慰安婦問題について、いろんな報道: 東京大空襲で追悼法要 秋篠宮ご夫妻・総理、参列し犠牲者追悼 70年の節目、冥福祈る。続・慰安婦騒動を考える、大阪大空襲で焼き殺された遊女たち。 【戦後70年~大空襲】 「マッカーサー通り」はウソだった GHQは都市整備に無関心 宙に浮いた後藤新平の夢….。米軍、地方都市にも容赦なく 防空壕から孫を追い出した祖母の愛  終戦前日にはアジア最大の軍事工場も廃墟に… 。表参道の石灯籠 黒ずんだ台座に爪痕。帝都を襲った「赤い悪魔」 おぶった子の死を気付かぬ母も「町中すべてが真っ白け」

Translate

2015年3月10日火曜日

東京大空襲で追悼法要 秋篠宮ご夫妻・総理、参列し犠牲者追悼 70年の節目、冥福祈る。続・慰安婦騒動を考える、大阪大空襲で焼き殺された遊女たち。 【戦後70年~大空襲】 「マッカーサー通り」はウソだった GHQは都市整備に無関心 宙に浮いた後藤新平の夢….。米軍、地方都市にも容赦なく 防空壕から孫を追い出した祖母の愛  終戦前日にはアジア最大の軍事工場も廃墟に… 。表参道の石灯籠 黒ずんだ台座に爪痕。帝都を襲った「赤い悪魔」 おぶった子の死を気付かぬ母も「町中すべてが真っ白け」



             
東京大空襲から70年 秋篠宮ご夫妻参列し犠牲者追悼(15/03/10) ANNnewsCH
写真・図版
東京大空襲から70年を迎え、「春季慰霊大法要」に参列する安倍晋三首相(左)と
舛添要一都知事(中央)=10日午前9時58分、東京都墨田区の都慰霊堂、代表撮影

東京大空襲で追悼法要 70年の節目、冥福祈る
2015/03/10 11:06   共同通信
太平洋戦争末期に約10万人が命を落としたとされる東京大空襲から
70年の節目となった10日、遺骨が安置されている東京都慰霊堂(墨田区)で
追悼法要が営まれ、遺族らが犠牲者の冥福を祈った。
 東京都慰霊協会の主催で、遺族のほか、安倍晋三首相や舛添要一知事らが参列。
秋篠宮ご夫妻も出席された。
 安倍首相は「過去に謙虚に向き合い、悲惨な戦争の教訓を深く胸に刻みながら、
世界の恒久平和のために、あたう限り貢献する」と述べた。
 1945年3月10日未明、300機を超える米爆撃機B29が大量の焼夷弾を無差別に投下し、
下町を中心に大きな被害が出た。
大阪大空襲
大阪大空襲で焼き殺された遊女たち  
2015/03/09 19:05 Hazama Hisatake 続・慰安婦騒動を考える
新町遊廓の 娼妓と空襲の話。
当事国でもないのに、sex slaveたちは日に何十人とセックスさせられた謝れと
横から説教する人々を見ていると、では、こうして貴方たちが蒸し焼きにした
「性奴隷」たちについてどう思っているのかと訊いてやりたいと思うことがある。
いや、たまにはハッキリ言ってやるべきなのかもしれない。
空襲被害者には、国家賠償も謝罪も行われない
ちなみに、空襲被害者にも「強制性」はあったのである

>「空襲被害者と慰安婦、強制されたのはどっち?

娼妓無念 大阪大空襲65年、花街育ちの男性が語る
2010年3月11日 15年戦争資料 @wiki
昨年3月に開通した都環状2号線「新虎通り」
“マッカーサー道路”とも呼ばれたが、2020年東京五輪・パラリンピックでは、
メーンスタジアムと湾岸部の会場のアクセス道路としても期待されている。
写真後方には虎ノ門ヒルズがそびえ立つ=東京都港区(奈須稔撮影) 

2015.3.9 07:00更新 【戦後70年~大空襲(5)完】
2/6 3/6 4/6 5/6 6/6ページ)
「マッカーサー通り」はウソだった GHQは都市整備に無関心 
宙に浮いた後藤新平の夢…
「パリのシャンゼリゼ通りに匹敵する国際色豊かなプロムナードにしたい!」
 平成26年3月29日、東京都港区の新橋-虎ノ門間1・4キロを結ぶ
「新虎通り」の開通式で都知事の舛添要一は笑顔であいさつした。
  幅40メートルで地下は自動車専用、地上は車道と広い歩道という二重構造。
道路上に超高層の「虎ノ門ヒルズ」(26年6月開業)がそびえ立つ。
すべて開通すれば新橋と臨海地域を直結し、2020(平成32)年の
東京五輪・パラリンピックではメーンスタジアムの
新国立競技場(新宿区霞ケ丘町)と選手村(中央区晴海)などを結ぶ役割を担う。
 この道路こそ、幻の大幹線道路といわれる「環状2号線」の一部である。
当初は幅100メートルの道路が、
外堀通りに代わって新橋-蔵前橋を結ぶ計画だった。
 かつてこの道路はGHQ(連合国軍総司令部)のダグラス・マッカーサー最高司令官に
ちなみ「マッカーサー道路」と呼ばれた。
「マッカーサーが虎ノ門の米国大使館と東京湾の竹芝桟橋を結ぶ道路を計画している」
という噂がまことしやかに流れたからだった。
× × ×   
  だが、これはウソだった。マッカーサーが道路建設を指示したという資料は
一切見つかっていない。
GHQは東京の都市機能強化に興味などなかった。
少なくと も旧ソ連との冷戦が深刻化するまでは、GHQは、日本を
「二度と米国に歯向かうことがない軽工業国」にしようとしか考えていなかったのだ。
しかも昭和23年12月にはGHQ顧問のジョセフ・ドッジが、インフレ抑制に向け
経済安定9原則(ドッジ・ライン)を打ち出し、政府に超緊縮財政を強いた。
これによりインフレこそ収まったが、「ドッジ不況」に突入した。
不況を脱却できたのは、昭和25年に勃発(ぼっぱつ)した
朝鮮戦争の特需がきっかけだった。
× × ×
 大戦末期、20年3月10日の東京大空襲をはじめ100回超の空襲に見舞われた
東京都。35区(現23区)では全面積(5万7280ヘクタール)の3割弱にあたる
1万5840ヘクタールが焼失し、全戸数(約144万戸)の半数近い71万戸が被災した。
 終戦後、政府も、東京都も、焼け野原と化した東京の再生を誓い、
より高機能な首都の青写真を描いた。
これは東京市長などを務めた後藤新平(1857~1929)の夢でもあった。
  大正12年の関東大震災後、内相兼帝都復興院総裁となった後藤は
壮大な復興計画を立案した。
皇居を中心に72メートル幅の放射線状道路と環状道路を巡らす計画だったが、
予算不足で3分の1に縮小されてしまう。
それでも靖国通りや昭和通り、明治通り(環状5号線)などが整備された。
 後藤の当初計画の目玉だった環状2号線は、大戦中の昭和18年に復活した。
空襲に備え、防火帯として建物疎開を行う方針を決定したため、
環状2号線の用地が確保できたからだ。
終戦直後は計画を一気に進める好機だったが、GHQの無関心や
予算不足などにより宙に浮き、環状2号線は「幻の道路」となった。
せっかく確保した道路用地は元の持ち主に返還され、商業地となった。
その後の用地買収は困難を極め、戦後70年を経た今、
ようやく陽の目を見ようとしている。
× × ×   
 20年8月15日。正午の時報の後、ラジオが「重大なる放送」を告げると、
ほどなく昭和天皇の声が流れてきた。
 「もう、空襲はなくなるのか…」
 学徒動員で浜松町に通い、国鉄のキップ作りを行っていた
松崎静江(83)=東京都新宿区在住=は職場の中庭で玉音放送を聞き、こう思った。
だからといってすぐに元の生活に戻れるわけではない。
 米軍の焼夷(しょうい)弾の雨は「花の東京」を焼き尽くした。
かつて父が働いていた銀座の三越も「山の手空襲」(20年5月24、25日)で全焼し、
見る影もなかった。
 それでも人々はたくましかった。
焼け野原にバラックを建て新たな生活を始めた。
政府も企業も復興に動き出した。
× × ×   
 焦土と化した日本をどうやって再生するのか。
 暮れも押し迫った20年12月30日、幣原喜重郎内閣は
「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定した。
  この基本方針は、住宅密集が空襲被害を拡大させたことへの反省を込め、
景観と防災の両立を主眼に置いていた。
具体的には、緑地は市街地面積の10%以上
▽ 市街地外周には緑地帯を設置
▽主要幹線道路の幅員は中小都市は36メートル以上、大都市は50メートル以上
▽必要に応じ50~100メートル幅の並木道を 整備
▽電線は原則として埋設-などが盛り込まれた。
全国で指定された115都市はこの基本方針を元に復興計画を策定し、
焼け野原となった街の復興に動き出した。
名古屋、広島両市は100メートル幅の目抜き道路を完成させ、
今も街のシンボルとなっている。
   × × ×
  東京も、後藤新平の当初計画を拡充させる形で復興計画を策定した。
その柱は、空襲で焼失した地域をさらに広げる形で
計2万100ヘクタールの土地を区画整理し、道路網を再構築することだった。
中でも外堀通り(環状2号線)、昭和通り、第一京浜国道、甲州街道、靖国通り、
八重洲通り、四ツ目通りの計7路線の整備・拡充は目玉施策だった。
これら7路線が街路樹を伴った100メートル幅の大動脈に生まれ変わっていれば、
東京の相貌は大きく変わっていたことだろ う。
 だが、計画はまたもお蔵入りとなった。
区画整理が行われたのは1274ヘクタールと当初計画のわずか6%。
100メートル道路は一本も作られなかった。
都市計画に詳しい北海道大名誉教授の越澤明(62)はこう語る。
 「もし100メートル道路ができていれば、その地下に首都高速道路を作ることもでき、
日本橋の上に首都高速道路を作る必要もなかった。
区画整理が実行されていれば、木造密集市街地はもっと安全で
すてきな街並みになっていたはずだ」
× × ×   
 一方、大阪も復興の「負の遺産」を抱えていた。
終戦前日の8月14日、B29爆撃機の空爆を受け、壊滅した大阪砲兵工廠だ。
戦後、大阪府も政府の基本方針に沿って戦災復興計画を進めたが、
大阪砲兵工廠跡地だけは手を付けられなかった。
投下された1トン爆弾が不発弾として多数残っていたからだ。
  特に北に寝屋川、南に第二寝屋川が流れる北部一帯は砂利が堆積した
軟らかな地盤だったため、信管が壊れていない爆弾まで不発弾として
地中深くにめりこんだ。
これらは何十年経ってもいつ爆発してもおかしくない。
砲兵工廠研究の第一人者で武庫川女子大名誉教授の三宅宏司(70)はこう語る。
 「不発弾は地下10メートル付近からも見つかっている。
これらの不発弾が復興を遅らせたことは否定できない」
 不発弾の爆発を恐れ、砲兵工廠周辺は長く鉄条網で囲われた。
この鉄条網を乗り越え、中に残る鉄材などを盗んで生計を立てる人々もいた。
通称・アパッチ族。作家の小松左京は
彼らを題材にSF小説「日本アパッチ族」を記した。
 そんな砲兵工廠跡地がようやく整備され、その一部に大阪ビジネスパーク
(OBP)がオープンしたのは、終戦から40年以上を経た昭和61年だった。
 OBPの構想段階から関わった設計会社、日建設計(東京)の松本敏広(67)は
昭和40年代初め、跡地に足を踏み入れたときの驚きを今も忘れられない。
「戦争」がそのまま残って残っていたからだ。
 小松左京もOBPの記念誌にこんな文章を寄せた。
《府庁も、大阪城も、放送局も焼け残っていたが、砲兵工廠は、
見渡すかぎり赤茶け、ねじまがった鉄骨の山になっていた》
《あの廃墟の光景からは想像もできない、夢のような高層ビル群が出現した》
 OBPの出現でようやく大阪の「戦後」は終わったともいえる。(敬称略)=おわり
         ◇     
 この連載は中村将、豊吉広英、玉崎栄次、石井那納子、徳永潔、南昇平、
大森貴弘が担当しました。
昭和20(1945)年6月1日の第2回大阪大空襲で、大阪市内を爆撃する
米第21爆撃軍団の戦略爆撃機B29。
写真下には、中之島や大阪城がはっきりと見える(米陸軍航空隊撮影)

2015.3.8 07:00更新 【戦後70年~大空襲(4)】
米軍、地方都市にも容赦なく 防空壕から孫を追い出した祖母の愛 
終戦前日にはアジア最大の軍事工場も廃墟に… 
2/6 3/6 4/6 5/6 6/6ページ)  
「孝輔、出てけ!」
 祖母はこう怒鳴ると、国民学校1年の樋口泰助(76)=孝輔から改名、
福岡市在住=を猛烈な力で防空壕から押し出した。
  昭和20年3月10日の東京大空襲を“成功”させた米軍は
地方都市にも容赦なかった。
6月19日深夜には、わずか30万人の商業都市にすぎない福岡市にも 
B29爆撃機221機が襲来。天神や博多など市街地を挟み撃ちにするように
西と東から焼夷弾を雨のように降らせた。
市内家屋の18%にあたる1万2千戸が 被災し、1千人以上が命を落とした。
 上川端町(現博多区)の旧十五銀行ビル(現博多リバレイン)では
市民63人が命を落とした。
ビルは鉄筋コンクリート造りで避難場所に指定されていたが、
外の熱風はすさまじく室内に山積みされた地下足袋や
軍需用生ゴムが自然発火したのだ。
避難者は必死に 逃げようとしたが、
頑丈な電動シャッターは停電で動かなかったという。
 魚町(現中央区)に住んでいた樋口は、祖母と母、姉、妹2人と
自宅敷地の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。
2畳ほどの狭い壕内で姉や妹は母にしがみつき、樋口は祖母に寄り添った。
町内会長だった父は避難を呼び掛け近所を駆け回っていた。
 まもなく自宅に火が付き、壕内にも煙が充満してきた。
祖母は脳出血の後遺症で体が不自由だった。
母は妊娠中で姉と妹は恐怖に震えて動けなかった。
「息ができない」。そう思った瞬間、祖母が壕外に押し出した。
祖母は「このままでは全員死んでしまう」と思い、樋口だけを逃がそうとしたらしい。
 火の粉を浴びながら道路にはい出すと、
ちょうど父に出くわした。父は樋口を抱き、
空き地にあった大きな防空壕に押し込むと自宅に引き返した。
 だが、父の目には無残な光景が飛び込んできた。
防空壕は焼夷弾の直撃を受けたらしく無残に崩れ落ちていた。
「お母ちゃんたち、ダメやった…」。父は樋口に力なくこう告げた。
 翌朝、父子は壕内から真っ黒になった2つの遺体を掘り出した。
着物の切れ端から母と祖母だと分かった。
2人は炎と煙から守るように姉と妹2人を抱きかかえており、
姉ら3人の顔はきれいなままだった。
 「優しい祖母でした。
いつもおやつの煎り豆を『ばあちゃんの分もやる』とくれた。
最後に見せた厳しさで私を助けたんです…」
 こう語り、樋口は涙をぬぐった。
× × ×   
 あれから70年-。服部寿夫(ひさお)(84)=兵庫県西宮市在住=は
20年6月1日の空襲の記憶をようやく身内以外に話す決心がついた。
妻、恭子(80)にも10年前まで打ち明けなかった父と姉の最期。
淡々とした口調の端々に悲しみがにじみ出た。
14歳だったあの日、
服部が旧制明星商業学校(現・明星中高、大阪市天王寺区)に
登校すると空襲警報が鳴り響いた。
半地下の剣道場へ避難するやいなや校庭は炎に覆われ、
木造校舎の壁も焼夷(しょうい)弾がまき散らしたナパーム剤が
こびり付き燃え上がった。
 火の海を見た生徒らは、校門を飛び出した。
服部は半ば反射的に通学路と逆の左に曲がった。これが生死を分けた。
右に曲がっていたら、火の壁が四方に立ちふさがり、
行き場を失っていたことを後に知った。
 炎上する民家をよけながら必死で逃げた。
学校から2キロほど離れた公園で我に返ると周りは誰もおらず、
煤で真っ黒になった雨に打たれていた。
交差点では警察官がずぶぬれになりながら遺体を整理していた。
 その後、近所の人から家族が大阪城に避難していることを聞き、
急いで向かった。
家族は城内の公衆便所の軒下にいた。
父は顔や手に大火傷を負い、包帯でぐるぐる巻きだった。
 結核を患い、6年も療養生活を続けていた姉=当時(26)=は
大八車に横たわっていたが、服部の無事を知るとまもなく息を引き取った。
末期の水は便所の手洗い場から取り、姉の遺体を斎場に運んだ。
それでも姉を火葬し遺骨を持ち帰ることができただけでも幸いだった。
次の空襲で斎場は焼失してしまい、その後は焼け跡で遺体を野積みして
荼毘に付すようになったからだ。
 「誰のものとも分からない遺骨を抱いて大阪を去る人が多かった。
彼らの悲痛は察するに余りある。思い出すのも辛い…」
 服部らはその後、淡路島に疎開したが、父の火傷は重症で治療のかいなく
9カ月後に息を引き取った。
× × ×   
 3月10日の東京大空襲を機に、軍需工場を狙った精密爆撃から
市街地への無差別爆撃に切り替えた米軍は、
同じ手法で次々に都市部を破壊していく。
 東京大空襲・戦災資料センターのまとめでは、先の大戦で空襲や
艦砲射撃などの攻撃を受けた市町村は831。
広島、長崎の原爆を含めると犠牲者数は41万人超。
その多くが女性や幼児を含む一般人だった。
 商業・工業の中心地だった大阪市域は東京に次ぐターゲットとなった。
米軍は20年3~8月、大阪市域を中心に大規模な空襲を8回実施。
小規模を含めると空襲は約50回もあり、
死者・行方不明は推計1万5千人に上った。
 大阪城も重要な標的だった。城内に陸軍第4師団司令部があり、
東には「アジア最大級の軍事工場」と呼ばれた
陸軍大阪砲兵工廠が広がっていたからだ。
終戦前日の8月14日は朝から晴れ渡っていた。
「今日も暑くなりそうだ…」。
20年6月に19歳で陸軍に入隊したばかりの
藤田義雄(88)=大阪府八尾市在住=は
そう思いながら天守閣で待機していた。
 突然、爆発音と強烈な地響きが体を突き抜けた。
砲兵工廠を狙った1トン爆弾がそれ、天守閣の数メートル横に着弾したのだ。
慌てて毛布で頭を覆った。
 第2波のB29が頭上に見えた。
「爆弾が落ちてくる」と直感し、
伏せると同時にズドーンという爆音と地響きに飲み込まれた。
 上官に地下防空壕への避難を進言したが、
「もはやどこへ行っても同じだ」と動こうとしない。
一人で天守閣から抜け出した藤田は、
コンクリート造りの航空通信庁舎の前に人だかりを見つけた。
建物に逃げ込こもうとする兵隊たちを下士官が怒鳴り上げた。
 「お前たちはここに入ってはならん!」
  藤田は庁舎の裏手で小さな出入り口を見つけた。幸運にもドアは開いた。
中は空襲とは別世界のような静かな大部屋だった。
映画館のようなスクリーンに近畿地 方の地図が映し出され、
赤や青のランプが点滅していた。
敵機の移動や爆弾投下の表示だった。
女子防空通信隊員らが操作する様子を藤田は放心状態で眺めていた。
爆撃がやみ、恐る恐る天守閣の頂上に上ると、
巨大な砲兵工廠は見る影もなかった。
崩れ落ちた建物の鉄骨がぐにゃりと曲がり、
屋根には無数の弾痕が残っていた。
「日本はもう戦いに敗れたんやな…」。藤田はしみじみそう思った。
× × ×   
  米軍は大阪砲兵工廠の爆撃にB29約150機を投入し、
焼夷弾ではなく1トン爆弾843発を投下した。
この爆弾は長さ約180センチ、直径約60センチも あり、
半径150メートル内の人を即死させる破壊力を持つ。
596万平方メートルもあった砲兵工廠は、この爆弾で8割以上が破壊され、
数十メートルのク レーターが無数にできた。
犠牲者は工廠内だけで382人に上った。
 すでに広島、長崎に原爆が投下され、日本の敗戦は秒読み段階だった。
なぜこれほどの爆撃を行ったのか。
そこには「占領前に日本の軍事力・工業生産力を限りなくゼロにしよう」という
米軍の思惑が透けてみえる。(敬称略)
                    空襲で焼けた目黒区上目黒付近
2015.3.7 07:00更新 【戦後70年~大空襲(3)】
2/4ページ3/4ページ4/4ページ
焦土に残された12万人超の戦災孤児 「みんな死んじゃった…」 
疎開先の桜の下で教師と泣いたあの日
昭和19年11月~20年8月まで100回超も続いた米軍による東京空襲は、
家族の絆をも蹂躙した。
空襲で親を失い、独りぼっちとなった孤児たちは
その後も苦難の人生を歩まねばならなかった。
 14歳だった戸田成正(84)=板橋区在住=は
右耳、左脚に空襲で負った火傷の痕が残る。
口元の傷痕には目立たぬよう絆創膏を張っている。
 昭和20年4月13日深夜、陸軍造兵廠や被服廠がある王子区(現北区)など
東京都北部に300機超のB29爆撃機が襲来した。
「城北大空襲」。2459人の死者が出た。
荒川区の京成電鉄新三河島駅近くにあった戸田の自宅も焼け落ちた。
  目の不自由な母と2人で暮らしていた戸田は、空襲警報で飛び起きると、
母の手を引いて大通りに飛び出した。
近くに焼夷弾が落ち、ナパーム剤が親子に降りかかった。
母はあっという間に火だるまになった。
戸田は大火傷を負いながらも担架で運ばれる母に付き添ったが、
途中で意識を失った。
 気付くと病院のベッドの上だった。
看護師たちの会話から母の死を知ったが、
母の遺体がどこに運ばれたかさえも分からなった。
 戸田は孤児になった。母の遺骨は見つからなかった。
「あのとき母を別の方へ誘導していれば、死なせずに済んだかもしれない」。
戸田は今も自責の念にかられることがある。
× × ×
 20年8月15日。戸田は終戦の玉音放送を池袋近くの養育院で聞いた。
感慨はなかった。
勝ったとか負けたとかよりも「これからどう生きていけばよいのか」を考えていた。
養育院は漆喰塗りの建物で他の孤児たちと大部屋で寝起きした。
米粒大のシラミがわき、体中に赤い発疹ができた。
配給は少なく、近くの畑で農家が掘り残したイモなどを食べたりしたが、
空腹は収まらない。
セミを捕って焼いて食べた。漆喰の壁を掘って食べる子供もいた。
 戸田は養育院を飛び出した。
当てもなく上野に行くと地下道に老若男女を問わず、
浮浪生活を送る人がひしめき合っていた。
戸田もここで数日間寝起きした。
人混みに手を差し出すとおにぎりをくれる人もいたが、戸田は悩んだ。
 「おれは何のために生まれてきたんだ。戦災に遭うためなのか?」
× × ×
 戦後に厚生省(現厚生労働省)が行った調査によると、昭和23年の時点で
孤児は全国に計12万3511人いた。
このうち10万7108人が親族らに引き取られたが、7117人は身寄りもなく、
一時浮浪児となった。
 戸田は地下道で浮浪生活をしながら、下町の路地裏を当てもなく歩いていると、
どこからか味噌汁の香りが漂ってきた。たまらなく母が恋しくなった。
 戸田は、別居していた父と兄が徳島県にいることを知り、手紙を書き、身を寄せた。
だが、2年ほど後には食糧事情を理由に茨城県の親類に引き取られ、そ
の後、再び上京して鉄工所で働いた。
 その後、戸田は結婚し、2人の子供を育てた。孫も5人いる。
ただ、平成9年に妻に先立たれ、今はアパートの一室で1人で暮らしている。
 「今まで生きてこられたのは家族ができたからだ。
女房は夫として、子供たちは親として自分をみてくれた。
でも今でもサイレンを聞くと空襲を思いだし、不安な気持ちになるんだよ」
西山秀子(80)=仮名、東京都在住=は自らの戸籍謄本を大切そうに取り出した。
 《親権者なし》
 そう記されていた。
 西山は昭和20年3月10日の東京大空襲で孤児となった。
 父は浅草区(現台東区)で銅版職人をしていた。軍の地図制作に携わっており、
東京を離れることができなかったので、西山一人だけが東京から140キロ離れた
長野県東部の境村(現富士見町)に学童疎開した。
まだ10歳。国民学校の4年生だった。
 「秀子、元気か。
お水を飲むときは、おなかを壊さないように口に含んで3回噛んで飲めよ」
 子煩悩の父からは3日に1度、絵はがきが届いた。
隅田川に咲いた桜の花、遊んでいる弟たち-。
父の挿絵を見て同級生は
「ひでちゃんのお父さんは絵が上手ね」とうらやましがった。
少し誇らしかった。
 だが、3月10日を境に父からの便りは途絶えた。
× × ×
  5月初旬、長野に遅い春が来た。西山は担任の若い女性教師に連れられ、
同級生数人とともに満開となった桜の下を歩いた。
教諭に花を摘むように言われたので、
野花を摘んで差し出すと、教師は泣きながら、西山をきつく抱きしめた。
そして西山の家族全員が東京大空襲の犠牲になったことを告げた。
 「でも秀子ちゃんは絶対に幸せになるからね」
 ほかの数人の同級生も同じ境遇だった。
互いに抱き寄せ合い、輪になって泣いた。
 8月15日。戦争が終わった。
同級生の多くは家族が迎えに来て、一緒に帰っていった。
西山は近くの駅に毎日通い、家族を待ち続けたが、
秋になっても誰も来なかった。
何となく他人事のように感じていた家族の死が、重い現実となった。
「やっぱりお父さんも、お母さんも、みんな死んじゃったんだ…」
× × ×
 昭和23年時点で12万3511人とされる戦争孤児たち。
旧厚生省の調査によると、
このうち5万7731人は学童疎開の対象となった年齢だった。
正確には分からないが、西山のように
疎開中に両親を失った子供たちは少なくなかった。
 孤児となった西山は親族に引き取られた。
その家には別の親族も疎開しており、13人が暮らしていた。
親族は冷ややかで食べ物はほとんど与えられず、
水だけを飲んで1週間過ごしたこともあった。
大切にしていた父の手紙は「そんなことは早く忘れなさい」と焼かれてしまった。
 西山はみるみる骨と皮だけのようにやせこけていった。
1年後、唯一世話をしてくれた叔母の結婚が決まり、西山は行き場を失った。
× × ×
 そんな西山を引き取ってくれたのは、国民学校の同級生の姉夫婦だった。
夫婦には子供がなく西山は養女となった。
 西山は栄養失調から固形物が食べられなくなっていた。
元衛生兵だった養父は、戦地から持ち帰った固形のブドウ糖をナイフで
細かく砕き根気強く口に含ませてくれた。
「甘い、飴みたい…」。西山はその味を今も覚えている。
 亡くなった実父の口癖は「体、大事にしろな」だった。
西山の中で養父と実父の姿が重なっていった。
養母は毎日、西山の髪を櫛でとかしてくれた。実母と同じだった。
 数カ月後、養父母を「お父さん、お母さん」と呼んだ。
養父母は「ようやく呼んでくれた」と涙を流してくれた。
 西山は養父母に高校にも行かせてもらい、
公務員の夫と結婚し、子や孫にも恵まれた。
 「私は本当に幸せでした。天国の両親がずっと見守ってくれたのかもしれません」
 西山はそう言って笑みを浮かべたが、ふと悲しげな表情に変わった。
 「私だけ恵まれて申し訳ないんです。
それに戦後70年経っても、いくつになっても、
やっぱり本当の親に会いたい。家族の遺骨は見つからないまま。
私にとって戦争は終わっていないんです」(敬称略)
若者でにぎわう東京・表参道。昭和20年5月の「山の手大空襲」では、
2基の石灯ろうのそばに焼死体が積み重なった=港区南青山(奈須稔撮影) 

2015.3.7 07:00更新 【戦後70年~大空襲(3)】
表参道の石灯籠 黒ずんだ台座に爪痕

高級ブティックが並び、夜もきらびやかな東京・表参道の交差点。
そのシンボルである2基の石灯籠は、若者らの待ち合わせ場所としてにぎわうが、
その黒ずんだ台座は米軍による空襲の爪痕を今に残す。
 昭和20年5月24、25日の「山の手空襲」では
2日間で約1000機のB29爆撃機が来襲し、
新宿、渋谷一帯に6903トンの焼夷弾を投下、4000人以上が亡くなった。
大正9年の明治神宮創建時に建立された石灯籠も炎に包まれ、
周囲は遺体で埋め尽くされた。撮影=奈須稔
東京大空襲で焦土と化した市街地。日本橋上空から隅田川方面をのぞむ (米軍撮影) 
【閲覧注意】東京大空襲の写真が凄まじい件 shouyuou

産経ニュース2015.3.6 07:00更新  
2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
【戦後70年~大空襲(2)】
帝都を襲った「赤い悪魔」 
おぶった子の死を気付かぬ母も「町中すべてが真っ白け」
昭和20年3月9日。東京の下町には冷たい強風が吹き荒れていた。
翌3月10日は陸軍記念日。
巷では、この日を狙って米軍が大規模な空襲を仕掛けてくるのではないかという
うわさが流れていた。
 このところ見かけることが減っていた子供の姿も、この日はやけに目立った。

 国民学校の児童の多くは、学童疎開で地方生活を余儀なくされていたが、
6年生は母校での卒業式に出席するため、自宅に戻っていたのだ。
  9日午後10時半、警戒警報が発令されたが、ほどなく解除された。
東京都浅草区(現台東区)でプレス工場を営む父とともに暮らす相原孝次(85)
=神奈川 県箱根町在住、当時15歳=は、多くの都民と同様に、
いつでも避難できるよう靴下を履いてゲートルを巻き、
枕元に鉄カブトや防空頭巾を置き、眠りについ た。
 「空襲警報だ!」
 10日午前0時15分。相原は父の鋭い声にすぐさま飛び起きた。
米軍のB29爆撃機が最初に深川区(現江東区)木場の一角に
焼夷弾を投下したのは午前0時8分。
空襲警報が発令されたのはその7分後だった。
すでに複数の地域で火の手が上がっていた。
相原が住む浅草区にも焼夷弾が降り注いだ。
焼夷弾は地上に落下すると青白い閃光を発し、シューシューと燃え広がった。
 ふと気付くと隣町から「タケシ、タケシ!」と子供の名を呼ぶ女性の悲鳴が、
途切れ途切れに聞こえてきた。
声が聞こえる方角をみると、民家の2階の窓から猛烈な炎が噴き出していた。
もう手の施しようがなかった。
 激しさを増す焼夷弾の雨。相原は自転車に葛籠(つづら)を付け、父とともに、
千葉の親族の元に行こうと逃げ回ったが、途中で炎の壁に囲まれた。
 「この炎を突き抜けるしかない。倒れたら終わりだ…」。
相原は意を決して、父とともに目をつぶって炎の中を駆け抜けた。
首尾よく炎をすり抜けることはできたが、閉じていた目がなかなか開かない。
炎でまつげが焦げ、互いに絡み合っていたのだ。
 途中で強風にあおられて飛んできた何かの塊が左顔面に直撃した。
それがもとで数年後に左目の視力を失った。
だが、その時は命が助かったことがうれしくて親子で抱き合った。
 ようやく火の手が上がっていない場所までたどりついた。
ふと振り返ると、両国の方で高さ数十メートルはあろうかという火柱が
何本も立ち上っていた。
帝都を襲った「赤い悪魔」 おぶった子の死を気付かぬ母も 「町中すべてが真っ白け」

上空を見上げると、低空を悠々と飛ぶB29の群れ。
銀色のジュラルミンをむき出しにした機体は地上で燃えさかる炎を照り返し、
真っ赤に染まっていた。その真っ赤な腹が開くと焼夷弾が無数にばらまかれ、
さらに大きな炎を作り上げた。
 相原の脳裏にはなお、あの光景が焼き付いている。
 「あれは赤い悪魔だ…」
× × ×   
 東京大空襲があった昭和20年3月10日未明、5歳になったばかりだった
立川国紀(75)=千葉市緑区在住=は、空襲が始まると、
8歳の姉や、3歳、1歳半の妹とともに、母に手を引かれ、
東京都深川区(現江東区)の自宅を飛び出した。
 焼夷弾は至る所で猛火を起こし、火の粉をまき散らした。
熱気で体中から汗が一斉に噴き出した。
逃げまどう多くの人が火の粉をかぶり、互いに消しあった。
 母子が向かったのは、関東大震災の際も多数の人が逃げ込んだ
清澄庭園(江東区清澄)だった。
すでに人であふれかえり、押し潰された人もいた。
立川も転んでしまって見知らぬ人に踏みつけられ、母と姉に助けられた。
庭園の中に走り込み、そのままバタリと倒れ死んでしまった人がいた。
全身に大やけどを負い、髪の毛も焼けていた。
体形から男性だろうと思ったが、よく分からない。
若い女性が小さな赤ん坊を抱いたまま「お父ちゃんが死んじゃった」と泣いていた。
× × ×   
 昭和20年3月10日の東京大空襲で米軍B29爆撃機が主に投下したのは
「M69油脂焼夷弾」だった。
  六角柱の焼夷弾(直径7・6センチ、長さ50・8センチ)には、
ナフサ(粗製ガソリン)と薬品を混ぜたナパーム剤が注入されており、
着地と同時に引火する。
すると1300度で燃え上がり、30メートル四方に火炎を飛散させる。
この焼夷弾計38発が集束型爆弾内に収められ、
投下後数秒で散解する仕組みだっ た。
 3月10日の大空襲を米軍は「ミーティングハウス2号作戦」と名付け、
M69焼夷弾をB29に1機平均で6・6トン積み込み、計325機が出撃し、
東京に計1600トンを投下した。
目標は深川区、本所区(現墨田区)、
浅草区(現台東区)、日本橋区(現中央区)など。
城東区(現江東区)、芝区(現港区)なども爆撃され、
東京35区の3分の1以上の41平方キロメートルが焼失した。
 被災家屋は26万超、罹災者は100万人超、
死者数は推計10万人を超えた。
多くは猛火に巻き込まれて死亡したが、焼夷弾の直撃を受けた人もいた。
猛火を逃れても酸欠や一酸化炭素中毒で命を落とす人も少なくなかった。
× × ×   
 B29の機影が去り、空襲警報が解除されたのは10日午前2時37分。
2時間以上の無差別爆撃はいったん幕を閉じたが、その惨状が分かったのは
夜が明けてからだった。
 上野動物園の裏手にあった防空壕に逃げ込み、一命をとりとめた
平井道信(79)=群馬県板倉町在住=は、
夜が明けて防空壕から出たときの光景が忘れられない。
 上野の山の西郷隆盛の銅像下から周囲を見渡すと、残っているのは
上野松坂屋デパートや浅草松屋デパートの建物ぐらい。
その他は全て焼き尽くされていた。
人の気配や生活音は感じられない。平井はそこはかとない恐怖を感じた。
「キラキラと光るものが見える!」
 深川の方を眺めていた友人が唐突に声を上げた。
それまで建物で遮られ、見えなかった東京湾だった。
× × ×   
 「町中すべてが真っ白けなんです。
どこもかしこも人がゴロゴロと死んでいました」
 大森区(現大田区)に嫁いでいた
玉生うめ子(97)=横浜市保土ケ谷区在住=は、
深川区の実家にいた母と弟の消息を尋ねて隅田川を渡り、惨状に目を覆った。
 国民学校に多数逃げた人がいると聞き、そこに向かった。
校門左手にあったプールには肌が焼けただれた人が
ぎっしりと水中に入っていた。
誰もが煤(すす)で真っ黒で目だけがギラギラと光っていた。
 講堂で横たわっている母を見つけた。大やけどを負っていたが、無事だった。
母はこう語った。
 「橋の近くの公衆便所に逃げ込もうとしたけれど満杯で入れず、
橋桁の下に隠れたのよ。
公衆便所は焼け、そこに逃げた人はみんな死んでしまった…」
千葉県市川市に住んでいた堀越美恵子(80)=埼玉県羽生市在住=は
東京方面で焼け出され、橋を渡ってくる人々の行列を見て驚いた。
誰もが髪が焼け、やけどを負った肌をさらしていた。
背負った子供が亡くなったことに気付いていない母親もいた。
 「子供の体が残っていればまだいい方。
中には首や腕、足がなくなった子供を背負っている母親もいました。
誰もが放心状態で目はうつろ。その様子は、地獄絵図でした」(敬称略)
東京都慰霊堂の納骨堂に納められた東京大空襲で犠牲になった人たちの遺骨。
度重なる空襲で、身元不明のもの、引き取り手のないもの
計10万5000人が納められている=2月16日、東京都墨田区(松本健吾撮影)
 
更新 【戦後70年~大空襲(2)】
東京都慰霊堂 ともに眠る東京大空襲の犠牲者 
東京都慰霊堂(東京都墨田区)には、昭和20年3月10日の東京大空襲の
犠牲者の遺骨が納められている。普段立ち入ることはできないが、
毎年3月10日と関東大震災が起きた9月1日に法要が営まれる。
 大空襲直後、多くの遺体は火葬されず、公園などに仮埋葬された。
終戦後の昭和23~26年に掘り起こして荼毘に付し、
関東大震災の犠牲者の遺骨を納めた都慰霊堂に一緒に納めた。
撮影=松本健吾

2015.3.5 07:00更新 2/3 3/3ページ)
【戦後70年~大空襲(1)】
なぜ米軍は東京大空襲を機に無差別爆撃に踏み切ったのか? 
先の大戦中の首都・東京への空襲は100回を超えるが、昭和20年3月10日の
「東京大空襲」を機に、
米軍は、一般市民をターゲットにした無差別爆撃に舵を切った。
なぜ米軍は戦術を転換したのか-。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/General_of_the_Air_Force_Hap_Arnold.png
   20年1月20日、後に「米空軍の父」と言われる米陸軍航空軍司令官の
ヘンリー・アーノルド大将(後に空軍元帥)は、爆撃で成果を上げられない日本空爆の
 指揮官、ヘイウッド・ハンセル准将を更迭し、欧州戦線などの爆撃で成果を上げた
カーチス・ルメイ少将(後に空軍大将)を任命した。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Curtis_LeMay_(USAF).jpg
ルメイ氏は、それまでの軍需工場への精密爆撃をやめ、
一般市民を多数巻き込む無差別都市爆撃を計画した。
ルメイ氏は戦後、自著で無差別爆撃を
「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」と正当化している。
  さらにルメイ氏は、高度1万メートル近い高高度昼間爆撃から
2千メートル前後の低空夜間爆撃に切り替えた。
爆弾搭載量を増やすため機銃の大半は取り外させ た。
3月の時点で護衛戦闘機はなく、もし敵戦闘機に襲われても反撃のすべはない。
B29搭乗員の多くは「死の宣告」と受け止めたという。
ただ、無差別爆撃の責任をルメイ氏一人に押しつけるのは酷だろう。
 背景には、すでに日本陸海軍の組織的反撃は困難となり、
米軍が日本本土上陸を想定するようになったことがある。
無差別爆撃により日本の厭戦気分を高めるとともに、
都市部を壊滅させることで速やかに占領しようと考えたようだ。
根底には米陸海軍、そして陸軍から独立を企てる陸軍航空軍(後に空軍)の
主導権争いもあったとされる。
 防衛大学校の源田孝教授(軍事史)は「当時ルメイ氏は少将にすぎない。
爆撃は全てアーノルド大将の命令で実行された。
ルメイ氏は組織人として上官の期待に忠実に応えただけだ。
無差別 爆撃への転換には『米兵の死傷者を少なくしたい』という
米政府の思惑がからんでいた。
日本への原爆投下の正当化と同じ論理が見てとれる」と語る。
 その証拠に米国は1943(昭和18)年、
ユタ州の砂漠に日本の木造長屋を再現し、焼夷弾による燃焼実験を行っている。
やはり無差別爆撃は「米国の意思」だったとみるべきだろう。
 「わが国政府並びに国民は、非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、
これら卑劣きわまる戦争行為を全力をもって糾弾する」
これはフランクリン・ルーズベルト米大統領が、39(昭和14)年に
ソ連軍がフィンランドに無差別爆撃を行った際、発表した声明だ。
ルーズベルト氏 は東京大空襲直後の45(昭和20)年4月12日に死去したが、
日本全国で繰り広げられた無差別爆撃、そして広島、長崎への原爆投下を
どう抗弁するつもり だったのだろうか。(玉嵜栄次)
P51を前に同僚と話す戦時中のジェリー・イエレン氏(右)
=1945年6月1日、硫黄島(イエレン氏提供)
 
2015.3.5 07:00更新 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7ページ)
【戦後70年~大空襲(1)】
米軍元パイロットが見た空襲「マッチのように燃え広がり…」 
「運命の出会い」で憎悪はやがて友情に
小さなオレンジ色の炎が見えた。まるで火のついたマッチ棒を落としたようだった。
地上に落ちた炎は所々で光り、次第に大きく広がり、火の海となった。
 上空に立ちこめた灰色の煙はだんだんと真っ黒になり、地上の様子は見えなくなった。
コックピット内にも煙が漏れ入ってきた。何とも言えぬ、ひどい臭いだった-。
 これは、元米陸軍第78戦闘機飛行中隊の戦闘機P51マスタングのパイロット、
米軍元パイロットが見た空襲「マッチのように燃え広がり…」 「運命の出会い」で憎悪はやがて友情に
ジェリー・イエリン(91)=アイオワ州在住=が、
高度2万2千フィート(6706メートル)から見下ろした東京空襲の光景だ。
今も脳裏に焼き付いているという。
× × ×   
 昭和20(1945)年3月9日午後7時すぎ(現地時間)。
「超空の要塞」といわれた米軍のB29爆撃機325機が、グアムやサイパンなど
マリアナ諸島の飛行場を次々に飛び立った。
 目標は2300キロ先の首都・東京。10日午前0時8分、先導のB29が
爆弾庫の扉を開け、6・6トンの焼夷弾をバラバラと投下した。
 空襲は2時間あまり続いた。投下された焼夷弾は約1600トン。
地上は地獄絵図となり、死者は推計10万人超、被災家屋は26万超、
罹災者は100万人を超えた。
日本軍からマリアナ諸島を奪った米軍が、東京への空襲を開始したのは
昭和19年11月24日だが、20年3月10日の空襲は、それまでの
三十数回の空襲とは比較にならぬほど規模も被害も甚大だった。
 その後も空襲は終戦の日の8月15日まで続き、その総数は100回超。
東京のほぼ全域が焦土と化した。
現在「東京大空襲」と言うと3月10日の空襲を指す。
イエリンは3月10日の大空襲には参加していない。
米軍は3月中旬、栗林忠道大将率いる日本軍守備隊と激しい戦闘の末、
硫黄島(東京都小笠原村)を 奪うと、即座にP51戦闘機部隊を進出させた。
東京などへ空爆に向かうB29の護衛が主な任務でイエリンもその一人だった。
初めて東京空襲に参加したのは 4月7日だった。
 B29の搭乗員にとって最大の脅威は日本の零戦だった。
撃墜されるなどした未帰還機は累計で200機に上るとされる。
 ただ、大戦初期に「無敵」とされた零戦も、強力なエンジンを搭載し、
高い巡航性能と機動性を誇るP51には及ばなかった。
イエリンらP51部隊は、B29を常にエスコートし、空爆中はB29より上空から
零戦の動きを見張っていた。
   × × ×
 昭和16(1941)年12月8日(現地7日)、ハワイのパールハーバー(真珠湾)が
日本海軍の奇襲攻撃を受け、日米が開戦すると、イエリンは
「祖国を攻撃したジャップをやっつける」とすぐに陸軍に志願し、
戦闘機のパイロットとなった。
 「日本は敵国だった。
日本軍の飛行機を撃ち落とすことがわれわれの任務であり、
それを遂行したことに今でも誇りを持っている」
「日本上空は19回飛んだ。東京が燃えているのを見て
『敵を破壊しているのだ』と思った。
われわれはただ任務を遂行し、そして勝った…」
 「ゼロ(零戦)とも6、7回戦った。
ゼロは高速飛行すると右旋回に難があることを私たちは知っていた。
燃料タンクの防備もなかった。私はゼロを少なくとも3機を撃墜した」
 こう語るイエリンは、終戦後、21歳で祖国に帰還した。
空中戦の成果をたたえられ、「殊勲飛行十字章」を授与された。
 だが、その後30年間、
イエリンは心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされた。
日本との戦争で16人の友人を失い、自分が生き残った自責の念もあった。
戦地での凄(せい)惨(さん)な光景もたびたびフラッシュバックした。
日本や戦争への憎悪は戦後も続いた。
 ところが、互いに憎しみあい、破壊しあった敵国日本を「大切だ」と
思わずにはいられない出会いが期せずして訪れた。
 「運命だ…」
 イエリンはこうつぶやいた。
× × ×   
  昭和58(1983)年10月、イエリンは戦後初めて日本を訪れた。
日米両国民にとって先の大戦はすでに過去のこととなっていたが、
イエリンは気が進まな かった。
仕事の関係での招待で断りにくかった上、妻が日本の文化や自然に
興味があったこともあり、渋々訪れたのだった。
東京・銀座で何げなく上空を眺めた瞬間、イエリンの脳裏に「あの日」がよみがえった。
 「空を見た瞬間、B29が爆弾を落とすイメージが広がり、
自分に落とされているような気がした。その場にいることができなかった…」
 空襲の記憶を遠ざけるようにイエリンは都心を離れて、金沢市の兼六園などを旅行した。
その美しさはそれまでの日本のイメージを覆した。
 その後、四男の大学卒業旅行に日本でのホームステイをプレゼントするなど
日本とのつながりは深まった。
しかもその四男は日本人女性と結婚することになったのだ。
× × ×   
 息子の結婚相手の父親、山川太郎(故人)は
「よりによって敵国だった米国人と結婚するとは」と結婚に難色を示したが、
イエリンがP51のパイロットだったことを知ると態度が急に変わった。
  実は山川も戦闘機のパイロットになることを目指し、
大刀洗陸軍飛行学校(福岡県)に入学した経歴の持ち主だったからだ。
イエリンによると、山川が戦闘機を操縦したのは3時間で、
上層部の方針で補給中隊に配属されたそうだが、
同じ「飛行機乗り」として相通じるものがあったようだ。
四男の結婚後、山川は、イエリンにこんな手記を送った。
 《空を見上げて敵機の姿を目にとめる度に、
私は自分の置かれている状況を無念に思った。
私は愛国者だったので、わが祖国の敵はわが敵にほかならなかった。
私はアメリカ兵を殺したかった。
太平洋の島々でわが帝国陸海軍を打ち破っている彼らはわが祖国を
屈辱にまみれさせているのだ》(イエリンの著書「戦争と結婚」から)
 かつて敵同士だったが、根っこに流れる祖国への思いは同じだった。
昭和63(1988)年には、静岡・下田温泉で一緒に湯船に入り、こう語り合った。
 イエリン 「私たちは真実を知っている。戦争はひどく、恐ろしいものだ。
孫たちがそんな経験をしないで済むことを望むばかりです」
 山川 「私たちは同じ時代に生きたのですが、お互い敵国の人間だった。
でも人間同士の間には何の違いもないということが分かりました」
 山川は「後悔しているのは、敵に対して弾一つ撃たなかったこと。
そして天皇陛下のために命を投げ出すことができなかったことです」とも語った。
この言葉にイエリンは感動し、山川を尊敬するようになった。
山川は数年前に他界したが、
イエリンは山川との出会いを「運命だ」と感じている。
 「日本は自分にとってもとても大切だ…」 
× × ×   
  イエリンは91歳の誕生日を迎えた2月15日、
カリフォルニア州サンディエゴにいた。
メキシコと国境を接する観光都市だが、海兵隊や海軍の基地が点在する
 「基地の街」としても知られる。
ダウンタウンにほど近い港には、先の大戦中に建造された
米空母「ミッドウェー」が係留され、博物館となっている。
 イエリンは戦後70年を迎える今夏、どのようなイベントを実施するかを
話し合う会議に出席した。
退役軍人団体や戦争関連の博物館、コミュニティー団体など全米から
約100組織が集まり、情報交換しながら、
協力や連携を模索するのが目的だった。
 先の大戦で軍に入隊した米国人は約1600万人に上るが、
日本と同じく高齢化が進み、毎月5万~7万人が死亡している。
「先の大戦の記憶をどう語り継いでいくか」は会議の大きなテーマだった。
イエリンはこう語った。
 「戦争は国のために戦い、互いの敵を殺すことだ。私たちはそれをやった。
勝者がいれば、敗者もいる。
日本は過去の罪悪感を持ち続けなくてもよい。
私には日本人の孫がいる。
彼らには双方の祖父がやったことを誇りに思ってほしい…」
(敬称略)
【戦後70年】忠誠登録書に「ノー」で収容所暮らし…日系2世が見た戦中・戦後の証言 羽田空港で展示
【戦後70年】インド国民軍創設の背景に日本の第五列組織「KAME」
【戦後70年】マレー作戦「日本、完璧な諜報」 英秘密文書「最悪の降伏」分析

2015年1月12日月曜日
【阿比留瑠比の視線】 米国の傲慢な歴史修正 戦勝国は全てを正当化、 敗戦国は我慢…もつわけがない

0 件のコメント:

コメントを投稿