慰安婦問題について、いろんな報道: デヴィ夫人が"従軍慰安婦"斬る 「韓国人はなぜ自国の恥ずべき歴史を広めるの」

Translate

2014年10月8日水曜日

デヴィ夫人が"従軍慰安婦"斬る 「韓国人はなぜ自国の恥ずべき歴史を広めるの」

2014.10.08 07:30 DMMニュース 
 
いまだにくすぶり続け、火の粉も降ってきている従軍慰安婦問題。
2013年、アメリカ・カリフォルニア州グレンデールに

慰安婦の少女像が建てられま した。

そもそも3年前の2011年12月、

韓国・ソウルにある日本大使館の前に慰安婦像が
建てられたとき、
日本政府は大抗議をして建立を阻止すべきだったんです。

 慰安婦問題を掲げている団体は

今後、アメリカの22都市に像を建てると言っていますが、
自国にとって恥ずかしい歴史を
どうしてわざわざ像まで建ててアピールするのか、
私にはその感覚がよくわかりません。
ともかく、彼らはこの慰安婦問題を人道問題にまで発展させ、
国際的な認識として広めているのです。
アメリカにおいて、せいぜい仕事の都合で3、4年、
腰かけ程度の滞在しかしない日本人と違い、
韓国人は移住して着実にコミュニティを築き上げています。
加えてアメリカ人議員の選挙運動を積極的に参加、応援し、
コネクションを広げているのです。
 2014年2月には、フランスのアングレーム国際漫画祭で、

慰安婦問題をめぐる強制連行、強姦、輪姦、そして麻薬、殺人と
「日本軍は非情な犯罪行為とした」とする、
ひどい漫画の出展を許可する一方で、
慰安婦の強制連行は無かったと主張する
日本の出展を許可するどころか、
入場さえ拒否するという出来 事がありました。
韓国側の漫画を見たフランス人は大ショックを受け、
日本を非難・侮辱の言葉で喧々諤々。
 このように、日本の国益を損なう朝日新聞の誤報記事に端を発した

韓国の間違った主張の結果、今まで慰安婦のことさえ知らなかった
世界の国々がこの問題に注目し始め、
国連では日本の「性奴隷」とされ、報告される始末です。 
 これが例えばインドネシアの場合、
少しでも国益を損なうことを発表されようものなら、
すぐに国を挙げて反対声明を発表します。
また、事実関係はともかく、
中国の報道官・華春瑩さんのレスポンスの早さを
日本政府は見習いなさい、とも言いたいのです。

 現在、生き残っている慰安婦の方の証言というものを読みましたけど
「警官に手を引っ張られて連れていかれた」という、なんでもない内容でした。
ほかにも、慰安婦は兵隊さんよりいい給料をもらっていたとか、
慰安婦のほとんどがそういう行為を職業としていた“プロ”だったとか、
占領した土地の一般女性たちを守るという意味合いがあったのだとか、
いろいろな意見や見方があります。 
 それこそ、韓国の朴槿惠大統領の父・朴正煕元大統領は
米軍慰安婦の管理者だったわけじゃないですか。
彼女の反日ぶりはひどいですね。
こんな人に安倍首相がお世辞使うように韓国語で挨拶して、
鼻であしらわれるなんて頭に来ます。
媚びる必要なんてまったくないのに。冗談じゃない。
戦前および戦後、日本は韓国に水力発電ダムをいくつも作り、
国家建設の援助もしてきました。
そのおかげで大量の電力消費をまかない、
経済国に発展したのではないですか。(談)
devi_01.jpgデヴィ・スカルノ
1959 年、訪日中のインドネシア・スカルノ大統領と出会い、結婚。
若くして大統領夫人となり、
日本とインドネシアの友好親善に尽くす。
現在は「デヴィ夫人」の愛 称で親しまれ、
テレビなどでも大活躍。
また、NPO法人「アース・エイド・ソサエティ」を発足させるなど、
地球規模の慈善活動も行っている。
(撮影/西田航)

Dewi Sukarno、1940年(昭和15年)2月6日 - )は、
日本生まれでインドネシア国籍のタレント。
インドネシアスカルノ元大統領第3夫人[1]
NPO法人アースエイドソサエティ総裁。
株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役。
本名・インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノRatna Sari Dewi Sukarno)、
旧名・日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)[1]、通称はデヴィ夫人
スカルノ大統領との間に生まれた一人娘・カリナは、
2005年(平成17年)11月26日にオランダで
米系大手金融機関シティバンクの欧州・中近東・アフリカ地区
CEOフレデリック・シーガスと挙式している[2]

生い立ち
東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に
父・兵七郎と母・政子の間に生まれる。
父は麻布区霞町界隈の大工であり、弟が1人いた(八曾男)。
家庭は裕福ではなく多額の借金をしていた。
太平洋戦争中は、母・弟の3人で福島県に疎開していた。

思想
2.1 大東亜戦争(太平洋戦争)と戦後
2.2 靖国神社
2.3 憲法9条と本土防衛
2.4 皇室 

人物
3.1 パーティ
3.2 北朝鮮との関係
Soekarno.jpg
Sukarno
スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、
1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代
オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において
大きな足跡を残した政治家である。
Sukarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、
雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。
1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は
不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には
「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として
敬意をもって愛され続けており、現在再び
紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われている。

経歴
1.1 生い立ち
オランダが長年植民地として支配していたジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。
父はジャワの下級貴族の出身で
小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。
名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン
(インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』、
ラーマーヤナ』に基づいている)に登場する武芸の達人
「カルノ karno[1]」(ガウォンゴ国王スルヨプトロ)に由来。
ここから「S.Karno」と署名した事もあったという。
幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、
ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、
スラバヤの高等市民学校(HBS)に入学。
同校を1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダ
が1920年にバンドゥンに創設した高等工業学校
(現バンドゥン工科大学バンドン工科大学)に入学。
1926年5月に卒業している。

1.2 反植民地運動
大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始する。
1927年7月4日、 オランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党
(Partai Nasional Indonesia、略称PNI)を結成。
インドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、
壇上での熱のこもった演説で聴衆を 魅了し、
「民族の指導者」として認められるようになった。

1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、
1931年2月、恩赦をあたえられて出獄。
しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、
続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。
この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となる
ファトマワティと出会い、結婚している。

1.3 第二次世界大戦下
1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年にオランダ本国がドイツに占領され
政府はイギリスへ亡命したが、
その後もオランダ植民地政府による植民地支配は続いた。
その後1941年12月に太平洋戦争が始まると、アメリカ領フィリピン
イギリス領 マレー半島から宗主国の軍隊を放逐した日本軍が、またたくまに
オランダ領東インド全域(=インドネシア)からオランダ軍を放逐し、
オランダ植民地政府とその軍隊はオーストラリアに逃げることとなった。

その後すぐに第16軍司令官である今村均は、
オランダ植民地政府に囚われていたスカルノやハッタらを解放し、
今村はインドネシアの民生の安定のために知名度の高い
スカルノやハッタらの民族主義者の協力を要請した。
他方のスカルノらもまた民衆総力結集運動を組織し、
インドネシアの独立のために日本軍に協力し、
イギリス軍アメリカ軍、オランダ軍をはじめとする連合国軍と
対峙することを選択した。
1943年にはハッタとともに日本を訪問し、
昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、
インドネシア独立への道筋を作っていった。
またその後もインドネシアの殆どの地域は戦禍に巻き込まれることがなく
平穏な状態が続いたものの、日本はその後イギリスやアメリカ、
オーストラリアなどを中心とする連合国軍に対して各地で劣勢となっていき、
1945年8月15日に敗戦へと追い込まれる。

1.4 独立宣言と独立戦争
日本が連合国に対して降伏してから2日後の8月17日、
オランダ植民地政府が逃亡したままという権力の空白をぬった形で
スカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」
インドネシアの独立を宣言した。
しかし、これを認めないオランダはイギリスやオーストラリアなどの
助けを受けて軍を派遣し、同地の再植民地化に乗り出した。
戦局はオランダ優位に進 むかに思われたが、
オランダは本国が戦火に見舞われた上に
ドイツに占領されていたこともあり国力が低下していた上に、
日本軍が放置していった兵器と残存し た
一部日本軍将兵の助けを受けたインドネシアの武装勢力
(正規軍・非正規軍を問わず)とのゲリラ戦に苦しめられた。
なお、オランダを支援しようとしたイギリスもオランダと同じく国力が低下していた上に、
インドやマレー半島などのアジアの植民地における独立運動が活発化していたため、
オランダを支援するだけの余力は残っていなかった。

さらに、インドネシアを再植民地化しようとする
オランダへの国際的な非難も高まったため、外交交渉による
紛争の解決がはかられた(インドネシアとオランダの戦争については
インドネシア独立戦争」の項を参照)。
スカルノ自身は、1948年12月のオランダ軍による
臨時首都ジョクジャカルタ侵攻のさなか、オランダ軍によって
逮捕されており、バンカ島に幽閉されていたが、
1949年12月のハーグ協定の締結によって、
インドネシアはオランダから主権委譲を受け、
独立国家としての第一歩を踏み出すことになった。

0 件のコメント:

コメントを投稿