慰安婦問題について、いろんな報道: フライング・タイガーこそ、アメリカが真珠湾攻撃以前から 対日戦争に参戦していた何よりの証拠。【宣伝戦】ブルース・ウィリス、アンジーに続いて反日映画に起用[桜H27/6/8] 。フライング・タイガー、「真珠湾攻撃」の5か月前 米が日本爆撃計画、「大統領も承認」 米ABCテレビ(1991/11/24)。抗日戦争勝利70周年の記念イベント F16を特別塗装で展示/台湾

Translate

2015年6月10日水曜日

フライング・タイガーこそ、アメリカが真珠湾攻撃以前から 対日戦争に参戦していた何よりの証拠。【宣伝戦】ブルース・ウィリス、アンジーに続いて反日映画に起用[桜H27/6/8] 。フライング・タイガー、「真珠湾攻撃」の5か月前 米が日本爆撃計画、「大統領も承認」 米ABCテレビ(1991/11/24)。抗日戦争勝利70周年の記念イベント F16を特別塗装で展示/台湾


戦中に製作されたジョン・ウェイン主演の対日戦争映画。

 
【宣伝戦】ブルース・ウィリス、アンジーに続いて反日映画に起用[桜H27/6/8] 
2015/06/08 に公開 SakuraSoTV
ハリウッド俳優のブルース・ウィリスが、「重慶爆撃」を題材とした
映画に出演するとの­消息が報道された。
アンジェリーナ・ジョリーの『Unbroken』に続く、ハリウッ­ド映画を駆使した
宣伝戦についてお伝えします。
産経ニュース
015.6.5 17:26更新 2
ブルース・ウィリス、
旧日本軍の「重慶爆撃」題材の中国映画に出演へ 
フライング・タイガース教官役
【ロサンゼルス=中村将】日中戦争中の旧日本軍による
重慶爆撃を題材にした中国映画「大爆撃」(仮題、蕭鋒監督)に、
米ハリウッド俳優、ブルース・ ウィリス氏(60)が、主役級で出演する契約を
中国側と結んだ。
ウィリス氏の広報担当者が産経新聞に明らかにした。
中国は、終戦70年の今年を「抗日戦争勝利70年」としており、
今年末か、遅くとも来年初めまでの作品公開を目指す。
 映画は、中国の国有大手映画会社「中国電影集団公司」などが共同で制作。
ウィリス氏は中国側と先週契約し、今月2日、中国・上海に向かった。
現地での撮影は計8日間という。
 米芸能誌「バラエティー」によると、制作費は約9千万ドル(約111億6千万円)で、
中国映画としては最高レベルという。
一方、中国側では制作費を3億5千万元(約70億円)と伝えている。
 今回の映画は、旧日本軍の爆撃で被害を受けた
重慶市民を中心にストーリーを展開。
ウィリス氏は中国空軍を支援した
米義勇航空部隊「フライング・タイガース」の飛行教官役。
韓国メディアによると、韓国人気俳優、ソン・スンホン氏(39)も
戦闘機の搭乗員を演じるという。
重慶爆撃は1938年12月から43年8月にかけて、
当時の中国政府が首都機能を移した重慶に対して行われた。
中国は爆撃による死者が市民ら少なくとも「1万人以上」だとして
日本の戦争責任を追及してきた。
映画にもこうした視点が反映される可能性がある。
 ウィリス氏は米アクション映画「ダイ・ハード」(1988年)で主役を演じた人気俳優。
同シリーズは「ダイ・ハード/ラスト・デイ」(2013年)まで5作が上映されている。
「アルマゲドン」(98年)などでも主役を演じた。
                   
抗日戦争勝利70周年の記念イベント F16を特別塗装で展示/台湾

抗日戦争勝利70周年の記念イベント
F16を特別塗装で展示/台湾
フォーカス台湾 【政治】 2015/06/08 16:38
(台北 8日 中央社)抗日戦争勝利から70周年を記念して
7月4日に国防部が新竹県湖口で実施する軍事イベント「国防戦力展示」に、
当時の米軍が中華民国支援のために 編成した
航空部隊「飛虎隊」(フライング・タイガー)の機体塗装を施した
F16、IDF(経国号)両戦闘機が特別展示されることが分かった。
機首には大きな口と牙が特徴的なサメの頭が描かれ、
胴体には同隊のロゴがプリントされる。また、当時の米国と中華民国の
双方の英雄が日本の航空機を撃墜した記録も表示する。
会場では固定翼機や回転翼機など14機種67機を展示。
戦車や装甲車、各種ミサイルなどのパレードも行なわれる。
関係者によると実際に抗日戦争に参加した元兵士も出席するという。
(呂欣ケイ/編集:齊藤啓介)
(ワシントン 28日 中央社)抗日戦争で活躍した
航空部隊「飛虎隊」(フライング・タイガー)が使用していた戦闘機
カーチスP40」のレプリカと中華民国国旗が25日に米ワ シントンで行われた
戦没将兵記念日(メモリアルデー)のパレードに登場し、人々の注目を集めた。
飛虎隊は抗日戦争時、中華民国を支援するために米国が編制した
両国の同盟を象徴する部隊で、中国大陸やビルマ(現ミャンマー)で
旧日本軍と激戦を繰り広げた。
パレードには同隊の隊員だった元空軍副総司令の陳鴻銓氏(95)も姿を見せ、
観衆から大きな拍手を受けた。
イベントに出席した駐米代表処の沈呂巡代表(大使に相当)は、
「当時の人々の犠牲がなければ、今の台湾はなかった」と抗日戦争の犠牲者を悼んだ。 
また、「中華民国こそ第2次大戦時の中国の代表であり、
米国の同盟国である」と強調。
パレードを通じてより多くの人々に真の歴史を知ってほしいと語った。
(鄭崇生/編集:杉野浩司) 


 重慶爆撃  (じゅうけいばくげき)は、日中戦争中の
1938年12月4日から1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に
218回行われた重慶に対する戦略爆撃[1]

1 背景 1937年の第二次上海事変の結果、
日本軍は中華民国首都南京を攻略し占領した。
これに対して、国民政府は首都機能を南京から漢口に移転した。
しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である四川の重慶への首都移転を実行した。
大本営は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、
兵站の問題もあり、即時攻略は困難であるという結論に達した。

2 立案 
3 作戦の実行 爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる
春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には4333トンに達した
(佐々木隆爾編 「昭和史の事典」)。
爆撃は陸軍爆撃隊、海軍航空隊それぞれが日程調整のうえ実施した。
爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、
「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、
アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。
しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、
目標施設以外に被害が発生する可能性があった。
また、後期には完全な絨毯爆撃となった。
蒋介石は市街地に高射砲陣地を置いていた。


6 爆撃への評価  しかし被害規模については推測に頼る部分も大きく、
今後修正される可能性はある。さらに、それを日本軍がどの程度意図していたか、
または作戦の付随的影響として許容されると判断していたかについても諸説あり、
現在も論争の対象となっている。
東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚 
さらに、重慶爆撃を無差別爆撃=戦略爆撃の始まりであるとして、
日本が戦略爆撃の先鞭者であると主張する論がある。

『戦略爆撃の思想―ゲルニカー重慶ー広島への軌跡』(前田哲男著)
がその代表だ。
東京大空襲は日本が始めた無差別爆撃という罪業の報いである、
つまり無辜の日本人市民が殺戮されたのは
日本の責任であるかのような主張である。
また同書のサブタイトルから推測されるように、
原爆の被爆をすら日本が戦争を始めたことに起因するという
根拠のない「原罪意識」が特徴である。
重慶爆撃は敵の戦略及び政略中枢を狙う攻撃であったので、
市の主要部を含むものになるのは必然であった。
しかも、中国側は市街地に防空砲などの軍事施設をおいていたのである。

昭和14年5月25日の戦闘記録には、
「この戦闘において挑戦してきた敵の4機のうち1機を撃墜したるも、
市街の周辺特に江岸外人住宅付近より
猛烈なる高角砲及び大型機銃の猛射を
受け、わが1機もついに敵弾を受け、勇敢にも敵陣に突入して自爆した」
という記述があり、市街地の状況がわかる。
こうしたことへの対応策から、広範囲の市街地を含む攻撃となり、
無差別爆撃の色彩を帯びざるを得なかったのである。
これを中国政府は偽写真まで作成して、
不法攻撃とする宣伝戦を展開したのであった。

しかしながら、
これはあくまでも軍政目標を狙った攻撃であり、
市民を狙った攻撃ではない。
市民に被害が及んだとしてもそれは巻き添えとしてのものである。
イラク攻撃に見るように、現在の進んだ技術による
ピンポイント攻撃でも巻き添えはなかなか防げない。
したがって、これを戦争犯罪とはいわない。

一方的に日本を断罪した東京裁判ですら、
重慶爆撃は起訴対象には入っていないのである。

ちなみに、訴追されているのは、
南京・広東・漢口への攻撃に関してのみ。
そして8件ほどの事件が証拠として提出されただけで、
重慶は対象外であった。


フライングタイガース(Flying Tigers)(中国語繁体字:飛虎隊、
簡体字:飞虎队、ピン音:Fēi Hǔ Duì)は
日中戦争時に中国国民党軍を支援した 
アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group; AVG)の愛称であるが、
戦闘機(100機)やパイロットは米国政府が用意しており、
実質、義勇軍の名を借りた米国の対日戦闘部隊であった。
また、実際に 戦闘に参加し始めたのは日米開戦後であり、
「義勇軍」の意義もうやむやになった。 

1937年の盧溝橋事件から日本と中華民国との間では
急激に緊張が高まりつつあった。
両国との間では戦闘と交渉が何度も行われたが和平調停は成立せず、
第二次上海事変により両国は本格的に戦闘状態(日中戦争)に突入した。
戦争は1938年に入ると更に激しさを増し、日本軍による海上閉鎖と
航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であった
ポルトガル領マカオが事実上日本軍の手に渡った。
日本軍はさらに中国沿岸の港を全て閉鎖し、1938年後半に入ると
海上からの一切の補給路の閉鎖に成功した。

国民党政府は中国内陸部の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けていたが、
海上補給路を断たれた後の補給はフランス領インドシナ(=「仏印」、
現ベトナム、ラオス、カンボジア)、やイギリス領ビルマタイ王国などから
陸路と空路で細々としか行えなくなった(この「援蒋ルート(仏印ルート)」を
切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施した)。
1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったが、
その間国民党軍は友好関係にあったソ連製の航空機により
日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。
しかし爆撃機主体の攻撃だったことや、1940年の秋ごろから投入してきた
日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により
中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止。
南京陥落後、国民党政府の臨時首都だった重慶にも日本軍の圧力が高まった。
中華民国の蒋介石宋美齢、アメリカ陸軍のスティルウェル推将

2 空軍参謀クレア・L・シェンノートの登場

1930年代後半、蒋介石は自国の軍備が他国に比べて遅れたため、
外国の新型兵器を購入、アメリカドイツから
外国人軍事顧問を雇い入れ軍備の近代化を図った。
盧溝橋事件の2ヶ月前にあたる1937年5月1日、
クレア・L・シェンノートと蒋介石・宋美齢夫妻

アメリカのルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートは、
国民党航空委員会秘書長で蒋介石夫人の宋美齢による呼びかけにより、
中華民国空軍の訓練教官・顧問として雇い入れられた。
当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが、
蒋介石は空戦経験の豊富な彼を航空参謀長の大佐として遇した。
月給1000ドル、現代日本価格1200万円であった[1]
着任したシェンノートは中華民国内を視察、日本軍航空隊への対策を思案した。
1937年、それまで爆撃機を主軸にしていた空軍に対し、
「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する
優れたパイロットを持つことで、中華民国空軍はこの脅威を退けることが出来る」
と蒋介石に具申し た。この計画は、米国と協議の結果、承認された。

派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、
資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人である
トミー・コーコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由する形をとった。
中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、国民党軍が資金を使い部隊を編成した。
1940年の夏にシェンノートは優れたパイロットを集めるために米国に一時帰国した。

零式艦上戦闘機に 関する詳細な報告を米本国に送ったものの、内容を誰も信じず、
「シェンノートのような最高の専門家の言っていることは信じたい。
しかし、これが本当だとすれば、その“ゼロ”とかいう戦闘機は、
アメリカの計画中のいかなる戦闘機よりも優秀だってことじゃないか。」
とみんな、ワッと笑って、それでお開きになっ たという。[2]

3 アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group, AVG)の誕生

本国到着後、ルーズベルトの後ろ盾を得て、戦闘機100機とパイロット100名、
200名の地上要員を米軍内から集める権利を取得、米軍内でパイ ロットを募集。
隊員は高練度のパイロットだった。
日米はいまだ中立関係であったため、採用パイロットは義勇兵になるため
米軍を一旦退役する必要があった。 AVGとしての活動中、待遇が与えられた。
  • 軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
  • 中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
  • 毎月600ドルを全てのパイロットに支給
  • 月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給
その結果、シェンノートの下にはかつて共に飛んだ「フライング・トラピーズ」
(陸軍統括の飛行部隊)の隊員など、それなりの熟練者も入隊した。
しか し、最終的には隊員の基準は当初よりも落とさざるを得なかった。
さらに、「日本軍の飛行機は旧式である」
「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がな い」と楽観的な見通しを述べて
募集する面接官もいた[3]
隊員には未熟練者も多かった為、中国現地にて再訓練を要した。
最終的に、AVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の
合計100名で編成。
しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットは1/3しかおらず、
むしろ爆撃機の経験者が多かった。
そこでシェンノートは本国で提唱していたが無視され続けてきた一撃離脱戦法を、
隊員たちに徹底的に訓練させた。
訓練は厳しく、パイロット40名を含む136名が部隊を去り、
最終的にパイロット70名、地上勤務員104名となった[4]
部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、
世界からはワシントンD.C.に置かれた「中国援助オフィス」が設立した
「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。

4 飛虎の活躍
5 カーチスP-40
6 日本軍航空隊との最初の戦闘
7 12月の戦闘と加藤隼戦隊との死闘
8 AVGフライングタイガースの解散とその後
9 戦果
10 「貨物航空会社 フライング・タイガース」

クレア・リー・シェンノート英: Claire Lee Chennault,
1893年9月6日 - 1958年7月27日)は、アメリカ合衆国の軍人。
活動開始 1941年11月に友好国のイギリスの植民地であった ビルマにむけ
5~6週間かけて渡航し、現地にて正式に中華民国軍として兵籍に入った。
そしてイギリス空軍からラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け、
ここをAVGの本拠地とした。
その翌月の1941年12月には昆明で日本軍と初の航空戦を行い、
護衛機無で飛来してきた川崎製九九式双発軽爆撃機10機と遭遇し戦闘状態に入った。
報告はさまざまであったが、この内AVGは5~9機の爆撃機を撃墜
(日本側記録では3機被撃墜)を主張し、AVG側は損失1機(燃料切れで不時着)だった。
なお同月に、日本はアメリカをはじめとする連合国軍と戦闘状態に入っていたことから、
中国国内及びビルマなどを中心に活動を行い、その後1942年7月まで、
ビルマと同じくイギリスの植民地であったインドから来る補給隊の航空支援を行い続けた。

「フライング・タイガース」の解散
しかしその後日本軍は各地でアメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍を圧倒し、
同地における連合国軍の再編成を行なわざるを得なくなった上に、
正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、
1942年7月3日に、アメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。
解散命令を受託したシェンノートは部隊を解散し残存戦力を中国国内や
イギリス領ビルマ方面に展開するアメリカ軍第10空軍の部隊で編成された
中国空軍起動部隊(CATF)に編入させた。
この7ヶ月間に生き残ったAVGパイロットのうち僅か5名はシェンノートと共に
アメリカ陸軍航空軍に復帰、そして残りのメンバーは報奨金を受け取り
祖国アメリカに帰るものもいれば、現地に残り輸送機パイロットとして働く者もいた。
AVGフライングタイガースの解散の日、
蒋介石の夫人である宋美齢はAVGメンバー全員に対し賛辞を送っている。
そして彼らを夫人は「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んだ。

フライング・タイガー  正統史観年表
フライング・タイガーこそ、アメリカが真珠湾攻撃以前から
対日戦争に参戦していた何よりの証拠だ。
伝説の戦闘機部隊「フライング・タイガー」の元パイロットが訪中―北京市
4月23日15時43分配信 Record China

2007年4月21日、日中戦争で活躍した戦闘機部隊「フライング・タイガー」の
エドワード元大佐が訪中し、北京航空博物館に訪れた。

フライング・タイガーは中国空軍所属のアメリカ志願兵による戦闘機部隊。
1942年にアメリカ人飛行教官のシェンノート(中国名は陳納徳)氏により
創設された。

200余名の隊員からなり、大きな戦果を挙げたことで知られる。
エドワード氏は当時のパイロットスーツに貼られていた布を見せた。
「来華助戦洋人、軍民一体救護(この者は中国を助けるためにやってきた
外国人である。軍人も民間人もみなこの者を助けよ)」と書かれており、
不時着した時などに現地の中国人の助けを借りるためのもの。
実際、多くの隊員が救われたという。

フライング・タイガーの元隊員も中国人の戦友もかつての友情を忘れていない。
87歳になるエドワード氏は今回が19回目の訪中。
「古い友達に会いに来たんだ」と語った。
北京訪問後は各地をまわり戦友たちと旧交を温める予定だという。


以下、『大磯正美研究室』より引用
1937年7月、米陸軍航空隊シェンノート大尉が退役して中国空軍を指揮。
1937年12月、南京陥落
1940年12月21日、モーゲンソー財務長官、シェンノートらが
米軍人による日本爆撃を立案。
「木と紙でできている日本家屋には焼夷弾が効果的」と意見一致。
1941年5月、統合参謀本部(JB)が対日奇襲作戦「JB355」を策定。
1941年7月23日、ルーズベルト大統領など米国首脳が
フライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に署名。
7月25日、在米日本資産を凍結
8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止
8月下旬、シンガポールに米人パイロット等三百人が集結。
計画では9月下旬に奇襲爆撃決行。しかし機体の到着が遅れた。
11月26日、ハルノート提示
12月7日、真珠湾攻撃

「20/20」のスクープでは、戦闘機の護衛がなくて目的が果たせるかと
疑問が出されていたが、後に出版された
『ルーズベルト秘録』(産経新聞社、2000年12月)では、
カーチス戦闘機350機がロッキード・ハドソン長距離爆撃機150機を
護衛する計画だったと新しい情報を記している。

アメリカ政府がこんなに堂々と対日奇襲作戦を計画し、
実行に移していたというだけでも知らない人は驚くだろう。
日本側の奇襲作戦と同時進行なのだから、
映画的な題材としてこれほど魅力的な事実はないと思うがどうだろうか。

しかし、これだけは付け加えておきたい。
同じ奇襲作戦といっても、
日本側は真珠湾の「海軍力」のみが攻撃目標であり、
しかも直前に宣戦布告をする計画だった。
これに対して米側の計画は、初めから民間の日本家屋を焼き払い、
しかもそれを中国軍の攻撃に偽装しようというものだった。

どちらが「sneak attack」(卑怯な騙し討ち)と断罪されるべきか、
答えは明らかであろう。(06/11/27)(追補12/15)
              
20/20: FDR's Planned Preemptive Attack on Japan
 (July 1941) - Full VisionLiberty
「真珠湾攻撃」の5か月前 米が日本爆撃計画、「大統領も承認」 米ABCテレビ
http://www.preemptivestrikethemovie.com/
A World In Turmoil - 1941

読売新聞 1991/11/24
◆米・ABCテレビが「米の責任」論評
【ニューヨーク二十二日=藤本直道】
米ABCテレビは二十二日夜の報道番組「20/20」で、
日本軍の真珠湾攻撃の五か月も前にフランクリン・ルーズベルト米大統領は、
中国本土から日本への長距離爆撃計画を承認していたと伝え、
同大統領は日本を意図的に開戦へ追い込んだと論評した。

真珠湾五十周年を前に日本の奇襲を改めて強調する報道が多い中で、
米国の開戦責任を米国側からまじめに論じたものとして異色の番組。

この爆撃計画そのものは一九七〇年に公開された公文書の中にあったが、
その後歴史家に検証されることなくやみに埋もれていたという。

同テレビは当時のパイロットや大統領補佐官などの生々しい証言を伝え、
米政府が日本への石油禁輸を決めた時期と対日爆撃計画承認が
ほぼ同時期であり大統領補佐官の証言からも、
ルーズベルト大統領が日本を開戦に追い込む意図であったと論評している。

この計画はJB355と名付けられ、
一九四一年七月二十三日に大統領だけでなく
当時の戦争長官、海軍長官なども署名。

ビルマから中国への物資補給路を援護するため
中国に雇われた米人パイロット・グループ、フライング・タイガースを率いる
クレア・シェンノート氏がこのJB355計画にもからんでいた。

米政府は日本の弾薬工場や重要な産業施設を爆撃するため、
長距離爆撃機六十六機を供与するほか、
数百万ドルにのぼる経費や兵員も負担することを承認していたが、
これは当時の米国の中立法に反するという。

シェンノート氏は、この爆撃により
「日本の紙とマッチの軸で出来たような建物を灰に出来る」
と報告していたが、作戦実施に手間取っているうちに真珠湾攻撃が始まった。

0 件のコメント:

コメントを投稿