慰安婦問題について、いろんな報道: 【鈴木史朗】さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由。1位は加山雄三、2位は鈴木史朗アナウンサー、3位は仲間由紀恵、実はガチゲーマーな芸能人たち。

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2016年6月15日水曜日

【鈴木史朗】さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由。1位は加山雄三、2位は鈴木史朗アナウンサー、3位は仲間由紀恵、実はガチゲーマーな芸能人たち。

「WiLL」2011年4月号より鈴木史朗さんの記事
鈴木史朗氏「日本軍は南京市民から感謝されていた。大虐殺などあり得ない」
Ihaho Sazareisi 2015/11/21 に公開
【言論テレビ・花田編集長の右向け右!】
http://www.genron.tv/ch/hanada/

仲間由紀恵、加山雄三ら 実はガチゲーマーな芸能人たち
2016年6月15日 7時30分 ライブドアニュース
1位はいつどこでも遊べるように、船にもゲーム機を置いている「加山雄三」
2位は、「鈴木史朗」アナウンサー、3位は、ホラーゲーム好き「仲間由紀恵」
「芸能人って忙しそうなのに一体いつゲームしてるの?」
ある人はプロレベルの腕前だったり、またある人は

数千時間も遊び続けていたり。
いろいろな解釈がありますが、忙しいはずなのに
「そこまで遊ぶの?」とびっくりされてしまうほど
ガチでゲーム好きな芸能人を調査・ランキングにしてみました。
芸能人はどんなゲームにハマっているのか?早速チェック!
実は「ガチでゲーマー」と聞いて驚く芸能人ランキング
1位 加山雄三
2位 鈴木史朗(アナウンサー)
3位 仲間由紀恵
4位以降のランキング結果はこちら!

1位は予想外!「加山雄三」がトップに。
初代バイオハザードでは、なんとナイフ使用限定クリアができる腕前。

この記録はかなりやり込まないと達成できないのは、
ゲームをプレイしたみなさんならお分かりですよね。
また、『バイオハザード リベレーションズ2』のために
プレステ4を購入するなど、
とにかくバイオハザードシリーズが大好きな様子。

それだけでなくゲーム歴自体も、1978年に登場した
スペースインベーダーから触れているそうで、
ファイナルファンタジーなどのビッグタイトルも当然プレイ。
余談ですが、いつどこでも遊べるように、
自身が所持している船にもゲーム機を置いているなど、
休暇で時間がある時にがっつりプレイ派のようですよ。
2位はフリーアナウンサーの「鈴木史朗」がランク・イン。
1位の加山さんと同じく、スペースインベーダー時代から
ゲームに触れており、その中でも
バイオハザードシリーズが大好きで、
全作所持しているという鈴木さん。
芸能人ゲーマー特集の番組などで
「バイオハザードの達人」として出演することも多々あるため、
ご存知の人も多いのではないでしょうか。
どれだけの腕前なのかといいますと、
『バイオハザード4』では難易度の高いおまけコースで、
一般的なハイスコアの3倍以上である20万点超えを果たす程。
今年78歳とは思えない
動体視力と反射神経を備えているということですよね。
制作元のカプコン公式番組への出演や
トークショーにも登場するなど、
業界内でもその腕と大好きっぷりは認知されてるようです。
3位はゲームで遊んでいる姿を全く想像できない!?
「仲間由紀恵」が選ばれました。
バラエティ番組でゲーム好きなことを公言。
特にバイオハザードシリーズが好きなんだそう。
「清純派女優がホラーゲーム好き」という
衝撃的な事実で周りを驚かせましたが、
番組の企画で
ゲームの腕を披露した時は対戦相手に圧勝したそうで、
単なるファンというわけではなくかなりやり込んでいる様子。
また、デビュー当時は「ロックマンシリーズ」をはじめ
数々のゲーム主題歌を担当するなど、
ゲームに関する仕事が多数。
もしかしたら仕事がきっかけで、
ゲームにハマったのかもしれませんね。
なぜかバイオハザードシリーズ愛好家の芸能人が
上位を占めるという結果に。
他にも世界的記録を持つ歌姫や、
世界大会出場経験があるモデルまで。
4位~21位のランキングも確認してみて!
(ライター:いしきりひなほ)(写真:MANTAN/アフロ)
調査方法:gooランキング編集部が
「リサーチプラス」モニターに対してアンケートを行い、
その結果を集計したものです。
有効回答者数:500名(20~30代男女各250名:複数回答)
調査期間:2016年6月1日~2016年6月3日
ゲームの神様 "鈴木史朗" 降臨 2011/02/13 にアップロード
鈴木史朗さんがバイオ4のマーセを神プレイ! (2011/02/11)
鈴木史朗(フリーアナウンサー)
 1938年、京都生まれ。

62年、早稲田大学法学部卒業後、TBSに入社し、
アナウンス部へ配属、その後報道局なども経験。
主な出演作品に、TBS『さんまのスーパーからくりTV』、
『水戸黄門』(ナレーション)、日本テレビ『オジサンズ11』など。
著書に『鈴木史朗の健康道場 ご長寿TVで長寿のコツ』
(小学館文庫)。

〈「もう一度南京へ」〉

 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、
私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。
毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、
クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、
今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという
会津若松の方にお会いしたことがありました。
 撮影の合間に南京の話になり、
私が「あそこは大変なことがあったから、
もう南京には行けませんね」と声をかけると、
その方が「いや、私は死ぬまでに
もう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。
私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、
こんな話をして下さいました。
 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、
怪我をした中国の敗残兵も助けた。
軍のトラックで送ってやったら
中国人の家族が非常に感謝して、
家宝の掛け軸をくれたんです。
 さらに『戦争が終わったら、
ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。
一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』
とまで言われたんです。
だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」
 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、
南京戦直後に中国にわたり、
天津で過ごした日々のことでした。
それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、
大変のどかな日々だったのです。
 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、
「南京大虐殺」の証拠写真とされている、
松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が
並んで移っている写真を持って行ったんです。
キャプションには、
「残虐な日本兵によって、
逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」
と書かれていました。
 ところが、この写真を見せたところ、
南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。
 「この兵隊のことは良く覚えていますよ。
アルマイトがなかったので、
ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。
いやー、よかった。
手足をもぎとられた中国負傷兵と、彼らを看護する日本兵
(南京捕虜収容所で 1938年初春 毎日グラフ:日本の戦歴
↑このキャプションを
「残虐な日本兵によって、
逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」

この写真、いただいてもいいですか」
 他にも、実際に参戦された方々から
さまざまなエピソードやをお話しいただきました。
  「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。
だが、それはあくまでも中国の兵士であって、
日本兵も戦死しています」
 「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、
機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。
武士の情で彼らの墓を作ってやりました」
 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。
あなたの靴を磨かせてください』と言われて、
泥だらけだからと断ったのだが、
どうしてもといわれたので磨いてもらった。
気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」
 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、
勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、
また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら
現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、
歴史を学べば学ぶほど、
また中国での日々を思い出せば思い出すほど、
「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

〈天津での日々〉
 私は、一九三八年
昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。
直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、
それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて
単身、大陸へわたったのです。
 残された母は、私が一歳になるのを待って、
一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。
南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、
その一年半後には、もう私の母は女一人、
子供を抱いて中国にわたっていたことになります。
 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。
元々フランス人租界だったところを
日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、
その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。
引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、
写真はかぎられたものしか残っていませんが、
一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の
民団住宅前で撮影したものです。
私と二人の妹と、
近所の中国人の子が一緒に写っています。
中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、
妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。
 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。
近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて
遊ばせてくれている光景です。
背景も写っていますが、
近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、
「日本人街の水道はきちんと整備されているから」
などといって、
水道の水などをもらって帰っていました。
 「天明公社」という貿易と軍需関係の
合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、
わが家は結構裕福な暮らしをしていました。
 父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、
自宅のガレージの一角に部屋を作って
住まわせていたこともありました。
その夫婦は恩義に感じてくれたのか、
三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と
日本風の名前を付けていて、
私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。
 当時の天津は本当に安全で、
私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、
毎日一人で通っていたほどでした。
道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、
身の危険を感じるうようなこともありませんでした。
虐殺などが本当に起こっていたとすれば、
日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、
少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」
などと言われたはずですが、
そのようなことはありませんでした。
 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。
家の近くを運河が流れていたのですが、
土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。
溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、
自宅まで連れて帰ってくれたのです。
川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。
 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、
中国人の友達も
「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」
ということを言っていたくらいで、
規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、
ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。
 天津には七年間住んでおり、子供ながらに
シンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、
「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

〈中国人女性にモテた父〉
父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。
王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに
事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、
やはり穏やかでした。
太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が
自転車で走り去るのを見て、子供心に
「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。
父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、
母はとても苦労していたようです。
父は俳優の上原謙のような男前でしたし、
明治の男ですから仕方がないとはいえ、
恋愛結婚で一緒になって、
大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。
 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、
女性を強姦していたとしたら、
中国人女性が日本人男性である父に
それほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、
中国人同士の間でも
「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。
しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、
父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、
老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、
北京の警察署がありました。
父と署長は仲が良く、
どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。
署長さんはお金持ちだったからか、
一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、
どちらもとても素敵な女性でしたが、
口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、
冷たくあしらっていました。
「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。
 しかし、そう感じたということは、逆に言えば
それ以外の中国人の大人たちは、
日本人である子供の私を
非常に可愛がってくれていたということでしょう。
 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。
まだ記憶はおぼつかない頃ですが、
親父に後から聞いた話は覚えています。
 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。
南京のある中国人が、そんなお前の態度を見て
とても気に入ってほめてくれたんだ。
しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、
自分の運気も上がるから、
是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」
 また、父は南京で聞いた話をもとに、
よくこんなことを言っていました。
 「聞いたところによると、日本の兵隊さんが
食糧を分けてくれたので、
南京の人々は助かったんだそうだ。
お前もいい兵隊さんになるためには、
強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」
 この話は非常に印象的だったのですが、
後のこの話に通じる事実があったことを知りました。
 あのジョン・ラーベも日本軍宛に
「私どもは貴下の砲兵隊が
安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、
また同地区における中国民間人の援護に対する
将来の計画につき、
貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して
感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、
報告書でも、日本軍からの
米と小麦の配給があったことに触れています。
 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、
いくら書簡の挨拶文とはいっても
「感謝」など示すはずがありません。

〈命からがら引き揚げ〉
 歴史的根拠に関して言えば、
二〇〇七年十二月に出版された
『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、
映画『南京』が紹介されています。
私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、
まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。
とてもじゃないが、
「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。
 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、
この映画にはワイドショットが多用されているのですが、
報道記者としての経験から言っても、
ワイドショットでは不都合なものがあった場合、
それが映りこんでしまうので、
ドキュメンタリーを撮る場合には
普通、あのような撮影はしません。
「不都合なものなどない」から、
安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。
 優しく、子供好きの日本兵、
そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。
もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、
あのような自然な笑顔で
交流することなどできなかったはずです。
 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、
コロリと態度が変わりました。
わが家に住んでいた中国人家族も、
「引き揚げるなら
財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。
 こちらはせめてと思い、財産と引きかえに
「持って帰ってはいけないといわれているので、
写真を後から日本へ送ってほしい」と
撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。
送ってくれなかったのか、
それとも没収されてしまったのかは分かりません。
 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係で
スパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。
一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、
父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、
私と母はとにかく引き揚げなければということで、
私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで
一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで
二週間かけて歩きました。
銃撃を受けながら、
ろくなものも食べられない状況での
過酷な「行軍」だったのです。
 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が
「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。
鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と
一所懸命動いてくれたので刑を免れ、
港で合流することができ、
何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

〈テレビ局の「自主規制」〉
 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、
TBSに入社しました。
仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、
日々の生活に追われて
天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。
 社会部で仕事をしているなかで、
ふと気がついて周りを見渡したときには、
「虐殺はなかったんじゃないか」
ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。
それがテレビ局の「自主規制」なのか、
自虐史観を刷り込まれているからなのか、
はたまた中国の謀略に
かかってしまったからなのかは分かりません。
 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、
TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、
講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。
それでも、雑誌やテレビが「私が経験から
南京大虐殺などなかったと思う理由」について
取り上げてくれたことは一度もありませんでした。
 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』
(〇七年十月〜〇八年九月まで放映)
という番組に出演していた時に、制作プロダクションから
「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、
映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。
 この映画は他の局で放映されたことはないし、
これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。
南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。
 プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、
私は本当に嬉しかったんです。
「これで真実が全国に広がるきっかけになる」
と思っていたのですが、
会議で上の人間から何か言われたのでしょう、
有無を言わさず却下されてしまいました。
その後はスタッフが私を見る目が変わり、
目が合っても顔を背けるようになってしまった。
非常に悲しかったですね。
 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、
「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。
にもかかわらず、「検証」すらせず、
中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、
報道人としての風上にも置けません。
 すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、
「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、
いや人間としての務めではないでしょうか。

〈日中の未来のために〉
 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、
日中が手に手を取ってやってくことはできません。
日本と中国は永遠に隣同士ですから、
その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、
反日教育はたださなければなりませんし、
このような状況は日本にとっても中国にとっても、
「最大の悲劇」としかいいようがありません。
 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。
その中国の方々が、このような「嘘」を
永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。

 映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。
 「我々の同胞が一つになって闘った
数々の光輝ある歴史の中でも
南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として
世界の歴史に残るだらう。
その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」
 我々は、どんなに時間をかけても
「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。
それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、
中国人のためでもあるのです。
 ____________________________全文起こしここまで

 鈴木さん、子供の頃に南京に行かれたこともあったんですね。
 1938年2月のお生まれですから、
3〜4歳の頃ということは、1941年から42年頃にかけてでしょうか?
 南京戦があったのは1937年12月ですから、
4〜5年後ですよね。
 本当に「大虐殺」があったのなら、
そのわずか4〜5年後、南京の中国人は、
南京にやってきた日本人に対して親しげにはしないでしょう。
日本人の子供(鈴木さん)を
気に入って抱き上げたりもしないでしょう。
 それ以前に、日本人の側も、「反日感情」を怖れて
南京に出入りしようとはあまり考えないでしょうし、
ましてや幼い子供(鈴木さん)を
連れて行くなんてことは常識ではあり得ないと思います。
 南京陥落直後ですら、
このようなのどかな光景の写真がいくつも残されています。
【昭和12(1937)年12月17日撮影/「支那事変画報」
大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より
/わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで
日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民/
撮影者、佐藤振壽(毎日新聞カメラマン)/
【昭和12(1937)年12月20日 南京住宅街にて撮影
/「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より
/支那事変写真全集(中)上海戦線 南京陥落後旬日
(じゅんじつ)にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、
皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達

2015年5月11日月曜日
南京事件「虐殺30万人」に疑念 日本軍元少尉の日記が明かす
2014年12月26日金曜日
【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(3)後半】 

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