慰安婦問題について、いろんな報道: 【歴史戦】第10部・終わらぬプロパガンダ(4)、信頼性乏しい残忍写真 「南京記念館」 プロパガンダ展示“ 中国主張に異を唱えるのはみな右翼”。(3)日本兵証言掲載に「反動!」取材拒む「南京記念館」、過去には日本人記者が参観者から殴る蹴るの暴行被害も。(2)「大隊長注意 略奪、惨殺禁ズ」従軍手帳メモから浮かぶ「日本軍の規律」 …遺族無念「なぜ検証せぬ」。(1)南京攻略戦「日記」生々しく 兵の記述に「大虐殺」片鱗なし。

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2015年4月21日火曜日

【歴史戦】第10部・終わらぬプロパガンダ(4)、信頼性乏しい残忍写真 「南京記念館」 プロパガンダ展示“ 中国主張に異を唱えるのはみな右翼”。(3)日本兵証言掲載に「反動!」取材拒む「南京記念館」、過去には日本人記者が参観者から殴る蹴るの暴行被害も。(2)「大隊長注意 略奪、惨殺禁ズ」従軍手帳メモから浮かぶ「日本軍の規律」 …遺族無念「なぜ検証せぬ」。(1)南京攻略戦「日記」生々しく 兵の記述に「大虐殺」片鱗なし。


元海寿一さんが、日中戦争時に中国から持ち帰った
南京城内ロータリーの写真(元海寿祐さん提供)
日中戦争に参加した下垣貞信さんの手帳
江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」の正面広場で
昨年12月13日の国家級追悼式典に習近平国家主席が除幕式を行った
「国家公祭鼎」を見る参観者ら。
記念館の壁面などに中国が主張する
被害者数「300000」が随所にみられる=2015年3月  

産経ニュース【歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(4)】
2015.4.21 07:00更新  
2/3 3/3ページ)【歴史戦
信頼性乏しい残忍写真
「南京記念館」
プロパガンダ展示“
中国主張に異を唱えるのはみな右翼”
 「南京大虐殺記念館」には看過できない展示も少なくない。
中国が「南京大虐殺」の証拠として掲げる数々の展示のうち、
例えば、「日本兵」とされる人物が、ひざまずいて後ろ手に縛られた
中国人とみられる男の首を刀で斬ろうと構えている「斬首前」の写真。
 この写真では、人物によって影の方向が一致しなかったり、
後ろにいる兵士の靴の向きが不自然だったりして、専門家の間で
「証拠写真」として信頼性に疑問符がついている。
 高さ2メートル近い大型写真パネルに中国語で「殺中国人取楽」とあり、
横に日本語で「楽しみとして中国人を殺す」と書かれている。
 全館を通じ、案内板は中国語、英語のほか、あえて日本語を加え、
日本人の訪問者も意識した演出がなされている。
 意図的トリミング
 向井敏明と野田毅の両少尉が競ったという
百人斬り」の新聞記事も大型パネルに引き伸ばされて展示されている。
 さらに「南京の老人が空襲で被害を受けた子供を抱えている」
と説明された2メートルほどの高さの写真。
これは昭和13(1938)年に米ライフ誌に掲載された横長の写真から
左右の人物を排除して、中央の老人と子供だけを
大きく引き伸ばしたパネルだ。
元の写真では老人のすぐ右側を中国人の男と少女が普通に歩いており、
左側には中国兵とみられる男があわてる様子もなく、
腕組みをしながら老人をみている。
 あえてトリミングし、センセーショナルに見える部分だけを利用して、
意図的な説明を加えてパネルにした可能性もある
 そうしてみれば、中国側が
「日本軍による非道な中国人虐殺行為の鉄証(動かぬ証拠)だ」
と主張する写真の展示も、 どこまでが日本と関係があり、
どこからが無関係なのか、容易には証明できそうもない。
「さらし首」や「暴行され乱暴された中国人女性」「幼児の死体」など
記念館の展示内容は凄惨(せいさん)を極める。
 また、「日本軍は残虐な暴行を隠すために
死体にガソリンをかけて焼き払ったり、船で揚子江の真ん中まで運び、
川の中に放り込んだりして、10万体あまりの死体を処分した」
などとの説明で、川岸に打ち寄せられた
多数の死体の写真なども大きく展示している。
 日中関係筋は、「中国側は正しく検証されていなくとも、
いずれの展示写真も疑う余地がない、
覆せないとする“観念先行”の状態に陥っている」と話す。
 日本に非難の矛先
 こうした残忍な写真の連続で参観者の感情に訴えた後、
昭和12(1937)年当時、南京に在住していた欧米人らが
急遽(きゅうきょ)設置した「南京安全区国際委員会」を
紹介する大きなスペースが広がる。
 難民収容所で9000人あまりの中国人女性や子供を保護したという
米国人女性宣教師ボートリンが、日本軍に立ち向かっている姿の
銅像には「母親の鳥が小鳥やヒヨコを守ろうと羽を広げた」
と説明がつけられている。
米国人牧師や独大手企業シーメンス駐在員らの銅像も並ぶ。
 欧米人が一致団結して日本軍から「安全区」で救った中国人の数は
20万人にものぼったとしている。
あえてドイツも加えることで、非難の矛先を
日本にのみ向けているのかもしれない。
 「南京大虐殺記念館」とは別に、南京市内には
「南京抗日航空烈士記念館」もある。
そこには慰霊碑があり、「抗日戦 時に蘇(ソ連)、美(米国)、
韓(韓国)などの国の多数のパイロットや高射砲兵らが、
中国空軍とともに空からも侵略した日本と戦って犠牲になった」
と説明 してある。
当時、存在しなかった「韓国」を加えるなど、
中韓連携をアピールするねらいも透けて見える。
 「南京大虐殺記念館」の展示に戻るが、安全区の先に、
日本で聞き取り調査を行ったという
「南京加害者の元日本軍兵士の告白」コーナーがあり、
さらに「史学研究」を行った功労者として、サングラスをかけた
元朝日新聞記者、本多勝一の写真も登場する。
 「日本人自らがすべてを認めた南京事件」との強い印象を参観者に与え、
中国側の主張にわずかでも異論を唱える相手はみな
「右翼」と決めつける構図に仕立て上げている。(敬称略)
                 江蘇省南京市内の南京大虐殺記念館

歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(3)】
2015.4.20 07:00更新 2/5 3/5 4/5 5/5ページ)
日本兵証言掲載に「反動!」 取材拒む「南京記念館」 
過去には日本人記者が参観者から殴る蹴るの暴行被害も
「右翼媒体からの取材は受け付けません」
 江蘇省南京市にある「南京大虐殺記念館」に取材を何度も申し込んだところ、
担当者は最後に電話口でこう言って拒絶した。
 それもそのはずだ。
インターネットで記念館の公式サイトを開くと、
「南京各界は日本の右翼メディアが大虐殺を否定したことに抗議」
との2月28日配信の国営新華社通信の記事が掲載され、
「産経新聞」が名指しされているのだ。
 本紙が2月に掲載した「歴史戦第9部・兵士たちの証言」を指した内容だ。

新華社電は記念館の館長・朱成山のコメントで締めくくっている。
 「反ファシズム戦勝利70周年に際し、もしも日本の老兵が
良心をごまかして自ら南京で犯した罪を隠し、日本で一定の影響力のある
『産経新聞』がかような言論を重ね、歴史に対する反動を再び暴露するなら、
全世界の平和を愛する人は警戒せねばならぬ」  
■  ■  ■
 3月のある寒い日、一般参観者として南京市内にある記念館を訪れた。
記念館を含む南京での取材にあたって、日本の 外務省関係者から
細心の注意を払うよう求められた。
平成24(2012)年には記念館で日本人記者が参観者らに囲まれて
殴る蹴るの暴行を受けた事件もあっ たからだ。
1冊10元(約200円)で購入した日本語版の紹介パンフレットによると、
昭和60(1985)年8月15日に開館した記念館の敷地面積は
約7万4千平方メートル、建物の総面積は2万5千平方メートル。
「全国愛国主義教育模範基地」に指定されている。
 12(1937)年に旧日本軍が引き起こしたとされる「南京事件」をめぐって、
中国は「30万人が犠牲になった」と主張する。
記念館には「300000」との数字が壁面など随所に掲げられている。
 当時の写真や新聞記事をすべて共産党政権側の解釈で説明し、
残虐な虐殺現場のシーンをジオラマで表現している。
旧日本兵から接収した銃や装備品なども展示してある。
 「愛国主義教育模範基地」として、南京市内はもとより
江蘇省内など周辺地域の小中学校や高校の児童・生徒、
地方政府や国有企業などの団体参観客が引きも切らず訪れる。
■  ■  ■
 意外だったのは毎年12月13日に行われている追悼式典が、
江蘇省や南京市の主催から昨年初めて「国家級」に格上げされ、
国家主席、習近平が初演説を行ったにもかかわらず、
それに関する展示はほとんど見あたらなかったことだ。
唯一、関係するものは、習が式典で除幕した
「国家公祭鼎」(台座を除く高さ約1・65メートル)のみ。
それも習が訪問したことを示すだけの“記念碑”という。
「反ファシズム戦勝利70周年」を意識した展示も見かけなかった。
 これについて、南京問題に詳しい日中関係筋は
「権力集中を進める習が中心となって70周年の行事を行っているので、
南京が反日で突出しないよう北京に気兼ねしているのではないか」と述べ、
中国国内の政治事情が影響していると解説する。
・・・以下、(4)と重複している内容なので省略。

歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(2)】
2015.4.19 07:00更新 2/3 3/3ページ)
「大隊長注意 略奪、惨殺禁ズ」
従軍手帳メモから浮かぶ「日本軍の規律」
…遺族無念「なぜ検証せぬ」
一部が崩れた城門、ロバにまたがりほほ笑む中国人の少年、
整然とした街頭の人波…。セピア色の数々の写真に、

70年以上前の南京などの様子が克明に写し出されていた。
 「日中戦争に従軍した父が持ち帰ったものです」

 関西在住の元海寿祐(51)が説明する。
父、寿一(よしかず)=平成2年に72歳で死去

=は昭和14年春に出征した。
写真の多くは裏に記された日付から、同年11月初旬に
負傷して帰還する前に滞在した南京から持ち帰ったとみられる。
 「南京城内ロータリー」と裏書きされた写真には、

整然とした街角が多くの人でにぎわう様子が写っていた。
「十月二 十八日」と記された写真には、寝そべる水牛と
ほほ笑む3人の少年や、中国服を着た7人の若い娘が
並んでポーズをとっている様子が写っている。
いずれも穏やかな日常風景といったおもむきだ。
 「父は南京で買い物するのが楽しかったと話していました。
だから南京事件はあり得ないとも」
 写真を見つめ、元海は語る。
 「写っている人たちの表情を見ても、父が言うように

この2年前に大虐殺があったなんて、とても考えられない
    ■ ■ ■
 「日本軍が30万人を虐殺した」と中国側が主張する南京事件。

戦後の東京裁判判決では数々の残虐行為があったと認定された。
 「日本軍は南京占領直後から1カ月で

2万の強姦(ごうかん)事件を起こし、
6週間で20万人を虐殺し、暴行や略奪の限りを尽くした」
「兵役年齢の男性約2万人を、機関銃と銃剣で殺害した」
 昭和12年12月10日に始まった南京総攻撃のさなか、

城内に残った住民らは、欧米人らの国際委員会が設けた
非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んだ。
南京陥落後、民間人に偽装して安全区に潜伏する隠れ戦闘員
「便衣兵」が日本軍の脅威となった。
便衣兵は武器を隠し持って次々と日本兵を襲ったとされる。
中国戦において、日本軍は南京だけでなく各地で便衣兵に悩まされた。

 元海は、寿一から便衣兵と遭遇したときのことも聞かされた。
 戦地で寿一が怪しいと感じた男を呼び止めると、背中を向けて

突然走り出しながらわきの下から銃口を向けた。
一緒にいた仲間が撃たれて負傷。男は便衣兵だった。
寿一は「銃の使い方をみれば、平服を着ていても住民とは違う。
便衣兵に対しては、こちらも命がけだった」と語ったという。

 寿一は便衣兵の見分け方も話していた。

農民らと、軍帽をかぶっていた便衣兵には日焼けの仕方に違いがある
農民は手に豆があるが、便衣兵の手のひらは柔らかく、
銃器を構えたときにできるタコがあった
軍靴を履いた便衣兵には、共通した靴擦れがあった-。

 便衣兵を見つけ出す日本軍の基準に

疑義を呈する意見もある。ただ、元海はこう証言する。

 「父は『戦場の現実は悲惨なものだが、

南京大虐殺といわれるようなことをやればすぐ情報が広まり、
(将兵は)処分されるはずだ』と訴えていました」     ■ ■ ■
 前線で激しい戦闘が続く中、日本軍の軍紀は保たれていたのか。
 十月五日 大隊長注意 リャクダツ、ザンサツ禁ズ
 
昭和12年、日中戦争に参加した元陸軍第5師団歩兵第21連隊、
下垣貞信=平成8年に83歳で死去=が従軍中に所持した手帳には、
上官からの命令が日付とともに記されている。

自ノ銃ヲ以テブタ、ニハトリ等ヲ射殺モ他ニ

キガイヲオヨボスノオソレアルヲ以テ厳ニ注意ヲ要ス(10月1日付)

《連隊注意 一、現在地付近ハ住民居存有ルニ付キギャクサツヲ禁ズ…》

(10月4日付)  手帳からは逐一注意を促されていた様子が浮かぶ。
北京近郊に駐留していたとみられる9月2日には
将校注意 便衣隊(兵)ニ注意 
衛兵務ム者ハ城門出入者ノ身体検査、但婦人ヲ除ク》ともあった。
 「上官も厳しかったし、自分勝手な行動や残虐行為は許されなかった」
 下垣は生前、長男(75)にそう語っていた。

下垣は南京攻略戦に参加していないが、同時期に中国大陸で従軍していた。
 「父の手帳を見ていると、日本軍は決して無秩序な軍隊ではなかった」
 長男は「南京大虐殺」が中国から喧伝(けんでん)される現状を

憤りをもって見つめる。
 「日本はなぜ、きちんと検証しなかったのか。

海外へのアピールが下手というのは言い訳にはならない」(敬称略)

歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(1)】
2015.4.18 07:00更新 2/3 3/3ページ)
南京攻略戦「日記」生々しく 兵の記述に「大虐殺」片鱗なし
毎日十里(約40キロ)余り歩いて、毎朝腰が上がらない。
(中略)南京が近くなったので毎日、友軍機は飛び、
攻略戦に早く参加すべく兵の士気があがった

 古い手帳につづられた文面から、昭和12年初冬、

当時の中華民国の首都、南京攻略に向かう
日本軍将兵らの息づかいが聞こえてくる。

 「父が南京攻略戦に参加したと知っていたら、

聞きたいこともあったんですが」。関東在住の西山邦夫(78)が、
父、源次郎の遺品を手に語った。源次郎は平成5年、87歳で死去。
18年に母も亡くなり遺品を整理中、源次郎の日記や作戦図などを見つけた。

 陸軍少尉だった源次郎は、帝国生命(現朝日生命保険)に

勤務していた昭和12年9月に召集され、
陸軍第114師団歩兵第115連隊の小隊長として南京攻略戦に加わった。

 同年12月10日に始まった南京総攻撃。

作戦行動中のためか、当時の日記は同月13日までの出来事が
日々1~2行、鉛筆で簡潔に記されているだけだ。
後に当時の様子を詳細な手記にまとめており、
その文面は戦闘の激しさを伝えている。

南京南方六里(約24キロ)の秣陵関に到着した。

南京城は火災を起こして紅(あか)く夜空を染め、砲声も聞こえる。
秣陵関を出発すると、野戦病院が仮設されており、
多くの将兵が収容されていた。第三大隊だけで三百名が戦死傷した

 源次郎らは南京城の南側にある雨花門から迫る。

猛進を続け、吾々(われわれ)のいた壕にも敵弾が盛んに飛んでくる。
ここからクリークを渡ると、城壁まで三百米(メートル)、
城壁の高さは二十米あり、千二百発の砲弾で城壁を崩し、
西山隊も十二日夜城壁をよじ登って突入した》 
     ■ ■ ■
 日記の記述は16日に再開する。

「晴れ」と記されたこの日、雨花門周辺の警備を担当していた源次郎は、
部下を率い て城壁上を移動。
支那兵の弾薬、迫撃砲弾など夥(おびただし)く、死体も数十ありたり 
という状況だった。
大隊長からは部隊の団結とともに、
規律の維持を徹底するよう訓示があったという。

 翌17日。

午前九時半集合、正午南門を発する予定するに、十時には早くも出発
次の任務地に向かうため南京城を離れた。

 西山自身、航空自衛隊で空将補まで務めた経験から、

父が残したこの記述に着目する。
「師団ならば万単位、連隊でも何千人単位で編成される。
部隊が迅速な行動ができたのは、
高い士気と規律を維持していたからに違いない」

 源次郎はその後、山東省や北京周辺などの戦線に赴き、

戦地から妻にたびたび手紙を送っている。
南京事件の犠牲者 「30万人」説を唱える中国は日本軍が
ほかの地域でも残虐行為を行ったとするが、これらの手紙からは、
中国の主張と大きく異なる日本兵と住民の関係が浮かび上がる。

最近部落での評判が大分いいのです。

示威行軍に行っても皆出迎えてくれるほどなのです。
日本軍は税金も取らないし、品物も買ってくれると…》 
  
支那兵は毎日食い物をもらいに来る。
応じなければ銃殺されることもある。税金はむやみに取る。
出さなければ女や子供を人質に取る。
こんなやり方をするのだから嫌われるのも当たり前です

 手紙には、地域の役人や住民に食事へ招待されたという記載もある。

源次郎が、現地の子供たちと一緒に納まった写真も残っている。
  ■ ■ ■
 戦後、中学校教員として家族を養った源次郎は、

西山らには戦場での話をしなかった。
戦時中はひげを生やし、いかつい風貌だったが、
終始穏やかな態度だったという。

 「父が話したかったことは、残された日記や手紙に全て収まっている。

父らの世代が戦時中のことを語らないのは、話せば自己弁護になるし、
語ることを潔しとしない世代だったからではないか」

 戦後、東京裁判で戦勝国による追及が始まるなかで現れた

「南京大虐殺」説に、西山は疑念をぬぐえず、悔しさを募らせる。
「父の日記からはその形跡はうかがえない。
物理的に30万人を虐殺するのは無理だ。
戦後の大きな風潮のうねりの中で、
歴史の歪(わい)曲(きょく) (わいきょく)に染まってしまった」(敬称略)

 「歴史戦」第9部で南京攻略に参加した元兵士らの証言を掲載したところ、

多くの反響があった。
10部では、新たに明らかになった日記や手帳を紹介するとともに、
中国側がどのような宣伝戦を展開したかも詳述する。

 南京事件 昭和12(1937)年12月、当時の中華民国の首都だった

南京陥落後、旧日本軍の占領下で起きたとされる事件。
犠牲者数について中国側は「30万人」と主張する。
日本では近年の研究で誇大との見方が定着している。
「事件」というほどの出来事はなかったと の意見もある。
日本政府は
「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」
との見解を示している。 
日中戦争に参加した元陸軍第5師団歩兵第21連隊の下垣定信さんが
残した軍隊手帳(手前)とメモ帳。
軍規が厳しかった日本軍の一面が浮かび、いわゆる「南京大虐殺」
のような無秩序な殺戮行為を下垣さんは戦後も否定していた

2015.3.27 11:00更新
産経WEST2/6 3/6 4/6 5/6 6/6ページ)
歴史戦WEST】
「南京大虐殺30万人説」 日本にも歴史〝ねじ曲げ〟

放置した重い責任 元兵士証言から浮かぶ歴史の真実
昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した
日本軍が、約6週間から2カ月間にわたって
多数の敗残兵や住民らを殺害したとされる「南京事件」。
犠牲者の規模や事件の存否 を含めて論争があるが、
中国は犠牲者数を30万人と主張、
日本軍の〝蛮行〟として声高に喧伝している。
しかし、陥落直後の南京にいた日本軍の元兵士に取材 すると、
「南京大虐殺30万人説」とは異なる様相が浮かび上がる。
「陥落後の南京は和やかだった」「虐殺はでっち上げ」-。
「反日」という政治的思惑を帯 びた中国の攻勢に負けず、
元兵士らの証言をはじめ当時の史料や状況を冷静に検証し、
歪曲(わいきょく)・誇張に満ちた歴史を是正する必要がある。
「日本を取り戻す」を旗印に政権を奪還した安倍晋三首相は2月、
南京事件に対する海外からの誤った批判に
正当な理解を得るよう発信していくと明言した。
この「歴史 戦」に敗れれば、日本の名誉は永遠に汚され続ける。
(歴史戦WEST取材班)

「城内に遺体はなかった」
 「城内は空っぽでした」。昭和12年12月13日の南京陥落後、

南京城に入った城光宣(じょうこうせん)さん(99)に昨秋、
城内の様子を尋ねた際の第一声だ。

 兵士はおろか、住民の姿さえいない無人地帯だったというのだ。

住民たちは、欧米人らでつくる国際委員会が城内に設けた
非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。

 城さんは熊本で編成された陸軍第6師団歩兵第47連隊

所属する獣医務曹長。
第6師団も加わった南京攻略戦の戦闘には直接参加していないが、
戦闘部隊と行動をともにし、間近で様子を見てきた。
南京は他地域と同様に外敵の侵入を防ぐ目的で
周囲を堅固な城壁で囲まれていた。
城内の面積は約40平方キロメートルと広大だった。
 12年12月10日に始まった南京総攻撃。

第6師団は南京城南側から攻撃に加わった。
「砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ、
壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」

 城さんは77年前の様子を克明に語った。

城内で中国軍の遺体を目撃したかどうか尋ねると、
首を横に振って否定した。
それでも上海から南京まで進軍する途中では道端で
中国軍の遺体を目にしたという。
「そりゃ交戦しながら進むけん、こっちもあっちにも遺体はありました」

 南京への進軍途中にも「日本軍は虐殺行為を働いた」とも言われるが、

城さんは「女や子供、年寄りの遺体はみたことはなか」と明確に否定した。

 南京攻略時の師団長は戦後の南京軍事法廷で、

「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。
虐殺はあったのか否か。
同様の質問を繰り返したが城さんは憤りを交え、
同じ答えを繰り返した。
 「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。

人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」

日本兵相手に商売も
日本軍は南京占領直後から1カ月で2万の強姦事件を起こし、

6週間で20万人を虐殺し、暴行や略奪の限りを尽くした
 戦後の東京裁判判決はこう認定した。さらにこうも断定した。
何ら口実もないのに中国人男女や子供少なくとも1万2千人を

最初の2、3日で殺害し、死体は大通りに散乱した

 元兵士が見た南京はどんな様子だったのか。
 「とても戦争中とは思えなかった。

南京は誠に和やかに尽きるという印象でした」。
占領後最初の6週間の一時期を城内で過ごした
海軍第12航空隊の3等航空兵曹、原田要さん(98)はこう振り返った。

 陥落後、城内の飛行場に降り立った原田さんの印象に残るのは、

日本兵を相手に露店で商売を始めるなど
日常の生活を営む住民らの姿だった。
 この証言には重要なポイントがある。

陥落後間もない城内では、
すでに住民による露店が立っていたという点だ。

 南京攻略戦で城内に残った住民らは一時、

非武装中立地帯の「安全区」に逃げ込んだが、
日がたつにつれ安全区から出てきて平穏さを取り戻している。
原田さんの目にはそう映った。

 中国が喧伝する「南京大虐殺30万人説」が事実ならば、

当時は城内で日本軍による住民への虐殺や
暴行、強姦が繰り広げられていたはず。
そんな阿鼻叫喚の現場で、和やかに
敵兵相手に商売をすることがあり得るだろうか。

 平成19年12月、東京で開かれた

「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」でも、
8人の元将兵が同様の証言をしている。

 「敵兵は1人もおらず、城内はガランとして人影がなかった。

100メートルほど行くと、1人の老婆が紙で作った手製の日の丸で
われわれを歓迎してくれた」(12年12月14日に入城し、
すぐに城外で宿営した元陸軍第6師団歩兵第13連隊の伍長、古沢智氏)

 「入城して2~3日後、住民の姿をみかけるようになり、

時計の修理のため時計屋を訪れた」
「3回ほどサイドカーで城内をくまなく見て回ったが、
遺体や虐殺の痕跡は目にしなかった」
(12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清氏)

 「12月14日ごろには(城内に)散髪屋や立ち食いそば屋など、

早くも住民が商売を始めていた」
(安全区で掃討・警備を担当した
元陸軍第9師団歩兵第7連隊の伍長、喜多留治氏)

日本兵を悩ませた「便衣兵」
 平穏を取り戻した城内でも、日本兵にとって掃討すべき〝脅威〟があった。

民間人に偽装し、隠れ戦闘員として日本兵らを襲った中国の「便衣兵」だ。
 

 3等航空兵曹の原田さんは、便衣兵を処刑する場面を見たことがあった。

 休暇で南京城の北を流れる長江(揚子江)の河畔に行ったとき、

日本陸軍の兵士らがトラックに乗せてきた中国人の男10人ほどを
銃剣で突いたりした。川の中に逃げ込んで撃たれたり、
泣きながら命ごいしたりする男もいた。

 原田さんは言う。

「虐殺と言われれば虐殺かもしれない。でも便衣兵はゲリラだ。
日本兵がやられる可能性もあった」
          ※ ・・・重複のため省略。

東京裁判で「自虐史観」すり込まれ
 南京攻略戦は東京裁判で突如として「南京大虐殺」に変貌(へんぼう)した。

その後、中国側は「30万人を虐殺し た」と世界に向けて喧伝し、
今も日本をおとしめる格好の材料としている。
日本国内で30万人説を支持する声は極めて少ないものの、
「虐殺があった」とする説は多く、数百~20万人と幅がある。
事件の存在すらないという「否定説」もある。

 拓殖大の藤岡信勝客員教授は

「当時の記録にもあるように一部の非行兵士による犯罪行為はあったが、
日本軍が組織的に民間人らを虐殺したということは
事実として確認できていない」と語る。

 中国軍が退却時に「敵に糧を与えない」との名目で民家を焼き尽くし、

略奪を行う「清野作戦」による被害も多かったと指摘。
便衣兵についても「戦闘を放棄した捕虜とは違い、
あくまでも戦闘継続中の兵隊だった」と強調する。  
これまでに日本側が戦後の歩みの中で、
生存者から聞き取りを行うなどして事実を究明し、
「南京大虐殺30万人説」 に反論して国際社会にも
アピールする機会は何度もあったはずだ。
しかし、東京裁判によって日本人にすり込まれた「自虐史観」の影響は強く、
積極的な検証や 反論の動きは鈍かった。
結果として誤った史実が国際社会にも広がっている。

 もはや当時を知る人たちも多くは鬼籍に入り、

健在の人でも100歳を目前にしている。藤岡客員教授は言う。
 「歴史のねじ曲げを放置したのは私たち国民、そして政府の責任。

戦後70年の今、真摯(しんし)に見つめないと歴史の真実は見えてこない」 

2015年2月17日
[桜H27/3/28] 、【衝撃!証言】南京大虐殺は無かった!。
【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言】
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていた」憲兵配置、
掃討では合言葉も。
厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐 中国人から ...
2014年12月26日
歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(3)後半】
 「40万人虐殺」米の教科書に堂々と載る屈辱 誤りは断てるか。 
【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(3)前半】 
アイリス・チャンの“業績”を踏襲せよ! 「ホロコースト」と結びつけ反日攻勢.
2014年10月30日
「南京大虐殺」「慰安婦」…誤った史実ひとり歩き 米高校で試験にも 
日本人生徒「英語でも反論を」。
米出版社、日本政府の教科書訂正要請を拒否。

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