慰安婦問題について、いろんな報道: 【石塚政秀】「零戦里帰りプロジェクト」報告と御礼[桜H28/2/6]。零戦、日本の空を飛ぶ 鹿児島・海自基地で試験飛行。その他関連。

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2016年2月6日土曜日

【石塚政秀】「零戦里帰りプロジェクト」報告と御礼[桜H28/2/6]。零戦、日本の空を飛ぶ 鹿児島・海自基地で試験飛行。その他関連。

【石塚政秀】「零戦里帰りプロジェクト」報告と御礼[桜H28/2/6]
SakuraSoTV 日本の空に再び日本人の手で零戦を飛ばす。
その夢を追い求め、遂に実現された「零戦里­帰りプロジェクト」。
このプロジェクトに私財を投じて推進してきた石塚政秀氏をお招き­し、
視聴者の皆様にご報告と御礼をさせていただきます。
ゲスト:石塚政秀(株式会社ゼロエンタープライズ・ジャパン 取締役)

再び日本の空を飛んだ零戦(零式艦上戦闘機)=27日、
鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊鹿屋基地(鈴木健児撮影)
 2008年に米国カリフォルニア州でテスト飛行を行った零戦。
まもなく鹿児島の上空を飛ぶ(零戦里帰りプロジェクト提供)
産経WEST
さきの大戦中、日本海軍の主力戦闘機だった零式艦上戦闘機(零戦)が
27日、海上自衛隊鹿屋航空基地
(鹿児島県鹿屋市)の上空を試験飛行した。
 機体は1970年代、パプアニューギニアのジャングルで発見し、
購入した米国人らが復元した。
現在はニュージーランド在住の石塚政秀氏(54)が所有する。
 石塚氏は「零戦の部品の一つ一つに
日本人の勤勉さが詰まっている。
日本の空を飛ぶことができ、感無量だ」と語った。
零戦、日本の大空に再び
[桜H28/1/26] SakuraSoTV

戦後初 零戦、再び日本の空を舞う
2016年1月20日 19時47分 産経新聞 ライブドアニュース
零式艦上戦闘機(零戦)が今月27日、
海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)の上空を飛ぶ。
 機体を所有するニュージーランド在住の日本人と、
防衛省などの調整が終わったことが20日、わかった。
日本の空を零戦が舞うのは、戦後初めてで、
関係者は
「日本の繁栄を築いた先人の勤勉さと技術革新に、
思いをはせるきっかけにしてほしい」と語った。(奥原慎平)

飛行予定日は27日、周囲から見学を
 飛行予定日は27日で、28、29を予備日としている。
基地内への立ち入りは禁止だが、
周辺で飛ぶ様子を見ることはできる。
パイロットに、零戦の飛行免許を持つ米国人を招く。

 機体は、ニュージーランドを拠点に、
石塚政秀氏(54)が所有する。

 現在、飛行可能な零戦は世界中に6機ある。
所有者のうち日本人は、石塚氏だけという。
平成22(2010)年5月、国内で零戦を飛ばす
「零戦里帰りプロジェクト」を設立した。

トラブルから夢実現へ
 プロジェクトのきっかけは、トラブルだった。
 19年半ば、石塚氏のもとを、
北海道小樽市の関係者を名乗る男性が訪れた。
博物館で展示するために、零戦を入手したいが、
その交渉を手伝ってほしいという依頼だった。

 石塚氏は、米国の飛行機収集家やパイロットに人脈があった。
石塚氏は仲介を引き受けた。

 零戦を保有する米カリフォルニア州の
有名バイクレーサーと売買契約を結んだ。
彼が所有する機体は、パプアニューギニア・ラバウル近郊に
放置されていた零戦22型で、米国人が1970年代に入手し、
飛べるように復元していた。

 だが、契約後にリーマン・ショック(2008年9月)が発生した。
男性が持ち掛けた零戦展示構想は、
景気悪化のあおりを受けて、中止になったという。

 売買を取りやめれば、米国人レーサーから
億単位の違約金を求められる。
石塚氏は訴訟も考えたが、相談した弁護士に
「零戦を生かす方法を考えた方が、
自分の人生のためではないか」と諭された。

 石塚氏はもともと、
飛行する零戦を日本人に見てもらいたいと夢を抱いていた。
「それなら、日本で零戦を飛ばそう」。腹をくくった。
 3億5千万円かけて零戦を購入した。
ニュージーランド・クライストチャーチにある
牧場や自宅、車などを売り、借金もした。

 購入から4年半が経過した
平成26年9月、機体が横浜港に到着した。
駐機先は、隊員の研修用機材にすることを条件に、
鹿児島県の鹿屋航空基地に決まった。

 鹿屋市までの輸送費などとして、
インターネット経由で寄付金約2340万円を集めた。
昨年7月初旬にエンジンテストも終え、
いざ公開飛行を待つだけになった。

省庁との交渉難航

 だが国内で零戦の実機飛行は前例がない。
関係省庁との交渉は難航した。
 しかも、安全保障関連法案の国会審議が進む中で、
戦中を思い起こさせる零戦の飛行に、
関係省庁の中には難色を示す担当者もいた。
 安保法成立直後、機体の設計図や復元の課程を示す資料
を全てそろえて国土交通省に飛行許可を申請した。
実機検査を11月末に終え、
12月18日、1カ月以内を目安に飛ばすことを条件に、
飛行許可が下りた。
基地上空の飛行も今月19日、鹿屋航空基地と調整を終えた。

 石塚氏は「単に零戦が好きだからではない。
先人が作り上げ、終戦後、
二十数年で世界2位の経済大国にのぼりつめた
世界最先端の技術をみてほしい。彼らの努力が、
現在の日本の繁栄を築いたことを
多くの日本人が気がつくきっかけにしたい」と語った。

 ようやく公開飛行にこぎ着けたが、
米国人パイロットと整備チームの滞在費や機体の送料などを考えると、
まだ約2千万円が足りないといい、
プロジェクトではスポンサーも募っている。
問い合わせは同プロジェクトウェブサイト
(https://www.zero-sen.jp/)から。
 ◇◇◇
 【用語解説】零戦
 三菱重工業が開発し、
同社と中島飛行機が計1万機以上、生産した。
制式採用された昭和15(1940)年が、
皇紀2600年にあたることから、零戦と呼ばれた。
旋回など運動能力に優れ、航続距離は最高3千キロと、
米グラマン社のF4(ワイルドキャット)の2倍以上あった。
 終戦後、日本ではGHQ(連合国軍総司令部)によって
航空機研究が禁じられた。
零戦技術者の多くは、ほかの産業に移り、
日本の経済復興に尽力した。
例えば、零戦の燃料噴射装置を開発した
杉原周一氏は東洋陶器(現TOTO)の社長となって、
同社の中興の祖と呼ばれる。
【石塚政秀】零戦里帰りプロジェクト~日本の空に再び零戦を飛ばそう!
[桜H27/2/18] SakuraSoTV
「日本の空で飛ばせたい」飛行可能な零戦が里帰り 
細部まで公開 SankeiNews 2014/11/22 に公開
旧日本軍の零式艦上戦闘機(零戦)が
21日、さいたま市の
さいたまスーパーアリーナ1­階展示ホールで一般公開された。
飛行可能な零戦が日本へ“里帰り”するのは戦後初めて­。
公開は11月24日まで。
 機体は、輸送時にエンジン、主翼操縦席部分、機体尾翼部分の
3つに分解されたときのま­ま展示されており、
零戦の内部を間近で見ることができる。
所有者のゼロエンタープライ­ズCEO、石塚政秀さん(53)は
「昔も今も日本の技術力は世界に誇れるものだという­ことを
知って国民に元気になってもらいたい」と話した。
石塚さんは同機体を日本で管理­し、
来年4月以降には
国内の航空ショーなどへの参加も考えているという。
 会場に訪れた同市緑区の男性(83)は
「飛行機の設計をしていた兄との思い出など、
昔­の色々なことが蘇る」と話し、熱心に写真を撮っていた。
歴史に残る空中戦 「零戦 vs F4F ワイルドキャット」
歴史に残る空中戦 「零戦 vs F4U コルセア」
Candice Angelita
「大空中戦の果てに ガダルカナル島の一騎打ち」 (2006年)
2015/07/21 に公開 零戦 vs F4F ワイルドキャット.
「大空中戦の果てに ガダルカナル島の一騎打ち」 (2006年)
ゼロ戦 世界で1機! 零式艦上戦闘機 貴重な日本の戦闘機
 20140516 零戦 studioghibri3
作者: atoms699 4本の動画 2015/05/22 に公開
川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」


                     P51「ムスタング」



戦後70年の節目に読んでおきたい、
元日本軍エースパイロットたちが語る戦場秘話。
話題の新刊
『撃墜王は生きている!』
(井上和彦著、小学館)より、日本陸軍において
B29爆撃機を5機撃墜、7機撃破、
さらにその他の敵戦闘機を3機撃墜した、
まさに「撃墜のエース」だった生野文介・元大尉の証言を紹介する。
 * * *
 生野大尉が「飛燕」戦闘機から五式戦闘機に乗り替えた昭和20年5月のことだ。
B29の迎撃戦の帰り、厚木上空で米軍戦闘機P51「ムスタング」の8機編隊が
南に向かうのを発見した。
P51は、第二次大戦中、“最強の戦闘機”と賞賛された戦闘機だ。
生野大尉は、「帰る前にひとつ攻撃しようと思って」
わずか1機で敵編隊の下に潜り攻撃を試みる。

 ところがその瞬間、敵編隊の先頭4機が空になった増槽
(長距離を飛ぶために追加する燃料タンク)を捨てて身軽になり、旋回を始めた。
戦闘開始の合図だ。気づかれたとわかった生野大尉は自機を旋回させて射撃。
ところが、一撃しただけで弾切れになるという非常事態に陥った。
その状態で8対1という格闘戦を行ないながら、見事に敵の攻撃をかわして
帰還したのである。生野氏は言う。

「P51は確かに速度がありましたね。だけどそれだけではね。
空中戦の技量、テクニックがなければだめなんです」

 かつて雑誌のインタビューにて、P51に墜とされる不安はなかったかと
聞かれた生野氏は、
「ないですね。もう絶対に自信があった」と答えている。
あとで機体を確認したところ、このときの戦闘で24発も被弾していたとのことで、
その胆力には恐れ入る。
※井上和彦・著/『撃墜王は生きている!』より

 
 
産経WEST【戦後70年・回想録(下)】
「よっしゃ、これでグラマンに勝てる」
零戦・紫電改パイロットが語る
…心に焼き付く記憶
2015.4.10 15:00  (2/4 3/4 4/4ページ)
戦後70年の特別企画として、3月27日に大阪市北区の市中央公会堂で
開かれた「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)。

帝国海軍の戦闘機「零戦」と「紫電改」のパイロットだった
笠井智一さん(89)=兵庫県伊丹市=が講演し、
戦争体験者や遺族ら約850人が聞き入った。

零戦 vs 紫電改 徹底比較 King07T 2013/12/31 に公開
日本海軍の主力艦上戦闘機三菱「零戦」と川西航空機「紫電改」
Zero fighter&George.I research two war birds on motion picture.
小説「永遠の0」で再び脚光を浴びた零戦と海軍最後の制式戦闘機紫電改を
ビデオ映像で徹底的に比較してみました。
改めて見比べると両機の設計思想の違­いがよく分かります
music : 煉獄庭園 - outskirts 
撮影された実機は零戦62型 大和ミュージアム 
紫電改 南レク馬瀬山公園紫電改展示館 

司会: 引き続き、空中戦のことを詳しく聞かせてください 
昭和19(1944)年7月の話。
このころフィリピンのダバオ基地で、
外出のときにある人とけんかをしたことが問題になり、
私は憲兵隊のお尋ね者になった。
うちの隊長が、身柄引き渡し要求に来た憲兵隊を追い払ってくれた。
その隊長が一週間ほどして、
ヤップ島に邀撃(ようげき)しに行こう」と言うので、
ダバオから7~8機で行った。
隊長に「明日からは邀撃手だぞ。
落とされぬようしっかりせえ」と言われた。
ヤップ島の山の上には当時珍しく電探(電波探知機、レーダー)があり、
「敵機らしき編隊近づく」と毎日電話してくる。
隊長と、わずか7機か8機で毎日邀撃に出た。
せめて十数機でもおれば、もっと敵を落とせたのに…。

 戦闘機の空中戦ではまず、高度を取ること、スピードを取ること、
太陽を背にすること。
これが戦闘機乗りの3原則。
高度6千メートルくらいで、編隊を組んで、1番機が撃つ、2番機、3番機と

同じ敵に向かって攻撃する。
そうでないと、B24というのはなかなか撃墜できない。
向こうは12・7ミリの機銃でどんどん狙ってくるが、

こっちは20ミリ機関砲2挺しかない。
高度千メートルくらいの差で突っ込んでいかないと、
敵の弾がどんどん飛んでくる。
それでえらい戦果を上げた。表彰状ももらった。

 ところが7月24日、
一緒に攻撃してた奴が突っ込んでいったらボアーっと火を噴いた。
「あー、やられた!」。そいつはB24に体当たりしよった。
大体、空中戦をしている間に、火を噴いて落ちるのは零戦、

日本の飛行機。
アメリカのグラマンなんかは煙を噴くが火を噴かない。
アメリカは燃料にゴムを巻いて火がつかないようにしていた。

紫電改 最後の闘い (3DCG) HASEGAWAmodel
戦闘機空中戦:紫電vsヘルキャット waraen
WW2 Dogfight:N1K1-J Kawanishi SHIDEN 
"George" vs F6F Grumman Hellcat

日本の戦闘機は軽く作っていたので、そうはいかなかった。
しばらくして、もう1機。火を噴いて落ちていった。
「またやられた!」。
たまたま下に潜水艦が浮上してきた。
それ目がけて落ちていき、戦死した。
みな同期生であり、日ごろ一杯飲んだり外出したりして
仲良くしていた人間です。
もう一人、甲種予科 練の先輩だった人。
彼も攻撃でやられてヤップ島に墜落した。
すぐに私は着陸して駆けつけたが、残念ながら飛行機は燃え、
遺体も真っ黒けになってしまった。 
体当たりをして死ぬのが分かっているのに、
「お前も安心して行け。次は俺が行ったるぞ」という気持ちだった。
17、18の若者が、国を思い国のために死んでいった。

司会: 昭和19年10月27日に
神風特別攻撃隊忠勇隊直掩隊(ちょくえんたい)(護衛部隊)として、
特攻の護衛をしていた際の話を
  群馬県の中島航空機の太田飛行場へ飛行機を取りに行って10月26日、
フィリピンに帰った。マバラカットという特攻基地で、
晩飯を食べて一杯飲んでいたら 
「今日内地から空輸で来た連中、集合!」と呼ばれた。
「明日5人マニラから出撃する特攻隊の直掩隊で行くから、名前を呼ぶ」。
それで私の名前が呼ばれた。 
「せっかく来たのに。もう1日くらい休ませてくれたらええのに」と、
思ったけど言えない。
 翌日、フィリピンのニコロス基地へ行った。
上を 飛んでいるときに下を見たら、
特攻機が4機、爆弾を積んで並んでいた。
「ああ、あいつを直掩するんだな」。
レイテ湾まで敵に遭わず行くと、下はもう敵の船 でいっぱい。
バンバン撃ってくる。
VT信管といって、弾が飛行機を追いかけてくる。
不思議だった。
そのときは1機出撃してたんで、3機で直掩した。
私は4月12日に沖縄の制空隊で攻撃に行ったとき、
喜界島の上空で空中戦になった。
紫電改は零戦と違って燃料が少ないので空中戦を長くできない。
戦闘機の空中戦は弾や燃料がなくなる3分間が基本。
私は2機撃墜したと思って基地に帰って報告したら
「馬鹿者!お前は敵機が海へ落ちるか島へ落ちたかを確認したのか。
それは撃墜じゃない!不確実だ」と怒られた。

司会: 最後に、伊勢神宮外宮にある「国旗の詩」と、
これからの日本への思いを
 「戦敗れて萬家国旗を忘る/星条ひるがえる処惨として旗を看る/
邦を興す正気はもと此に存す/願わくばこの民をして国旗を愛せしめん」。
伊勢神宮外宮の第一鳥居の前にこの碑が建立されている。
陽明学者の安岡正篤(1898~1983年)先生の詩。
  この詩は、「戦いに敗れて日本人はみな国旗を忘れてしまった。
独立国家でありながら星条旗ばかりが翻っていて残念でたまらない。
国旗こそ国を興す根源である。
願わくばこの日本国民をして国旗を愛せしめんと」。
皆さん、国旗と国歌を愛していただき、日本の隅々までも、
祝日には国旗が翻ることを念頭に置いてお願いしたい。
 (会場に零戦の垂直尾翼の破片を示し)これは私がヤップ島で
撃墜されたときの零戦が今も海の中にある。
それを、戦後持って帰ってきたもの。
零戦は、これだけペラペラの飛行機。
いかに軽かったかというのを知ってもらいたい。
こんだけのペロペロなのに「ジュラルミン」と言っていた。
零戦は最高重量3トン、グラマンは最低5トン。
それだけ機銃や燃料を積んでいる。
こんなことを言うと怒られるが、なかなか零戦では
太刀打ちできなかっ たのを身をもって体験した。   =おわり
□ 
【プロフィル】笠井智一(かさい・ともかず) 
兵庫県篠山町に大正15年、生まれる。
昭和17年、海軍飛行予科練習生に志願。
その後、海軍第二六三航空隊(通称豹部隊)や 
海軍第三四三航空隊(通称剣部隊)などに所属。
空戦の神様といわれた、杉田庄一操縦員らとともに
フィリピンや沖縄などで空中戦に加わった。
                      
【戦後70年・回想録(上)】
「敵に30メートル接近して撃て」零戦・紫電改パイロットが語る
…心に焼き付く記憶 2015.4.9 11:00 (2/4 3/4 4/4ページ)
戦後70年の特別企画「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会
(産経新聞社など主催)が3月27日、
大阪市北区の市中央公会堂で開かれた。
米英から恐れられた日本帝国海軍が誇る戦闘機
「零戦」と「紫電改」のパイロット、笠井智一さん(89)
=兵庫県伊丹市=が講演。
戦争体験者や遺族ら約850人が、
時折涙を流しながら真剣に聞き入った。
2回にわたって笠井さんの講演内容を紹介する。

司会: 予科練を志願した動機は
 戦後70年がやって参りました。
日本の勝利のために、この会場から、数百万の戦死された皆さん、
アメリカの爆撃にあって爆死された皆さんに、
心から感謝の気持ちとご冥福を祈りたい。
 私たちは17、18歳のとき、日本のために、
勝利のために、南方戦線で戦った。
 いよいよこれが最後です/父さん母さんお元気で/
白木の箱が届いたならば/たいした手柄は立てないが/
泣かずに賞(ほ)めて下さいな(軍歌・海鷲だより、まま)
 こんな歌が、今も私の口からは自然に出てきます。
海鷲だより 憂国日本
軍歌 海鷲だより shigeo amet
 昭和14(1939)年、私が中学2年のとき、中学校の先輩で
南京、重慶などの中国戦線に加わっていた小谷海軍大尉が
「制空権と制海権」という講演をした。
子供心に「これからの戦争は陸軍ではだめだ。
空で勝たなければ」と思ったことを覚えています。

司会: 土浦海軍航空隊茨城県)などでの訓練はどんなものでしたか
 昭和17(1942)年4月1日、甲種飛行予科練習生10期生として、
土浦海軍航空隊に入った。
当時は予科練は土浦にしかなかった。
私たちは血を流して涙を流して、先輩に
「追いつけ、追い越せ」の気持ちで訓練した。
予科練では飛行機には1度も乗せてくれない。
たった1度だけ「慣熟飛行」と称して水上機に乗せてくれた。
 霞ヶ浦の湖岸にある航空隊なので水上機しかない。
10~15分、教官が操縦して同乗する。
最後に教官が「筑波山ヨーソロー」と号令した。
何のことか分からん。
聞いたら「筑波山に向かってまっすぐ行け!
敵にあったら逃げずに突っ込め」ということだった。
  予科練を卒業していよいよ、飛行練習生として
九三式中間練習機)「赤とんぼ」の操縦訓練が始まった。
川西航空機K5Y1 九三式中間練習機

現在の北海道の千歳空港にあった千歳海軍航空隊で、 
まず離陸着陸訓練から始まる。
高度200メートルくらいで毎日、1日2回くらい搭乗する。
普通なら1年か1年半かかる訓練だったが、
戦局逼迫(ひっぱく) のために10カ月で卒業した。
 卒業前に、練習生300人ほどが集められ、「お前は戦闘機行け」
「お前は艦上攻撃機行け」「お前は艦上爆撃 機」と
(機種の選定を)言われる。実はその前に、希望を出すのだが、
8~9割は戦闘機に行きたいと言う。
すると、教官が
「どいつもこいつも戦闘機って言いやがって。
戦闘機では敵の船はおとせんのだぞ。もう一度考えよ」と言った。
私は2度とも戦闘機を選んだ。
そして18年11月1日、北海道の千歳から
現在の徳島海上自衛隊のところにあった徳島航空隊へ移った。

ここは実戦に使う九六式零式艦上戦闘機があった。
今は「ゼロ戦」と呼ばれるが、当時は零式と呼んでいた。
  私たちも11月23日、たった20日間の訓練で徳島を卒業した。
松山基地にあった二六三航空隊(通称豹部隊)という実戦部隊に入った。
実戦の九六式や零戦は、(赤とんぼとは)スピードが全然違う。
スピードは速い、高度はすぐワアーッと上がる。
ただ、脚をおさめないかん、フラップ(高揚力装置)を下げないか ん。
忙しいが、慣れてくればたいしたことはない。
 19年2月22日。内南洋に敵の機動部隊が初めて攻撃にきた。
そのときに二六三空の基幹搭乗員が硫黄島を通じて行った。
なんと15~16人が戦死した。
同3月31日、パラオのペリリュー島に敵の機動部隊が空襲に来た。
そのときも邀撃(ようげき)に出て12~13人の戦死者が出た。
こうして二六三空の搭乗員がほとんど戦死してしまった。
後は我々のような甲種10期の技量のまずい連中が残った。 
先輩方が「これからが戦争だぞ。今まで古い人はみな死んだ。
お前たちが国を背負って零戦で戦うんだ。しっかりやれ」。
 「よっしゃ」。 
17、18の子供が、何が国のためか。
しかし私たちは、日本祖国を守るため、勝利を信じ、
絶対勝つんだという気持ちでいた。
愛する妻子、親兄弟を遺して、 数百万人が戦死した。
阪神大震災や東日本大震災のこともすごく大事だが、
この戦死した人たちが日本を救い、現在の日本を作ってくれたことに対し、
心からの 感謝と慰霊の心をささげたい。

司会: 19年4月25日に初めて空中戦を経験し、
その後1年間フィリピンやニューギニア、マレー沖、
ヤップ島と戦ったころについては
  零戦で空中戦をしたときの話をしたい。
戦闘機同士の空中戦の訓練はしました。

19年4月25日にグアム島でB24の空襲に対して
攻撃に行ったのが初陣です。
敵の飛行機には発動機が4つもついていてごっつい。
射撃しようと照準器を狙うが、敵があまりに大きくて距離感が全然つかめない。
そこで私は「えーい、 この辺で撃て」と、
撃ったら100メートルも200メートルも離れてた。
 基地に帰ると、先輩が「笠井ちょっと来い! 貴様今日の射撃はなんだ。
あれで敵を落とせると思っているのか。
30か50メートルくらいまで接近して撃て。
弾がもったいなくて仕方がない」と教育を受けた。
幸いその後のB24の攻撃はありませんでした。   =続く

2015.3.28 08:53更新
【戦後70年】2/2ページ
「大和の科学技術は戦後花開く」 
広島・大和ミュージアムの相原さん講演 
戦後70年の節目に平和の大切さを学んでもらおうと、
特別企画「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)が
27日、大阪市北区の 市中央公会堂で開かれた。
広島県呉市の大和ミュージアム統括、相原謙次さん(60)が、
戦艦大和の造られた経緯などについて、資料を示しながら講演。
「大和に結集された技術は戦後さまざまな分野で花開き、
高度経済成長を支えた。
志を持って日本を守ろうとした技術者や乗組員の思いを
後世まで伝えたい」と訴えた。
 相原さんのほか、戦闘機「零戦」と「紫電改」の元パイロット、
笠井智一さん(89)=兵庫県伊丹市=が講演した。
 相原さんは、呉市が軍艦製造の中心地として栄えた歴史を
スクリーンで写真を示しながら解説。
「資金力の豊富なアメリカの戦艦よりも、大和の主砲は大きかっ た。
水平線に敵艦のマストが見えれば、距離を計測して正確に各砲塔から
42キロ先まで砲撃できた」と大和の高い技術力を強調した。

 九州沖に沈む大和の調査など、元乗組員らの活動についても紹介。
昭和60年に、船首にある菊の紋章を発見した際の
映像など貴重な資料も示した。
 戦後、造船業だけでなく、製鋼やカメラなどさまざまな分野に活用された
大和の技術について、
「大和は日本の科学技術とものづくりの結晶として生まれた。
性能を発揮する機会はあまりなかったが、技術は戦後花開いた」
と締めくくった。
  一方、笠井さんはフィリピンや沖縄での空中戦を振り返り、
零戦と紫電改の性能の違いなどを実体験もまじえて講演。
自身が搭乗した零戦の垂直尾翼の破片を示 し、
「17、18歳の若者が国を守るため、こんなペラペラの飛行機で
愛する妻子や兄弟をのこして一生懸命戦った。
先人たちへの感謝と慰霊の気持ちを後世へ 伝えたい」と訴えた。
 会場では、戦争体験者や遺族ら約850人が
時折涙を流しながら講演に聞き入った。
フィリピン沖の海戦で父を失った奈良県御所市遺族会会長、
杉村保幸さん(71)は
「今日の平和があるのは、多くの亡くなった人たちのおかげ。
のこされた人はつらい。二度と戦争はしてはいけない」と話していた。

【夕焼けエッセー】空襲警報発令!
【戦争の記憶】(5完)松山空襲 
一帯は焼け野原に「音まで燃えてしもとったんか」
【戦争の記憶】(4)呉空襲 「もうだめだ」…焼夷弾の雨 
3回にわたった7月の空襲「日本人の戦争継続意欲そぐため」
【戦争の記憶】(3)水島空襲 「ヒュ~ン、ザザザー」
「ドッカン、ドッカン」…爆風で家々が大揺れ、防空壕へ
【戦争の記憶】(2)高松空襲「真っ赤な空」「うめき声」
…聞き取り調査で明らかになった死者千人以上
【戦争の記憶】(1)福山空襲 「まるで生き地獄」「これが戦争か」
…降り注ぐ焼夷弾、6万人の小都市焼き尽くす

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