慰安婦問題について、いろんな報道: 【水間政憲】済南・通州事件から考える平和安全法制[桜H27/7/21]。中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る

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2015年7月21日火曜日

【水間政憲】済南・通州事件から考える平和安全法制[桜H27/7/21]。中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る

               
【水間政憲】済南・通州事件から考える平和安全法制[桜H27/7/21]
2015/07/21 に公開 SakuraSoTV 
現在、国会の内外で激論が交わされている「平和安全法制」であるが、
反対派に共通する­のは日本侵略史観であり、
その結果としてのハンディキャップ国家論であろう。
しかし彼­らの歴史観を紐解いていくと、中共のプロパガンダそのままの
知的怠慢に閉じこもってお­り、済南事件や通州事件等での虐殺被害については
誠に都合良く排除されている。
今回は­、中共へのカウンタープロパガンダを展開している水間政憲氏をお迎えし、
虐殺事件を忘­れていることの危険性と、
日中双方の国民性に基づく相性の悪さについて解説していただ­くと共に、
戦後初となる虐殺犠牲者の慰霊祭について告知していただきます。 

中国の日本人虐殺「通州事件」NEWSポストセブン
鼻に針金通し青竜刀で体抉る
2015.04.07 16:00
戦後70年、中国は自らが犯した
戦争犯罪をひた隠しにしてきた。
その一つが、多数の在留邦人が虐殺された
「通州事件」だ。
残されたわずかな記録からその封印を解く。
 その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた

盧溝橋事件(*注1)直後の1937年7月29日、北平(現在の北京)近郊の通州で発生した。
【*注1/1937年7月7日、日本軍と中国の国民党軍の間で起きた武力衝突事件。

中国共産党軍が事件を誘発させたとの説が有力となっている】

 当時、満州国と隣接する中国・河北省には、蒋介石の国民党政府から

独立し日本人が実質統治していた「冀東(きとう)防共自治政府」が置かれていた。
自治政府は九州と同程度の面積で、人口はおよそ700万人。
「首都」である通州には400人近い日本人が暮らしていた。
自治政府の首班は、日本への留学経験もあり、
日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕(いんじょこう)。
通州には邦人保護を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、
比較的、治安は良好だった。

 ところが、突如として自治政府の中国人保安隊約3000名が武装蜂起し、

首班の殷汝耕を拉致した上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのである。
事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、
フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著
『Behind the news in China』(1938年)で克明に綴っている。

「それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。

そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって
追いつめられていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。

 それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、
ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった(中略)何時間も
女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」
(訳書『中国の戦争宣伝の内幕』芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳)

 事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦(*注2)に投入されており、

通州に残る守備隊はわずか100名に過ぎなかった。
守備隊は30名の兵を失 いながらも必死の反撃を続けたが、
翌日、日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、
223名(防衛庁編纂『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』より。
260 名~300名とする説もある)の邦人が虐殺された。
【*注2/日中戦争初期の戦闘「平津作戦」のひとつ】

事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘(ちょうけいよ)と
張硯田(ちょうけんでん)だった。
両者は直前に起きた「盧溝橋事件」で日本軍と武力衝突を起こした
国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていた。
背後で糸を引いていたのは中国共産党だ。

 当時、蒋介石率いる国民党は中国共産党との

「抗日共闘路線」に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも
複数の共産党員が充てられていた。

 日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、

冀東防共自治政府とその保安隊にも「抗日分子」を浸透させ、
日本人襲撃計画を立てていた。 
通州の惨劇は、中国共産党の謀略による“計画的テロ”だった可能性が高い

 当時の新聞各紙は「比類なき鬼畜行動」(1937年8月4日・東京日日新聞)、

「鬼畜 暴虐の限り」(1937年8月4日・読売新聞)といった見出しで
冀東保安隊による殺戮の一部始終を報じ、事件直後に現地入りした
読売新聞社の松井特派員は、惨状をこう伝えていた。

「崩れおちた仁丹の広告塔の下に二、三歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。

ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が
横たわっているではないか!(中略)池畔にあげられた死体のなかには
鼻に針金を通されているものがある(中略)男の鼻には鈎の様に曲げられた
十一番線の針金が通され無念の形相をして死んでいる(後略)」
(1937年8月4日・読売新聞夕刊)

 事件後の現場には、青龍刀で身体を抉られた子供や、

首に縄をつけて引き回された形跡のある男性の死体もあった。
この事件後、日本国内の対中感情が急速に悪化し、
日中戦争の泥沼に向かっていった。※SAPIO2015年5月号 

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に
中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が
日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件
日本軍は壊滅し、日本人居留民のうち女性はほとんど強姦されて殺害され、
殺害方法も猟奇的なものが多かった[1]
1 背景   1.1 盧溝橋事件、第二十九軍による日本軍攻撃
1.2 関東軍の誤爆 1.3 国民政府によるデマ放送
1.4 冀東防共自治政府保安隊と第二十九軍の関係
 
2 事件発生  2.1 日本軍守備隊への攻撃 2.2 日本人居留民への暴虐行為
3 被害者数   3.1 その他の生存者の証言
 
4 事件当時の反響  4.1 当時の反響  4.2 後世の評論
5 冀東政府による謝罪  6 東京裁判における扱い  7 影響など

8 事件諸説
8.1 誤爆への報復説  8.2 ラジオでのデマ放送説 
8.3 冀東保安隊と国民党の密約説(哥老会)
8.4 麻薬汚染への報復説  8.5 日本軍に責任ありとする言説への批判

済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3)5月3日、
中国山東省済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、
および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍
第二次山東出兵)と、北伐中であった
蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。
藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。
事件の中で、日本人居 留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。
一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、
中国側はこれを重く 見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。
さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。
衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。
日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。
安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。
5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。
中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとさ れる。
藤田栄介青島総領事によると、中国商民らは日本軍の正確な砲撃によって
被害のなかったことに感謝していた。
岩崎芳夫によると、蒋介石は後にこの事件を日本軍による北伐の
妨害であったと非難したとされている[1]
1 当時の状況 2 事件の発端 3 被害状況
4 事件の影響  5 外交官殺害

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