慰安婦問題について、いろんな報道: 続・慰安婦騒動を考える、池萬元「慰安婦は蒙昧な父兄の虐待の産物」。【韓国メディア】 慰安婦の多くは、無知蒙昧な 朝鮮家庭による女性卑下文化の産物。 挺対協が行う不純な遊び、中断させるべき

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2015年6月2日火曜日

続・慰安婦騒動を考える、池萬元「慰安婦は蒙昧な父兄の虐待の産物」。【韓国メディア】 慰安婦の多くは、無知蒙昧な 朝鮮家庭による女性卑下文化の産物。 挺対協が行う不純な遊び、中断させるべき

池萬元「慰安婦は蒙昧な父兄の虐待の産物」
2015/06/02 22:01 続・慰安婦騒動を考える
池萬元(チ・マンウォン)のこの「オピニオン」は、少し前に崔さんのツイートで知った。
独自に注釈を施すなど丁寧に訳されていた。以下の訳でも一部参考にさせて頂いた。
 池萬元 けっきょく韓国ではこういう扱い?
不幸な家庭から、新時代の到来
(それをもたらしたのが、日韓併合というわけか)に希望をつなぎ都市へと
逃げ出した朝鮮半島の少女たちが人身売買の罠にかかり娼婦となったのは、
やはり悲劇である。
チ・マンウォンが紹介するように、比較的正直に語ったと思われる慰安婦の
回顧譚にはこの種の話が少なくない。
だから、
「事実を知りながら慰安婦問題を政治問題として浮上させるために
社会に誤った認識を拡散(池萬元)」させている挺対協系の人々より
よほど慰安婦の不幸(人生)を正しく理解している、と言えるかもしれない。

ただし、人身売買は日本政府によって禁じられ、軍もこれを認めなかった。
今日の朝日新聞で、尹明淑が
「軍に選ばれた業者などが就業詐欺や人身売買で女性を集められたのは、
まさに植民地だったから」などと思わせ振りな事を言っているが、
日本統治下の朝鮮でも就職詐欺や人身売買はご法度である。
その一方で、九州の女性が騙されて慰安婦にされるという事件も起こっている(1932)。
なに言ってるんだか・・・。

チ・マンウォンは、10年前にも、貧しさから自ら売春した慰安婦が8割だと主張して、
挺対協に告訴されている。挺対協や尹明淑のような人々が
徹底して無視する慰安婦の本当の人生(不幸)。
위안부 문제를 한미일 안보협력 체제를 깨기 위해 악용하고 있다 

승인 2015.05.23  23:01:55
挺対協が行う不純な慰安婦の遊び、中断させなければ慰安婦問題を
日米韓安保協力体制を破るために悪用している

【韓国メディア】 慰安婦の多くは、無知蒙昧な
朝鮮家庭による女性卑下文化の産物。
挺対協が行う不純な遊び、中断させるべき[05/29] 
LingLing ★@\(^o^)/[] 投稿日:2015/05/29(金) 19:20:59.15 
 ■挺対協が展開する不純な慰安婦遊び、中断させなければ 
―慰安婦問題を韓米日安保協力体制を破るために、悪用している
解放前後史の再認識(※2006年発刊)』第1冊434-476ページには

サンフランシスコ州立大学のソ・ジョンヒ教授の貴重な論文が掲載されている。
以下に要旨を紹介する。

よみがえる討論の時代:『解放前後史の再認識』を読んで
2006年 夏号 (通卷 132号)  季刊『創作と批評』日本語版
植民統治の最後の10年(1935-45)は朝鮮の産業革命期だった。 
農民たちは土地から追放されて、労働階級が胎動して、
人口の流動性が増大し、都市社会が広く拡散されて、
女性界では、いわゆる新女性に対する羨望が拡散されていた
そんな時期だった。
1917年、李光洙(イ・グァンス)の小説『無情』が連載された。 
この小説は新文明の普及書だった。
西欧の新文明が流入して、開化思想が広がり、新青年と新女性を
恋愛の表象とした新小説だった。
1935年、沈薫(シム・フン)の常緑樹は息苦しくて、せせこましい農村を
啓蒙するための啓蒙書だった。
当時の農村の人々の考えがどれほど固陋で原始的かを赤裸々に描いた。 
慰安婦もこのような開化期時代の産物だったのだ。

190人の慰安婦を調査したところ、88%に当たる168人が

まさに脱農村時期の1937-44年の間に慰安婦になった。 
都市を欽慕する一種のゴールドラッシュが盛んだった時代に、
家庭を飛び出した娘が、人身売買団のよい餌食になったのである。
181人の慰安婦を調査した結果、そのうちの4分の1以上が
すでに家族と離れて家政婦、工場労働者、食堂、妓生の家、
接待婦などとして働いていた途中、慰安婦になっており、
66%程度が満州、台湾、中国などに搬送されていった。
慰安婦へ行くことになった場合は、家庭をすでに出ていた女性だけに

該当するのではなかった。
家庭で親や兄たちから暴力を受けていた若い娘たちが暴力を避けて逃げ、
それで人身売買団の罠に引っかかったりもして、学びの新たな岐路を探して
広くなった世界に逃げてくるというのが、即ち人身売買団の犠牲になって
慰安婦の道に入ることもあった。 
当時、人身売買団の手先は大部分が朝鮮人たちであり、
軍隊慰安婦を経営する人たちの中には朝鮮人たちもかなりいた。
慰安婦に行く道は二つのルートがあった。 

家庭-労働市場と慰安婦業所に行く過程があり、
直に家庭-慰安婦業所に行く過程があった。 
このような過程を促進した媒体が人身売買団であり、
人身売買団に捕らえられた環境は、つまり、女性に対する家庭内暴力や虐待、
そして学びに対する羨望を無条件に抑圧する無知蒙昧な
朝鮮家庭の女性卑下文化のためだった。
ソ・ジョンヒ教授は、家庭から直に慰安婦という穴に落ちた

恨多き慰安婦6人のケースを挺対協資料で簡単に見つけ出した。
こうしたことにも挺対協は、この事実を知りながらも慰安婦問題を
政治問題として浮上させるために、社会に誤った認識を拡散させた。
挺身隊の主張によれば、全ての慰安婦は家庭にいた慎ましい娘たちだったが、

ある日突然、日本巡査たちが押しかけてきて強制的に捕まえて、
日本軍が運営する遊郭に入れたというのである。 
ソ・ジョンヒ 教授によると、これは事実ではない。 
ソ・ジョンヒ教授が調査した6人の慰安婦の事例は
これを理解するのに明白な資料になる。
以下にソ・ジョンヒ教授の事例を要略して紹介する。

(朝鮮の親が娘たちを慰安婦に追いやった代表的な事例)
1)ムン・ピルギ(※2008年死去。):挺対協が

毎週日本大使館の前で主催するデモに常に参加している
女性である。彼女は18歳になった年の1943年後半から

2年の間に満州の軍慰安所で働いた。
1945年、 解放を迎え、平壌 - 開城 - ソウルを経て故郷に行ったが、
すぐに故郷を離れ、晋州 - 木浦 - 光州 -全州を回りながら
独身で過ごしていたという。
彼女は1925年、慶南金陽郡で2男9女をもうけた小さな商店(雑貨屋)で生まれた。

子供の頃、最もしたいことが勉強だった。
父は「女子が勉強すれば、キツネ(※「狡猾」の意味)
にしかなるものはない」と怒った。
母がこっそり一升の米を売って、普通学校に入れてくれた。
一週間も経たずに、父が娘を教室から連れ出し、本を燃やしてしまった。
それでも、怒りが収まらず、娘を死にもの狂いで殴って
家から追い出してしまった。
本家に行っていたが、もう勉強をしないという約束をした後、家に帰ってきた。
勉強ができなかったことが恨になった状態で、9歳から家事をして、

畑仕事もして、綿畑の草取り、繭紡ぎもした。
雑貨屋で売るサツマイモも蒸した。農作業をするたびに、
ご飯を炊いて野に運んだ。
そんな1943年の秋のある日、村に住む日本の手先役をする50代のおじさんが、
勉強も出来てお金も稼ぐことができる場所に送ってくれるというので、
ついて行った。18歳だった。
その男と日本人巡査が彼女をすぐ車に乗せ釜山に連れて行った。
長い髪を切ってチマチョゴリを脱がせワンピースを着せた。
そして、他の4人の女性たちと一緒にそのまま満州に移送された。
この物語を含めて、以下のすべての話は
挺対協が編纂した「証言集」に収録されている。
この女性は、毎週水曜日12時に日本大使館の前に出て日本が

自分を強制的に連行して慰安婦にしたと謝罪と被害補償を要求しているのである。
この慰安婦の遊びは、スパイの妻であり、
挺対協の常任代表ユン・ミヒャンが運営している。
問題は、この元慰安婦女性にではなく、挺対協にある。
2)イ・サンオク:この慰安婦の父は慶尚北道達城郡達城面長だった。

作男をもうけ、農業をして富農でもあった。
9歳の時に学校に入ったが、兄が
「小娘を学校にやって、使い物になるのか」と学校に行けないようにして、
本を焚口に入れて燃やしてしまった。
それでも学校に行こうとしたところ、殺すと言って脅迫した。
隣家のお姉さんが学校に通うのがとても羨ましく見えて、

その年、母にも知らせず、ソウルに逃げ出した。
叔母が学校に行かせてくれたが、兄が叔母に執拗な圧力を加えた。

叔母の家を出てトンビという家に入った。
9人の娘たちがいたが、この女の人たちはみんな自身の父によって売られてきた。
15歳の彼女が最も幼かった。この9人が行く所について行ってみると、下関だった。
彼女らを引率した軍属が10人の生娘たちを渡した所は、
まさに朝鮮人夫婦が運営する軍の遊郭だった。
彼らは、娘たちとは何の関係もなく、 金を取り交わした。
この元慰安婦の女性は、日本語を話すために、
日本軍の病院で働いて給料も受けた。
日本軍医が彼女を可哀想に思って朝鮮に帰そうと思ったが、
その日、爆撃を受けふいになった。
この女性も、女性への家庭内暴力のために遊郭に追いやられたケースであった。
3)イ・ドゥクナム:この慰安婦は1918年生まれである。

彼女は1939年から3年は中国で、そして他の3年はスマトラで慰安婦生活をした。
学校に行きたかったが、父は飲んだくれであり、賭博師であり、
理由もなくぶん殴った。
「家にいることが死ぬほど嫌だった」17歳で嫁就に行けと言われたが、

彼女はこれを売られることだと考えた。
近くの友人と一緒に俸給を受け取ることができる仕事を見つけるために、

列車に乗って仁川紡織工場に行った。それが慰安婦への道だった。
4)キム・オクシル:この慰安婦は1926年に平壌市内、10里なる村で生まれた。

現在はキム・ウンリェとして知られている。
彼女の父親も勉強しようとする娘に過酷な鞭打ちをした。
11歳の時、近隣の友人がハングルも教えてくれて
歌も教えてくれるところがあるといって一緒に行ったが、
何日かして父に見つかった。
「小娘の分際が文字を学んでどこに書くんだ、

恋愛手紙でもしようというのか!」叱る父親が怖くて、
祖母の後ろに隠れたが、脚を折ると言いながら殴りつけた。
その後、父を見たくないので家を出た。
ある日、おばさんから平壌では妓生が最高と言われた。
きれいな服を着て、きれいな輿に乗って通うという妓生になりたくて
妓生ハウスに行って養女となった。
わずか一週間で父に見つかった。 
「この小娘は先祖の恥、村の恥沢山かかせて歩き回って」と殴られ、
家に押し戻された。
そして靴下工場に飛び出した。
そこから3年、タバコ工場で4年働いて、やがて人身売買団に引っ掛かった。
5)ペ・ジョクガン(※2004年死去):この慰安婦は1922年生まれである。

この娘は自殺までも図ろうとしたほど母親からひどい虐待を受けた。
廣木工場で働くことにしてくれるという地元の人の嘘に騙されて
家を出たのが、 すぐに中国行きになった。
中国のあちこちの慰安所を渡った。 
1946年家に帰ってきたが、母は冷淡だった。
母が臨終の時、娘を探したが、彼女は行かなかった。

6)ソン・シンド:この慰安婦は1922年生まれで、

母親からひどい虐待を受けた。
16歳の時から食べていくために多数の職を転々としていく中、
良い仕事を探してくれるという近隣の人の誘惑に嵌って、
中国に行ってから1938年から1945年まで慰安婦生活をした。
日本人兵士が結婚しようとして日本に同行したが、
彼は日本に到着するやいなや、彼女を捨てた。

 (政治目的のために慰安婦悪用する挺対協)
この6つの事例はごく一部のものに過ぎないが、

当時の朝鮮の社会像をよく映している。 
これらを悲劇的な奈落の底に追い込んだのは、日本巡査ではなく、
彼女たちを生んでくれた父と母、兄たちだった。 
当時、社会は開化の風に乗っていた。 
若い娘たちは外の世界への憧れや、家庭における暴力の間で
脱出を選択しており、 その脱出は、そのまま人身売買団への進入を意味した。
このような事情をめぐって、

「当時、朝鮮の娘たちはみんな家庭にあり、
日本巡査たちが家庭に攻め寄せてきて娘たちを強制的に連れて行った。 
謝罪を行い、補償をせよ」このように叫んでいるのだ。 
もちろんシム・ミジャの場合のように、日本巡査が教室などから
強制的に連れて行ったケースもある。
しかし、シム・ミジャお婆さんの証言や上の社会像を見れば、
たいていの慰安婦は、家庭内暴力と無知から脱出して
人身売買団に引っかかった娘だったという考えを抱かせる。
上6つのケースはすべて挺対協が作成した文章にある内容だ。 

すべての事情をよく知っていながらも、
挺対協は慰安婦を政治的目的で街に広めている。 
ムン・ピルギは毎週水曜日に大使館前で「私の青春を補償せよ」
とデモをしているが、挺対協が編纂した「証言録」によると

彼女は日本に要求するものはひとつもない。
解放前後史の再認識、第1冊2部は「植民地下の女性の人生」

という主題を扱っている。 
ここには日本大阪産業大学のふじながたけし(藤永壮)教授、
米シカゴ大学のチェ・キョンヒ教授、サンフランシスコ州立大学の
ソ・ジョンヒ教授の書き込みが膨大な分量の論文で掲載されている。

この三者の論文を見れば、韓国の挺対協の主張が

どれほど荒唐無稽なものかを一つ一つ知ることができる。
さらに、論文が引用した根拠資料を見ると、日本人たちの調査が大変多い反面、

韓国人の調査が非常に乏しい。
韓国国内の学者は、この分野についての研究をせず、
挺対協は客観性が欠如した感情的主張をしてきた。
ゆえに、この分野を研究する多くの国際学者たちに
恥晒しな結果をもたらしたということが、これらの資料に示されている。

まず、ふじながたけし(藤永壮)教授の文

「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」の内容を紹介したい。

(日本軍慰安所の元祖、上海慰安所)
1.沖縄に居住した朝鮮人元慰安婦の証言を記録したルポルタージュなど

十数冊の本が日本で発行された。
慰安婦問題が日本に衝撃を与えたのは1991年8月から慰安婦たちが
相次いで自らの存在を明らかにし始め、次いで日本政府を相手に
補償を要求した訴訟を展開したことから胎動した。 
資料上確認されたところによれば、
1932年上海慰安所が一番先に現れたものであり、
日中戦争開始後、この地域での慰安婦の数が最大規模だったため、
上海慰安所は他地域のモデルになったはずである。 
したがって、上海慰安所の環境を研究することはその意味が非常に大きい。
上海には個人的な稼ぎのために

日本人売春女性(からゆきさん)が海外に出た最も典型的なケースである。
上海駐在日本領事館は1880年代からからゆきさんに対する

取り締まりに乗り出した。 これは公娼制度の導入を意味した。 
公娼制度の設置の動機は
1)強姦防止、2)軍の士気高揚、3)、性病予防、4)防諜 であった。
当時、上海での朝鮮人女性の実態は、こうであった。

上海で朝鮮人女性ダンサーが出現した。 
カフェで働く女給も出現した。
朝鮮人が運営する私娼もあった。
彼女らは、新興接客婦で仕方なく売春をした。
こうした女性らは不況のためにますます多く上海に集まってきた。

1936年当時、上海には朝鮮人女性ダンサーが37人、
彼女らは、風俗を混乱させたという非難も受けた。
日本人が経営する飲食店やカフェなどで働く朝鮮人女給は48人、
彼女らはお金を稼ぐために密売淫をして主人と半分ずつ分けた。 
この頃、上海には290人の朝鮮人私娼も存在した。 
私娼というのは公娼と認められることができなかった所だった。
満州事変(1931年9月)の時に現れた慰安婦は基本的に売春婦出身であり、

その中には朝鮮人女性が一部含まれていたが、
日中戦争の中期である1940年頃には朝鮮の娘を
強制的に連れて慰安婦をやらせた「性的奴隷」なども新たに出現した。
日中戦争が全面化した後、

慰安所が大量に開設される時期に慰安所経営者の中に
朝鮮人の名前がかなりあった。
日本軍が開設していた慰安婦は

1)軍職営慰安所、2)軍が監督・統制する軍専用慰安所、
3)民間売春所を兵士用に指定した所(民間、軍共用)、
4)純粋な民間専用の慰安所
(軍が通っても、それは個人的な事)。
4番目のタイプの慰安所は、日本軍慰安所とは何らの関係がない。 
1932年3.14者上海派遣軍高級参謀オカベナオサブロウ
(岡部直三郎)の日誌には、このような文言がある。
「この頃、兵士たちが女を探してあちこちさまよって淫らな話を聞くことが多い。 

これは避け難いことなので、むしろ積極的に施設を作ることが良いと判断。」
上海派遣軍参謀副長のオカムラヤスジ(岡村寧次)はこう回想した。
「慰安婦問題を考える。 斯く言う私はお恥ずかしいですけど、

慰安婦案の創設者だ。 昭和7年(1932)の上海事変の際に、
二、三件の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長だった私は
そこの海軍を倣って長崎県知事に要請して慰安婦団を招いた。
 その後強姦罪が完全に止まったために嬉しかった。」
1932年当時、上海の日本人の風俗営業現況は次のようである。 

料理屋3カ所、飲食店72、喫茶店13、 海軍慰安所17、クラブ2、
ダンスホール1、芸妓134、舞踏女170、酌婦166。

(上海の日本人の売春の歴史)

「明治元年(1868年)から明治14-15年(1881-1882)のころまで

上海駐在日本人の数は10-100人がせいぜいであり、
1年に平均5-6人ずつ増加した。 
大体、男3分1、女3分の2だった。 女性の6-7割は
外国人を相手に売春をした。 
彼女らが日本の売春の先駆者かもしれない。 
モリサキカズエ(森崎和江)の著書『からゆきさん』では明治15(1882)に
上海に800人の売春婦がいたと指摘した。 
日本女性達がたちまち増えた上海では領事館がこれを国家の羞恥とみなして
捕らえて500-600人を本国に送還した。 
それでも依然として200人程度は隠れていた。」

(結論)
売春の歴史は、どの時代、どの国でもみな暗い歴史として連続されてきた。 

我が国でも1961年5.16革命以前までの売春は違法で統制された。 
それで売春は密かに家庭に浸透し、性的暴行や殺人などの
悪い形で広がっていった。 
ゆえに、朴正熙の最高会議は公娼制を採択した。 
家庭に入り込んでいた性犯罪や性病等が非常に効果的に改善された。
上の論文の一部を見ると、当時、日本も道徳と品位と
性的の需要をめぐって、様々な考えを持ったと推測され、
当時の彼らの悩みも、今も私たちが解決しないまま
抱えている悩みと一致したと考えられる。
今の私達の社会を見てみよう。 

韓国社会はおそらく世界で上位圏に属する性的風紀紊乱共和国だ。
国家を率いてゆく席はあるが、その席に座っている人たちは、

無能と利己心でお互いに噛みつくことで1年365日を過ごしている。 
このようなやり方で幾年を更に費やされたら、
我々は北朝鮮に飲み込まれてしまうだろう。
もし今、北朝鮮に飲み込まれると、私たちの国の女性、
国民は70年余り前に日本人から受けた苦痛とは比較さえできない
悲惨な扱いを受け、命さえ失うことになるだろう。
昔の祖先の愚かさで、強大国に飲み込まれたのは事実だ。 

もし日本に飲み込まれずに、中国やロシアに飲み込まれたのなら、
ロシアの慰安婦の境遇や中国の慰安婦の境遇は、
日本の慰安婦の境遇よりも良好だっただろうか。
私は絶対ないと思う。 
それなら、慰安婦問題で日本を恨むよりも、
愚かなまねをして国を奪われた
私達のご先祖さまを恨まなければならないだろう。
しかも、ソ・ジョンヒ教授が指摘したようにほとんどの慰安婦は

無知蒙昧の韓国の父と兄たちの虐待が生んだ産物だったのだろう。 
このような性格の問題を持って針小棒大して歪曲し、
慰安婦問題を韓米日安保協力体制を破るために悪用していることは
一日も早く停止されなければならない。
しかも、挺対協指揮部は、北朝鮮とスパイに深くかかわっている人たちが
掌握しているではないか。
直ちに、毎週水曜日に日本大使館前で繰り広げている水曜集会から
中断させなければならない。 恥ずかしくてたまらない。  

English Translation of Comfort Women Articles by Scholars
October 24, 2014
"The Comfort Women" by Professor C. Sarah Soh
Professor Chunghee Sarah Soh was born in South Korea and graduated
 from Sogang University there.
She then moved to the United States and received her Ph.D.
in anthropology from University of Hawaii.
She is a professor of anthropology at San Francisco State University.
教授C.サラソーによる「慰安婦」 ※グーグル翻訳による意訳

教授Chungheeサラ·ソー

教授Chungheeサラ蘇氏の著書「慰安婦」はアマゾンで利用可能です。
http://www.amazon.com/The-Comfort-Women-Postcolonial-Sexuality/dp/0226767779
以下は、優れた本です review. http://www.japantimes.co.jp/culture/2009/05/10/books/book-reviews/continuing-controversy-of-comfort-women/#.VLzLMpX9mcx
この本では、教授蘇は北朝鮮のプロパガンダを広げ、日本と韓国の間の

和解をブロックするために慰安婦問題を使用するため
(また정대협挺対協韓国でチョン府Hyupとして知られている)韓国の
活動家グループ「韓国議会」を批判しています。  
彼女は、韓国社会は、被害を否認その共謀を認めると、
システムが犯罪者ではなかったことを受け入れなければならないと主張しています。 
彼女はまた、戦場で日本兵にランク低いことによって強要された
オランダとフィリピン人女性の数が少ない場合は異常であったこと、
およびほとんどの女性(日本語、韓国語、台湾)を募集し、
売春ブローカーによって採用されたと主張します。
・・・省略
この抜粋では、「1920年、いくつかの韓国人女性が海外で売春婦になっていました。
札幌のレストランで働いていた人たちが働いていた韓国人男性にサービスを提供し、
産業慰安婦になった。 "と言います 初期の1930年代の多くの韓国人女性が
売春婦として労働に海外で販売された。
東亜(トンア)日報、植民地時代にさかのぼる韓国の主要日刊紙の一つは、
百程度女性の月であったことを、1932年12月2日に報告の
「はじまり、この報告書は、後知恵では、実際には1945年まで、
1930年代を通じて軍隊を提供するために韓国人女性の大規模な動員を
予測するようだ遺族; 40大阪、北海道、サハリン、台湾で売春宿に勝った
50のために販売お客様の声は十分に戦争韓国人男性と女性の間に
積極的に日本軍に奉仕する若い同胞の募 集に協力し、
また、慰安所を実行したことを示しています。」  
トランザクションに関与する様々な費用を控除した後」、貧困を研削400から
500のための植民地時代の韓国で未婚の娘を階級の家族を売却
作業の下で四から七年間の契約期間に獲得した。
親がお金の70%に60を受け取りました。 
" サンフランシスコ州立大学の教授Chungheeサラ双とのインタビューで、
かつての韓国慰安婦キム-okが、彼女は彼女の両親が4回を販売したという。  
まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを
国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。 

韓国の世宗(セジョン)大学の朴教授Yuhaとのインタビューで、
かつての韓国慰安婦ペチョン·ソンヒは、彼女は彼女を販売し、
彼女の父親を嫌っていると述べました。  
まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを
国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。
かつて韓国の慰安婦ムン奥chuがで述べている
彼女の回顧録 「私は韓国人売春ブローカーによって採用されました。
私は先端からかなりの金額を保存したので、
私は節約のアカウントを開設しました。
私は私の節約アカウ ントにそんなにお金を持っていることができることを
信じることができなかった。
私の友人の一人は、多くの宝石を収集しましたので、私は行って、
ダイヤモン ドを買った。
私は多くの場合、日本の映画を見に行き、歌舞伎はプレイヤーが
日本本土から来た果たしている。
私はヤンゴンで人気の女性となった。
現場に近いよりラングーンのもっと多くの役員がありましたので、
私は、多くのパーティに招待されなかった。
私はパーティーで歌を歌ったとヒントをたくさん受けました。
私は、ハイヒールのペアに緑のコートを入れて、
ワニ革のハンドバッグを持っていた。
私はファッショナブルなドレスについてswaggered。誰町にできました
私が慰安婦であったことと思います。
私は帰国する許可を受けた。とても幸せと誇りを感じたが、
私は戻って韓国に行きたくなかった。
私はヤンゴンに滞在したかったです。」  
教授Chungheeサラ蘇氏の著書によると、ムン奥chuが
戦後韓国で売春婦として働くために続けました。  
まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを
国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。  

韓国の新聞とのインタビューでハンギョレは
(artcileは5月15日、1991年に掲載されていました)
元韓国の慰安婦キム·ハク·スンは、
彼女は彼女の母によって販売されたという
ンフランシスコ州立大学の教授Chungheeサラソーとのインタビューで、
キム·ハク·ソンが彼女の母親は彼女が彼女を販売する前に、
平壌で芸者として訓練するために彼女を送ったと述べました。

まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを
国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。

ソウル大学の教授安Byong JIKとのインタビューで、
かつての韓国慰安婦キム·ガン-JAは、
彼女が彼女の養父によって販売されたという。

まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを

国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。

キム·ガン-JAはまた、2007年に外務省に米国下院委員会の前で証言し、

彼女が日本軍によって拉致されたと述べました。 

ソウル大学の教授安Byong JIKとのインタビューで、
かつての韓国慰安婦イ·ヨンスは、彼女と彼女の友人キムしゃれ-太陽が
韓国売春ブローカーによって動員されたと述べました。

サ ンフランシスコ州立大学の教授Chungheeサラソーとのインタビューで、

イ·ヨンスは、私がみすぼらしく身を包んだと悲惨されたとき」と述べた。
私は私の母に内緒私の友人しゃれ-日に家を出た日には、
私がいました私の足に黒のスカート、綿のシャツと下駄を身に着けている。
私がいかに喜んで私は赤いドレス と韓国のリクルーターからの
革の靴のペアを受信したときにあなたが知っていません。」

まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを

国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。

イ·ヨンスはまた彼女は、彼女が話すように5分を持っていたと言われた

2007年に外務省に米国下院委員会の前で証言しました。  
彼女は命令を無視し、1時間以上が泣きながら叫んでのパフォーマンスに
置くために行ってきました。  
彼女の偽の証言は、米国ハウス衆議院決議121の通路になりました。
   
ソウル大学の教授安Byong JIKとのインタビューで、
かつての韓国慰安婦キムOK-SILは、
彼女は彼女の父によって販売されたという。
サンフランシスコ州立大学の教授Chungheeサラソーとのインタビューで、

キムOK-SILは、彼女の父親は、彼が彼女を販売する前に、
平壌で芸者として訓練するために彼女を送ったと述べました。

まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを

国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。 
  
ソウル大学、チールウォン-OKの元韓国慰安婦の教授安
Byong JIKとのインタビューで、
彼女は彼女の両親によって販売されたという

サンフランシスコ州立大学の教授Chungheeサラソーとのインタビューで、

チールウォン-okが、彼らは彼女を販売する前に、
彼女の両親は彼女が平壌に芸者として訓練するために送られたと述べました。

まだ彼女は、彼女が日本軍によって拉致されたことを

国連の質問器ラディカクマーラスワーミーの前で証言しました。 

何人かの人はチョン府Hyup(정대협挺対協反日ロビーは)言って
女性を指導する「私は日本軍によって拉致された。」
のシーンを目撃していました

かつて韓国の慰安婦をインタビューし、

ソウル大学の教授安Byong JIKは、私が最初にインタビューしたとき、
それらのどれもが日本軍について言うことは悪い何もしなかった」と言う。
実際には、それらはすべて、彼らが日本兵としていた良い時代を回想。
しかし、後にチョン府Hyupは彼らの証言が
完全に変わっていた、それらを閉じ込め。」  

日本兵はインドネシア、フィリピンの戦場でオランダと
フィリピン人女性の数十を誘拐しました。  
(これらの兵士たちは、裁判所martialedた、そのうちのいくつかは、
実行された)しかし、朝鮮半島が戦場ではなかったため、
日本軍は、韓国ではありませんでしたので、韓国人女性が
日本軍によって拉致されていませんでした。  
日本は謝罪と補償、およびオランダは、インドネシア、フィリピン、台湾、
すべての日本の謝罪を受け入れ、
日本と和解した(韓国売春ブローカーは韓国で韓国人女性を募集し、
戦場での慰安所を運営しました)。 
だから、これらの国と日本の間には慰安婦の問題はありません。  
チョン府Hyup日本の謝罪を受け入れることを拒否し、
世界各地で
「日本軍によって拉致された韓国人を含む20万若い女の子 "の
誤った主張を広めるために続けているため慰安婦問題は、韓国に残っています。  

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