慰安婦問題について、いろんな報道: 続・慰安婦騒動を考えるエントリ追加。3代にわたる沖縄左翼、沖縄のおじいこと、#伊佐真三郎さんが語る沖縄戦・最後の証言 「警官だったおじさんは 朝鮮半島で若い娘を捕まえ、 日本へ送っていた…」 。20万人余りが犠牲 沖縄戦から70年目の慰霊の日迎える。

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2015年9月17日木曜日

続・慰安婦騒動を考えるエントリ追加。3代にわたる沖縄左翼、沖縄のおじいこと、#伊佐真三郎さんが語る沖縄戦・最後の証言 「警官だったおじさんは 朝鮮半島で若い娘を捕まえ、 日本へ送っていた…」 。20万人余りが犠牲 沖縄戦から70年目の慰霊の日迎える。

沖縄のおじいが語る沖縄戦・最後の証言「警官だったおじさんは朝鮮半島で若い娘を捕まえ、日本へ送っていた…」
警察官だった親戚から戦時中朝鮮半島で女性を拉致して
日本に送っていたと聞いた・・・と母から聞いた。
親戚が経営していた慰安所で働いていたのは、
そうした女性たちだったのかと思った。
韓国へ謝りに行きたいと、沖縄の平和運動家。


沖縄の三線もあまり変わらないと思うが、
芸者でもいきなりは三味線は弾けない。
座敷に出る前の年齢から稽古を積ん で文字通り芸者になる。
拉致されて来た朝鮮人女性が、
三線を教えているという光景はちょっと想像し難い。
親戚が経営していたのも、
やはり慰安所というより 料亭(妓楼)だったのだろう。
朝鮮人だけでなく、
沖縄の女性も幼い頃に親に「売られて」来ていたはずである。
沖縄の言葉で「尾類売い(ジュリウイ)」と 言ったらしい。
警察官が銃を突きつけて女性を誘拐すれば一生を棒に振る。
しかも伝聞の伝聞。

「戦後、間もなくして朝鮮から数人の女性が米軍のジープに乗って、
母を訪ねてきた。お世話になったと、お礼のお金を持ってきた」
・・・沖縄の辻遊郭の出身だった上原栄子は、
家族的繋がりの強い世界だったと回顧している。
つまりそういう事だったのでは?

「国が従軍慰安婦の強制連行を否定したことが許せなかったのでしょう」。
おじさん→母→本人→息子。
伝聞を伝聞した人の気持ちを更に別の人間が忖度。

夕刊アメーバニュース沖縄のおじいが語る沖縄戦・最後の証言
辺野古(へのこ)から北へ車で1時間ほどの場所にある、
東村高江(ひがしそんたかえ)の米軍北部訓練場では、
垂直離着陸機オスプレイが使用できる
ヘリパッド(離着陸帯)6基の建設工事が進んでいる。 
  そのゲート前で今も反対の座り込みを続ける
伊佐真三郎さんが前編に引き続き、
14歳の時に体験した沖縄戦の真実を語る。 
* * *
「戦争が終わって、行方不明になっていた上の兄は中国戦線で戦死、
2番目の兄はサイパンで斬り込み隊に入って戦死したことがわかりました。
男は私ひとりな ので母からは大事にされましたが、
妹からは妬(ねた)まれましたね。
海軍志願兵になった友達も対馬丸に乗った近所の人も、
誰も戻らなかった。

ある日、海軍に行って戻ってこなかった友達の家の前を通った時、
彼の父親が私を見るなり、玄関をバタンと閉めてしまいました。
以来、友達の家の前を通るのが怖くなってしまいました」

伊佐さんは、今も自分を責めて眠れない夜がある。

「なぜ自分は生き残ってしまったのか」

ゲート前に座り込みに来る若者に、
伊佐さんが口癖のように言う言葉がある。

「絶対に戦争をやってはいけない。戦争をやる者は愚か者だ。
バカ者だ。金儲けのために戦争をやるなんて」だ。

時々、自分の体験も話す。
しかし、つらい話をするのはしんどい。
沖縄戦について話す伊佐さんからは島酒のにおいがする。
アルコールの力を借りなければ話ができないのだ。

「この闘いは、絶対暴力を振るってはいけない。
暴力は戦争につながる。だから非暴力で通すこと。
機動隊にやられてもじっと我慢してね」と、
目を細めながら優しく静かに話す伊佐さんだが、
今も整理がつかないまま戦争の記憶を抱え込んでいる。

そんな伊佐さんには、父親の記憶があまりない。
子供の頃、父と顔を合わすことが少なかったせいだ。
数少ない記憶の中で鮮明に残っているのは先に記した
1944年の10・10空襲の前日のことだ。 

夜、父が友人3人と机に花札を広げながら、
何やら秘密めいた会議をしていた。
それを隣の部屋からのぞき見していたら、
突然、中型トラックに乗った警察官が 何人もどやどやと入ってきた。
父と友人たちは両手両足を縛られ、軍人がよく着る
トンビ外套(がいとう)を着た男に無理やり引っ張られていった。
警察官は嘉 手納(かでな)署の者だったらしいと、
後で隣近所の人から聞いた。

その後、二度と父は帰ってこなかった。
戦争が終わってしばらくして、戦前の治安維持法の
「特高(特別高等警察)」による連行だったのではないかと聞いた。
 今でも父の所在はわかっていない。
これも戦後わかったことだが、
どうやら伊佐さんの両親は反戦活動をしていたらしい。
* * *
伊佐さんの息子の真次(まさつぐ)さん(53歳)は、
米軍北部訓練場ヘリパッド建設に反対してゲート前で座り込み、
通行妨害で国に訴えられたことがある。 
2013年6月、高等裁判所は那覇防衛局の訴えを認め、
仮処分の決定を下した。
しかし、判決を聞いていた伊佐さんは
「殺されないならよかった」と言った。 
特高に引っ張られて帰ってこなかった
父のことを思い出したのかもしれない。
* * *
伊佐さんの記憶に残っている話をもうひとつ。
戦前の泡瀬の町の外れに日本軍が駐屯していた。
駐屯地の近くには料亭が2、3軒あった。 
どこも日本兵の慰安所になっていた
伊佐さんの親戚も「アブガドー」という屋号の料亭(慰安所)を経営していた。
そこでは朝鮮半島から連れてこられた女性たちが4、5人働いていた

13歳だった伊佐さんは、親戚の料亭によく遊びに行き、
そこのお姉さんから三線(さんしん)を教えてもらっていた。
色白で、いつも白粉(おしろい)の匂いがするとても優しいお姉さんだった。
2階には毎日40、50人の兵隊が並んで順番を待っていた。
ある時、おかみさんが三線を教えているお姉さんに
「早く2階に上がりなさい」と言った。
お姉さんは「今日は痛いから休みたい」と言ったが
聞いてもらえず、2階に姿を消した。
着物の裾から見えた奥のほうが真っ赤にはれていた。
少年の伊佐さんには意味がわからなかった。
ただかわいそうだと思っていた。

戦後、伊佐さんの母親が朝鮮半島から帰ってきた親戚のおじさんから、
彼が戦時中に朝鮮で何をしていたのかと聞いた。 
警察官だったおじさんは、
若い娘を探して捕まえ、日本に送っていた
娘の父親が助けてと言っても、銃を突きつけて
脅して無理やり連行したと得意げに言っていたという

伊佐さんは
「そうだったのか、三線を教えてくれたお姉さんは
そうやって連れてこられた慰安婦だったのか。
なら、もう二度と三線は弾かない」と、
持っていた三線を壊してしまった。

母親は朝鮮の女性たちからの相談にいろいろ乗っていたらしい。
戦後、間もなくして朝鮮から数人の女性が米軍のジープに乗って、
母を訪ねてきた。
お世話に なったと、お礼のお金を持ってきたのだ。
その時の日本円と米軍軍票のB円は今も大切に保管されている。

「彼女らは慰安婦だったのでしょうか。母は私には言葉を濁していましたが…」

伊佐さんは、親戚の家が慰安所だったことを子供たちにも語らなかった。
この話を語り始めたのは、ヘリパッド反対の座り込みが始まった前後からだ。

「国が従軍慰安婦の強制連行を否定したことが許せなかったのでしょう。
その頃から少しずつ話をするようになった」
と、息子の真次さんは言う。
80歳を過ぎてから伊佐さんは家族に「韓国に行きたい」と言うようになった。

どうしても、慰安婦にさせられた人たちに会って謝りたい。
あの時、助けてあげられなかったことを謝りたい。申し訳なかった、と
日頃穏やかな伊佐さんがこの時だけは厳しい目つきになった。
* * *
24年前に伊佐さんは泡瀬を離れ、
本島北部の東村高江に移り住み、木工所を始めた。
木材が豊富であることと、工場の騒音や埃(ほこり)で
近隣に迷惑をかけることのない場所だ。

「これからは緑豊かなヤンバルで静かに暮らすことができる」

木工の仕事も息子の真次さんに任せて、
ゆっくり過ごしたいと思っていた。
ところが8年前、北部訓練場の高江集落を取り囲むように
米軍ヘリパッドの計画が明らかになり、黙ってはいられなくなった。

反戦活動を行なっていた父親、慰安婦の相談に乗っていた母親。
その平和を願う血は伊佐さんに受け継がれ、
息子の真次さんに受け継がれている。
真次さんは 今、「高江ヘリパッドいらない住民の会」のテントに座り込み、
昨年9月、ヘリパッド建設反対、
北部訓練場の全面撤去を掲げて村会議員になった。

平和を願う血は3世代に引き継がれている。

(取材・文・撮影/森住卓) 【関連記事】
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「南京大虐殺は20万人くらいがちょうどいい」
戦後70周年で『はだしのゲン』を読み返す。
作者夫人・中沢ミサヨさん 
週プレNEWS「思想統一、歴史認識の一元化をしようとする今の動きは怖い」
大批判の渦中、ツタヤ図書館が身内の中古書店から
“無用の100円本”を大量購入
2015年08月09日MANTANWEB

おじい、おばあの決意 写真家 森住 卓
証言2 今も思い出す赤ちゃんの目
伊佐真三郎さん(八五)=沖縄市
 辺野古から車を走らせ

北に約一時間で東村高江に着く。
高江集落をぐるりと取り囲むように、
ヘリコプター着陸帯六基の建設工事がすすんでいる。
二カ 所はすでに完成し、オスプレイなどが訓練する。
住民は二〇〇七年から二四時間、
一日も休むことなくゲート前で反対の座り込みを続ける。
そのうちの一人、伊 佐真三郎さんは一四歳の時に沖縄戦を体験した。

 海軍少年志願兵になり戦艦大和に乗って国を守ろうと、

友人と誓いの入れ墨を入れました。
志願兵の検査は目が悪くて不合格になり、
海軍に入ることは できませんでした。
母は私を疎開船「対馬丸」で疎開させようとしましたが、
出発の前夜、「家族を守るために僕は行かない。
死ぬときはいっしょだ」と断りました。
 沖縄戦が始まり、艦砲射撃の中を縫うように逃げる途中、

赤ちゃんを抱いた母親と出会った。
母親は赤ちゃんを砲弾の届かない安全な道ばたに隠すと、
自分は力尽きたのか川に飛び込んでしまった。
置き去りになった赤ちゃんは、
草の中で泣きもしないでじっとこちらを見つめていた。
 どうして、赤ちゃん助けてあげなかったのか? 

あの時は誰もが自分のことで精一杯だったと言い聞かせているが、
いまも草の間から赤ちゃんがこちらを見つ めている夢を見る。
海軍に入った仲間と、対馬丸に乗った近所の人は誰も戻ってこなかった。
戻らなかった友人の家の前は、通ることができない。
「なぜ自分は 生き残ってしまったのか」。
自分を責めて眠れない夜がある。

06/23 12:03 FNNnewsCH
沖縄は23日、20万人余りが犠牲になった
沖縄戦から70年目の慰霊の日を迎えた。戦没者の追悼式典が行われる。
沖縄戦で激しい戦闘のあった、糸満市摩文仁にある平和祈念公園。
2015年は、梅雨明けが早かったため、夏の太陽が照りつけている。
式典に参列する安倍首相は、23日午前、国立戦没者墓苑で献花を終えた。
また、沖縄戦で命を奪われた24万人余りの名が刻まれた

平和の礎(いしじ)には、23日も、朝から多くの人が足を運び、
亡くなった肉親の名の前で、手を合わせていた。
訪れた人は、「まだ戦争のことは忘れてないですね。今、思い出して...」、
「平和な世界が、孫たちを守ってほしいということ」などと話した。
式典で、翁長知事は、戦後70年たっても変わらない沖縄の基地負担の重さに触れて、
あらためて普天間基地の名護市辺野古への移設中止を訴える見通し。
移設作業を進める政府と、県との溝が深まる中、例年以上に、
張り詰めた空気が漂う、70年目の夏。
多くの命が戦火に散ったこの地で、安倍首相が何を語るのか、
県民の厳しい目が向けられている。 (沖縄テレビ)

沖縄慰霊の日 翁長知事、朝日新聞デジタル
平和宣言で安倍政権を批判へ
泗水康信  2015年6月23日11時37分
沖縄は23日、
太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」を迎えた。
最後の激戦地となった本島南部・沖 縄県糸満市摩文仁(まぶに)の
平和祈念公園では同日昼、沖縄全戦没者追悼式(県など主催)が開かれ、
同県の翁長雄志(おながたけし)知事が平和宣言で、
米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画を進める
安倍政権の姿勢を批判する。  
日米両政府が普天間返還に合意し、辺野古周辺が候補地に浮上した
1996年以降、慰霊の日の平和宣言で県知事が明確に
辺野古移設計画の中止を訴えるのは初めてだ。
 6月23日は、沖縄戦で組織的戦闘が終わったとされる日。
戦後70年の節目の追悼式には翁長知事のほか、
安倍晋三首相や衆参両院議長、
キャロライン・ケネディ駐日米国大使らが参列する。
 翁長知事は、平和宣言の多くを
沖縄が負担を強いられている基地問題に割く方針。
辺野古移設容認派の現職(当時)を破った昨年の知事選や、
4小選挙区すべてで反対派が勝った衆院選などで
「辺野古反対」の民意は示されたと指摘。
改めて辺野古移設に反対する考えを表明 し、防衛省が進める移設作業を
中止するよう求める見通しだ。
 翁長知事はまた、
「辺野古移設が進まないと普天間が固定化する」とする政権の姿勢を批判。
米軍施設の過重な負担を日本全体で分かち合うべきだとの立場を改めて示す。
 沖縄戦は軍民が入り乱れた激しい地上戦となり、日米合わせて20万人以上、
県民の4人に1人が命を落としたとされる。(泗水康信)
2015年5月25日
ミス沖縄があまりに愛くるしいので、嫉妬した民主党が反対した?。
沖縄知事、首相にかりゆし…普天間には触れず。
笑顔で「かりゆし」を・・・ 翁長知事、安倍総理が会談.
2015年2月14日
米軍は沖縄の状況を正確に把握していたことが判明・・ 
「金もらい反対運動」 米軍幹部の指摘相次ぐ.
2015年4月17日
普天間基地移設問題 安倍首相、翁長沖縄県知事と初会談も平行線。
安倍首相と翁長知事、17日会談へ 知事就任後初めて。
辺野古移設に理解を =沖縄知事「新基地は不可能」-菅官房長官。
4日に沖縄入り表明 県知事と会談へ。辺野古 ...
2015年1月15日
防衛相が沖縄県批判 岩礁破砕取り消し検討で 普天間飛行場辺野古移設。
知事「7日以内に作業停止」官房長官「この期に及んで」。
沖縄知事、辺野古海底作業停止を指示 手の平返した県
 …昨年は図面・協議「不要」 「知事の意くみ豹変」県 ...
2014年8月27日
在沖縄海兵隊についても
「10年後も今と同じ役割を果たす必要があるのか、 
また現在の位置が最善なのかを問い直すべきだ」と述べ、
巡回駐留への移行を考慮するよう 提言。
普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設に関しては、沖縄の政治 ...
2014年11月19日
反対派テント撤去求め 文書で注意。政府、翁長氏説得へ…
不承認強行なら行政訴訟も。 
沖縄県知事選 新人の翁長氏が当選。読売の解説。 毎日新聞の呆れた反日記事。

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