慰安婦問題について、いろんな報道: 政治家時代、風見鶏と呼ばれた大勲位こと、#中曽根康弘元首相の歴史観、アジアとの戦争は「侵略だった」  (但し、欧米諸国とは帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦い)

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2015年8月7日金曜日

政治家時代、風見鶏と呼ばれた大勲位こと、#中曽根康弘元首相の歴史観、アジアとの戦争は「侵略だった」  (但し、欧米諸国とは帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦い)

中曽根康弘元首相、
Huffpost Japanアジアとの戦争は「侵略だった」
The Huffington Post | 執筆者: 中野渉
投稿日:

中曽根康弘元首相(97)が、
8月7日発売の月刊誌「文藝春秋」に寄稿し、
先の大戦について「やるべからざる戦争であり、
誤った戦争」とし、
「アジアの国々に対しては、侵略戦争だったと言われても
仕方ないものがあったといえる」と明言した。
戦後70年にあたり寄稿した中曽根氏は、
「自己の歴史の否定的な部分から目をそらすことなく、これらを直視する勇気と
謙虚さを持つべきであるし、そこから汲み取るべき教訓を心に刻み、
国民、国家を正しい方向に導くことこそが現代政治家の責務だと考える」と強調した。
政権の歴史認識について「国際的に通用する判断で考えなければならない」と指摘。
先の大戦を「無謀な戦争」と振り返った上で
「特に中国民族の感情を著しく傷つけた」と言及した。

中国や韓国との関係改善に関し

「歴史問題の軋轢(あつれき)には慎重な態度で臨むべきで、
過去に対する率直な反省とともに言動は厳に慎むべきだ。
民族が負っ た傷は、三世代百年は消えない」と警鐘を鳴らした。
同時に「互いの国の世代の代替わりで、人間関係が希薄になりつつある」として、
多面的な交流が必要と訴 えた。

2015.8.7 06:01更新 【転換への挑戦】産経ニュース
元首相・中曽根康弘
戦後70年 前進の起点
間もなく、70年目の「終戦の日」 を迎える。
日本人にとって、この70年は、戦没者を悼み、
二度と悲劇を繰り返してはなるまいと非戦と平和を強く心に誓ってきた年月でもある。
戦火の中で多 くの戦友や部下をなくした私も、
「終戦の日」に彼らを思う鎮魂の祈りは深い。
国のために犠牲となった御霊(みたま)に応える意味でも、
あの戦争を生き抜い た人々がおのおのの道でこの国の復興を担ったように、
私も政治の道をもってこの国の発展に力を尽くしてきたつもりである。
 97歳となった今、70年間の日本の歩みを振り返ると感慨もひとしおだ。
終戦となり、復員して間近に見た東京は一面焼け野原で、
茫然(ぼうぜん)自失のままに言葉を見失う中、果たしてこの国を
本当に再建できるのかという思いがよぎったのも偽らざるところだ。
 この国を復興する上で、何か具体的な手立てがあったわけでもない。
ただ、この国を何とかしなければ、との憤りにも似た強い思いに駆られた。
それが政治家としての私の出発点であった。
【戦後70年談話】キーワードは「和解」、
謝罪の必要性は触れず 21世紀構想懇報告書

 食うや食わずから始まった日本人の生活は敗戦直後からは
想像もできぬほどの豊かさを現実のものとし、世界第3位の経済とともに
高い科学技術力や文化の独創性など、日本は世界から高い評価を得ている。
敗戦を知る者には国民の懸命な努力が成し得た結果であり、
われわれは こうした日本の姿を誇りに思う。  
と同時に、日本は今や、成果と立場にふさわしい
責任と役割を世界から求められている。
それは、われわれが成し得た状況に甘んずることなく、
未来への可能性を求めながら国の在り方を今一度、点検し、
更なる前進を図らねばならないということでもある。

 避けるべき戦争だった
 戦後日本の歩みはポツダム宣言(注〔1〕)受諾から始まると考えてよい。
講和条約を受け入れ西側陣営の一員となり、
自由主義経済の恩恵に浴する形で貿易立国の道を歩んだ。
 「東京裁判」は勝者が敗者を裁いたものであり、戦争の責任は
全て日本にあり全て日本が悪いという 
「東京裁判史観」には違和感がある
第二次大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれる
「あの戦争」は対米欧、対中国、対アジアとそれぞれの面において、
さまざまな要素と複雑 さを持ち一面的な解釈を許さない
 米欧に対しては資源争奪の戦いでもあり、
帝国主義的な国家、民族間の衝突でもあった。
一方、中国に対しては、「対華二十一カ条要求」(注〔2〕)以降の
日本軍による戦火拡大は、侵略行為であったと言わざるを得ない
大東亜共栄圏を旗印に、植民地政策に苦しむアジア諸 国救済を謳(うた)い
進出していったが、土足で人の家に上がるような面もあったといえる。
 外交における要諦は、世界の正統的潮流を外れぬということにある。
 第一次大戦が終わり、世界の脱植民地化の動きの中で、
各国の利害を調整すべく1920年に国際連盟が発足し、
日本は英国、フランスとともに常任理事国となった。
しかし、昭和に入り、満州事変、満州国建国に至る中国大陸への進出の中で
徐々に国際的に孤立し、追い込まれる形で33年に
国際連盟脱退を表明することとなった。
 国内では、米英などから石油などの資源の輸入を止められ、
経済的に厳しい状況に追い込まれていった。
五・一五事件(32年)、二・二六事件(36年)といった要人の暗殺が続いた。
混迷を極める国内政治と対外摩擦の中で、米英開戦に突入した。
 私が属した海軍でも日米の歴然たる国力差を認識していた。
当時の日米の国力比の見積もりは、
1対4、1対10、1 対20とさまざまであったが、いずれにおいても
長期戦になると勝てない、との結論であった。
当時の政権もそれを知っていたが、本来なら冷静な戦略判断の下、
外交交渉において戦争を回避すべきところ、そうはなり得なかった。
 やはり、あの戦争は何としても避けるべき戦争であった。
地上戦が行われた沖縄をはじめ広島と長崎での原爆の投下など
300万人を超える国民が犠牲になり、
日本本土への相次ぐ空襲によって国土は焦土と化した。
 政治にとって、歴史の正統的潮流を踏まえながら
大局的に判断することの重要性を痛感する。
歴史を直視する勇気と謙 虚さとともに、そこからくみ取るべき教訓を学び、
それをもって国民、国家の進むべき道を誤りなきように導かねばならない。
政治家は歴史の法廷に立つ。
その決断の重さの自覚無くして国家の指導者たり得ない。

 靖国参拝否定したわけではない
 そうした歴史の流れの中に、日本自身の歴史認識に対する論議が
国内外で囂々(ごうごう)として続く。
また、その延長線上にある首相の靖国神社参拝の問題も大きく揺れてきた。
 私は昭和60年8月15日、 
現職の首相として初めて靖国神社に公式参拝した。
戦後40年ということで、日本遺族会からも首相に対する
「靖国神社公式参拝」の一段と強い要請もあった。
 そのとき、すでにいわゆる「A級戦犯」は合祀(ごうし)されていたが、
当時の靖国問題はむしろ憲法上の政教分離にあった。
歴代首相も、政教分離に反するというマスコミや世論に配慮し、
公式参拝であるかどうかを明言せぬままに参拝を続けてきた。
 私自身の考えは、日本の首相が一度は靖国神社に
祀(まつ)られる英霊に崇敬の念とともに、公式に哀悼と感謝の誠をささげ、
平和国家建設を誓うべきだとの強い思いがあった。
実際、私の弟も靖国神社に祀られており、日本人として亡くなった霊に
深く頭を垂れて慰めること自体はごくごく自然な当然の行為ではある。
そのために、諮問機関
「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(注〔3〕)に
憲法との整合性を検討してもらい、宗教色を薄めることで
可能との結論を得て、靖国神社公式参拝を断行した。
 しかし、それを境に「A級戦犯合祀」の批判が中国より
豁然(かつぜん)として沸き起こってきた。
「平和友好・平等 互恵・相互信頼・長期安定」のもとに
友好関係を深めてきた中国の胡耀邦総書記(注〔4〕)が
苦境に立たされる可能性があるとの情報も入ってきた。
中国を訪 問した新日鉄の稲山嘉寛さん(注〔5〕)を通じても
公式参拝を歓迎せぬ中国側の意向が伝わってきた。
 外交を考える上では、国益を考え、大局に立った大きな判断が求められる。
一つには、アジアにおける日本の立場であり、アジアの一員としての
信頼関係構築こそが第一義との判断がある。
さらに言えば、当時、開放的で開明的、友好的であった
胡耀邦氏の立場を日本が守らなければならないという
強い思いもあったことも確かである。
 そうした状況の中で、私としては、以後の靖国神社公式参拝を
続けることはとりやめることと判断した。
ただ、個人の 宗教心において私的参拝を否定したわけではない。
また、合祀以降、天皇陛下の参拝が途絶えて久しい。
参拝に支障があるのであれば、
参拝できるように手を尽 くすことは政治の責任である。

 自衛の範囲は政策判断
 現在、「集団的自衛権」の問題が大きく動こうとしている。
安全保障法制の衆院の審議では、
議論が必ずしも噛(か)みあわぬまま、舞台を参院へと移した。
 たしかに、自衛隊法や国連平和維持活動協力法(PKO)など
10本の現行法を改正する「平和安全法制整備法」と、 
「国際平和支援法」の計11法案があって多岐にわたり、
国民の理解を促す上で議論を分かりにくいものにしている。
政府・与党一丸となった国民への丁寧な説 明が求められる場面でもある。
 戦後の歴史の流れの中で、日本の防衛も国論とともに揺れてきた。
その底流には敗戦の影響による厭戦(えんせん)感や
戦争につながるものへの拒否感があったことは否定しえない。
 私の従来の立場は、集団的自衛権を名実ともに
国家固有の権利として認めるものだ。
自衛権というものを考えれば個別 的自衛権も集団的自衛権も
表裏一体、同根のものであり、これを分けて考えることはできない。
そもそも自衛権というものは、日本の置かれた安全保障環境や
国際情勢に応じ、自力で対応する場合もあれば、
他国の力を借りてその目的を達成する場合もあり、
その程度も規模も時局の政策判断に依拠する。
ただし、日本の 防衛の基本が専守防衛である限りは、
自衛権は必要最小限であることは当然のことといえる。
 日本は戦後、自衛隊という必要最小限の自衛力を持ち、
それを補う意味で日米同盟を結び、自国の安全保障を担保してきた。
東西冷戦の下で、日米同盟が果たした役割は大きい。
 発足当初は一部から憲法違反といわれた自衛隊も、
内外情勢の変化の中で、今では国策にしっかりと位置付けられ、
国民意識にも受け入れられている。
 そのことからも、既成の考えにとらわれるあまり、
時代状況の変化との間に齟齬(そご)をきたしてはならない。
同時に、既成の考えで日本国民の安全が担保されるわけでもない。
 時代の推移に伴い世論も冷静さを取り戻してはいるが、
現状維持を望む心理が人の常とすれば、安倍晋三政権は
論戦を移した参院で、こうした国民の意識の前に丁寧な説明を行い、
国会運営も手を尽くして臨まねばならない。
 日本は戦後、西側陣営の中で日米間の同盟によって
貿易立国の道を順調に歩んできた。
しかし、冷戦後の一極多元世界は相対的な米国の
プレゼンス低下によって大きく変化してきている。
片務的な同盟による安全保障や国際貢献が
他国任せであることが許されない状況となってき ている。
民主主義、法の支配、自由、人権、紛争の平和的解決といった
共通の価値観に基づく現在の国際秩序を維持し、
将来にわたり自由で安定した政治経済シ ステムの中で
日本が発展してゆくためにも、責任、役割とともに
相応の負担が求められている。

 アジアで経済の連携構築を
 他方、防衛力偏重の安全保障ではおのずと限界がある。
防衛力は一面的な抑止的効果を狙うものであって、
それ以外の方策として、外交や経済協力による安全環境構築を
総合的な観点から模索しなければならない。
日本はアジア、アフリカ諸国に対しては政府開発援助(ODA)を通じて
経済発展に貢献してきた。
それは人的支援を含むもので、現在のアジアの興隆に寄与し
感謝もされている。
こうした国際協調主義による多岐にわたる努力が
日本の安全保障にも大いに貢献している。
 政府はこうした多様な政策と施策によって
国の安全保障の実を上げねばならないが、北東アジアにおいては
日米同盟の上に、日本、中国、韓国の連携が最も重要と考えるべきである。
台頭する中国や、歴史問題で膠着(こうちゃく)する
日韓関係を心配する声が強いが、
日中韓相互の対話への努力をおろそかにしてはならない。
北大西洋条約機構(NATO)とは違い、アジアの安全保障は
大きな網をかぶせたような連携した仕組みになってはいない。
 米国との2国間の縦割り的な同盟のもとに各国の安全が担保されている。
こうした中で、米国も隣国同士の軋轢(あつ れき)を心配する。
米国はアジア回帰を図るが、その経済を考えれば、
アジアは大きな利益拠点である一方で、軍事費が大きな負担となっており、
相互対立による不安定要因を嫌う。
 米中関係の帰趨(きすう)は予断を許さないが、
日本は同盟関係にある米国と連携しながら、アジアの平和と安定をどう図るか、
自らの戦略と構想を描いておく必要があろう。
米国もアジアの国々も日本にそうした役割とリーダーシップを期待している。
日中韓3カ国の安定的な 関係とともに東南アジア諸国連合(ASEAN)が加わり、
そこに米国やオーストラリア、ニュージーランドが加わることで
大きな経済的機構と経済上の安全確保を図る
安全保障の仕組みの可能性が出てこよう。
 歴史の流れで考えれば、自由と民主、平等の下に、
さらに大きな政治的経済的仕組みを創ろうとする試み、挑戦が出てくる。
私が創設したアジア太平洋議員フォーラムもこうした
太平洋圏構想をにらんだものであり、今後、こうした流れをどう捉えるか、
国の未来と世界との関係 において十分な検討の上に立った推進が必要となる。

 健全で中庸なナショナリズム
 一方、アジアの勃興と中国の台頭をどう捉えるべきか。
私に中国の行方の重要性を教えたのは徳富蘇峰(注〔6〕)であり、
中国の重要性を実際に教えたのは松村謙三(注〔7〕)、
高碕達之助(注〔8〕)の両氏であった。
アジア外交の大切さは岸信介氏が首相の際の歴訪に
随行する形で再認識させられた。
 日本はアジアの同朋として互いに協力しながら繁栄の道を進むことで、
アジアの信頼を得ることを第一義と考えねばならないし、
その上に立って発言することに日本の役割がある。
 かつて植民地から解放され、低開発と貧困に苦しんできた
こうした国々もその経済発展の潜在力に目覚めながら
新たな道を模索し始めている。
そうした国々の中で中国の急激な拡大は、経済的利益の魅力に
反比例して問題を与えている。
特に、最近の海洋進出ではアジアの国々と 摩擦を引き起こし、
領土問題を顕在化させている。
 2度の大戦を経験した欧州と違い、
アジアではいまだに民族的メンツや自尊心の要素が強い。
国家間の力関係と利害が密接に絡み合いながら、
歴史の葛藤が重なって国益が強く前面に押し出されながら、
ナショナリズムの高揚とともに争いが惹起(じゃっき)される。
 こうした中で、かつては首脳同士の信頼関係で成り立っていた
国家間の信頼関係も、最近では世代交代によって人間関係が
希薄になりつつあることを心配する。
日本のみならず、世界の指導者にそうした懸念を覚える。
また、ナショナリズムは健全で中庸を得たものでなければな らないし、
トップ同士の信頼によって不用意に起こりうるナショナリズムの対立を
未然に防ぐべきだ。
そのためにも、相互理解のための多層的で多面的、多重的な
人間関係構築の継続的努力をしていかなければならない。
 憲法に「日本の価値」を入れよ
 戦後からの歩みの中で、憲法問題は最も重要な課題でありながら、
憲法改正はいまだ実現を見ないでいる。
憲法改正は、私にとっても政治人生における大きなテーマであり、
28歳の衆院初当選から一貫して主張してきた。
 現憲法は日本の繁栄を支える大きな基礎となったことは評価できる。
自由や平等、民主主義や平和といった
国際的に普遍性のある考えが受け入れられ定着もした。
しかし、日本の歴史の中で育まれた日本人の民族固有性は、
残念ながら書き込まれていない
 われわれは、自らが立脚する価値を日常の中から意識することなく
自然に身に付けてゆく。
それは歴史や伝統、文化と連なって
民族固有の共通した価値へとつながってゆく。
こうした人間の軸となる価値がしっかりしていなければ、
自由、平等、民主といった普遍的価値は機能し なくなる。
国の基本たる憲法がこうした日本固有の価値を
謳わぬことは大きな欠落と言うべきだ。
そして、時代状況も新たな役割と機能を憲法に求めている。
 私自身は、憲法改正を訴える中で、
「首相公選論」を唱え、懸命に国民世論の喚起を図ったが、
戦後引きずっていた厭戦感と本格的な高度経済成長の幕開けの前に、
国民の心に必ずしも十分に届いたとはいえなかった。
 しかしながら、世論もようやく憲法改正を受け入れつつある。
昨年、改正国民投票法も成立し、
憲法改正のための制度的準備は整ったといえる。
衆参の憲法審査会において一歩進めて、各党が
それぞれの試案を出し合いながら議論を深め、
憲法の改正に向けた更なる前進を期待する。

 次世代担う若者の奮起を期待
 戦後70年を顧みれば、思いは誠に深い。
 昭和20年8月15日の玉音放送で昭和天皇が発せられた
「万世の為に太平を開かむと欲す」のお言葉を心に刻み、
国民一朶(いちだ)一丸となって復興と経済発展に邁進(まいしん)してきた。
その成果をもってわれわれはさらに前進してゆかなければならない。
 その節目節目で指導者の苦渋に満ちた決断があり、
大きな胎動とうねりとなって時代が前進してゆくのをこの身をもって感じてきた。
ことの評価は後の史家に任せるにしても、われわれは懸命になって
国の革新を訴えながら、議論を戦わせてきた。
それは進歩への確信であり、
それなくしてこの国の発展はないとの強い思いからであった。
 この70年という節目は、
さらに前進をしてゆくためのスタンディング・ポイントでもある。
次代を担う若い世代の一層の奮起を期待する。
 政治とは可能性への挑戦でもある。彼らが背負うべき責任と
時代の役割を自覚し見極めながら、現状に甘んずることなく、
更なる高みを目指し、時代の地平に向かって
果敢な挑戦をしてゆくことを期待してやまない。

 〔1〕ポツダム宣言 1945年7月26日、
ベルリン郊外のポツダムで発表された日本の戦争終結条件を示した
米英中3カ国首脳の宣言。日本の領土の制限や武装解除、
戦争犯罪人の処罰など13項目で構成。
 〔2〕対華二十一カ条要求 1915(大正4)年、
日本(大隈重信内閣)は中国に対し、山東省の旧ドイツ権益の継承、
南満州鉄道権益期限の99年延長など21カ条を求め、受諾させた。
 〔3〕閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会 昭和59年8月、
藤波孝生官房長官の私的諮問機関として発足。
60 年8月9日、首相らの公式参拝について
(1)大方の国民感情や遺族の心情をくむ
(2)政教分離原則に関する憲法趣旨に反しない
(3)多数の国民に支持、受 け入れられる-形で「実施する方途を
検討すべきである」との報告書をまとめた。
〔4〕胡耀邦(1915~89年) 中国共産党総書記時代に改革開放、
自由化を掲げたが、87年に失脚。死去をきっかけに
学生の民主化要求デモが起き、天安門事件へと発展した。
 〔5〕稲山嘉寛(1904~87年) 新日本製鐵(現・新日鉄住金)初代社長。
後に同社会長、経団連会長。
 〔6〕徳富蘇峰(1863~1957年) 言論人、歴史家。
戦後、公職追放処分を受けた。主な著書に『将来之日本』『近世日本国民史』。
 〔7〕松村謙三(1883~1971年) 元文相。
1962(昭和37)年、国交正常化前の中国を訪問し、
日中総合貿易(LT貿易)の覚書調印に尽力した。
 〔8〕高碕達之助(1885~1964年) 実業家、元通産相。
62年に訪中、LT貿易覚書に調印した。

 なかそね・やすひろ 大正7(1918)年、群馬県生まれ。
昭和16年、東京帝大法学部を卒業後、内務省に入省 し、
海軍主計中尉に任官(最後は海軍主計少佐)。
22年に衆院初当選。以後、当選20回。57年から62年まで首相を務めた。
平成9年、大勲位菊花大綬章。
24年、正論大賞特別賞。公益財団法人世界平和研究所会長、
高松宮殿下記念世界文化賞国際顧問、
新憲法制定議員同盟会長などを務めている。97歳。

中曽根康弘元首相、月刊誌への寄稿で「侵略」明言 - 日刊スポーツ 
2015/08/06 21:28)
ま た、安全保障関連法案が11本もあることで
「議論を分かりにくくしていることは否めない」と断言。
国会審議については「政府の対応が世論調査にも反映され るわけで、
国民が抱く不安や疑念を払拭するよう国民意識や世論の動向にも
細心の注意を払いながら事を進めるべきである」と記し、
現政権に対してより丁寧で 明確な説明する必要があるとの考えを示した。
集団的自衛権にも言及し、「同盟を結ぶ国に協力し、
それをもって日本の防衛のためにも働いてもらうという
集団的自衛権は当然認められるべきものであり、国際的通念でもある」と主張。
その上で、
「自衛は正当防衛であるからには自国を守るための
最小のものでなければならないし、限定的行使とすべきである」と持論を展開した。
中曽根氏は東京帝大を卒業した後に内務省に入り、戦時中は海軍主計少佐だった。

対アジア「侵略だった」…中曽根元首相が寄稿
2015年08月07日 03時00分 YOMIURI ONLINEホームへ
戦後70年にあたり、中曽根康弘元首相(97)は読売新聞に寄稿した。
 アジアとの戦争は「侵略戦争だった」と認め、先の大戦を
「やるべからざる戦争であり、誤った戦争」と総括した。
こうした否定的な歴史を直視しなければ、
近隣諸国から信頼を得ることはできないと指摘した。
 戦時中は海軍に所属し、1982~87年に首相を務めた中曽根氏は、
戦後政治とともに歩んできた宰相経験者として、

寄稿の中でこの70年間を振り返った。
 先の大戦を「帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦い」
と評する一方、アジア諸国の国民に対しては「侵略戦争でもあった」と言及した。
特に対中国では、大隈内閣が日本の権益拡大を求めた1915年の
「対華 21か条要求」以降、侵略的要素が強くなったとし、
「中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない」と記した。


中曽根元首相、終戦70年寄稿の詳報
2015年08月07日 03時00分 YOMIURI ONLINEホームへ
◆先の大戦
 まもなく戦後70年を迎える。

巡り来る季節の中で、我々は戦没者の御霊(みたま)に
深い鎮魂の祈りを捧(ささ)げ、 平和への誓いを新たにする。
戦争はその悲劇性とともに人間の尊厳や国家の在り方を教えた。
戦後復興と今日の繁栄は、我々がその教訓を心に刻みながら、
尊い犠牲に応えようとした日本人の良心と責任が成し得た結果でもある。
この70年は、その成果の上に立って国の歩みを検証し、
未来を展望する節目でもある。

 第2次世界大戦は、帝国主義的な資源や国家、

民族の在り方をめぐる戦いであり、欧米諸国との間の戦争も
そのような性格を持ったものであった

 他方、アジア諸国に対しては侵略戦争でもあった。

特に中国に対 しては、1915年の「対華21か条要求」以降、
侵略性が非常に強くなった。
軍部による中国国内への事変の拡大は、中国民族の感情を
著しく傷つけたと言わ ざるを得ない。
資源獲得のための東南アジア諸国への進出も、現地の人からすれば
日本軍が土足で入り込んできたわけで、まぎれもない侵略行為だった。

対華21ヶ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、 第一次世界大戦中、
日本が中華民国政府とおこなった外交交渉において
提示した21か条の要求と希望のこと。

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2015年7月18日土曜日
岩田温、安倍談話に「侵略」、「お詫び」の文言を 挿入せよと主張する

共同声明について。侵略の定義を国連で決議したのは1974年。
70年談話で学者ら74人が声明を発表、一九三一年の満州事変から
四五年までの太平洋戦争を日本の侵略戦争と明記するよう主張。

2015年7月22日水曜日
70年談話  70年談話有識者懇「欧米交え歴史研究を」 近く報告書。
“謝罪”盛り込まない方向で最終調整。
#村山談話 の「#侵略・おわび」、 #安倍首相 「再度書く必要ない」 

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