慰安婦問題について、いろんな報道: これが戦艦「大和」だ!菊の紋章、世界最大の主砲塔 …ハイビジョン映像で判明した“新事実”っとは?。戦艦大和の海中映像を公開 菊の紋章や艦首、鮮明に。【#戦後70年】「帝国海軍の大艦巨砲主義」に反論 …「戦艦大和会」顧問が数々の疑問を解き明かす。その他関連。

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2016年7月4日月曜日

これが戦艦「大和」だ!菊の紋章、世界最大の主砲塔 …ハイビジョン映像で判明した“新事実”っとは?。戦艦大和の海中映像を公開 菊の紋章や艦首、鮮明に。【#戦後70年】「帝国海軍の大艦巨砲主義」に反論 …「戦艦大和会」顧問が数々の疑問を解き明かす。その他関連。

無人探査機で撮影された戦艦大和のスクリュー
=5月26日、鹿児島県沖(呉市提供)

戦艦大和の海中映像公開 菊の紋章などが鮮明に
KYODO NEWS 【共同通信社】
無人探査機で撮影された戦艦「大和」の菊の紋章
=5月26日、鹿児島県沖(呉市提供)
縮尺10分の1の戦艦大和の模型に輝く菊の紋章。
直径150センチとの説を採用し、15センチになっているが、
今回の調査で実物が150センチより小さいことが判明した
=広島県呉市の大和ミュージアム
最高速度で進む戦艦大和(大和ミュージアム提供)
昭和16年に撮影された戦艦大和(大和ミュージアム提供)

2016.7.4 12:00 2 3 4 【動画付き】産経WESTニュース
これが戦艦「大和」だ! 
大戦末期に米軍に撃沈され、鹿児島県南西沖に沈む
戦艦「大和」の最新の海中映像が公開された。
建造地の広島県呉市が5月に行った潜水調査で撮影。
ハイテク技術を駆使した調査では、艦首の「菊の紋章」が
定説より小さいことが判明したほか、大和で使われた食器や
火薬庫が海中に散らばっている様子、
当時世界最大だった主砲塔の一部なども確認された。
同市は撮影した約50時間のデジタル映像と
写真約7千枚の一部を7月23日から大和ミュージアム
(呉市海事歴史科学館)で公開するとともに、
菊の紋章の正確な大きさなどより詳細なデータの解析に努める。

潜水調査は高性能カメラを搭載した遠隔操作可能な
無人潜水探査機を使い、
5月中旬の約10日間にわたって実施。
大和の調査は昭和62(1987)年と
平成11(1999)年にもテレビ局などが行っているが、
アナログ映像のため細部が十分に写っていなかった。
 しかし技術が進歩した今回の調査では
ハイビジョンカメラによる撮影や、
音響測位装置による対象物の緯度・経度の記録、
レーダーによる対象物の大きさの計測なども行い、
水深350メートルに沈んだ大和を詳細に調べた。
 大和は米軍の攻撃を受けて転覆、爆発し、
艦首部と艦央・艦尾部が大きく分かれて沈んだ。
艦央・艦尾部には火薬庫によるものとみられる爆発でできた
大きな穴が確認されていたが、今回の調査で
被害状況がこれまで考えられていたより大きいことがわかった。
 大和ミュージアムでは過去2回の調査をもとに、
大和の海中での状況をジオラマで再現。
折れた艦首部と船底を表にした
艦央・艦尾部との海底での位置関係や、
艦央・艦尾部に開いた穴などをわかりやすく示している。
これらは、今後のデータ解析の
結果次第で訂正する可能性もあるという。
 調査は船体がある場所を中心に南北400メートル、
東西450メートルにわたって実施しており、
1000発分が積み込まれたとされる主砲用の火薬缶
(直径約50センチ、長さ約80センチ)があちこちに
散らばっている様子もわかった。
また火薬缶の中に入っていた
棒状(長さ30センチ)の火薬のほか、
船員が使った靴の底部分やビール瓶、
皿のような食器なども確認され、スクリューも映っていた。
 一方、艦首の「菊の紋章」については、
平成11年の調査で「直径1・5メートル」と結論づけられ、
大和ミュージアムにある
10分の1模型の紋章も直径15センチとしている。
しかし、探査機のアームに付けた物差しを近づけたところ、
定説より明らかに小さいことがわかった。
 大和は設計図の一部が残っているが、詳細なものはなく、
菊の紋章の大きさなどは正確にわかっていなかった。
今後、レーダーの計測値などで
正確なサイズを確定したい考えだ。
 また、前回調査で確認された菊の紋章の金箔は、
今回の調査でほとんど残っていないことが判明。
デジタル画像によって
金箔が取れた木肌の状態などがわかったという。
 世界最大の口径46センチの主砲塔の一部も撮影でき、
側面に取り付けられていた箱形の測距儀も見つかった。
測距儀は敵との距離を測るためのもので、
横の長さは15メートルが定説だったが、
これも菊の紋章と同様、
より詳細なデータが判明する見込みという。
 調査母船に同乗した大和ミュージアムの
道岡尚生(ひさお)学芸員は「GPSの技術などが発達したことで、
対象物の大きさの詳細や散乱物の位置関係がわかるはず。
今後、得られたデータを分析し、
わかったことはなるべく早く公表、公開していきたい」と話している。
 大和は沖縄特攻に向かう途中、
鹿児島県南西沖の東シナ海で攻撃を受け、
昭和20(1945)年4月7日に沈没した。
乗員3332人のうち生存者は276人。
 調査は呉市が、国の地方創生加速化交付金を活用し、

太平洋戦争中、米軍に撃沈された
旧日本海軍の戦艦「大和」の建造地、広島県呉市は
22日、沈没海域の鹿児島県沖で
無人探査機を使って撮影した
大和の海中映像を公開した。
菊の紋章や艦首部分などが映っており、
7月23日から大和ミュージアム
(呉市海事歴史科学館)で一般公開する。
 同ミュージアムは過去に民間業者が撮影した
大和の映像を公開しているが、呉市として
5月に初めて詳しい潜水調査をし、
ハイビジョンで撮影した。
 映像には、艦首部分にある菊の紋章のほか、
スクリューもはっきりと映っていた。
他にも大和で使われていたとみられる皿のような食器や、
火薬缶が散らばっている様子が確認できた。
 調査は沈没地点の鹿児島県枕崎沖
南西約200キロの海域で約10日間実施。
範囲は東西450メートル、南北400メートルで、
沈没していた水深約350メートルで
写真約7千枚と約50時間分の映像を撮影した。


太平洋戦争末期に沈没した戦艦大和について、
広島県呉市が先月、海底に沈む船体の調査を行い、
このとき撮影された映像の一部が22日に公開されました。
先頭にある菊の紋章や、
世界最大級だったスクリューが鮮明な映像で映されています。
戦艦大和は広島県呉市にあった旧海軍工廠で建造された
世界最大の戦艦で、昭和20年4月7日、
鹿児島県枕崎市の沖で
アメリカ軍の攻撃を受けて沈没しました。
広島県呉市は現在の姿を記録しようと、
先月、自治体として初めて、水深350メートルの海底に沈む
船体の調査を行って、50時間余りに及ぶ映像を撮影し、
このうち、およそ4分間の映像を22日に公開しました。
先頭の艦首にある菊の紋章や、水の抵抗を減らすための
艦首の下の丸い突起、それに当時世界最大級だった
直径およそ5メートルの
スクリューが鮮明な映像で映されています。
呉市によりますと、菊の紋章は金ぱくがすべて剥がれ落ち、
木の土台が見えているほか、
丸い突起は水圧でへこみ、変形しているということです。
一方、スクリューは今も金色に輝く姿が確認され、
目立った劣化は見られないということです。
呉市は映像を詳しく分析するとともに、
戦艦大和の象徴とも言われる世界最大の主砲、
46センチ砲を含む映像の大部分を、
ことし9月に公開することにしています。
調査に同行した、呉市にある大和ミュージアムの
道岡尚生学芸員は
「海底に沈む大和の姿を鮮明な映像で残すことは、
当時の日本の技術の高さや戦争の悲惨さを伝えるうえで
意義深いことだと思う」と話しています。

元乗組員「映像通し悲劇を後世に」
戦艦大和の乗組員として、およそ2年間、信号兵を務めた
広一志さん(92)は、公開された映像を見て、
「不沈艦と呼ばれた大和は優秀な成績の者だけが乗艦できる
憧れの戦艦で、大和に乗ることは大きな誇りでした。
自分が乗っていた、かつての大和のなきがらだと思うと
何とも言えず、じんと来るものがあります。
多くの先輩、後輩が亡くなっていったことを
改めて思い出しました」と話していました。
そのうえで、「映像を通して、大和の悲劇を後世まで語り継ぎ、
愚かな戦争を二度とせず、平和を願う気持ちを
多くの人に持ってもらいたい」と話していました。

専門家「映像は悲劇を多くの人に伝える」
広島県呉市によりますと、海底に沈む戦艦大和の部品は
当初、想定されていたよりも広い範囲に散乱していたため、
今回の調査は対象を広げ、船体の周辺の東西450メートル、
南北400メートルの範囲で行われたということです。
旧日本海軍の歴史に詳しい、呉市にある
「大和ミュージアム」の戸高一成館長は
「調査範囲が広がったことは、大和が受けた
攻撃のすさまじさを物語っていると思う。
撮影された映像は71年前の悲劇を忘れてはならないことを
多くの人に伝えるものだ。
今後、映像の分析を進め、現在の状況に加え、
これまで不明な点が多かった沈没の過程についても
明らかにしていきたい」と話しています。

戦艦大和とは
戦艦大和は、広島県呉市にあった旧海軍工廠で
昭和12年から極秘裏に建造が進められ、
太平洋戦争開戦直後の昭和16年12月に完成しました。
全長263メートルで、幅は最大38.9メートル、
排水量6万5000トンの世界最大の戦艦で、
最大速力は27.46ノット、時速およそ51キロでした。
装備の面でも、9門を備えた口径46センチの主砲や、
直径およそ5メートルのスクリューなど、
当時の最先端の技術を駆使して建造され、
その技術は戦後、日本の造船業や建設業など、
さまざまな分野の発展に生かされたと言われています。
戦艦大和は連合艦隊の旗艦を務めましたが、
昭和20年4月7日、沖縄に向かう途中、
鹿児島県枕崎市の沖でアメリカ軍の攻撃を受けて沈没し、
3332人の乗組員のうち3056人が死亡しました。
海底に沈む戦艦大和 「戻ってこい大和」

2015.4.28 11:00更新 【戦後70年】
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「帝国海軍の大艦巨砲主義」に反論
…「戦艦大和会」顧問が数々の疑問を解き明かす
戦艦「大和」はなぜ呉で建造されたのか。
日本海軍は航空戦到来の時代を見誤ったのか。
戦後70年の特別企画として3月下旬、
大阪市内で開催された「零(れい)戦(せん)と戦艦大和講演会」
 (産経新聞社など主催)。
そこで大和の元乗組員や遺族らでつくる
「戦艦大和会」顧問の相原謙次氏(60)が
そんな数々の疑問を解き明かした。
 《広島・呉で大和、主力艦が造られた理由について、
呉の市街地や呉海軍工廠の写真などを紹介しながら、
その繁栄や技術開発の歴史を解説》
 江戸時代末期に江戸幕府が横須賀、横浜に鉄工所、

造船所を造ったが、そこへ簡単にアメリカの黒船が入ってきた。
 明治政府では、

「横須賀では安心して主力艦の研究開発、建造ができない」と、
内海奥深く気候温暖である呉に造船所を置くことを考え始めた。

 明治16年2月10日、後に大阪市長になる肝付兼行

(きもつきかねゆき)(1853~1922年)が呉を測量。 
19年、鎮守府をつくるべく建築が始まった。
当時7千人くらいしかいなかった呉の街に
全国から土木作業員が集まり、明治中期には繁華街ができあがった。
末期には3階建てビアホールもできた。
水力発電も全国に先駆けてでき、市電も西日本では早くにできた。
呉海軍工廠で初めて造った船は通報艦「宮古」(約1800トン)。
それまでは木造船だったが、宮古は鉄の船。
5年かけて造船技術を学びながら明治32年にできた。  
日露戦争の時代には主力艦である「三笠」も、
呉で砲身の取り換えなど修理していた。

日露戦争が始まる際、天皇陛下を含む日本国民は倹約して
イギリスから最新鋭の戦艦6隻を購入したが、開戦後間もなく、
「八島」など2隻が沈んでしまった。
(戦時国際法の中立規定により)
戦争中は軍艦は他国から輸入できないため、
自前で造らざるを得なくなった。
そこで、初代工廠長の山内万寿治(1860~1919年)が
心血を注いで 造ったのが「筑波」。

主砲も装甲板もエンジンも、すべて国産でできた最初の船。
当時世界最大の30センチ砲もあった。

 筑波には、エピソードがある。

大型艦も当時は、船台式(斜めのレールの上に船を造り、
支えを取って海に浮かべる方式)進水式を行う予定だった。
進水式には、明治天皇の名代として皇太子も臨席されていた。
ところが、前日からの風雨で船台が破損し、中止せざるを得なく なった。
当時、天皇の名代に帰ってもらうのは大事だったが、
皇太子は山内工廠長に「しっかりやってくれよ」と声をかけられて一旦帰られた。
その後無事進水式が行われ、元祖「進水記念品」となる絵はがきなどを出した。
山内工廠長は(こうしたトラブルで)頭の毛が真っ白になったそうだ。

 これをきっかけに、山内さんは、大型船では船台ではなく

ドックを造るのが最良として、明治39年2月に呉鎮守府長官になったときに
ドックを建造。昭和16年にできた史上最大の戦艦大和は、
この明治時代にできたドックで生まれた。
山内さんが、呉を海軍の軍艦建造の拠点としての地位を築いた。
呉市の昭和埠頭岸壁に山内さんの言葉が残っている。
ラテン語で「勇気と努力によって」と書かれている。
 《日本海軍は、航空戦時代の到来を見誤ったのか。

戦艦大和が造られた背景と結集された呉の高い科学技術について》
 ワシントン海軍軍縮条約(1921~22年)、

ロンドン海軍軍縮条約(1930年)ができてしばらく新造艦はなかったが、
昭和11年に失効後は再び建艦競争になった。
 イギリスもアメリカも国家予算が豊富で何隻も軍艦を造れた。

日本は貧乏だったので、そうはいかない。
そこで、アメリカ海軍をよく分析した。

 当時の主なアメリカの造船所は東海岸に集中し、

主力艦隊は大西洋に展開していた。
太平洋に展開するにはパナマ運河を通る必要があった。
しかしその幅は33・5メートル。逆算すると40センチ砲が最大と
日本海軍は踏んだ。
実際に最後の戦艦ミズーリも、大和に対抗して造られた
ノースカロライナ級も、サウスダコタ級、
アイオワ級も40センチ砲だった。
 大和は(40センチ砲より射程の長い)46センチ砲。

 
日本戦艦は遠距離射撃を重視し、世界で最も大型で
高精度の測距儀を搭載していて、その中でも大和のものは最大です

相手の弾が届くより、遠くから正確に弾を撃てば
 少ない船でも対抗できる、という考えで科学技術を結集した。
 15メートル測距儀は、地球の磁場や潮位、距離などを

すべてコンピューターで計算し、
相手の未来位置を割り出して各砲塔に伝えた。
各砲塔が狙いを定めると、射撃指揮所が指示をすれば
9門一斉に、武蔵がいれば18門一斉に42キロ先まで飛んでいく。
当たらなければ再計算して40秒後に第2弾を放てる。
当時は歯車式のコンピューターだった。

 こうした高い技術が求められたため、

ものづくりの一大拠点である呉海軍工廠、呉鎮守府長官に1号艦、
戦艦大和を建造するよう命令が下った。
ちなみに、大和の最高速力は27・46ノット、時速約52キロだった。

 それからもう一つ、世の中には

「日本海軍はいつまでも大和などの大艦巨砲主義に頼り
航空戦に対応できなかった」という歴史家がいるが、それは違う。

 昭和17年6月のミッドウェー海戦でほぼ、

主力空母4隻が沈んだものだから、一等巡洋艦以上は
すべて航空母艦に改造、旧式の戦艦は
(山口県岩国市沖の)柱島水域でとどめた。
空母部隊がやられたのでラバウル基地航空隊が活躍したが、
補充がなくて消耗した。
対抗できる空 母部隊造ったが、練度が低くてやられたのが
マリアナ沖海戦。
航空部隊を失ってどうしようもない水上部隊をかき集めて
殴り込みをかけたのがレイテ沖海戦だ。
 私に言わせれば「海軍は大鑑巨砲主義」という歴史家については

「どこを見とるんや」と思う。
むしろ最初に航空中心主義に切り替えたのは日本海軍だった。 

2015.4.20 11:00更新 【戦後70年】
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「作戦室が被弾し、一挙に57人が戦死」
「主砲が火を噴くと米軍機に大穴」
深海に眠る戦艦「武蔵」と「大和」について語る
…戦艦大和会顧問の相原謙次氏
戦後70年の特別企画として3月27日に大阪市内で開催された
「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)。
大和の元乗組員や遺族らでつくる
「戦艦大和会」顧問の相原謙次氏(60)が講演、
今年3月、フィリピン沖で発見された戦艦「武蔵」と、
現在も長崎県男女群島沖に眠る戦艦「大和」について語った。
 《フィリピンのシブヤン海で3月、発見された戦艦大和の姉妹艦、武蔵。
レイテ湾に出撃する艦隊や沈没時の写真などを示しながら、
発見者のポール・アレン氏が公開した映像を分析した結果などを報告》
 武蔵の最後は昭和19(1944)年10月、フィリピンを奪還しようと
レイテ湾の島に上陸したアメリカ軍を撃退するため、
ほぼ航空部隊はなくなっていたのだが、
主力の水上部隊で殴り込みをかけに行った。
武蔵は、途中のシブヤン海でアメリカの機動部隊の猛攻撃を受けて沈没した。
なんと受けた魚雷は20本以上、爆弾は17つ以上。
列国の戦艦であれば魚雷4本で沈むところ、
10時間以上かけてようやく沈んだ。
当時の乗組員 たちが耐えて耐えて耐え抜いたが、
ついに10月24日午後7時35分沈没した。
 護衛していた駆逐艦「磯風」の艦橋から武蔵を撮影した写真がある。
写真では大きく左前側に傾斜しているのが分かる。
海底の武蔵の写真では、左側の錨(いかり)がなかった。
左側に傾いたために傾斜を復元しようと、
15トンある主錨を切り落としたためだ。

 一番主砲塔が抜けた穴の直径は12メートル。
艦橋、煙突が映っていた。
艦橋では航海中は上層部が指示を出すが、戦闘配置につくと、
艦長や砲術長らは防空指揮所に上がる。
屋根がないので、艦長はヘルメットに防弾チョッキを着て
羅針盤の前で指揮をした。
当時の武蔵の猪口敏平艦長もそう。
海底の武蔵は第一艦橋の右側に大きな破口があった。
これは相手の爆弾が防空指揮所に命中し、第一艦橋を貫いて、
その下の作戦室で爆発したため。
艦の上層部が一挙に57人戦死した。
戦闘詳報をつけている係員も全員戦死し、猪口艦長は
右肩に重傷を負いながらも第二艦橋に移り最期まで指揮した。
海底の武蔵には、この大破口があり、15メートル測距儀の
右側が取れて無くなっていた。
ちなみに戦艦大和の測距儀は、艦首の下敷きになっていた。
しかし、 測距儀の両端のレンズはまだキラリと光っていた。
 武蔵の沈没場所(フィリピン中部コブラドール島北東)については、
戦闘詳報に記録されていたものより、大きく流されていたようだ。
 武蔵には車台に水上飛行機を乗せて火薬の力で発進させる
機械「カタパルト」があり、これも写っていた。
このカタパルトの車台の車輪を開発した技術者が
戦後国鉄の技術研究所に入った。
高速でも脱線せず安定して走る、
新幹線の車輪を開発する技術に生かされた。
 ちなみに、これが平成11(1999)年に撮影した
大和の菊の御紋です。
(直径)1・5メートル。アレン氏の映像にはチーク材とあったが、
ケヤキ材です。
ケヤキを彫刻して漆をかけて金メッキを施しています。
海底の大和の菊の紋はまだ金色に輝いていた。

 《相原氏は、大和沈没までの歴戦について、
当時の写真や資料を紹介する》
 大和の最初の作戦はミッドウェー海戦。
ミッドウェーではなぜか、空母の後ろ300海里
(555・6キロメートル)について行ったので交戦はしていない。
マリアナ沖海戦では機動部隊の随伴で大和も出撃したが、
練度が低く空母や航空部隊がほぼ全滅してしまう。
そしてレイテ沖海戦。
武蔵など多くの艦艇を失いながら、もう少しでレイテ湾というところで
謎の反転をしている。
このとき大和はアメリカの機動部隊の集中攻撃を受けた。
一番主砲塔などに爆弾が命中したが、かすり傷程度だった。
 昭和20年3月19日の呉の初空襲では、大和の上空で、
三四三航空隊が激しい大反撃をした。
アメリカ海軍が本土空襲で一番損害を受けたのがこのとき。
呉は(第二次大戦中)14回空襲を受け、うち6回が大空襲だった。
全国で11番目に多い、市民2千人が犠牲になった。 
大阪は4番目に多く、1万人超の市民が犠牲になっている。
 ちなみに大和が最後の主砲を放ったのはこの時だ。
沖縄特攻作戦では一発も撃っていない。
このとき江本義男測的長が 「弾込め」の命令を出したらしい。
有賀幸作艦長は「なぜそんな命令を出した」とすごい怒った。
大和の主砲は遠距離を撃つためにあり、撃つ際には
外の配置の乗組員は中に入らねばならない。
敵は中距離近距離に来ているのに、高角砲などが反撃できなくなる。
対空弾を撃つので、市街地に破片が落ちる危険もあった。
しかし、一度弾を込めると発射しない限り
取り出すことができない仕組みになっていたため、
仕方なく6門発射した。
 アメリカ軍のパイロットによると、大和が火を噴いたら
飛行機の横に大穴が開いたらしい。
戦後その話を聞いて江本さんは
「おお、当たったか」と話していた。
江本さんは一年半前に亡くなられた。
 アメリカ軍は、呉港沖合にいた大和を狙って呉周辺に
機雷を仕掛けたが、大和は19日の前の晩に
呉を脱出していて助かった。
その後、沖縄の人を守るため水上特攻をかけることになった。
昭和20年4月6日午後4時に出港。
大和は佐世保に向かうふりをして沖縄に突っ込み、 
アメリカ軍の基地がある岸壁に乗り上げ、大砲を撃ち、
弾がなくなれば生き残った兵は艦を捨て、陸戦部隊と合流せよ、
というのが作戦だった。
最初からやられ るのは分かっていた。
 のの字運動をしながら爆弾魚雷を回避する大和だったが、
第一次攻撃隊の爆弾が後部艦橋に命中し、
この火は最後まで消えなかった。
魚雷10本と爆弾多数を受け、左側に大きく傾き横転、
沈没。その後、二番主砲塔と三番主砲塔の火薬庫が誘爆した。

 《相原氏は、沈没した大和の潜水調査についても、
生存者や元乗組員らの証言とともに紹介した》
 戦闘詳報の場所に大和は沈んでいなかった。
終戦直後から大和の遺族、元乗組員の生活の面倒を見ていた、
生存者で戦艦大和会初代会長の石田恒夫さん(故人)が、
昭和55年から会の有志と私財をなげうって
沈没場所を慰霊のために探し始めた。
ちなみに会は生存者が亡くなって休止状態だったが、
昨年に元乗組員、広一志さんを会長に再結成している。
 55年の調査でソナーに大和らしきものが映った。
56年は台風で中止になり、57年の探索で大和を発見した。
60年の調査では菊の紋章を発見した。
 《平成11年8月の調査について言及》
 大和は大陸棚の端に引っかかっていた。
海底の大和は、菊の紋章のあるところから
一番主砲塔と二番主砲塔の間で真っ二つ。
その折れた二番主砲塔から艦尾までが
その前部にひっくり返った状態だった。
三番主砲塔は火薬庫が誘爆したので大きな破口が空き、
大きく九の字に曲がっている。
一~三番主砲塔はひっくり返った状態。
艦橋の上部はバルバスバウ(球状船首)の下敷きになっていた。
マストは一番主砲塔の抜けた穴の横に引っ かかっていた。
スクリューも右端の一つが飛んで海底に突き刺さっていた。

 《大和に結集された技術の戦後の活躍について、映像とともに紹介》
 日本は昭和31年に造船業で世界一となり、
現在まで造船大国として栄えてきた。
背景には、大和に注ぎ込まれた高度な技術や人材があった。
効率的な生産管理システムのほか、薄くて速く造れる装甲板の技術は
製鋼業に、高い精度を誇った世界最大の測距儀は、
その後のカメラ技術に生かされた。
 戦艦大和は3332名中3056名の方と
九州南西沖水深350メートルのところに沈んでいる。
大和は当時日本の科学技術とものづくりの結晶として生まれた。
しかし、遺憾なくその性能を発揮する機会はあまりなかったが、
その技術が花開いたのはむしろ、戦後だ。
 志を持って日本を守ろうとした乗組員、生存者、遺族、
大和の建造に一生懸命頑張ってきた科学技術者、ものづくりの職人たち。
こういう人たちの思いを消し去ることなく後世まで伝えていけば、
先人たちが喜んでくれると思う。
 あいはら・けんじ 今年4月から、戦艦大和の元乗組員や
遺族らでつくる「戦艦大和会」顧問。呉市顧問。
講演当時は、大和ミュージアム統括。
呉市史や日本海軍史など近現代史研究や歴史を生かした
まちづくりに取り組み、全国で講演を行う。
大和ミュージアム建設事業にも携わり、
平成11年には大和の潜水調査も行った。

2015年4月10日金曜日
【#戦後70年・回想録】
下、 「よっしゃ、これでグラマンに勝てる」
零戦・紫電改パイロットが語る …心に焼き付く記憶。
上、「敵に30メートル接近して撃て」零戦・紫電改パイロットが語る
 …心に焼き付く記憶。

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