慰安婦問題について、いろんな報道: 旧陸軍機が航空遺産に 十和田湖から引き揚げ。一式双発69年ぶりの覚醒。

Translate

2016年6月14日火曜日

旧陸軍機が航空遺産に 十和田湖から引き揚げ。一式双発69年ぶりの覚醒。

日本航空協会の重要航空遺産に認定される、
旧日本陸軍の「一式双発高等練習機」
=14日午後、青森県三沢市
©2016 The Sankei Shimbun &
SANKEI DIGITAL All rights reserved. 

十和田湖・休屋から、機体の引き揚げ地点方向を望む【時事通信社】

2016.6.14 18時54分 産経フォトニュース
旧陸軍機が航空遺産に 十和田湖から引き揚げ
青森県立三沢航空科学館(三沢市)は
14日、2012年に十和田湖から引き揚げられ、
館内で展示している旧日本陸軍の訓練用飛行機
一式双発高等練習機」が、来月2日に日本航空協会の
「重要航空遺産」に認定されると発表した。
全国で9件目、東北では初めての認定となる。

 練習機は1943年、秋田県の旧陸軍能代飛行場から
青森県の八戸飛行場へ飛行中、十和田湖に着水し水没。
2012年9月に湖底から69年ぶりに引き揚げられた。
 この練習機は45年までに1342機が生産され、
現存するのは世界中で3機。
認定が決まったのは、国内に唯一残る機体。
 県航空協会会長も務める大柳繁造館長(83)は
「本当に貴重な遺産だ。腐食が進まないよう
保存の在り方を検討する」と話した。

69年間十和田湖に沈んでいた陸軍一式双発高等練習機 
茨城「現代鉄砲ブチ文化研究会」 2014/01/29 に公開
「立川キ-54」一式双発高等練習機 昭和18年9月27日、
秋田県能代から青森県八戸基地に向かう途中、
十和田湖上空で故­障し、不時着し水没。
搭乗者4名(少年飛行兵出身パイロット3名、
整備兵1名)の内3­名が殉職した。

時事通信社 宮坂一平 (2013年12月)
1 2 3 4 5 6 7
気になっていた記事
奥入瀬のほとばしるような水の流れ、

陽光を浴びて水晶のようにきらめく湖面。
青森、秋田両県にまたがる十和田湖とその周辺の八甲田で、
心が洗われるような数日を過ごした後、
青森・南部地方へちょっと足を延ばすことにした。
 目的地は、三沢市の県立三沢航空科学館。
ここに、十和田湖の湖底から69年ぶりに引き揚げられた
旧日本陸軍一式双発高等練習機(キ54)が、
ほぼ当時の原形をとどめた状態で展示されていることを、
しばらく前に新聞記事で読み、ずっと気になっていたからだ。
一式双発高等練習機は、太平洋戦争中の
1943(昭和18)年、飛行中にトラブルを起こして
十和田湖に墜落。
以来、湖底の冷たい水の中でずっと眠り続けてきた。
 70年近い時を経て、地元の人たちの熱意が実り、
やっと覚醒した機体の実物は一体どんなものなのか、
搭乗員たちのその後を知っている人はいるのだろうか。
そうした疑問に答えを見つけてみたいと思った。

県立三沢航空科学館
青森県立三沢航空科学館は、航空自衛隊、米軍、民間が

共同で使用する軍民共用の三沢飛行場に隣接している。
空港施設全体の中では北東寄りに位置しており、
十和田湖方面から青い森鉄道の三沢駅を越して、
ぐるっと回り込むような形で車を走らせていくと、
ガラス張りの近代的な建物のエントランスが見えてくる。
 付帯する公園「大空ひろば」には、新旧の自衛隊機や
米軍機が屋外展示されており、
館内には、三沢の海岸を飛び立ち世界初の
太平洋無着陸横断飛行に成功した
「ミス・ビードル号」の復元機や、
戦後初の国産輸送機「YS11」の実機など、
県にゆかりのある航空機が所狭しと並んでいる。
間近に見たり、写真撮影したりするだけでなく、
機体内部に入ったり、コックピットのシートに腰を下ろして
操縦桿(かん)を握ったりすることもできる実機もあり、
航空ファンにとってはたまらない施設だろう。
 一式双発高等練習機の展示ゾーンは、
空港ターミナルのような
細長い科学館の1階一番奥に設けられていた。

色鮮やかな日の丸
狭い入り口から中に足を踏み入れると、そこは格納庫だった。

常設展の「喧騒(けんそう)」とは切り離された、
隔絶された空間に、
一式双発はひっそりと身を横たえていた。
 機首先端や胴体下部が損傷・欠損しているほか、
ジュラルミン製の部材の各所に穴が開き、
エンジンや主脚、座席などは
元の位置から離れたところに置かれていた。
しかし、主翼と胴体に描かれた日の丸の赤や
主翼前縁部の黄色の塗装は、
時間の経過を感じさせないほど鮮やかだった。
 そして何より、十和田湖が淡水のために腐食が少なく、
機体全体がほぼそのままの形で残り、
長い眠りに就く前の姿を後世に伝えているという点で、
圧倒的な迫力があった。
 その印象はと言えば、太平洋戦争中、
旧日本海軍の主力戦闘機として戦い、
今も映画やアニメで注目を集める
零戦(零式艦上戦闘機)の実機を目にする時とは、
ずいぶん異なるものだった。
零戦には「生と死」「栄光と挫折」というイメージが付きまとう。
その姿は、研ぎ澄まされた日本刀のように美しいが、
何度見ても胸が締め付けられる思いがするのだ。
 一式双発は、訓練や輸送といった多用途機であり、
民間でも活用されたとあって、悲劇性は薄い。
ジュラルミンが裂けた所はあえて手を加えておらず、
機体の構造や駆動部の機構、部材やパーツの素材や
形状が手に取るように分かる。
現代の国産航空技術がこれらの延長線上にあり、
大空を飛ぶ夢を紡いできたのかと思うと、いとおしささえ覚えた。

終戦まで1342機生産
では、一式双発高等練習機とは、

どのような航空機だったのか。
以下、科学館の資料から紹介する。
 1939(昭和14)年3月、陸軍から
多目的双発練習機の試作指示があり、
立川飛行機が同年4月に設計着手。同12月に設計完了し、
試作第1号が翌15年6月24日に初飛行、審査に合格して
16年7月に制式採用され、終戦直前の
20年6月までに計1342機が生産された。
 全長11.94メートル、全幅17.90メートル、
全高(水平)4.95メートル。
ハ13甲98式450馬力のエンジン2基を搭載し、
高度2000メートルで最大速度は時速367キロ、
航続距離960キロ。乗員5~10人。
訓練用途によって異なる艤装(ぎそう)が加えられ、
天測用ドームの付いた操縦・航法用の甲型、胴体上部に
ドーム状銃座2個を設けた射撃・無線通信・爆撃用の乙型、
8人分の客席を備えた輸送用の丙型、胴体下面に
アンテナを装備した対潜哨戒用の丁型-が製造された。
また、民間輸送機として提供されたタイプもあった。
 軽易に操縦できる双発機で、比較的収容力も大きく、
部隊の輸送機としても活用されたことから、
予想を上回る生産機数となり、傑作機と評されるが、
日本国内に現存する機体は他にないという。
 湖底から引き揚げられた機体は、
その艤装から甲型とみられている。

助かった搭乗員は1人
事故は、1943(昭和18)年9月27日に起きた。
飛行第38戦隊能代訓練隊の一式双発高等練習機1機が、
秋田県能代の飛行場を離陸した。
故障した百式司令部偵察機の部品を
青森県八戸に取りに行くのが任務で、
航法訓練を兼ねた飛行だった。
 搭乗員は少年飛行兵3人と整備兵の計4人。
西から東に向け、順調に飛行していたが、
途中で左側のエンジンがトラブルを起こし、
午後2時ごろ、海抜400メートルの十和田湖に不時着水した。
 付近でヒメマス漁をしていた金村末吉さんらが、
沈み行く機上の搭乗員の姿を見て、
手こぎの小舟で駆け付け、約20分後に
負傷した伍長1人を救助。他の3人は、
既に姿が見えなかったという。
関係者の話によると、救助された伍長は、
戦後になっても事故については語らなかったという。
 一方、末吉さんは翌10月に召集され、南方方面で戦死した。
末吉さんの死を知らないまま、
戦後、伍長からは毎年のように年賀状が届いたそうだ。
北海道からで、自衛隊に勤務している様子だったが、
十数年前から送られてこなくなり、音信は途絶えたという。

水深57メートルからの浮上
十和田湖に水没した機体は、2012年9月に引き揚げられた。

きっかけは、当時静岡県に本社があった海洋調査会社
「ウインディーネットワーク」が、10年夏に
新しい装置のテストを兼ねて実施した湖底調査だ。
 同社の杉本憲一社長が、調査のため宿泊していた
湖畔の民宿「春山荘」の主人、金村春治さんから、
父親が搭乗員の救助にかかわった
旧陸軍練習機墜落の話を聞き、捜索を決意。
同年8月、二つの半島に挟まれた中湖(なかのうみ)の
湖底で機体を発見したのだから、あまりの偶然に驚かされる。
 救助当事者の息子である春治さんの助言がなければ、
最深部が326.8メートルもある中湖で、
正確な水没位置を特定することは
難しかったかもしれないからだ。
引き揚げ作業は、ウインディー社の協力も得て、
県立三沢航空科学館館長を務める県航空協会の
大柳繁造会長や高橋弘一副会長ら有志で行った。
 最初の挑戦は11年3月。だが、引き揚げ作業は難航した。
機体を大きく損傷する恐れがあったため中断。
12年8月から作業を再開し、エアシートの助けも借りて
機体を湖底から浮上・移動させ、
9月5日に湖岸への陸揚げに成功した。
 ここに、水深57メートル、平均水温約4度の
静かな水の底からの「帰還」が実現したのである。
 科学館によると、引き揚げに当たっては、
東北財務局青森財務事務所から、
搭乗員遺族の了解を得るよう求められ、
遺族会や戦友会などを通じて半年かけて所在をたどり、
同意を取り付けるといった苦労もあったという。

零戦と堀越二郎
こうした行動へと人々を駆り立てたものは
一体、何だったのかと、機体を前にして考えた。
単なる好奇心や興味でないことは確かだ。
 遭難した乗員の人生と湖畔の住民の記憶が重なり合う
歴史の断片を、忘却のかなたに
置き去りにすることは出来ないという思いか。
それとも貴重な航空遺産が朽ち果てるのを
黙って見ていられないという一種の使命感なのか。
 戦時中の航空機は、紛れもなく兵器の一部であるとともに、
先端技術の結晶でもあった。
零戦の主任設計者、堀越二郎は著書
「零戦 その誕生と栄光の記録」(角川文庫)の中で、
試作に際して海軍から過酷な要求を突き付けられ、
テストパイロット2人を事故で亡くして苦しみながらも、
最後まで挑戦し続けた開発者としての情熱を記している。
 航空機に携わる人間には、どこかしら
そういう熱い思いがあるのかもしれないと
勝手に推測してみたりもする。
 「第一線で活躍した零戦と違って地味ですが、
汎用(はんよう)機としてその性能は優秀でした。
しかも、70年前の姿をとどめており、貴重な存在ですよ」。
大柳館長はそう語り、入館者の3~4割が常設展だけでなく、
一式双発も見学していくことがうれしそうだった。
中には陸軍少年飛行兵だった人もいて、
さまざまな感想を口にしていくという。
 機体の引き揚げ記録は2013年に
「縁欠不生(えんけつふじょう)」と題した一冊の本にまとめた。
腐食の進行を防ぐため、
格納庫内の湿度を調整できるようにしたいが、
多額の費用が見込まれ、館長として一番の課題だという。
 外は陽が傾きかけていた。車に乗り込むと、
トラクターが走るのどかな田園地帯の道を飛ばしながら、
ここに来れば世代を超えて
きっと何かを感じることができると思った。
 ※機体の引き揚げについての詳細は、
「縁欠不生 十和田湖底の旧日本機引揚記録」
(大柳繁造著)をぜひ参照されたい。
協力:青森県立三沢航空科学館

0 件のコメント:

コメントを投稿