慰安婦問題について、いろんな報道: ベトナム戦争の韓国軍の虐殺被害者が訪韓 そこで見た「落差」とは。ベトナム戦争中の韓国軍「住民虐殺疑惑」  遺族がソウルの慰安婦集会に参加 元軍人らは反発。訪韓したベトナム戦虐殺被害者の 参加行事が参戦者団体の圧力で中止。【軍事のツボ】 日本軍がかかわったベトナムの独立戦争。

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2015年4月14日火曜日

ベトナム戦争の韓国軍の虐殺被害者が訪韓 そこで見た「落差」とは。ベトナム戦争中の韓国軍「住民虐殺疑惑」  遺族がソウルの慰安婦集会に参加 元軍人らは反発。訪韓したベトナム戦虐殺被害者の 参加行事が参戦者団体の圧力で中止。【軍事のツボ】 日本軍がかかわったベトナムの独立戦争。

ベトナム戦争の被害者が韓国で証言。許しを請う人。
ソウルの日本大使館前で開かれた元従軍慰安婦の「水曜集会」に参加した
グエン・ティ・タンさん(右から2人目)=8日(共同) 
vietnam war korea

1966年、ベトナム戦争に派兵された韓国軍部隊が、
南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)とみられる男性を捕らえた場面

ベトナム戦争の韓国軍の虐殺被害者が訪韓 そこで見た「落差」とは
The Huffington Post | 執筆者: Huffpost Newsroom
投稿日: 2015年04月14日 更新: 2015年04月14日 17時16分 JST
1975年に終結したベトナム戦争に延べ32万人を派遣した韓国軍は、
9000人に上るベトナムの民間人を虐殺したと言われる。
この虐殺の生存者が戦後70年、ベトナム戦争終結40年となる2015年、
初めて韓国を訪れた。
滞在中の出来事は、まるで2人の人生のように波乱万丈だっ た。
ハフポスト韓国版に掲載された時事雑誌「ハンギョレ21」のルポを紹介する。
4 月8日午前、ソウル中心部・鍾路にある
社団法人・平和博物館のギャラリー「スペース99」。
戦後70年、ベトナム戦争終結40年を機に開かれた
「一つの戦争、二つの記憶」写真展に招待された
グエン・トン・ロンさん(64)とグエン・チ・タンさん(55)は複雑な表情だった。
写真展のオープニングレセプションが前日、
思いがけずキャンセルされたうえ、自分たちの人生を台無しにした戦争が、
韓国では「記念」するものとして記憶されていると知ったからだった。
写真展を開いた写真家のイ・ジェガプさんが、
2人を展示場の片隅にある小さな部屋に案内した。
韓国のあちこちにある戦争記念塔を撮った写真が、
プロジェク ターから天井に投射されていた。
ベトナムのあちこちに韓国軍を忘れない60以上の
「憎悪碑」が建っているのとは対照的に、
韓国には至る所に100以上の 「参戦記念碑」があると説明された。
「韓国ではベトナム戦争を“記念”しています。
韓国のこの戦争の記憶と、ベトナムの記憶の違いを示したかったのです」
2人と一緒に訪韓したベトナム・ホーチミン戦争証跡博物館の
フェン・グォク・ボン館長(53)は
「私たちの博物館にも痛ましい写真を展示している。
戦争の話を聞き続けなければならないとは、写真家も心苦しかっただろう。
私たちは韓国の軍人も戦争の被害者だと思う。
事実を正しく認識して謝罪したとき、彼らの心 も楽になるだろう」と述べた。
前日、ベトナム戦争に参戦した元軍人の団体「大韓民国枯れ葉剤戦友会」ら、
300人以上の退役軍人が、近くを取り囲んで
平和博物館の写真展開幕を妨害した。
そのことを念頭に置いた言葉だ。軍服とサングラス姿の元軍人たちは
3〜4時間の間、軍歌を歌い、叫び声をあげ、
「自分たち が罪のない人を虐殺したと罵倒されている」と抗議した。
開幕イベントはキャンセルされ、ロンさんとタンさんは
近くで開かれた非公開の記者懇談会で
「真実を 知らせたかっただけなのに、
彼らがこの事実を認めないのがとても悲しい」と涙声で話した。
展示場は、ベトナムと韓国に建てられた戦争記念碑、
民間人虐殺の状況を証言するベトナム人の写真で埋め尽くされた。
人の写真の前には半透明のビニールが日よけのようにかぶせられていた。
この作家は「ベ トナム戦争当時、アメリカ軍は遺体を処理する際に、
主にビニールを使った。
ビニールは戦争を連想させるものなんです」とした。
半透明のビニールの向こうに ある写真には、しわくちゃの、
生気のない老婆が、涙があふれんばかりの目で幼い孫の顔と向き合っていた。
伝えたいが、伝えられない言葉を噛みしめるよう に。
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グエン・チ・タン(後列左)さんとグエン・トン・ロンさん(後列右)氏が
4月8日昼、ソウル中心部の日本大使館前で開かれた
元日本軍慰安婦らの「水曜集会」に参加し、
元慰安婦らと一緒に立っている。

元慰安婦たちとの出会い
旧 日本軍の元慰安婦を支援する民間団体
「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は、毎週水曜日に
ソウル中心部の日本大使館の前で「水曜集会」(水曜デモ)を開く。
この日は、150人の参加者が集まった。
ロンさんとタンさんは写真展の観覧を終えた後、
デモの場所まで歩いていって、2人の元慰安婦の後ろに立った。
「孫よ、あなたはこの言葉を覚えておけ。
韓国の軍人は私たちを爆弾の穴に追い込んでみんな撃ち殺した。
孫よ、大きくなってもこの言葉を覚えておけ」
ロンさんとタンさんが写真展の後で参加した、
旧日本軍の元慰安婦や支援団体が日本大使館前で
毎週水曜日に開いている「水曜デモ」のプラカードに書かれた文だ。
マ スメディアのカメラマンが押しよせ、2人の表情はしばらく固くなった。
誰かが「穏やかな表情で」と頼んで、やっとわずかな笑みを浮かべた。
挺対協のユン· ミヒャン代表がマイクを握り
「二度と、どんな戦争でも、性暴力の被害者や民間人虐殺の犠牲者を
出してはなりません」と叫んだ。
タンさんは「元慰安婦の方々 と韓国の友人にあいさつします。
私の名前はグエン・チ・タン、韓国軍による民間人虐殺の生存者です。
虐殺のとき8歳でした」と話した。
タンさんが発言する たびに、デモの参加者たちからため息が漏れた。
ロンさんとタンさんが旧日本軍の元慰安婦たちと会ったのは、
この日が初めてではなかった。
訪韓初日の4月4日、宿に荷物を置いてすぐに向かったのが、
元慰安婦たちの共同生活施設「ナヌムの家」だった。
ロンさんは1966年2〜3月、
計1004人が死亡したタイヴィン虐殺の生存者だ。
虐殺で母と妹を失い、孤児となった。
タンさんは1968年2月12日、住 民74人が犠牲になった
フォンニィ・フォンニャットの虐殺で生き残った。
母と弟、姉、叔母、甥など5人の家族を失った。
これらの事情を聞いた元慰安婦の ユ・フイナムさん(87)は
「戦争被害者の苦しみと悲しみを本当に理解できる人はあまりいない。
同じ被害者に会うと本当にうれしい」と語った。
加害者が韓国軍か日本軍かの違いだけで、
被害者は簡単に共感して悲しみを分かち合った。

最初の記者会見とインタビュー
訪韓3日目の4月6日、ロンさんとタンさんは韓国の国会を訪れた。
「50年近い月日が流れたが、残酷な虐殺と苦痛に満ちた悲鳴は
生々しく頭の中に残っています。
あの日の記憶が呼び起こされると、半月は眠れず、体が痛みます。
しかし、あの日を記憶し続け、伝えていくことが
私の人生最後の任務と考えています」
国会議事堂の政論館でロンさんとタンさんは、
これまで数百回繰り返し話してきた虐殺当時の様子を証言した。
韓国で、それも公開の場で話すのは初めてだった。
痛みを伴う証言への反応は、翌日に伝わった。

7 日午後、写真展の開幕イベントはキャンセルされた。
代わりに、宿泊していたホテルの小さな部屋で
非公開の記者会見を開いた。
ベッドを外に出し、他の部屋から椅子を借りて、
わずか約10人の記者と2人のベトナム人、1人の通訳が座る席を用意した。
記者の質問が始まる前にロンさんは
「外に出て、あの人たちに話をしたい。
記者たちに話して伝わるだろうか」と焦った。
窓の外から、「枯れ葉剤戦友会」が歌う国歌が聞こえてきた。
ロンさんは「元軍人たちに会って、丁寧に挨拶をしようと思います。
私がここにいるとは思っていないでしょう。
韓国の国民に、韓国の軍人がベトナムにいたとき何が起きたのか、
率直な私の心情を打ち明けたい」と言った。
窓 の外からまた「ワーッ」という叫び声が聞こえてきた。
ロンさんは「彼らを許す」とも述べた
「皆さんが過ちを犯したのは過去の旧制度で起きたことです。
皆 さんを許す心を十分に持っています。
もし皆さんが過去の過ちを直視し、過ちを正す気持ちを持っているなら、
私たちは皆さんを十分に理解できます」
「枯れ葉剤戦友会」の叫び声と喚声は続いた。
ロンさんとタンさんのインタビューは、
2人が経験した虐殺の状況について、具体的な証言に入った。
「銃声がより近くなり、住民の悲鳴と叫び、大声が一緒に聞こえてきました。
やがて音は遠ざかりましたが、妹と私の間にいた母は、
私たちに手拭いをかけていました。
母の手拭いのぬくもりで、お腹が空いたことも、
のどが乾いたことも忘れていました」
ロ ンさんの母は、虐殺が起きた日は一日中、
ロンさんと妹を抱いて防空壕の中に隠れていたが、
遅くに韓国軍に見つかった。
よその村の住民と一緒に連行され、銃 と手榴弾を乱射された。
母は下半身がほぼなくなった状態で発見された。
妹は頭がめちゃくちゃに壊れていた。
母の話をするとき、ロンさんは目を赤くして言葉 を詰まらせた。
見守っていたタンさんが腕をさすり、何とか証言を続けた。
証言が具体的になればなるほど、頰が震えて涙が浮かんだ。
窓の外から、マイクを 握った人々の叫びが聞こえてきた。
タンさんも証言を続けた。
「まだら模様の服を着た韓国の軍人が、
子供たちが入っていた防空壕に手榴弾を入れるふりをしながら
『出てこい』と言いました。
出てこなければ投げるということでした。
あまりにも怖くて出て行くと、一人ずつ銃で撃たれました」
タ ンさんの兄は、その場で片方の尻が吹っ飛び、
一緒にいた叔母は、韓国軍の銃剣に突かれて死んだ。
姉と弟、甥もみんな銃で撃たれて死んだ。
話が進むにつれ、 タンさんの嗚咽はすすり泣きに変わった。
「あのときは8歳だったが、今でもあの日のことを生々しく、
鮮明に覚えている」と語った。

その日の 夕方、2人を慰労する会が催された。
2人に縁のある韓国人が一堂に集まった。
ベトナムとの友好を目指す若い作家たち、ベトナム平和医療連帯、
保健医療労組、挺対協、アジアフェアトレードネットワークなどの
100人余りが招待された。ベトナム戦争に参戦した人もいた。
写真家のイ・ジェガプ さんはこの席で
「2人に申し訳ないという言葉を、
このような場でできるようになってよかったと思う。
韓国人にも良心的な人がたくさんいることを知ってほし い」とあいさつした。
ロンさんは「韓国に来たのは、ただ共感と平和を分かち合うためです」と答えた。
通訳の韓国人は「ロンさんは足に残っていた手榴弾の破片を取り除いたが、
ずっと足がしびれていた。でも韓国に来てからは痛くないとおっしゃっています。
タンさんはもう韓国人が怖くないとおっしゃいました」と 紹介した。
集まった人々が立ち上がって拍手した。
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4月9日午後、「大韓民国枯れ葉剤戦友会」大邱支部の会員が
大邱・慶北大学のキャンパスで集会を開いた。
チョン・チュングァン大邱支部長(73、左から2番目)は
「どこの国の戦争でも、少数の民間人が被害に遭うのは仕方がない」と述べた。
枯れ葉剤戦友会「突撃、前へ」
ロ ンさんとタンさん一行は4月8日、水曜デモの後、釜山に向かった。
この日の夕方、釜山市の公園で、翌日には
大邱の慶北大学で講演することになっていた。
「枯れ葉剤戦友会」が行く先々で2人を出迎えた。
8日の懇談会場となっていた釜山の公園の入り口で
「枯れ葉剤戦友会」釜山支部の会員約170人が反対集会 を開いた。
9日には大邱・慶北大学のキャンパス内で、
「枯れ葉剤戦友会大邱支部」の会員40〜50人がデモをした。

「通訳の韓国人を殺せ!」
「こんな行事を許可した総長は辞任しろ!」

夕 方、キャンパスに下品な言葉がこだました。
見物していた大学生と教職員が呆れた表情を浮かべた。
「学校の中でこんなの許可していいのか」「学生会は何をし ている」。
「枯れ葉剤戦友会」のチョン・チュングァン大邱支部長(73)は
「どこの国の戦争でも、少数の民間人が被害に遭うのは仕方がない。
でも私たちはあの時、民間人は撤退するようにビラをまいたし放送もした。
残っていたのはみんなベトコンだ」と言った。
ある記者が尋ねた。
「赤ちゃんも死んでいる。それはどう説明するんでしょうか?」。
戦友会のメンバーがざわめいた。
「事情も知らないくせに何を言う!」
「子供がベトコンのいる防空壕にいたんだ」。
戦友会会員のキム・テボン氏が
「行くぞ。俺たちが入れないように、わざと記者が邪魔しているんだ」
と会場に向かおうとした。
チョン支部長が「ちょっと待て」と立 ちふさがった。
記者を取り囲んだ戦友会のメンバーはうろたえた。
ときどき「突撃、前へ!」「自由大韓!」といった叫び声が上がった。
いつの間にか日が暮れ ていた。

会場になった講堂には200人ほど聴衆が集まっていた。
4箇所の出入口のうち3つは閉められていた。
予定時間から15分ほど遅れてロンさんとタンさん一行が入ってきた。
司会者は「外にいる『枯れ葉剤戦友会』のメンバーが
『自分たちも撤収するから大義名分がほしい。
記者を撤収させ ろ』と言ってきた。だからお願いします。
記者さん外に出てください。
私は言いましたからね」と冗談を言った。
聴衆が笑った。参加者の紹介が終わり、ロンさ んが話し始めた。

「私はベトナムから来たグエン・トン・ロンです。始める前に、
まず一言申し上げます。
今日、私が話そうとしていることは、私の目で見て、
耳で聞いて、体で体験したことです」

拍手が沸き起こった。
ロンさんとタンさんが韓国で過ごす最後の夜だった。
会場の外にいた「枯れ葉剤戦友会」のメンバーは、
いつの間にかいなくなっていた。
ロンさんとタンさんがすでに数百回繰り返した話に、
人々は耳を傾けていた。

「私は心臓で話をしています。
歴史の真実を聞いてもらうためです。
怨恨や憎悪をあおるつもりもありません。
韓国軍の民間人虐殺の生存者です」。
ロンさんはこの日も、母の死のところで涙声になり、
言葉を詰まらせた。(翻訳:吉野太一郎) 

ベトナム戦争中の韓国軍による住民虐殺疑惑で、
家族を失った被害者2人が訪韓し、
8日、毎週水曜日にソウルの日本 大使館前で開かれる、旧日本軍の
従軍慰安婦問題で日本政府に謝罪などを求める「水曜集会」に参加した。
韓国ではベトナムに派兵された元軍人らが被害者の訪韓に反発し、
予定された行事の一部が中止に追い込まれた。
韓国でも、加害の歴史をめぐる対立が表面化した。
 「韓国挺身隊問題対策協議会」の尹美香常任代表は8日の集会で、
日本が慰安婦問題での加害の事実を認めないと主張 しながら
「私たちが(他国に)被害を与えたことを認めなければ日本と同じになる」と、
ベトナムから被害者を招いた理由を述べた。
韓国軍が1968年に中部 クアンナム省で約70人を殺したとされる事件で
母や姉など5人を失ったグエン・ティ・タンさん(55)は、
日本への要求行動を「同じ戦争の被害者として応援したい」と話した。(共同)

2015.4.7 23:21更新
韓国軍の「虐殺」被害者のベトナム人参加の会合、
旧軍人団体の反発で取り消し
韓国紙ハンギョレ(電子版)は7日、
ベトナム戦争時に「韓国軍駐屯地域」で起きた
「民間人虐殺被害者」の遺族であるベトナム人2人が参加して、
ソウル市内で開催を予定していた会合が、退役軍人団体の抗議で、
直前に会場の予約を取り消されたと報じた。
 記事によると、会合は7日夜、市内にある寺院の施設で開く予定だったが、
ベトナム戦争に参加した退役軍人でつくる複数の団体が反発、
「行事を完全封鎖する」として現地での抗議集会を計画したことなどから、
寺院側が3日、行事の申請取り消しを主催者側に通知したという。
 記事は「韓国社会の一部の二重の
歴史認識があらわになったとも指摘される」とし、
「ベトナム戦問題を解決できなければ、
日本との過去の歴史問題も解決できない」とする大学教授のコメントを掲載した。
ナヌムの家を訪れた韓国軍によるベトナム人虐殺の被害者。
「韓国政府も謝罪しなかった」。
慰安婦「他の国にも私たちのような被害者がいるとは」。
・・・挺対協などは、韓国軍の加害行為についてはある程度取り上げるのである。
続・慰安婦騒動を考える 

6日午後、国会正論館でベトナム虐殺被害者である
ウンウイェントルロン氏(男性・64)とウンウイェンティタン氏(55)、
ホーチミン市戦争証跡博物館長のフイヌンオクポン氏(53)が
記者会見を開き当時の状況などを説明している。
キム・ギョンホ先任記者//ハンギョレ新聞社 
hankyoreh

訪韓したベトナム戦虐殺被害者の
参加行事が参戦者団体の圧力で中止
2015.04.07 07:44
曹渓宗は安全上の理由でレセプション取り消し
 「歴史歪曲の二重定規」と批判相次ぐ

 「私たちがベトナム戦問題を解決できなければ日本との過去の歴史も解決されない」
 専門家は参戦軍人団体に苦言「感情的対応は問題解決の助けにならない」
 「合理的な考えの人たちが組織文化を変えねば」
 ベトナム戦当時の韓国軍駐屯地域で発生した
民間人虐殺被害者が参加する行事が、参戦軍人団体などの激しい反発で
会場の予約が取り消されるなど、異常な事態となっている。
参戦軍人団体は「歴史を歪曲する不純勢力の反民族的行為」と主張し、
行事を大規模集会で「完全に封鎖」すると警告した。
歴史と領土を歪曲 した日本の中学校教科書検定結果をめぐり
韓国社会が騒然とした6日、その韓国社会の一部の二重の歴史認識
露わになったとも指摘される。
 平和博物館は7日午後7時、ソウル堅志(キョンジ)洞の曹渓寺内にある
韓国仏教歴史文化記念館国際会議場でベトナム戦を扱った
イ・ジェガプ写真展「一つの戦争、二つの記憶」のレセプション行事を行う予定だった。
先月6日に手続きを終えていたが、曹渓宗財務部は3日になり突然、
申請を取り消すと平和博物館に通知した。
曹渓宗はハンギョレとの通話で「
理念葛藤と安全上の問題で行事を取り消すことにした」と明らかにした。
 レセプションには、4日にベトナム戦終戦40年目にして初めて韓国の土を踏んだ
ベトナム戦民間人虐殺被害者ウンウイェントルロン氏(64)と
ウンウイェ ンティタン氏(55)が参加する予定だった。
曹渓宗が突如行事を取り消したのは「大韓民国ベトナム戦参戦者会」や
大韓民国枯れ葉剤戦友会」などの
ベトナム戦参戦軍人団体の反発を憂慮したためだ。
ベトナム戦参戦者会は2日、曹渓宗に行事手続きの取り消しを求める
公文書を送り付けた。シン・ホチョル ベトナム戦参戦者会事務総長は
「捏造された(内容の)行事なので開催してはならない。
座視しない」と主張した。
ベトナム戦参戦者会は会員たちに
「左傾化した反国家的な一部勢力が民間人虐殺被害者の証言という、
根拠も証拠もない演劇を行おうとしている。
命を縮める覚悟で彼らの陰謀を粉砕する」と公示した。
 キム・ソンウク枯れ葉剤戦友会事務総長は
「(私たちの)名誉にかかわる行為だ。行事を完全に封鎖するため
7日に1000人が曹渓寺前に集まることにし た」と話した。
キム事務総長は「過去にもハンギョレが書いた虚偽記事で集会をした。
今回もなにが起きるかわからない」とした。
枯れ葉剤戦友会はベトナム戦 民間人虐殺を最初に報道した
時事週刊誌ハンギョレ21の記事に抗議し2000年6月、
ソウル麻浦(マポ)区 孔徳(コンドク)洞のハンギョレ本社に
乱入して防火を試み、印刷施設、自動車、コンピュータなどを壊した。
関連者が拘束されると枯れ葉剤戦友会役員がハンギョレを訪ねて謝罪している。
 鍾路(チョンノ)警察署は
「衝突の恐れがあり曹渓宗側に枯れ葉剤戦友会の集会事実を知らせた。
その後、曹渓宗で判断し手続きを取り消したと理解してい る」と話した。
ファン・チュンギ曹渓宗財務チーム長は
「ベトナム戦関連団体の抗議などで施設破損および正常業務に
重大な支障が予想されるため、やむをえず 申請を取り消した」と説明した。
 平和博物館は6日、警察に
ベトナム訪問団などに対する「身辺保護要請」をした
これでレセプション行事の開催も不透明になった。
ソク・ミファ平和博物館 事務局長は「民間人虐殺被害者は5日に
京畿道広州(クァンジュ)のナムヌの家の慰安婦歴史館を訪問している。
彼らの訪問目的は戦争被害者である韓国とベトナムが
共感できることを探そうとするもの」と語った。
平和博物館側は「民間人虐殺被害者の初めての韓国訪問は、
日本軍慰安婦被害者の初めての日本訪問と同 じ意味を持つ」と
招請趣旨を説明したことがある。
 パク・テギュン ソウル大国際大学院教授は
「私たちがベトナム戦問題を解決できなければ、
日本との過去の歴史問題も解決できない。
ベトナムの被害者の話を聞くのは参戦軍人の犠牲を否定するものではない。
彼らも犠牲者と認められるよう国家の謝罪を要求する」と述べた。
パク教授は「韓国政府が民間人虐殺に対して謝罪をする瞬 間、
参戦軍人も加害者でない国家動員被害者になるという点を
認識しなければならない。感情的対応は問題解決に役立たない」と指摘した。
 キム・ドンチュン聖公会大社会学科教授は
「参戦を名誉と考える人にとり民間人虐殺があったという事実は、
自分の存在の否定になることなのかもしれない。
だとしても合理的な考えの人たちが参戦軍人団体の
組織文化を変えていく必要がある」とした。
 ベトナム戦当時、韓国軍に家族を奪われ本人も負傷した
ウンウイェントルロン氏とウンウイェンティタン氏は、
この日、国会正論館で記者会見を開き訪韓の趣旨を明らかにした。
彼らは「誤った歴史と戦争を記憶しなければならない理由は、
再びそんなことを繰り返させないためだ。
韓国独立70周年、韓国軍ベトナム 派兵50年になる今年、
韓国とベトナムが相互平和と協力の道に進むことを祈る。
その道を行くには何より歴史に対する正しい省察が
先になされなければならな い。
私たちの訪問が韓国社会にベトナム戦に対する深みある議論に
つながることを期待する」と話した。
キム・ソンファン、キム・キュナム記者
「慰安婦被害お婆さんたち、戦争が無くなる日まで...

ベトナム戦争虐殺の生存者2人が初めて訪韓
2015.03.30 04:05
ベトナム戦争当時、韓国軍駐留地域で発生した
民間人虐殺事件被害者2人が韓国に来る。 
 社団法人・平和博物館(理事長イ・ヘドン)は28日、
「光復(解放)70年、ベトナム戦終戦40年を迎え、
4月7日から開催するイ・ジェガプ写真展「一つ の戦争、二つの記憶」に合わせて
戦争被害者ウンウイェン・トルロン氏(64)とウンウイェン・ティタン氏(55)、
そしてホーチミン市戦争証跡博物館長フ イヌン・オクポン氏(53)を招請した」
と明らかにした。 3人は4月4日に仁川(インチョン)空港を経て入国し、
初日に京畿道・広州(クァンジュ)にあるナヌムの家慰安婦歴史館の訪問を始め、
一週間にわたり国会 をはじめソウル、釜山、大邱で開かれる
招請懇談会に参加する。 
ベトナム戦当時、韓国軍駐留地域の民間人虐殺事件生存者が
韓国に来るのは初めて、1965年10月に韓国軍がベトナム戦に
戦闘兵力を最初に派兵して以後 50年ぶりであり、
1975年4月30日のサイゴン陥落でベトナム戦が終了し
南ベトナムが崩壊してから40年ぶりだ。

ウンウイェン・トルロン氏//ハンギョレ新聞社
 ウンウイェン・トルロン氏は1966年2月15日、
住民65人が犠牲になった猛虎部隊駐屯地近隣の
ビンディン省タイビン市アンビン村で、ウンウイェン・ ティタンさんは
1968年2月12日住民74人が犠牲になった青龍部隊駐屯地近隣の
クアンナム省フォンニィ・フォンニャット村から来た。 
事件当日、猛虎部隊員の民家捜索過程で母親と妹を失い、
下半身に手榴弾の破片を受け生涯にわたる苦痛を受けた
ウンウイェン・トルロン氏は2003年に韓国人医療団体である
ベトナム平和医療連帯の支援を受け破片除去手術を受けた。 
ウンウイェン・ティタンさんは村に入ってきた青龍部隊員によって
母親、姉、弟、叔母、年下のいとこなど家族五人を失い、
兄は身体障害者になり、本人も腹部に銃弾を受け
内臓が外に出る重傷を負い1年間の入院治療を受けた。 
 その日の記憶と後遺症に苦しみながらこれまで生きてきたという二人は、
前もって準備した声明書で
「残忍な虐殺と苦痛の悲鳴で記憶される“虐殺の声”は今も
 頭の中に残っている」として
「私たちの訪問により韓国社会でベトナム戦争に対する
深い議論がなされることを期待する」と明らかにした。

ウンウイェン・ティタン氏//ハンギョレ新聞社
 2人と共に韓国を訪れるフイヌン・オクポン 
ホーチミン市戦争証跡博物館長は4月6日午後に国会を礼訪して
国会政論館で「ベトナム終戦40周年、韓越親善」を主題に演説を行う予定だ。
 招請行事を企画した平和博物館のソク・ミファ事務局長は
「ベトナム戦での韓国軍による被害者の初の韓国訪問は、
終戦40周年をむかえて市民社会次元で両国間に
辛い歴史を改めて振り返ってみようという趣旨で、
1992年慰安婦出身おばあさんの初の東京訪問に肩を並べること」と話した。

フイヌン・オクポンさん//ハンギョレ新聞社
 ベトナム戦期間である1965~1973年に延べ32万人を派兵した韓国軍は、
ベトナム戦当時に北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線ゲリラなど
敵軍5 万人余りを射殺(味方の死亡は5000人)したという
戦果だけを公式に明らかにしてきたが、1999年9月に
時事週刊誌ハンギョレ21がベトナム戦韓国軍 作戦地域である
中部5省の被害者インタビューを初めて報道した以後、
9000人以上の民間人を虐殺したという疑いと論議に包まれてきた。
コ・ギョンテ記者
ベトナム参戦「枯れ葉剤戦友会」会員が打ち明ける...
【ベトナム】戦争証跡博物館に行ってきた War Remnants Museum topronet
2014/04/16 に公開

戦争証跡博物館は、ベトナム・ホーチミンにある
ベトナム戦争の歴史を紹介する博物館。­
屋外にはベトナム戦争で使用された戦車、戦闘機、
ミサイルなどが展示されていて、
屋内­には戦時中の写真や銃器、枯葉剤の影響で
障害を負った方々の写真も展示されていた。

2014.10.15 15:30(2/4 3/4 4/4ページ) sanspo.com
【軍事のツボ】
戦史や軍事についての調査・研究を進める機関というと、
日本ではまず防衛省防衛研究所が挙げられるだろう。
その防衛研 究所が「戦争史研究国際フォーラム」を、一般にも門戸を開いて
毎年開催している。
9月に開催された同フォーラムの発表の中に興味を引かれる部分があった。
第2次世界大戦の敗戦後、フランス領インドシナ
(仏印、現在のベトナム、ラオス、カンボジア)に駐留していた日本軍が、
英軍からベトナム独立勢力鎮圧の役割を担わされたというのだ。
アジア各地の独立戦争に身を投じた残留日本兵の話は結構知られているが、
真逆の“知られざる史実”も存在したと思いきや、
意外などんでん返しがあった。 
同フォーラムは、戦争史について多国間で比較研究することで
戦争史を多角的に検討しようとの趣旨で、国内の研究者だけでなく、
海外の研究者も招いて発表が行われている。
 今年は、第1次世界大戦から100年の節目で、
同大戦が近代戦における統合・連合作戦の
幕開けと位置づけられることから、
統合・連合作戦について重点的に発表された。
 仏印の残留日本兵については、この地域での英軍の戦後の進駐や
独立運動の鎮圧作戦についての発表の中で触れられた。
  残留日本兵とは、日本の敗戦後も東南アジアや中国などに帰国せず
居残った旧日本軍の将兵のこと。
正確な数は分かっていないが、軍属や民間人もあわせると、 
2万人はいたとの推測がある。
フィリピン・ルバング島に1974年まで潜伏していた
小野田寛郎元陸軍少尉(今年1月死去)らは特によく知られた例だ。
 そのほかにもインドネシアのオランダからの独立戦争、
ベトナムのフランスからの独立戦争、中国の国共内戦などでは、
残留日本兵が将兵の教育や作戦指導なども行ったほか、
多くの武器まで提供している。
仏印には700~800人の日本兵が残ったと推定されており、
大半はベトナムにいた。
インドシナ半島東部地域では、1862年にコーチシナ
(ベトナ ム南部)の一部が割譲されたのを皮切りに、
フランスの植民地支配が始まる。
インドシナ総督が設置され仏印が成立するのは1887年で、
フランスがベトナム の独立を承認した1954年まで続いた。
 第2次大戦が始まり、フランスにはドイツ軍の占領によって
1940年6月ヴィシー政権が成立、ドイツと休戦する。
同政権は同年8月に日本軍の北部仏印への進駐を認め、
さらに41年7月には南部仏印への進駐も認める。
 これによって日本軍は大規模な戦闘なしで、
形の上では合法的に仏印に進出し、敗戦までこの地域では
米英軍との間に地上戦は行われなかった。
 44年にヴィシー政権が崩壊し、仏印のフランス軍が
連合国寄りの姿勢を見せ始めたことから、日本軍は45年3月に
フランス軍(約5万)の武装解除を目的とした
明号(めいごう)作戦」を実施。
これによりフランス植民地政府を解体した。
 その後、日本が降伏すると、ベトナム南部には英印軍
(インド人で構成された英軍)第?歩兵師団が進駐。
同時に独立運動の火の手が上がり、9月にはホー・チ・ミンによって
ベトナム民主共和国の樹立が宣言された。
  ここからが残留日本兵の“出番”となる。
日本軍は進駐していたものの直接の統治者ではなかったことなどから、
おおむねベトナム人と友好的な関係を築いており、
接触の機会が多かった。
そのためベトナム独立に共感したり、荒廃した日本へ帰るよりも
現地で一旗揚げたいと考えたりする者がいた。
また捕虜になること や戦犯に問われることを恐れたなどから、
残留して独立勢力に協力する者が続出した。
ベトナム、カンボジア、ラオスの現地人は
軍事面でフランス軍や英軍に太刀打ちできない。
そのギャップを埋めたのが、部隊から離脱した残留日本兵だ。
深く関与していたことを示す一例として、ベトミン軍の士官学校がある。
  フランスからの独立を求めて戦った第1次インドシナ戦争が始まる
直前の1946年6月に、 
ベトナム中部クァンガイに「陸軍中学校」が設立されたが、
これは 残留日本兵の発案で、教育も残留日本兵によって行われた。
教官として、中原光信氏や谷本喜久男氏らの名が知られている
(いずれも故人)。
 その反対にベトミン軍など独立勢力の討伐に
日本軍が利用されるということも起きている。
ベトナム南部には、本国から兵力を派遣する余裕のない
フランス軍に代わって英印軍第20師団が45年9月に進駐したものの、
独立勢力を押さえ込むには兵力が不足していた。
  そこで9月末に師団長のダグラス・グレーシー少将が、
南方軍総司令官、寺内寿一元帥に「治安維持の責任は日本軍にある」
としてベトナム人鎮圧を命じた。
この命令の法的根拠は8月末に連合国軍東南アジア司令部と
南方軍の間でかわされた「ラングーン協定」とされる。
同協定では正式降伏までの間、東南アジア地域での
治安維持には日本軍が責任を持つなどとされていた。
 しかし、日本が降伏文書に調印して正式に降伏したのは45年9月2日。
その日以降 はラングーン協定の枠外になるはず。
さらにハーグ陸戦条約では、捕虜に労働をさせることは認めているが、
作戦行動に関係しないことと規定されている。
もち ろん同条約は日本も英国も調印・批准し発効している。
つまりラングーン協定そのものの有効性にも疑問符がつくのではないか
いずれにしても、一度終わった戦争をまたやれと言われ、
士気が上がるはずはない。
しかも相手は比較的関係の良好なベトナム人だ。
 掃討作戦が行われる前には、日本側が顔なじみのベトナム人を通じて
部隊展開日時や場所を独立勢力に教え、衝突を回避するようなことが
たびたび行われた。
また、衝突した際も銃を上に向けて撃つなど、互いの犠牲を避けようとした。
まともに戦おうとしない日本軍に英軍側も業を煮やし、
たびたび督戦してきたとい う。
 それでも犠牲は避けられず、46年3月までの間の確実な者だけで
164人の戦死者を出している。
ベトナム側も45年12月までに戦死者818人に及んだとされる。
 10月からはフランス軍増援部隊が順次到着し、
日本軍は治安維持任務から解放される。
そして武装解除が11月から始まり、46年1月下旬には完了した。
そして南部仏印の独立運動は表面上、フランス軍の鎮圧で一旦下火になる。
  そんななか英軍、フランス軍ともに、独立勢力の中に
日本人が紛れて指導していることを重視。
一刻も早く日本人を本国に帰国させたほうが、
独立運動を押さえ込むには有効と考え、離隊・逃亡者の発見と
引き揚げに熱心に取り組みんだ。
仏印からの引き揚げは46年6月ごろにはほぼ終了してしまったほどだ。
  そうまでしても独立運動を押さえ込むことはできず、
46年12月からフランス軍とベトミン軍の間に武力衝突が本格化し、
第一次インドシナ戦争へと突入した。
結局、仏印の日本軍は英印軍側、独立勢力側のどちらにいても、
結果的に独立運動に手を貸したと言うことができるのではないか。
(梶川浩伸)
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