慰安婦問題について、いろんな報道: 二・二六事件を阻んだ男 湯浅博。「武力で政治に介入しようとしたのは間違いだった」 二・二六事件で警視庁を占拠した元兵士語る …あれから79年

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2015年9月8日火曜日

二・二六事件を阻んだ男 湯浅博。「武力で政治に介入しようとしたのは間違いだった」 二・二六事件で警視庁を占拠した元兵士語る …あれから79年


産経ニュース2015.9.8 10:00更新
【東京特派員】二・二六事件を阻んだ男
湯浅博
本欄の読者から、
意外なメールが本 紙宛てに届いた。
平成27年2月19日付で、陸軍皇道派の青年将校による
クーデター未遂を描いた「“悪鬼”が歴史を動かす」に登場の
大高政楽少尉の娘、渡辺絹子さんである。
渡辺さんは父親が二・二六事件に関与していたなど聞いたこともなく、
本欄の新証言から「父の役目の重大さに驚嘆しました」と書いていた。
まもなく、亡き大高少尉の事件に関する手記が実家で見つかったという。
 発見された大高の手記に書かれていたのは、
陸士47期の同期で、事件に参加した林八郎少尉と
常盤稔少尉への哀惜の念であった。
二・二六事件では、大高は守衛隊副司令官として宮城を守る側にあり、
決起部隊の2人と対峙(たいじ)せざるを得なかった。
 事件当時、林は首相官邸に乗り込んで、

秘書官の松尾伝蔵を岡田啓介首相と間違えて殺害し、
当の岡田は女中部屋に隠れて難を逃れた。
常盤の方は、警視庁に突入してそこを占拠している。

 手記によると、大高は事件前日の25日、

宮城警護を務める近衛第3連隊の「御守衛上番」として、
小隊を率いて宮城に向かった。
その日、大高は胸騒ぎを覚えて
ドイツ製のモーゼル中型拳銃に実弾8発を込めた。
2日前に同僚から、林が何かしでかしそうだと聞かされていたからだ
大高は二重橋に近い正門衛兵所に陣取った。
賢所、呉竹寮など要所に歩哨を立たせ、
彼は副司令官としてこれを巡察する。
何もなければ翌26日午前10時には別の隊と交代するはずだった。

 その朝は違った。異変を伝える陸軍省、近衛師団司令部、

宮内省、皇宮警察の直通非常電話が一斉になり出したからだ。
最初の電話は、大宮御所の別の中隊から不穏を知らせてきた。
 まもなく、控兵だという中橋基明中尉と同期の今泉義道少尉らが到着した。

すると、今泉が「俺はとんでもないことを してしまった」とささやく。
中橋中尉に命じられるままに高橋是清蔵相射殺を支援してしまったという。
眉目秀麗のはずの中橋が、このときばかりはものすごい形相だった。
大高は異変を察知して、兵に着剣を命じて中橋らを取り囲んだ。
 「大高、貴様は何故に兵に着剣させたのか」
 控兵が後ずさりしたのを見て、

大高はポケットのモーゼル中型拳銃を突きつけた。
反射的に中橋もブローニング大型拳銃を構えてにらみ合った。
蔵相を射殺した中橋の銃から火薬の匂いがした。
「天皇を御動座するには、この大高を殺さなければならない」
 緊張の中で、大高はふと「叛乱(はんらん)将校は、

その時、すでに神になっていた」と考えた。
だが、41期の中橋は、大高ら47期の軍事教官であった。
と、その瞬間、中橋の力が体から抜けてきたようだった。
中橋はくるりと身を翻し、兵を残したまま二重橋を後にした。 
大高は一面の雪の原が静まりかえっていることに気付いた。

 平成27年の本欄は、文芸春秋の編集長だった堤堯さんが

季刊『マグナカルタ』に、生き残りの1人から
「固い口止め」のうえで打ち明けられた秘話を伝えた。
 あの事件で中橋は、

決起の趣旨を直接、陛下に上奏するため宮城に突入した。
このとき、中橋は大高が同期ゆえに引き金が引けなかったと書いた。
だが、大高手記は中橋が大高らの軍事教官であったことを明らかにしている。

 いずれにしても、これが叛乱軍の決定的な敗北につながった。

 昭和52年、大高は無期禁錮だった常盤を故郷の福岡に訪ねている。

林は処刑前まで
「二・二六は、大高の妨害で成功しなかったと思い込んで死んだ」と聞かされた。
大高は彼の命日に、林家の菩提(ぼだい)寺である麻布・賢崇寺と
多磨霊園を訪ねて、手を合わせてきたと書き記している。(ゆあさ ひろし) 
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二・二六事件について振り返る志水慶朗さん  

産経WEST2015.2.24 20:19更新
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「武力で政治に介入しようとしたのは間違いだった」
二・二六事件で警視庁を占拠した元兵士語る
…あれから79年
陸軍の青年将校が武力クーデターによる政治改革を目指した二・二六事件から26日で
79年となる。当時、歩兵第3連隊第7中隊の一員として警視庁の占拠に加わった
志水慶(よし)朗(ろう)さん(98)は、大雪だったあの日に起きた出来事を
今も克明に記憶している。
「当時は命令に従ったまでだが、事件 は戦争拡大を助長したのではないか」。
戦後70年を経て、志水さんは後悔の念も込めて振り返る。


目的は知らされず
  昭和11年2月26日の明け方。19歳だった志水さんは30センチほども降り積もった
雪の上に腹ばいになり、東京・桜田門にあった警視庁に軽機関銃を向けていた。
間もなく、屋上で兵士が旗を振るのが見え、警視庁を占拠したことを知ったが、
行動の目的は一切知らされなかった。
 そのうち、
「首相や蔵相を射殺した」との伝令の言葉が漏れ伝わってきた。
「ただならぬことが起きているんだという緊張感でいっぱいでした」
この日の未明、約50日前に入隊したばかりの志水さんら初年兵は、
上官から実弾を渡され、歩哨に立つ際に「尊皇」と言えば「討(とう)奸(かん)」 と
答える合言葉を教えられた。
前日の晴天と打って変わり、外は一面銀世界だった。
午前4時すぎ、隊列を組んで麻布の連隊から足跡一つない雪を踏みしめて
警視庁に向かった。
抵抗すれば射殺
 志水さんらは、10日前の2月16日未明にも非常呼集で飛び起き、警視庁に向かった。
「歩3(歩兵第3連隊)と歩1(歩兵第1連隊)が決起して現内閣を打倒する。
第7中隊は警視庁を襲撃する」。
上官からの“想定”とした命令に驚きつつ、突撃の練習をした。
 「後に予行演習だったんだと気付いたが、そのほかにも、当時教えられたことは
入隊前の常識とはかけ離れていた」。
毎日行われる演習や射撃訓練。夕食後の上官による精神教育でも
「高橋(是清)蔵相は悪人だ」などと政権への批判が目立っていた
東京には戒厳令がしかれ、青年将校らによる決起は4日間で終(しゅう)焉(えん)を迎える。
歩哨に立つなどしていた志水さんらの上空から、
「抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する」などと記したビラがまかれた。
上官からは「弱気になるな。だまされるな」と檄が飛ぶが、鎮圧にくる戦車の
重々しい音が周囲に鳴り響いていた。「誰が敵なのか、ここで撃ち合って死ぬのか…」。
若い志水さんらは極度の不安に襲われた。
命令のまま動くのみ
 決起に失敗し、29日に武装解除となった志水さんらは軍の取り調べを受けた後、
満州に派遣され、ミャンマーで終戦を迎えた。
 「後に大事件だったんだと理解したが、当時はただ命令のままに動くのみでした」。
二・二六事件は軍部が政治に関与を強め、その後の戦争に突き進む
大きな契機になったとされる。
入隊後に上官に指導された「軍人勅諭」を、志水さんは今も暗唱する。
「世論に惑わず政治にかかわらず、ただただ一(いち)途(ず)に己が本分の忠節を守り…」。
だが、上官らの行動は、軍人としての本分を記した勅諭とかけ離れていた。
 「国を憂いての行動だったのだろう」。志水さんは上官らの心情を察する一方、こう語る。
「軍人が武力で政治に介入しようとしたのは間違っていた」

二・二六事件 昭 和11年2月26日、約1500人の兵を率いた陸軍皇道派の
青年将校が武力による政治改革を目指して首相官邸など襲撃。
斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺 錠太郎教育総監らを殺害した。
国会議事堂や警視庁などを占拠したが、昭和天皇の奉勅命令が出され、
同月29日に鎮圧。将校ら19人が死刑になった。

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