being blasted from a speaker...
no this is not 1930s Germany, this is modern day Tokyo, Japan. 
Kazunari Yamada is the leader of the NSJAP, the National Socialistic Japanese Arbeiter (Worker) Party and one of the few real Neo-Nazis in Japan. Utilizing the internet, 
he is connected to Nazis from all around the globe. On weekends, 
he unites with members of the Uyoku far right groups to wage war on the streets
of Tokyo against the establishment.


中独合作のイメージ画
中独合作 (ちゅうどくがっさく、中: 中德合作、(「徳」はドイツのこと)
独: Chinesisch-Deutsche Kooperation
英: Sino-German cooperation 
Chineseを用いないので注意)
とは、1910年代から1940年代にかけての
中華民国とドイツの一連の軍事的・経済的協力関係を指す。独中合作とも。
日中戦争直前の中華民国で、産業と軍隊の近代化に役立った。
1912年に中華民国が成立した直後の中国では、軍閥が跋扈し、
列強の侵略に苛まれていたが、1928年の 中国国民党による北伐の完成により
一応ながらも国内統一された。
しかし、その後満州事変などの日本の進出により、「中華民国による国家統一」が
脅かされるようになった。

そのような背景において、軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、
資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから
1930年代の終わりにかけて、両国の関係は最高潮に達した。
ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化された[1]日独防共協定
締結されると関係は弱められた。
中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果を発揮した。

日独防共協定
1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の
1928年の30名から大きく増加していた[14]
ヒトラーの外交政策が変更され日独防共協定が締結されると、中国とドイツの関係は
弱められていった。
ヒトラーは、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、
同盟国に日本を選んだ[17]

さらに中国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、
中国系ロビイストやドイツ人投資家から執拗な抗議を受けても変わらなかった。
ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、
以後新たな対中輸出が認められることはなかった。

ドイツは在華大使トラウトマンを介して、中国と日本の和平交渉を仲介しようとしたが、
1937年12月に南京が陥落してからは、両国が納得できるような
和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介による休戦の可能性は全く失われた。
1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。
その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、中国への軍需物資の輸出が禁止された。
さらに同5月、日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。

ドイツが親交国を中国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。
中国との交易に比べれば、日本と満洲国から得られる経済効果は
はるかに小さかったためである。
また、中国在住のドイツ人のほとんどは、国民政府を支持した
例えば、漢口のドイツ人は現地の赤十字に対し、中国人と他の外国人からの
合計以上の寄付を行っていた。
ドイツの軍事顧問達は、国民政府に同情的だった
ファルケンハウゼンは、1938年6月末日に退去を命じられていたが、
蒋介石に対して、日本に味方することだけはないと断言した。
その一方で、ナチス幹部達は、日本を中国で勃興する共産主義に対する
最後の防波堤と位置づけていた。

実際にも、ドイツが日本と手を組んだことは、必ずしも成功とは言えなかった。
日本が北中国及び満洲国の権益を独占したため、中国におけるドイツの権益は
他国並みにまで落ち込んだ[18]
1938年中ごろ、これらの経済問題が未解決なまま、
ヒトラーはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、
1936年に締結された日独防共協定事実上無効となった。
ソ連は満州国の物資をドイツに送るのにシベリア鉄道の利用を認めたが、
当初からその量は少なく、ソ連、ドイツ、日本の交流が浅いために
さらに減少することになった。

1941年、ドイツがソ連に宣戦布告すると、
ドイツとアジアの経済交流は完全に無くなった[19]
中国とドイツの交流再開は1941年までは模索されていた。
しかし、ドイツが1940年のバトル・オブ・ブリテン
イギリスを攻めあぐねているうちに、ヒトラーの興味を奪ってしまった[20]
ドイツはその年の終わりに日独伊三国軍事同盟を締結した。
それを受けてドイツは1941年7月、重慶に移っていた国民政府と手を切り、
南京汪兆銘政権を中国の公式政府として承認した。
太平洋戦争の勃発を契機にして、中国は連合国の一員として
1941年12月9日にドイツに宣戦布告した。
後世への影響 ドイツ軍装の蒋緯国

1930年代の中独合作は、孫文が理想とした「中国の国際化」において
最も成功したものだった。
その関係は短期間で終わったが、国民党政府が国共内戦に敗れて
台湾に撤退した後に関係が再開した。
台湾(中華民国)の政府高官や大臣の多くがドイツで教育を受け、
その他にも学者や蒋介石の息子蒋緯国の ような軍当局者の多くがドイツで学んだ。
戦後、台湾が急速な産業発展を遂げたのは、1936年からの三ヵ年計画の
ひとつの成果ともいえる。
中国とナチス・ ドイツのこの緊密な協力関係は、中国側の歴史資料では
殆ど扱われていない。
理由を北村稔氏は、「『日本のファシズム』を抗日戦争により打倒したと主張する
国民党には、『日本のファシズム』の盟友で『歴史の罪人』となったナチス・ドイツとの
親密な関係は、第二次大戦後には『触れてはいけない過去』になった」
 からだと、解説する。

リヒャルト・ゾルゲ
(Richard Sorge, キリル文字:Рихард Зорге,
1895年10月4日 - 1944年11月7日)は、ソ連軍のスパイ。
1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して
日本で諜報活動を行い、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、
ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。 

日本でのスパイ活動
1933年9月6日に、日本やドイツの動きを探るために
『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員かつ
ナチス党員として日本に赴き、横浜に居を構える。

当時日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として
知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付陸軍武官補から
駐日ドイツ特命全権大使に出世したオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、
第二次世界大戦の 開戦前には最終的に大使の私的顧問の地位を得た。

彼は来日前にオットの戦友である『テークリッヒェ・ルントシャウ』紙論説委員である
ツェラーの紹介状を入手していた上、政治的逃避のため日本に派遣されることになった
当時のオット中佐は日本に関する知識をほとんど持っておらず、そのため
日本の政治などに関し て豊富な知識を持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。

1936年の二・二六事件の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と
戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた
馬奈木敬信によって戦後証言されている[2]

※ヒットラーを礼賛するサイトに例えば  ヒトラーの日本観 がありますが
出典もあいまいで、眉唾ものです。
日本は八紘一宇をうたい、人種差別は当時もしません。


waa5001 さんのチャンネル
ドイツが仕組んだ上海戦秘史 阿羅健一 
桜プロジェクト 平成20年12月22日 日中戦争はドイツが仕組んだ 
根拠が無いジョンラーべ証言- YouTube - trimmed SakuraSoTV

ジョン・ラーベ ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe,
1882年11月23日 - 1950年1月5日)は、ドイツ人商社員。
シーメンス社の中国駐在員(のち中国支社総責任者)として約30年に渡って中国に滞在し、
日中戦争南京攻略戦時には民間人の保護活動に尽力した。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)南京支部副支部長。
南京安全区国際委員会委員長。
ドイツ語の発音ではヨーン・ラーベのほうが近いが、英語読みである「ジョン」の表記が
一般的である。なぜなら「ラーベが生まれた港町ハンブルクでは、当時英語名のこの名前
がドイツ人にもしばしば命名され、発音も英語であったためである」と
ラーベの長女が梶村太一郎に証言している。
国民党軍の軍事顧問団だった
香港でのナチスの写真。
戦争中、日本は世界一の民主国であった 
ヘブライの館 2 作成 1998.4
※注意: 多分、このファイルのタイトルを見て、
「そんなはずはない!」と強い反発を感じる人は少なくないと思いますが、
内容の正否はともかく、「こういう考えを持っている親日のユダヤ人学者が
この世に存在している」ということだけでも記憶にとどめてもらえれば、

幸いです(^^; あくまでも“参考”程度に読んで下さい。

昭和天皇「ナチスドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を

結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。」
覚醒!!大和魂と愛国者の瞳(リンク切れ) より
hirop5  2013年08月03日 10時27分   

独伊との同盟に反対した昭和天皇
昭和天皇が自ら歩んだ時代を語った書が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)です。

これは戦後、昭和21年3~4月に、昭和天皇が側近に語った言葉の記録です。

それを読むと、昭和天皇が歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていたことに、
驚かされます。
最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことです。

しかし、本心は反対であっても、立憲君主である以上、
政府の決定を拒否することができません。
拒否することは、憲法を無視することになり、専制君主と変わらなくなってしまうからです。
そこで、天皇は昭和16年9月6日の御前会議において、自分の意見を述べるのではなく、
明治天皇の御製を読み上げたのでした。
よもの海 みなはらからと 思ふ世に
など波風の たちさわぐらむ

これは対米英戦争の開始には反対である、

戦争を回避するように、という昭和天皇の間接的な意思表示です。
しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入したのです。
結果は、大敗でした。
戦後、天皇は『昭和天皇独白録 』 でこの戦争について、次のように述べています。

戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。
「日本の主張した人種平等案は列国の 容認する処とならず、黄白の差別感は
依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。
又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と
天皇は、長期的な背景があったことを指摘します。

昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を

明らかにしています。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、

百戦危からず』という根本原理を 体得していなかったこと。
第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、

山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、
且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、
所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」
このように、天皇は敗因を分析しています。的を射ていることばかりです。

昭和天皇と大東亜戦争との関わりを振り返ってみると、まず日独伊三国軍事同盟を

めぐる問題があります。
昭和15年9月に、この同盟を締結したことは、わが国が決定的に進路を誤った
出来事でした。当時、昭和天皇はヒトラーやムッソリーニと同盟を結ぶことを憂慮し、
何度も同盟反対の意向を示していたのでした。

しかし、三国同盟は強硬に推し進められました。

推進の中心には、外務大臣の松岡洋右がいました。
松岡は、独ソ不可侵条約と三国同盟を結合することで、日独 伊ソの四国協商が
可能となり、それによって中国を支援する米英と対決する日本の立場を飛躍的に
強めることができるだろう、という構想を持っていました。
しかし、松岡の狙いは見事に外れました。
これに対し、天皇は『独白録』で当時を振り返り、次のように語っています。

「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し

以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、
一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするに
あったのである」と。

天皇の方が、外交の専門家である松岡よりも、相手国の意図を

よほど深く洞察していたことがわかります。
三国同盟が締結された当時、天皇は、時の首相近衛文麿に対して、

次のように問い掛けていました。

ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、

この国の前途はやはり心配である。
私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか

天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、

わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いていたのです
また、近衛首相に対して、次のようにも言っていたのでした。

この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を

停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。
この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。

実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、

石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていきました。
同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に
予測していたことがわかります。
この天皇の予見は不幸にして的中してしまったのです。
当時の指導層 が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、
日本の進路は変わっていたでしょう。

昭和天皇独白録 』は、その他の事柄に関しても、天皇自身による

貴重な証言に満ちています。

以上引用:ほそかわ・かずひこのオピニオンサイト

以上が日本とナチスドイツの同盟に関するおおまかな歴史です。
昭和天皇が戦争との関わりを語った機密記録『昭和天皇独白録』

今まで存在を知られながら、
作成の目的が謎とされてきたこの機密文書には、
何が語られているのか。
残された日本語版・英語版の二つの「独白録」をもとに、公には最期まで
沈黙を守り通した昭和天皇の心中が初めて明らかにされる。 

【昭和天皇実録公表】自作の物語に「裕仁新イソップ」 
解剖したカエルに「正一位蛙大明神」 幼少期の新逸話
2014.9.9 15:53 (3/3ページ
昭和天皇実録公表】 産経新聞
ヒトラー批判
「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲ…」
ナチス・ドイツのヒトラーは、降伏したフランスとの休戦協定の調印を、

第一次世界大戦に敗れたドイツの調印地と同じ仏コンピエーニュの森で行った。
敗戦国に屈辱を与える手法について、

「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、
ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ
結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」と批判した。(昭和15年7月31日)

5 ドイツ軍慰安所
ドイツ軍は日本軍と非常に類似した
国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し
500箇所あった[32] 。
2005年1 月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組
「戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春
(Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution)」では、
ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い
官製の慰安所を始め、後にはポーランドウクライナ
女学校の生徒を連行し、慰安婦にしたことを報じた。

5.1 強制収容所のなかの慰安所

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