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2016年2月15日月曜日

BBC、2005年に死去したローマ法王ヨハネ・パウロ2世の女性への書簡 「強い関係」示す。

Dr. Anna-Teresa Tymieniecka

バチカンでティミエニエツカ氏と会ったヨハネ・パウロ2世
Pope John Paul II's secret letters CBC News
BBC
ローマ法王の女性への書簡 「強い関係」示す
2016年02月15日 BBC
2005年に死去したローマ法王ヨハネ・パウロ2世が
ポーランド系米国人で哲学者の
アンナ=テリーサ・ティミエニエツカ氏に送った
数百もの書簡や写真をBBCが閲覧し、
2人が親密な関係にあったことが明らかになった。
書簡はポーランド国立図書館に保管されていた。
ただし、30年以上にわたる2人の関係において、
法王が独身の誓いを破ったと示唆するものはない。
ヨハネ・パウロ2世に出合った頃の
ティミエニエツカ氏(1973年)

ティミエニエツカ氏は既婚女性だった。
2人が出合った1973年当時、ヨハネ・パウロ2世は
カロル・ボイティワの名前で
ポーランド・クラクフの大司教を務めていた。
ボイティワ大司教が書いた哲学書について
ティミエニエツカ氏が問い合わせをしたのをきっかけに、
当時50歳だったティミエニエツカ氏は在住していた米国から
ポーランドを訪れ、ボイティワ大司教と本について話し合っている。 
ほどなくして、2人は手紙をやり取りするようになった。
ボイティワ大司教は当初、
あらたまった調子で書かれた手紙を送っていたが、
友情が深まるにつれて親密になった。
2人は、ボイティワ大司教の本「行為する人格」の続編を
一緒に準備することを決め、何度も会合を持った。
大司教の秘書が同席することもあれば、
2人きりの時もあったという。
また、頻繁に手紙をやり取りしたという。
ボイティワ大司教は1974年に書かれた手紙の中で、
ティミエニエツカ氏から1カ月の間に
4通届いた手紙を読み返していると述べ、
手紙を読み返すのは内容が「とても意味が深く、
とても個人的」なためだと説明した。
ティミエニエツカ氏と一緒に写っている写真は、
これまでヨハネ・パウロ2世について知られている写真の中でも
最もリラックスした表情を捉えている。当時のボイティワ大司教は
ティミエニエツカ氏をハイキングやスキーに誘い、
集団でキャンプをした際にも同行させている。
ティミエニエツカ氏が
バチカンの法王を訪れた際の写真も残っている。
ケンブリッジ大学のイーモン・ダフィー教授(キリスト教史)は、
「20世紀においてあらゆるものを超越して
偉大だった一握りの著名人のひとりで、
カトリック教会の最高指導者だった人物が、
魅力的な女性と強力な関係にあった様子が分かる」と語った。
1976年にボイティワ大司教が米国で開かれた
カトリック教会の会議に参加した際には、
ティミエニエツカ氏は家族と一緒に
ニューイングランド地方にある別荘に大司教を招待している。
ティミエニエツカ氏は大司教に対して
強い感情を吐露していたとみられ、
その直後に大司教が書いた手紙からは、
2人の友情をキリスト教徒としてどう解釈すべきか
苦悩する男性としての大司教の心境が垣間見える。
同年9月の日付の手紙で大司教は、
「親愛なる私のテリーサ、3通とも受け取りました。
あなたは引き裂かれていると書いていますが、
その言葉への答えが見つかりません」と書いている。
ボイティワ大司教はティミエニエツカ氏のことを
「神の贈り物」だと表現している。
BBCはティミエニエツカ氏側が書いた手紙を閲覧できていない。
ティミエニエツカ氏が2008年にポーランド国立図書館に
売却した資料にはそれらのコピーが含まれているとみられる。
ティミエニエツカ氏は資料を売却した6年後に死亡した。
図書館はティミエニエツカ氏の書簡を
所有しているかどうかは明らかにしていない。
手紙の売却交渉に関わった
書籍商のマーシャ・マリノウスキー氏は、
ティミエニエツカ氏が恋に落ちたのは、
ボイティワ大司教との交流が始まった
最初の頃だったと考えている。
マリノウスキー氏はBBCに対し、
「(恋愛感情は)往復書簡に
完全に反映されていると思う」と語った。
手紙には、ボイティワ大司教が最も大切にしていた
スカプラリオと呼ばれる肩の周りに身に着ける装具を
ティミエニエツカ氏に送ったことが書かれている。
ティミエニエツカ氏に贈られたスカプラリオ

1976年10月の日付がある手紙では、ボイティワ大司教は
「去年すでに『私はあなたのもの』
という言葉に対する答えを探していました。
ポーランドを離れる前に方法が見つかりました。
スカプラリオです。どんな時にもあなたを受け入れ、
感じる次元です。
近くにいても、遠くにいても」と書いている。
法王になってからは、
「私たちの間で手紙の交換が続くために、
(即位の)後に手紙を書いています。
私の旅路が新たな段階に入っても、
何もかも覚えていると約束します」と書いている。
ボイティワ大司教には多くの女性の友人がいた。
何十年にもわたって手紙をやり取りした
精神科医ワンダ・ポルタウスカ氏もその一人だ。
しかし、ティミエニエツカ氏への手紙には、
より強い感情が見られ、
2人の関係の意味について苦悩する姿が表れている。
ヨハネ・パウロ2世は法王就任から
27年近くたった2005年に死去した。
2014年には聖人に列聖されている。

既婚女性と「親密」だった
【ロンドン時事】英BBC放送は
15日、故ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)が
生前「既婚女性と親密な関係にあったことを示す
数百点の手紙や写真が見つかった」と報じた。
2人の関係は30年以上続いたという。
 女性はポーランド系米国人の
哲学者アンナテレサ・ティミエニエツカさん。
法王は就任前の73年、
ポーランド南部クラクフ教区で大司教を務めていた。
大司教の哲学に関する著作について
ティミエニエツカさんから問い合わせがあり、
2人はポーランドで面会した。
その後、文通を始め、当初は形式的だった文面は、
親しくなるにつれ「より親密な内容」になった。
 ティミエニエツカさんをスキーやハイキングに誘ったり、
キャンプに同行させたりもした。
76年9月の手紙では、ティミエニエツカさんを
「神からの贈り物」と称賛していた。
ただ、BBCは
「禁欲の誓いを破ったことを示唆するものはない」と報じている。
27日、バチカンのサンピエトロ広場で、
先々代のローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)と、
第261代法王ヨハネ23世(同1958~63年)をカトリック教会で
最高の崇敬対象である「聖人」とする列聖式を執り行った。
 列聖式には、世界中から集まった推定数百万人の信者らに加え、
前法王のベネディクト16世も出席。
2人の元法王の列聖式に現・前職の法王2人が関わる豪華な顔ぶれで、
バチカン関係者は「カトリック教会にとって歴史的な出来事」としている。
 「空飛ぶ法王」と呼ばれ、世界中を外遊した
ヨハネ・パウロ2世はポーランド出身で、冷戦時代に
旧ソ連や東欧の民主化を後押し。世界の信者らから敬愛され、
死後9年という異例の早さで聖人になることが決まった。
イタリア北部出身のヨハネ23世は、
教会近代化の道を開いた
第2回バチカン公会議を招集したことで知られる。
 聖人となるには、死後にその人物が起こした奇跡の認定が必要。
ヨハネ・パウロ2世は
2011年5月1日、重病のコスタリカの女性が祈りを続け、
回復した出来事が奇跡と認められた。
ヨハネ23世は法王により奇跡の認定が免除された。
 聖人の前段階の「福者」とする手続きは死後5年以上たってから始められ、
認定まで数百年かかることもある。
聖人になるにはさらに時間を要する。
20世紀以降の歴代法王のうち、聖人となったのは
第257代法王ピウス10世(在位1903~14年)のみ。


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教皇ヨハネ・パウロ2世略歴
 使徒聖ペトロの後継者、第264代教皇ヨハネ・パウロ2世
 (カロル・ヨゼフ・ボイティワ)
 1920年5月18日、ポーランド・クラクフから
50キロ地点のワドビチェにて誕生。
父親カロル・ボイティワ(職業軍人)、
母親エミリア・カツォルブスカ(教師)の次男。
 8歳の時、母を、3年後には兄エドモンド(医師)を失い、
父によって育てられる。
 9歳の時初聖体、18歳で堅信を受ける。
 ワドビチェのマルチン・ワドビタ高校卒業後、
1938年、クラクフのヤゲロニカ大学に入学し、
ポーランド文学を専攻。
しかし、39年、ポーランドにドイツ軍が侵攻し、
大学は閉鎖。
さらに翌年には父が他界し、
20歳にして全ての身寄りを失った。
 生活を支えるために、また、ナチ軍による
ドイツへの連行を避けるため、化学工場の石切り場で働きながら、
勉学と、演劇活動に打ち込み、
地下演劇集団「ラプソディコ劇団」にて指導的な役割を果たす。
 この間、司祭職への志が芽生え、
1943年、クラクフのアダム・ステファン・サピエーハ大司教が
ひそかに開いていた ゛地下神学校″に入り、
46年11月1日、司祭に叙階される。
 同年、大司教の推薦で、
ローマのアンジェリクム大学に入学、神学を修める。
 1948年、神学博士号取得。論文のテーマは
「十字架の聖ヨハネの著作における信仰」。
ローマでの神学研修の休暇中、
フランス、ベルギー、オランダなどの
ポーランド人移民のための司牧に従事する。
 同年、スターリン体制に支配された祖国に戻り、
クラクフ近郊の二エゴヴィッチ小教区助任司祭、
その後、サン・フロリアーノ小教区助任司祭、
1951年まで大学生担当司祭を勤める。
 この間に哲学、神学の勉学再開。
1953年、ルブリン大学に、論文
「マックス・シューラーの倫理体系による
キリスト教倫理構築の可能性」を提出。
 後、クラクフ大神学校、および、
ルブリン大学神学部にて倫理神学教授。
 1958年7月4日、教皇ピオ12世により、
クラクフ補佐司教任命、9月28日、クラクフ司教座大聖堂にて、
エウジェニウス・バジアク大司教から司教叙階。
38歳で、ポーランドで一番若い司教として、
教会と政府の対立の中、困難な司牧の使命を受ける。
 62年から始まった第二バチカン公会議に
定期的に出席、
『現代世界憲章、ガウディウム・エト・スペス』編纂において、
重要な役割を果たす。
 64年にパウロ六世教皇によってクラクフ大司教に、
67年1月13日には枢機卿に任命される。
同年6月26日枢機卿就任。
 枢機卿時代、5つの世界代表司教会議(シノドス)に参加。
 ヨハネ・パウロ一世帰天後の教皇選挙(コンクラーベ)の結果、
1978年10月16日、第264代目のローマ教皇に選出され、
ヨハネ・パウロ二世と名乗る。
 教皇登位後は、第2バチカン公会議の精神を引き継ぎ、
新しい福音宣教を推進、聖職者、奉献生活者、
信徒のそれぞれの使徒職に光を当て、
青少年、家族、病者、女性、職業人など
様々な立場の人にキリスト者としての自覚を促した。
 また、国や民族、宗教を超えた対話を目指した教皇は、
平和の使者として積極的に世界各国を歴訪し、
多くの政治リーダー、諸宗教の指導者との会見を持った。
 紀元2000年には大聖年の開幕を告げ、
これを機会に世界中の信徒に回心と償い、
赦しと和解、新しい希望を呼びかけると同時に、
過去の歴史の中で
カトリック教会の子らが犯した様々な罪を認め公式に謝罪した。
 「愛の文明」の構築を訴えた教皇は、
すべての人々の命と人権を擁護、様々な闘争に揺れ動く世界の中で、
戦争や暴力に勇気ある反対の声を上げ、
平和への力強いアピールを発し続けた。

              教皇ヨハネ・パウロ2世の
              在位中の主な出来事
               →(1978~1989)
               →(1990~1994)
               →(1995~1999)
               →(2000~2005)

2016年2月13日土曜日ロシア正教会総主教、東方教会の“盟主”を誇示、

2014年8月19日火曜日

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