慰安婦問題について、いろんな報道: 邑楽・清岩寺で日米合同追悼式 平和への思い新た

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2015年3月22日日曜日

邑楽・清岩寺で日米合同追悼式 平和への思い新た

 
グラマン搭乗員鎮魂碑を除幕するマクスウェル・テーラー・ケネディ氏

http://www.asahi.com/articles/ASH3P5T5FH3PUHNB00F.html

産経ニュース2015.3.22 07:09更新 【戦後70年】
邑楽・清岩寺で日米合同追悼式
平和への思い新た
太平洋戦争末期、高島村(現・邑楽町)に墜落した
米軍のB29爆撃機の乗組員を弔う日米合同追悼式が21日、慰霊碑のある
同町秋妻の清岩寺(木崎伸 雄住職)で開かれた。


追悼式では、栃木県足利市に墜落して死亡した米兵3人の鎮魂碑を除幕。
ケネディ元米大統領のおいのマクスウェル・ケネディ氏(50)も駆けつけた。
参列者は戦後70年を迎え、平和への思いを新たにした。
  追悼式には地元住民のほか米軍横田基地(東京都福生市など)の
兵士ら約300人が参加した。
慰霊碑は昭和20年2月10日、太田市にあった中島飛行機太田製作所を狙い
飛来した米軍爆撃機「B29」2機が上空で接触。
高島村に墜落し、乗組員23人全員が死亡した。
乗組員を弔うため、地元住民らが現場近くの清岩寺に慰霊碑を建立。
平成25年3月に初の日米合同の追悼式を開いた。
 2年ぶり2回目の開催となる今年は、慰霊碑の隣に「グラマン搭乗員鎮魂碑」を建立。

昭和20年2月16日、空母バンカーヒルを発進して飛来したグラマンが
太田上空で高射砲に撃たれ、清岩寺近くで、現在の足利市田中町に墜落。
乗組員3人が死亡した。
 式では、ケネディ氏による乗組員3人の名前が刻まれた鎮魂碑の除幕や
国旗掲揚、国歌演奏が行われたのち、日米両国の代表者らがあいさつ。
キリスト教の式典と仏式法要が営まれた。

  22歳のときに特攻隊としてバンカーヒルに零戦で突入した小川清少佐を
大叔父に持つ小川陽子さん(55)=高崎市八幡町=は、
「追悼式に出席させていただ き、ありがたく、感謝の気持ちでいっぱい。
戦争の悲惨さを改めて感じている。鎮魂碑はバンカーヒルの乗組員。
大叔父はバンカーヒルに突入した。縁を感じま す」と話した。
 また、ケネディ氏は「私が今まで参加した合同追悼式の中で、
最も心に響くものであった。合同追悼式は憎しみや恨みを越えた 結晶だ。
70年前に亡くなった兵士に合同での追悼式を伝えたらきっと驚くだろう」とし、
横田基地第374空輸航空団司令官のダグラス・デラマター大佐 (44)は
「追悼式は日本と米国の2国間のつながりの象徴であると感じた」と語った。
中島飛行機(なかじまひこうき)は、1917年から1945年まで存在した日本の
航空機・エンジンメーカー。創業者は元海軍機関将校であった中島知久平
飛行機報国を念じ創設した。
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする
高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、
世界有数の航空機メーカーであった。
太田町(現 群馬県太田市)にあった
太田製作所は現在の富士重工業
群馬製作所本工場であるが、
当時東西600m、南北700m余りの
20万㎡の大工場で、 東側と南側に
鉄道の引込み線があり、また南門から南方向へ約1,000mにある専用飛行場まで、
完成した機体の翼を広げたまま搬送できる通称「専用道路」があった。
・・・ 戦争中の米軍による太田製作所への直接爆撃は1945年2月10日の夕刻で
84機の飛行機から170トン余りの爆弾と焼夷弾が投下され、通常爆弾97発が
工場内に命中し、生産途中にあったキ84(疾風)74機が破壊された。
ハセガワ 1/48 中島 キ84 四式戦闘機 疾風 スケルトンバージョン
このときは従業員は避難できたが、2月16日は朝から終日にわたる波状攻撃で
機銃による掃射もあって多数の死傷者がでて悲惨な状態となった。
更に3回目が2月25日に行われ工場は破壊されない建物は小さなものが
少し残って居る程度に徹底 的に破壊されたのである。
この日投下された爆弾は通算182トン、焼夷弾45トンに上った。
(2)小泉製作所 
 1938年航空機増産の政府方針に応え、太田製作所の
大拡張と陸軍発動機専門工場の武蔵野製作所を建設した。
ところが海軍は之に刺激され、海軍工場の
独立拡充命令を発し、発動機は多摩製作所、
機体は1940年小泉製作所
(現群馬県大泉町:左の写真、現在は東京三洋の工場)
を建設した。小泉製作所は敷地東西に914m(運動場なども併設され 加えると1,200m)、
南北に853mの132万平方メートルの東洋一の大工場といわれた。
主として機体組み立てであったが、板金部品プレスや成形溶接に加え
燃料油圧系統パイプ類も生産した。
なお機械部品は同じに建設した尾島工場(現在の三菱電機群馬工場)から、
また尾翼や胴体の一部は館林の分工場(織物工場を接収)から供給した。
 生産した機種は圧倒的な量産の「零式艦上戦闘機(零戦)」であるが、
また「97式艦攻」、「零式輸送機ダグラスDC-3)」や「2式水戦」、
夜間戦闘機「月光」などを生産した。
その他に空技廠設計の「銀河」や97艦攻の後継機「天山」、高速偵察機「彩雲」等、
1941年から45年までの間に約9,000機の量産をした。
従業員は1940年に55千人から1945年最終的には
何と6万8千人もの人々が働いていた。
1機完成すると、工場の大扉(幅30m、高さ15m以上もある)が開かれ、
その度に君が代と社歌が演奏され従業員みんなで見送る儀式が恒例であった。
(後にスパイに生産能力が知れるといって
軍から中止させられた) 
 設計開発部門も太田製作所から
小泉製作所に移ったのである。
移動してからの開発体制は、
従来の1機種1グループ方式から、
専門グループ方式に変更され、
空力班、重量班、構造班、動力班、降着装置班、
操縦装置班、電装班、兵装班など、
共通機能別体制となった。
また標準化を進めるために統制班が設けられ、効率的な開発を目指した。
中島からは何度も、陸軍機と海軍機の部品の共通標準化を提案したが、
両方のエゴが出て歩み寄ることなく非効率な体制に泣かざるを得なかった。
ここで新たに開発され量産された機体としては「天山」「彩雲」があり、
開発試作の機体としては4発の「連山」、双発局地戦闘機 「天雷」、
双発ジェットエンジンの特殊攻撃機「橘花」などがあげられる。

更新 2 3 【再び空へ-零戦からMRJ(上)後半】
終戦間際、幻の「橘花」に積まれた世界初のバイオジェットエンジン「ネ20
 小泉製作所への空襲は最初は1945年2月25日で太田製作所と同日に
米国海軍艦載機が来襲し、111発の通常爆弾を投下し43発が東半分の建屋を
中心に命中し、組立中の銀河43機に損害がでて、更に治工具に被害が及び
その後の銀河の生産が極めて困難となった。
また死傷者も21名に及ん だ。(右写真は米軍機撮影)
2回目は4月3日の夜間でB29が通常爆弾24発と焼夷弾4発を投下し、
約半数は工場に命中して板金工場が壊滅的損害を受け た。
(3)宇都宮製作所
宇都宮製作所は陸軍機を生産するための機体組み立て工場として1943年に着工し、
操業開始は1944年1月であった。
同年5月にはキ84(疾風) の第1号が完成した。
機械部品は栃木工場、油圧系統部品は太田原市金丸工場などから搬入された。
宇都宮飛行場近くに敷地面積が90万㎡の大工場の計画であったが、
終戦までに完成したのは3分の1程度であった。
従業員は最高26千人を数えたが3割は学生による勤労奉仕で、
終戦までに727機を完成させた。 
宇都宮製作所でも操業が開始されて直ぐに空襲が近いと、疎開の検討が始まり、
疎開先として、城山、栃木、太田原、千松などであったが、中心は城山で、
ここは大矢石の採掘場であって採掘跡の本格的な地下工場で、
計画の一部しか完成しなかったが、胴体や翼の生産が行われた。  1945年7月10日米国海軍による空襲は宇都宮飛行場を主目的にしていたが、
隣接する部品工場にも影響が出て、宇都宮製作所での生産を 困難に陥れた。
また直接の爆撃は敗戦直前の8月13日に艦載機による急降下爆撃に見まわれ
工場の6棟が大破した。(写真は戦後1947年当時の工場と飛行 場である)
 
  
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