慰安婦問題について、いろんな報道: スタルヒン長女、ナターシャ・スタルヒンさんが始球式 生誕100年で記念試合。朝日新聞2015年7月15日の記事、(戦後70年 途絶えた球音)エース、 戦犯で絞首台 高校野球100年。

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2016年6月7日火曜日

スタルヒン長女、ナターシャ・スタルヒンさんが始球式 生誕100年で記念試合。朝日新聞2015年7月15日の記事、(戦後70年 途絶えた球音)エース、 戦犯で絞首台 高校野球100年。

始球式をつとめたナターシャ・スタルヒンさん
=旭川市・旭川スタルヒン球場(撮影・高橋茂夫)
スタルヒン像(旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場)

スタルヒン長女が始球式 生誕100年で記念試合
2016.6.7 19:41 産経フォトニュース
日本プロ野球初の300勝を達成した
ビクトル・スタルヒン投手の生誕100年を記念して、
7日、北海道旭川市のスタルヒン球場で開催された
プロ野球日本ハム-広島の始球式に、
スタルヒンの長女ナターシャさん(64)が登場した。
 スタルヒンは1925年、ロシア革命から逃れ
9歳で日本へ亡命し、旭川市に移住。
191センチの長身で剛速球を投げ、
戦前に巨人の黄金時代を支えたほか、
戦後も各球団で活躍した。
 ナターシャさんの投球はワンバウンドとなり「緊張した。
もっと格好よく投げたかった」と悔しがったが、
「亡命して祖国のない父にとって
旭川が唯一の故郷で心のよりどころ。
こうして記念事業をしてもらい、
父が一番喜んでいると思う」とうれしそうに話した。

朝日新聞2015年7月15日の記事、(戦後70年 途絶えた球音)エース、
 戦犯で絞首台 高校野球100年。
写真・図版
戦争で途絶えた夏の大会が復活し、
全国大会の開会式が開かれた1946年8月15日。
かつてそこを目指した元球児は、獄中で日記に
「既に生の圏外にあるが如(ごと)き今の我」と記した。
野付牛(のつけうし)中(北海道、現・北見北斗)のエースだった
平手嘉一(ひらてかいち)。
元陸軍大尉でB級戦犯として、捕虜虐待などの罪で絞首刑を宣告されていた。
 平手は33年、北海道大会東部予選を勝ち抜いた。

甲子園へ続く道大会初戦の相手、
旭川中(現・旭川東)のエースはビクトルスタルヒン
平手は被安打6と健闘したが味方はノーヒットノーランで敗れた。
 進学した大阪外国語学校(現・大阪大)でも、野球を続けた。
陸軍予備士官学校に入った40年、友への手紙に
「(野球を)二、三回やった。白いユニホームにスパイクの感触、
若い溢(あふ)れる様なファイトが恋しい」と記している。
 地元の第7師団に所属したが、肺を患って療養。
師団の部隊は43年5月29日にアッツ島で全滅したが、
平手はそこにはいなかった。
病歴の影響か、 前年の11月に
函館第一俘虜(ふりょ)収容所室蘭分所の所長の任を受けていた。
平手は訪れた友に「言うことを聞いてくれない部下がいる」と漏らした。

 戦後、平手が問われたのは「多数の捕虜を殴打した」など33の罪。
所内で窃盗を犯し営倉の懲罰中に体調を崩し、病院で死亡した
英国人捕虜の事件が焦点だった。
46年1月14日、横浜軍事法廷で 裁判が始まり、米軍の検察官は
「平手が故意に虐待し、殴打し、飢えさせて死なせた」と主張。
米国人弁護士は「搬送の遅れは落ち度だが、虐待はない」と訴え たが、
11日後、判決は絞首刑とされた。
米軍の任務で平手の通訳をした日系2世の通訳官は後に
「戦犯裁判は公正であり得るのか」と書いている。

 北見北斗野球部OBの渡辺和勇(かずお)(82)は
旧制中学1年の同年1月末、全校生徒が集まった体育館で
「平手先輩を救おう」と呼びかけられたのを覚えている。
米公文書館に残された裁判記録には、
7千人以上の助命嘆願の署名記録や手紙が付されている。

 平手は獄中から恋人に婚約破棄を申し出た。
死への心の準備を進め、仏教を学ぶ平手が心を躍らせたのは、
新聞記事で見つけた、兄の邦夫が率いる野球少年の試合だった。
 8月22日、邦夫に宛て
「一勝は/たしかめたれど/その後を/知る由もなし/兄の野球を」と記した。 

 翌23日、平手は処刑された。絞首台へと向かう前、故郷の方角へ一礼した。
再開された全国大会の決勝の2日後。28歳だった。

 今、北海道北見市高台寺には高さ1・9メートルの慰霊碑が立つ。
彼の死の意味を問い続けた同級生らが97年に建てた。
5年前に亡くなった邦夫は、体が続く限り命日に碑を訪れたが、
長男の正機(72)に弟のことを話しはしなかった。=敬称略  (平井良和)

 ◆キーワード
 <BC級戦犯> 第2次大戦後、連合国によって捕虜虐待など
人道に対する罪」や「通例の戦争犯罪」に問われた元軍人ら。
約5700人が起訴され、後に減刑されたケースも含めて
約1千人が死刑判決を受けたとされる。
日本の軍人・軍属らは、横浜やマニラなど各地の軍事法廷で
米国軍人の検察官や裁判官らによって裁かれた。 

第7師団(だいしちしだん)は大日本帝国陸軍の師団の一つ。 
北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団であり、
道民は畏敬の念を多分に含め、「北鎮部隊」と呼んでいた。
高校野球100年
特集 ビジュアル球史へ
100年を動画と写真、ニュースでたどるデジタル絵巻です

戦争と球児 連載 あの夏
<strong>北見</strong> <strong>網走</strong> オホーツクのフリーペーパー<strong>経済の伝書鳩</strong>2014/08/27掲載(北見市/社会・歴史)
戦犯として処刑…故・平手 嘉一氏を追悼
命日の23日、北見の高台寺で遺族らが  
戦後、GHQ(連合軍司令部)からB級戦犯とされ、
昭和21年8月23日に処刑された北見市出身の平手嘉一氏=当時28歳=。
その追悼碑が北見市大町の高台寺境内にたたずんでいる。
68回目の命日を迎えた23日、遺族らが追悼碑前に集い、静かに手を合わせた。

 平手氏は後志管内黒松内町生まれ。
その後北見に移転し、野付牛中学校(現・北見北斗高校)に入学。
野球部で投手、4番打者を務め、後にプロ野球で活躍した
旧制旭川中学校(現・旭川東高校)時代のスタルヒン投手と投げ合ったこともある。

 戦時中は捕虜収容所の所長を務めたが、
戦後の裁判で捕虜虐待の罪により処刑の判決を受けた。
同期生らは裁判の不当性と無罪を主張して署名活動を行ったが、
その思いは実らなかった。
 追悼碑は平成9年、野付牛中の同期生らが
鎮魂の祈りと平和への願いを込めて建立。
碑には平手氏が詠んだ辞世の句
「ますらをの道にしあればひたすらにつとめはたして今日ぞ散りゆく」
が刻まれている。
 この日は千葉県在住の甥など数人が参列し、祈りをささげた。(柏)

高台寺 平手氏

…具体的には、四十数年前に
私が直接かかわりをもった
元日本帝国陸軍大尉平手嘉一と、
元日本帝国陸軍大尉坂本勇七
二つの戦犯裁判について語ってみたいと思う。
両人とも日本国内にあった俘虜収容所長であった。
 平手大尉が所長をしていた収容所では、五百人の俘虜が収容され、
五十三人の死者を出し、一方、坂本大尉が所長をしていた収容所では、
九百人の収容者のうち百三十三人の死者を出している。
 坂本大尉に関する資料は少なく、裁判の内容もこれだけであれば
とくに取り上げて書くほどのものではないのであるが、人間の性格の面でも、
また軍人として の生い立ちの面でもきわめて対照的な
二人の俘虜収容所長の裁判を比較してみていただくために、
あえて両者の裁判の様子を語ることにした。
 そして、「戦争」という人間にとってきわめて異常な状況のなかで、
しかも敵方の兵士を収容する「俘虜収容所」という特殊な場所で、
いったい人間同士のあ いだでどういうことが起こったのか、
あるいは起こったとされているのか、そして、その責任を負わされた
二人の俘虜収容所長がそれぞれどういう裁きを受けることになったのか、
その事実を知っていただきたいと考えている。
 そのうえで、このような戦勝国による戦犯裁判が
そもそも公正なものでありうるのか、あるいは公正なものであったのか、
また、その裁判の結果が適切なもの であったといえるのか、
さらには、そもそも戦争とはどういうものかについて、読者の皆様にも
考えていただければ幸いである。
 横浜軍事法廷でおこなわれたBC級戦犯裁判の多くは、
俘虜収容所で起きた虐待行為の責任を問われたものである。
日本にあったどの俘虜収容所でも、連合国 軍俘虜たちは
ほぼ同様の虐待行為を受けたが、なかには、逃亡を試みた俘虜や、
撃墜された飛行機の搭乗員に対する死刑執行、銃剣による刺殺、
生体解剖、医学 研究のための人体実験といった例外的な事件もあった。
 平手、坂本両大尉の収容所ではこのような異常な事件は起こらなかったため、
その点では刺激的な要素に欠けるかもしれない。
しかし、それは、大部分の収容所で共通に起こったこと(たとえば、
俘虜を殴ること、病気やけがをした俘虜を虐待すること、医薬品や食糧、
医療品を与えなかったこと、俘虜に分配されるべ き赤十字社
その他からの供給品を日本兵が懐に入れてしまったことなど)を
示しているという点では、かえって重要な意味をもっているのである。
 二人の裁判は、それぞれ六人のアメリカ陸軍の幹部将校によって構成された
軍事委員会のもとでおこなわれた。
約二週間にわたる裁判のあいだ、私は弁護人、被告人とともに
裁判のなりゆきを逐一見守っていたのであるが、時がたち、
裁判の詳細についての記憶はだいぶ薄れている。
そこで、アメリカのメリーランド州 スーツランドにある
ナショナル・レコード・センターに所蔵されている記録を求めることとし、
約二千頁に相当するマイクロフィルム化された平手元大尉に関する資料と、
約九百頁に相当する坂本元大尉に関する資料を入手した。
入手した資料の内容は次のとおりである。
 (1)罪状項目  (2)検察官側と弁護人側の証拠物件 (3)法務官検審書
 (4)裁判に関する法規 (5)平手元大尉助命の嘆願書九十一通
 裁判から四十数年も経過したいま、これらの資料をもふまえ、
当時を回顧しつつ、戦犯裁判の様子を語ってみたいと思う。
 一九九一年、今年は太平洋戦争がはじまってちょうど五十年目に当たる。
そして、半世紀にわたる時の流れのなかで、この戦争について、
また、その後おこなわれた戦争犯罪人を裁いた軍事裁判について、
確たる知識をもつ人はきわめて少なくなっているのではなかろうか。
 こうしたなか、本年一月、湾岸戦争がはじまった。
日本をはじめ世界中の人びとが、テレビなどを通じ、生々しい「戦争」
(それは、太平洋戦争当時のものと はまったく異なる様相で展開された)
の姿を身近に見せつけられた。
また、多国籍軍およびイラク軍双方の「俘虜」の姿を見、
イラク軍兵士によるクウェート国 民などに対するさまざまな
「残虐行為」が報じられるのを聴いた。
 また、この戦争のさなかに、アメリカ政府筋から戦争終了後、
イラクのサダム・フセイン大統領を「戦争犯罪人」として「国際裁判」に
かけるべきだという主張がなされ、さらに、戦争が終わって俘虜の交換が
おこなわれたのち、多国籍軍の兵士がイラク軍兵士によって虐待を受けたとし、
虐待したイラク兵を「戦争犯 罪人」として裁く必要があるとの主張がなされた。
 全世界の人びとの願いもむなしく、ふたたび大きな戦争がはじまり、
そして終結したが、まさにこの時期に、私が長いあいだ抱きつづけてきた
テーマ(戦争、 戦争犯罪、軍事裁判など)について
私の体験をまとめたものが出版されることの不思議なめぐりあわせに、
何ともいえぬ感慨をおぼえている。
 この本が、戦争のない世界を願い求める日本の人びとに読まれ、
あらためて「戦争」について考えていただくことになれば幸いである。 
http://www.city.kitami.lg.jp/
市史編さんニュース ヌプンケシ目次 | 北見市
109号 B級戦犯 平手嘉一大尉(1)  110号 B級戦犯 平手嘉一大尉(2)
111号 B級戦犯 平手嘉一大尉(3)  112号 B級戦犯 平手嘉一大尉(4)
113号 B級戦犯 平手嘉一大尉(5)  114号 B級戦犯 平手嘉一大尉(6)
115号 B級戦犯 平手嘉一大尉(7)  116号 B級戦犯 平手嘉一大尉(8)
117号 B級戦犯 平手嘉一大尉(9)  118号 B級戦犯 平手嘉一大尉(10)

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