慰安婦問題について、いろんな報道: ナヌムの家のドキュメンタリー映画、『"記憶"と生きる』 土井敏邦監督 2015年6月7日 (日) 12:00~。・・3人の証言?を分析・・・

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2015年6月5日金曜日

ナヌムの家のドキュメンタリー映画、『"記憶"と生きる』 土井敏邦監督 2015年6月7日 (日) 12:00~。・・3人の証言?を分析・・・

http://doi-toshikuni.net/j/kioku/
2015年6月7日 (日) 12:00~ (開場 11:30)
日比谷コンベンションホール
日比谷図書文化館 地下1階
 東京メトロ 霞が関駅 C4・B2出口 徒歩3分
 都営地下鉄 内幸町駅 A7出口 徒歩3分
 →地図・交通アクセス

前売・事前予約:1500円
当日:一般/シニア/学生 1800円 高校生以下 1000円

予約・問い合わせ先:記憶と生きる上映委員会
上映情報
東京2015年6月7日 (日) 12:00 日比谷コンベンションホール 
東京2015年7月4日(土)~ アップリンク
『"記憶"と生きる』予告編 土井敏邦 Toshikuni Doi

深く刻まれた傷を抱え、壮絶な戦後の半生を送った
ハルモニたちのありのままの声と日常

元「慰安婦」たちが肩を寄せ合って暮らす韓国の「ナヌム(分かち合い)の家」。

1994年12月から2年にわたって日本人ジャーナリストが
ハルモニ (おばあさん)たちの生活と声をカメラで記録した。
元「慰安婦」という共通の体験以外、その境遇や歩んできた道は
まったく異なるハルモニたち。支えあい、 時には激しくぶつかり合う。
そんな生活の中で彼女たちは消せない過去の記憶と、抑えられない感情を
日本人の記録者にぶつけ、吐露する。
あれから20年近く 経った今、あのハルモニたちはもうこの世にいない。
残されたのは、彼女たちの声と姿を記録した映像だった……


「ナヌム(分かち合い)の家」で暮らすハルモニたち。
過去を忘れるための酒が手放せず荒む女性、息子に過去を知られ
悩み苦んだ女性、戦後、結婚もできず孤 独に生きてきた女性……。
彼女たちの日常生活とともに、「慰安婦」の記憶や
戦後の波乱の半生を語る5人の声を丹念に記録。
ナヌムの家の住人で最年少の姜徳景(カン・ドクキョン)は、
「女子挺身隊」として日本に渡るが、脱走したことで「慰安婦」にされる。
望まない子を宿 し、戦後帰国した彼女の波乱の半生。
その体験と心情を姜徳景は絵で表現した。
やがて肺がん末期と宣告される。彼女が死を迎えるまでの2年間を記録。

姜 徳景
カン・ドクキョン。1929年、韓国南部の裕福な家庭に生また。

1944年、国民学校高等科1年生の時、
「女子挺身隊」として富山県の軍需工場に送られた。
しかし過酷な労働と空腹に耐えられず寮から脱走、
直後に軍人に捕らえられて強姦され、長野県松代町の慰安所に送られた。
日本の敗戦後に帰国する途上で、妊娠を知り、
避難先の韓国南部の旅館で出産した。
息子を釜山の孤児院に預けたが、4歳の時、肺炎で死亡したと告げられた。
食堂の経営や米軍基地の運転手などさまざま仕事を転々とし、
50代にはビニールハウス農場に住み込み、10年近く働いた。
1992年に「ナヌムの家」設立時に入居。
そこで始まった絵 画教室で学び、過去の体験を絵画で表現し始めた。
1997年1月、肺がんのために死去。享年68歳。


金順徳
(キム・スンドク)1921年、貧農に生まれる。
17歳の時、「日本の工場で働ける」と騙され、
中国の上海や南京の郊外で4年間、「慰安婦」生活を強いられる。
帰国後、鉄道庁の職員の「妾」となり、3人の子を生んだ。
「夫」の死後、洗濯婦や病院の付き添い
看護などさまざまな仕事をして子供を育てた。
テレビで日本政府要人の
「『従軍慰安婦』たちは金が目的で戦地へ行った」という主張を知り、
怒りがこみ上げ、過去を公にした。
しかし子供たちに過去を知られる恐怖、衝撃を与えた自責に長年悩み苦しんだ。
2004年6月死去。享年82歳。

朴玉蓮(パク・オクリョン)1919年生まれで、ナヌムの家の最年長。
23歳の時、「軍たちの世話や治療、看病をする仕事」と騙されてラバウルに送られ、
「慰安婦」にされ た。
帰国後、普通の結婚もできず、公務員の「妾」になり、3人の子を生み独りで育てた。
貧しくて優秀な息子を大学にやれず、日本から補償金をもらって、
その息子に「家」を買ってやりたいというのが夢だった。
子供たちには「慰安婦」だった過去を隠し、ナヌムの家がどういう施設かも知らせず、
移り住んだ。 2011年5月に死去。享年92歳。


土井 敏邦(どい としくに)
1953年佐賀県生まれ。ジャーナリスト。
1985年以来、パレスチナをはじめ各地を取材。

1993年よりビデオ・ジャーナリストとしての活動も開始し、
パレスチナやアジアに関するドキュメンタ リーを制作、テレビ各局で放映される。
2005年に『ファルージャ 2004年4月』、2009年には
「届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと」全4部作を完成、
その第4部『沈黙を破る』は劇場公開され、
2009年度 キネマ旬報ベスト・テンの文化映画部門で第1位、
石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。
次作となった『“私”を生きる』(2010年)は、 
2012年度キネマ旬報ベスト・テン文化映画部門で第2位。
東日本大震災後に制作された中編
『飯舘村 第一章・故郷を追われる村人たち』(2012年)では
「ゆふいん文化・記録映画祭・第5回松川賞」を受賞。
また、2012年には、ビルマ(ミャンマー)か ら政治難民として
日本に渡った青年を14年にわたって見つめた
『異国に生きる 日本の中のビルマ人』で2013年度キネマ旬報文化映画第3位、
文化庁映画賞文化記録映画優秀賞受賞。
その他に『飯舘村 放射能帰村』(2013)、「ガザに生きる」全5部作(2014)など。
著書は『アメリカのユダヤ人』、
『沈黙を破る─元イスラエル軍将兵が語る“占領”─』(いずれも岩波書店)など多数。
土井敏邦 ホームページ  土井敏邦 ツイッター

2014/01/01 続・慰安婦騒動を考える
絵など3060点、国家記録物として永久保存へ (韓国

姜徳景(カ ン・ドクキョン)が描いた銃殺される男(左下)。
みな言葉を濁すが(朝鮮日報も「犯人」と曖昧にしている)、
幾つか関係者の本を読むと、どうも昭和天皇のようである(もちろん断定は出来ない)。
マインド・コントロール下にある「ハルモニ」の絵に
どの程度の学術的価値があるかは分からないが、
こうした「日本 軍被害ハルモニ」の絵などを
「歴史的、学術的な価値が非常に高いことから、国会指定記録物として指定」
するくらいなら、韓国軍の特殊慰安隊に関する資料の非公開指定を撤回したらどうか?

姜徳景、証言について
秦郁彦は、著書(慰安婦と戦場の性 新潮選書 1999)で
この時期に富山地区憲兵隊に勤務していた2人は、憲兵は単独行動はしない、
サイドカーを使う、小林という憲兵はいなかった、不二越の周囲には
遊郭があったと回想し、2人はそうした事はしていないと記している。
従って「小林」は憲兵ではなく遊郭と関わりのある業者で
軍服に似た国民服を着ていたのだろうとしており、
姜徳景の証言の真偽については明確には述べていない。

姜徳景(カン・ドクキョン)  1990/03/12 (Mon)
従軍慰安婦問題を考える
-------------------- 以下、2007.6.27追加 --------------------
また、「写真」の69ページには、同女の写真と共に
「市民たちが解体・保存している松代の『慰安婦の家」跡で座り込んでしまった。
自分はここにいたのではないかと思ったからだという。」
というコメントが載せられています。

しかし、この慰安所跡は以下の<ご参考>の通り、 
朝鮮人労務者向けの慰安所です。
もし、そこにいたのなら、同女は主に朝鮮人労務者を相手にしていたことになり、
そうすると、証言の中に朝鮮人労務者が一切出てこないのは、
少なくとも正確なことを言っていないことになります。

-----------------<ご参考>-------------------------
<秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6>
「松代には西松組が七千人の朝鮮人労務者のために作った
十五軒の慰安所があった」(日垣隆「松代大本営の真実」1944、136ページ、
「週刊金曜日」97年2月14日号の馬場千奈津稿、NHK衛生第一TV
「戦争・心の傷の記憶」98年8月14日放映) (P.188)
<松代大本営の保存をすすめる会編
「新版 ガイドブック 松代大本営」新日本出版社2006.7>

「同年(注:1944年)11月ごろから、20歳前後と思われる4人の朝鮮人女性が、
『親方』と呼ばれる朝鮮人の一家4人と、買い出し役をしていたらしい
1人の下働きの男と一緒に住み込み、客に料理を出し、性の相手をさせられた。
~(中略)~  ここを利用したのは誰か。
はっきりわかっていないが、日本の軍人たちは来ていなかったようである。
崔小岩さんが「行ったことがない」と証言しているように、
朝鮮人労務者も、過酷な労働の中で慰安所に出向くのは
不可能と考えるのが妥当だろう。児沢さんの証言も合わせてみると、
朝鮮人の中でも、現場の頭などをしていたような
上層部の人たちが来ていたのではないかと考えられる。」(P.54~55)
 ※松代の慰安所跡の当時の様子等

「『慰安所』 児沢聡さんの証言 
『~(前略)~次の日に詳しく聞いたら、
そろそろ朝鮮人の労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらしねように、
慰安婦を連れてきて料理屋兼ねてやるから
貸してくんねかって言ってきたから~(後略)~』」(P.55) ※慰安所跡の家主の証言

【信憑性】
日本国内の慰安所に入れられたという証言は非常に怪しいものです。
単に売春宿に入れられただけではないでしょうか。 2007.6.27削除
同女が本当に松代の慰安所跡にいたなら朝鮮人労務者のことが出てこないので、
「もしかすると、一般の日本人や朝鮮人も含めて、『兵隊』もしくは
『軍人』と言っているのではないか」という疑念が生じます。
(ただし、「写真記録 破られた沈黙」では、「ここにいたのではないか」と
可能性を示唆しているだけで す。) 現時点では、判断は保留します。(2007.6.27追加)

金順徳(キム・スンドク)  1990/03/13 (Tue)
◆◆◆ 金順徳(キム・スンドク) ◆◆◆
※金徳鎮(キム・ドクチン)(仮名)と同一人物

【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1921年慶尚南道生まれ。父親はタバコの密造
(あくまで自分で吸っていただけ)がばれて日本の巡査に捕らえられ、
鞭でひどく打たれて帰ってきた後、病にかかり死亡。
以降、飢え死に寸前の苦しい生活となる。
12歳の時、普州の銀行員の家で女中となり16歳まで働く。
1937年17歳の時、日本の工場で働く女工の募集している
朝鮮人の男に騙され、長崎に行きそこで軍人に強姦される。
1週間後、上海に向かいそこで慰安所に入れられる。
引率してきた朝鮮人が慰 安所の経営者であった。
1940年、親しくしていた「イズミ」という軍人の好意により親友4人と共に帰郷する。
2004.6.10死去。

【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
釜山で、引率が騙した男から朝鮮の男女二人に代わる。
そこから長崎に行き旅館で1週間過ごすが軍人の監視がつき、
同女は階級の高い軍人に強姦される。
同女たちを引率した朝鮮人が慰安所の経営者。

【考察】
慰安所までの移動途中で、軍人の関与があるのは長崎だけです。
もし、軍の関与があって逃げないように監視が必要と考えていたなら、
長崎のみで監視がついたのは疑問です。
また、証言では、長崎で毎晩のように軍人達に強姦され、
同女の質問に対して軍人が「命令がおりなければどこへ行くのかわからない。
何をするかは行ってみればわかる」と答え、軍人達が
彼女達を慰安婦として働かすことを知っていたと思われる発言もしています。

長崎でだけ軍の関与を示唆する記述があるのも奇妙で、
後からの追加ではないかと疑いたくなります。
-------------以下 2007.4.12追加---------------------------
また、下記資料の
「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993)
(以下、「証言」)と
「高槻私立総合総合市民交流センター
『金順徳さんの証言を聞く会』」(2003)
(以下、「高槻」を比べると下記の通り相違点があります。

<騙された仕事>
○「証言」・・・日本の工場で働かせる
○「高槻」・・・準看護婦

<長崎での強姦>
○「証言」・・・長崎で滞在していた1週間、毎晩、軍人に強姦される
○「高槻」・・・長崎経由とあるだけで、該当する記述なし
→ 「高槻」では、単に省略しただけかも知れませんが。
<追加された日本軍人の残虐行為>
○「証言」・・・該当する記述なし
○「高槻」・・・以下の証言が追加されている
   ・中国人の足を焼いて作った薬を飲まされる
   ・トラックに首をぶら下げていた
   ・南京には「人なら誰でも殺せ」命令が出ていた。
   ・「ミナミナコロセ!」「ヒトヒト、シナジン、ミナミナコロセ!」
韓国の学校でもこの言葉が唱えられた。
→ 証言内容がエスカレートして過激さが増しています。
韓国の学校で「ミナミナコロセ」等と唱えられた等、ありえないでしょう。
-------------以下 2007.4.15追加-------------------------
さらに、「私は「慰安婦」ではない」(1997)では、
「証言」では「朝鮮の男が日本の工場で仕事をする女を募集していたので
応募した」という話だったのが、「処女供出」の情報が追加され、
「妹が「供出」されるくらいなら自分が行く方がましだという思」って
自ら志願した話に なっています。
そして、志願した時に聞いた仕事内容が「臨時の看護婦をしたり、
軍人の服を縫製したり、そういう軍に関係する」と、
工場で働くのとは全く異 なる内容になっています。

また、この頃より、「中国の軍人の足を焼いて作った薬を飲まされた」
という話が追加されているようです。
-------------以上 2007.4.15追加-------------------------
-------------以上 2007.4.12追加---------------------------
【信憑性】
もともとは、工場の女工に応募した話が、妹の代わりに自ら処女供出に
志願したという話に変更され、また、後の証言になるほど
過激な情報も追加しているようです。 信憑性はありません

朴玉蓮(パク・オクリョン)  1990/03/14 (Wed)
◆◆◆ 朴玉蓮(パク・オクリョン) ◆◆◆
朴順愛(パク・スネ)(仮名)と同一人物
 【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1919年(戸籍上は1920年)4月20日、全羅南道茂朱(ムジュ)生まれ。
16歳の時、貧しい家庭に事情も知らず嫁いだが、その家を逃げ出し、
1936年18歳の時、金持ちの後妻になる。
1938年20歳で息子を出産。
1941年23歳の時、猜疑心の強い夫に紹介所に売り渡される。
紹介所(注) で慰問団を募集するという話を聞き、
「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」
ということだったので自ら志願、以降、ラバウル で慰安婦生活を強いられ、
1944年正月頃に朝鮮に帰郷。
(注)紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。
お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。
買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。

【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
朴という人物が募集をし、その朴と金、趙の3人の引率の元、
軍艦に乗ってラバウルに向かう。この3人は慰安所で事務の仕事をしていた。
【考察】
夫に紹介所に売られた後
「野戦病院で軍人の服を洗い、彼らが負傷したら治療してやればいい」
と言う話に騙されて慰安婦になったという話です。
【信憑性】
証言には特に不審な点は見当たりません。

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