慰安婦問題について、いろんな報道: 【戦後70年】「戦場知る責任は全ての日本人にある」 …玉砕戦・拉孟作戦の証言集める遠藤美幸さん

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2015年8月14日金曜日

【戦後70年】「戦場知る責任は全ての日本人にある」 …玉砕戦・拉孟作戦の証言集める遠藤美幸さん

戦争経験者から聞き取りを行う遠藤美幸さん=和歌山県高野町高野山
【戦後70年】 2015.8.14 22:15 産経WESTニュース
「戦場知る責任は全ての日本人にある」
…玉砕戦・拉孟作戦の証言集める遠藤美幸さん
昭和19年にビルマ(現ミャンマー)国境に近い
中国・雲南省で1300人の日本軍が
4万人の中国軍に包囲され全滅した拉孟(らもう)作戦
大学非常勤講師、遠藤美幸さん(52)
=東京都中野区=が生き残りの将兵らを捜し出し、全滅戦の全容を本にまとめた。
「戦争のない未来のため、今こそ戦場で何があったのかを知ってほしい」と願う。

  「拉孟」との出合いは、突然だった。平成13年8月15日。
日本航空の客室乗務員を経て、大学院で英国音楽史を研究しながら
子育てをしていたときだ。
親交のあった日航OBの男性から段ボール箱が届いた。
拉孟作戦の資料と手紙が入っていた。
「後世の人たちに、壮絶な玉砕戦を伝え残してほしい」。
男性は作戦に参加した元飛行隊長だった。

「荷が重すぎる…」
 約100日間にわたり繰り広げられた壮絶な戦いの記録。
「とても荷が重すぎる」と途方に暮れた。
しかし、手紙の言葉が頭から離れなかった。
「私が伝えなければ、歴史に埋もれてしまうかもしれない」。
迷った末、覚悟を決めた。
 全国の戦友会や慰霊祭などに足しげく通い、わずかな生存者を捜し求めた。
「これ以上はやめてくれ。耐えられる話じゃない」。
長らく口を閉ざし続けた元将兵らは、証言を拒むことも少なくなかった。
 過酷な戦闘が、心に傷を残していた。
「戦死した将校の遺族に報告をせよ」との上官の命を受け、
全滅直前に陣地を脱出した元中尉は、
「生き残って申し訳ない」と悔やみ続けていた。
「脱走の途中、出くわした女性兵士らを斬殺した」。
涙を流しながら告白した元上等兵もいた。
 作戦を立案し、遂行した元参謀に 辻 政信(つじ まさのぶ

「当時、作戦は成功すると思っていましたか」と思い切って尋ねると、
元参謀は苦笑いしながら自嘲気味に答えた。
「成功するなんて誰も思っていなかった。
負け戦になると分かっていても、戦を止めることはできなかった」
証言収集はまだ続く
 日常とかけ離れた戦場の事実に、耐え切れなくなることもしばしばだった。
それでも、「子供たちの未来に戦争があってほしくない」
という母親としての思いが背中を押した。
足かけ約12年。聞き取りを行った証言者は30人以上にのぼる。
昨年11月、「『戦場体験』を受け継ぐということ」(高文研)を出版した。
「よく残してくれた。ありがとう」。元将兵や遺族らの言葉が、
何よりもうれしかった。
 「戦場体験に耳を傾け、それを知る責任は全ての日本人にある。
その上で、どんな未来を選択するかを考えなければならない」
 証言を集める活動は、まだ続ける。聞き取った元将兵らの大半が、
この数年間で亡くなった。残された時間との闘いは続く。
    
 拉孟作戦 連合軍が中国軍に支援物資を送る輸送ルートを遮断する目的で、
中国・雲南省の拉孟で行われた旧日本軍の作戦。
昭和19年6月に戦闘が始まり、約1300人の守備隊が、
米軍の支援を受けた中国軍約4万人に包囲され、同年9月に玉砕した。
内陸部での数少ない玉砕戦の一つ。
「地元と戦争の関わり伝える新たな語り部に」
もともと戦争には全く興味がなかった。
 きっかけは2001年夏。日本航空の客室乗務員を経て結婚、
子育てをしながら慶応大大学院で英国史を研究していた時だ。
日航時代に機内で声をかけられ、親しくなった日航OBから、
突然、段ボール箱が送られてきた。
 4万人の中国軍に包囲され、日本軍1300人が全滅した
1944年の中国雲南省の「拉孟(らもう)戦」での日誌や写真が入っていた。
OBは空中補給を担当した飛行隊長だった。
「壮絶な玉砕戦があったことを後世に伝え残してほしい」
という手紙に背中を押された。
 軍隊用語も階級も知らず、一から教えを請い、
生き残った元将兵ら約30人を尋ね歩いた。
大学の非常勤講師のかたわら、戦友会の世話人をするなどつき合いを深め、
血と汚物にまみれた死体の中での戦いや、前線にあった慰安所のことなど
生々しい証言を集めた。
 昨年、「『戦場体験』を受け継ぐということ」(高文研)を出版。
13年かけ拉孟戦の実相を明らかにした。
90歳を超えた元将兵らの「書いてくれてありがとう」という言葉が何よりもうれしい。
 今年は戦後70年。
「戦争は多面的で矛盾に満ちている。
すごく難しいが、戦場体験をできる限りリアルに残すことが大切だと思う。
自分を消して、耳を傾け続けたい」。残された時間は少ない。
 (文・大久保真紀 写真・西田裕樹)

十八年の夏頃又内地人と半島人合せて十名が派遣された。 
最初の半島人十名は十八年に龍陵の慰安婦と交代したが、
これ等の慰安婦は 十九年六月後方との交通が遮断された為
後方に脱出する事が出来ず、 拉孟の将兵と共に玉砕した。 
此等の女性は最初は慰安婦であったが、
拉孟が包囲されるに及び全く日本婦人と変り、
兵の服を着用し炊さんに握り飯つくり、
患者の看護等に骨身を惜しまず働いて呉れたが、
気の毒なことであった」と述べられている。

(4)激戦地で日本兵と共に玉砕した朝鮮人
「慰安婦」の無言の重さを想う より

http://ja.wikipedia.org/wiki/拉孟・騰越の戦い
拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、
1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省ビルマ
(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟・騰越地区で行われた、
日本軍と中国・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。

2016年11月9日水曜日
日本軍が玉砕した拉孟・騰越の戦いにおいて、
“日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺したと、
”韓国研究チームが 慰安婦虐殺記録の原本を発見したぞと、大はしゃぎ
=韓国ネット「慰安婦合意はどうなる?」「問題を蒸し返さないで」。
在日朝鮮人から見た韓国の新聞、

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