慰安婦問題について、いろんな報道: 元慰安婦、李容洙(イ・ヨンス)さん(86)が支援団体「挺対協」批判  「当事者の意見聞かない」「事実と異なる証言集出した」

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2015年7月3日金曜日

元慰安婦、李容洙(イ・ヨンス)さん(86)が支援団体「挺対協」批判  「当事者の意見聞かない」「事実と異なる証言集出した」



2015.7.3 19:07更新 【歴史戦】 2産経ニュース
元慰安婦が支援団体「挺対協」批判 
「当事者の意見聞かない」「事実と異なる証言集出した」
 【ソウル=名村隆寛】
慰安婦問題で日本政府に謝罪や賠償を要求している
「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」に対し、
挺対協から“支援”されているはずの元慰安婦の女性が、
韓国メディ アとのインタビューで
「当事者(元慰安婦)の意見も聞かず、
日本との協議を拒否している」と強く批判している。
 元慰安婦の李容洙(イ・ヨンス)さん(86)は、
最近発刊された週刊誌「未来韓国」の中で
「日本が話し合おうといっているのに。会わずに問題が解決できようか」と
挺対協のかたくなな姿勢を問題視した。
また、挺対協が在韓日本大使館前での毎週行っている抗議集会について
「何のためにしているのか分からない。ただ、『謝罪しろ』『賠償しろ』と叫んで
集会の回数をこなせばいいというものではない」と疑問を呈した。
 李さんはさらに「なぜ自分たちの思うままにやるのか分からない」と
挺対協の独善的な姿勢を問題視した
「抗議を毎週やれば性格も態度も悪くなり、健康にもよくない。
挺対協の人たちは闘争家の側にいるようだ」とも批判した。
 一方、
証言は私の命同然なのに、挺対協は本人に確認もせず、
事実とは異なる証言集を出した」と挺対協の情報収集のずさんさも指摘
「静かな場所で証言を聞かねばならないのに、
食事をしながら問答したのが大部分。
そのために、(自分の)証言にはめちゃくちゃになったものが多い」
とも語っている。
 李さんは一方で、1965年の日韓請求権協定に触れ
日本から援助を受け浦項製鉄を作り、
京釜高速道露を建設したのはいいことだ
あの時の金で(韓国が)経済発展をしたのなら、
今度は韓国政府が慰安婦問題の解決に積極的になり、
日本に先立ち私たちに賠償してほしい」 とも述べている。
 また、李さんは
「問題を解決するなら、韓国政府が慰安婦団体と
被害者らを一つの場に集めて議論し、意見を聞かなければならない。
そうすれば、被害者らが何を望んでいるかが分かり、
解決策が出てくる」と韓国政府に訴えている。
 
李 容洙イ・ヨンス이용수,1928年12月 - )は、韓国の大邱(テグ)生まれの
韓国人女性。
1944年に日本軍に慰安婦として強制連行され、1947年まで台湾の慰安所で
日本軍から強姦・暴行・拷問を受けたと主張している[1]
1992年から岡崎トミ子参議院議員らの支援を受けて、
日本国の総理大臣と天皇に対して、誠意ある謝罪と賠償を求める
政治運動を行っている。 
アメリカ合衆国下院121号決議の審議では法案反対派の米国議員たちの前で
泣き叫ぶパフォーマンスを見せて圧倒し、法案成立の一助となった[2]
現在は韓国京畿道広州市にあるナヌムの家に拠を構え、
韓国や日本の市民団体などの招聘に応じて
政治運動のパフォーマンスを行っている。
2012年3月11日
「国会議員になれば日本の天皇から謝罪と賠償を必ず受ける」として 
第19代総選挙 (大韓民国)に出馬するため、民主統合党
比例代表候補への立候補申請をしたり[3][4]
村岡崇光尾山令仁などの日本人のキリスト教徒に
赦しを与える[5][6]などの活動もしている
1 主張 2 活動履歴 3 証言
4 証言の内容について 
秦郁彦は雑誌記事[45]で 李容洙の1992年挺身隊対策協議会への証言
および2007年アメリカ下院公聴会での証言から、慰安婦になった経緯は
民間業者の甘言、朝鮮人による騙しによるものであり
官憲による強制連行ではないとし、家出が正しいとしている
また、週刊新潮の取材に対して、
「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは 92年。
当時は、慰安婦にされた経緯を
“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性から赤いワンピースと
革靴を見せられ、嬉しくなった。
母親に気づかれ ないように家を出た”と語り、米国の公聴会でも
同じことを喋っているのですが、これまで何度も来日している彼女は、
今年も日本で数回、会見を開いています。
で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、
3月には“軍人と女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと
内容が変わっている。要するに、家出と強制連行と、2つの話があるわけです
連行された時の年齢が、14、15、16歳と、実に“3種類”
時には 
「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間
(1944年-1947年)も強いられた」と語るのだが、
それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。」と、
その証言に疑問を示している[46]
2004年の証言では
「1944年、16歳の時に連行され、3年間強制された(日本の敗戦後まで)」だった[48]が、 
2007年の証言では「1944年15歳の時に連行され1945年に解放とされた」と修正申告。
2004年の証言と2007年の証言が違うのではという指摘に、李自身は
「私はどちらもそういう風に喋っていない、私が喋ったことが
毎回違うと言う人がいるそうだが、集会で話すための持ち時間も違うし、
なんにせよ私の体験全部は話せない。
その時の選択で喋り方が変わった事をどうして嘘をついたというのか?」と主張した[49]
◆◆◆ 李容洙(イ・ヨンス) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1928.12.13生。
韓国の大邱(テグ)の金持ちではないが、ご飯を豊かに食べていける家庭に生まれる。
16歳の時に、日本人の男に台湾へ連れ去られ、以降、慰安婦を強いられる。
(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」)
2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて
金君子、ジャン・ラフ・オハーンらと共に証言を行う。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
船で台湾へ向かっている時、軍人達に繰り返し強姦される。
(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」)
【考察】 同女の証言には全く信憑性がありません。
それは、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」と
「証言集会(同志社大学)」の連行時の内容を比べると明白です。
(以下、「証言」・・・「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」、
「同志社」・・・「証言集会(同志社大学)」)
友達と川辺で貝を採っていた時に、見知らぬ男2人が見ていたのは
同じなのですが、その後、連行されるのが
 ○「証言」・・・それから何日かたったある日の明け方
 ○「同志社」・・・その後、1ヶ月か2ヶ月が経った頃。


       ある日の夜 同女の家の窓を叩いたのが
 ○「証言」・・・一緒に貝採りをしていた友達
 ○「同志社」・・・軍人に首の方に何かを突きつけられた、ある女性
その後
 ○「証言」・・・友達の招きに従い、母には何も言わないで

         こっそり家を出て友達の後に付いて行く
 ○「同志社」・・・怖くなって居間で座っていたところ、その女性と軍人が入ってきて、
           口を塞がれ、背中に何かを突きつけられて連れて行かれる
 ○「証言」では、その後、友達に付いて行くと川のほとりで日本人の男の人
(※国民服に戦闘帽をかぶっていた)が立っていて、ワンピースと革靴をもらい、
「もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。」となっています。
また、その男が慰安所の経営者でした。
「証言」と「同志社」では、連行された時の話が全く別物になっており、
物に目が眩んで人さらいについて行ったのが、
軍人に無理やり拉致されたことに変更されています。
しかも、「同志社」では、日本軍人の理不尽な暴力もかなり追加されています。
今回は、連行時のみにスポットを当てて比較しましたが、まあヒドイものです。
さらには、「同志社」では、連行された時に母が側にいなかったことを恨んでいて、
証言集会の20日前に、母がいなかった理由を
「赤ちゃんが泣いていたので、部屋から離れていた」と
弟から初めて聞いたと語っているのですから開いた口が塞がりません。
(※父のもとに行っていたと思っていたら、赤ちゃんを
あやしていたということだったので、誤解による恨みが晴れたという話)
「証言」では「私は足音をしのばせてそろそろとプンスンの後について行きました。
母には何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました」と記述されており、
自ら母にばれないように出て行っています。  
このような、観衆を取り込む為のテクニックを駆使している所を見ると、
「プロ証言者」と言ってもいいかも知れません

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