慰安婦問題について、いろんな報道: 「日本を愛し過ぎてしまったアメリカ諜報員」P・ブルーム。「軽井沢爆撃するな」大戦末期 軽井沢から米英に電報 「国体護持」スイス仲介か。スイス公使の謎の電報、米英方針確認? 終戦決断、根拠の一つか。<書評 「スイス諜報網」の日米終戦工作 ―ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか― 有馬哲夫 新潮選書 2015年6月25日発行>。消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い―。

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2016年6月25日土曜日

「日本を愛し過ぎてしまったアメリカ諜報員」P・ブルーム。「軽井沢爆撃するな」大戦末期 軽井沢から米英に電報 「国体護持」スイス仲介か。スイス公使の謎の電報、米英方針確認? 終戦決断、根拠の一つか。<書評 「スイス諜報網」の日米終戦工作 ―ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか― 有馬哲夫 新潮選書 2015年6月25日発行>。消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い―。

第二次世界大戦中の駐日スイス公使だったカミーユ・ゴルジュ
(スイス連邦公文書館所蔵)
旧スイス公使館だった深山荘。第二次世界大戦末期、この深山荘を舞台に
スイスが仲介役となり、和平交渉が行われた可能性がある
=長野県軽井沢町(岡部伸撮影)
「immunite Karuizawa」と記されたベルンのスイス外務省から
ワシントンのスイス公使館宛ての電報
(スイス連邦公文書館所蔵、一部画像加工しています)

ポール・ブルームは日米の終戦工作にも加わった 共同通信社

「日本を愛し過ぎてしまったアメリカ諜報員」P・ブルーム
NEWS ポストセブン  ヤフーニュース
戦後史家・有馬哲夫氏が新たに公開された機密文書から
戦後秘史を読み解く『SAPIO』の連載。
今回は、日本を愛し過ぎてしまった
アメリカ諜報員について有馬氏が綴る。

 * * *
 終戦期にスイスで築いた対日インテリジェンス網を活かし、
戦後、緒方竹虎(本シリーズの第二回に登場)や
野村吉三郎(前号に登場)などの要人をアセット(注1)とし、
日本を陰で動かしていたのは、
本シリーズ第三回でも詳述したように、アレン・ダレスだった。
【注1:工作に使える人材】
 ところが、ダレスは、母校プリンストン大学のアーカイブに残る
パスポートを見る限り、2回しか訪日していない。
では、戦後の日本で、緒方や野村の日本版CIAや
海上自衛隊創設の動きを本国のダレスに伝え、
彼らをCIAのアセットとしたのは誰だったのだろうか。
 前述アーカイブとアメリカ国立第2公文書館の資料からは、
少なくともその一人は、
ポール・ブルームだったことがわかっている。
彼はよく「初代CIA日本支局長」といわれるが、
公文書は彼がOSS(CIAの前身)局員と
国務省職員(GHQ外交部勤務)だったことしか示していない。
 彼の関係者、とくにOSSスイス支局で上司だった
ダレスの関連文書や国務省文書などから
彼がダレスと緒方や野村とをつないだ
ケース・オフィサー(注2)だったということがわかるが
(拙著『「スイス諜報網」の日米終戦工作』新潮選書参照)、
CIA所属だったか、それとも国務省職員兼ダレスの
個人的エージェントだったかはわからない。
【注2:対象国で情報提供者や協力者のリクルートや「運営」を行い、
情報を集め、協力者を通じて工作を行う役割を担う諜報員】

◆各界の要人が出席した「火曜会」
 ブルームがCIA局員だったかどうか不明というのは、
1947年(以下西暦は下2桁のみ)にCIAが設立されたときから
現在に至るまで、CIA局員の名前や身元を明らかにすることは
法律で禁じられているからだ。
だから公的なものであれ私的なものであれ、
公開されている資料から
ブルームが「初代CIA支局長」だったと証明できない。
この通称は、私自身も第一次資料にあたる以前に使ったことがあるが、
その後の調査でそうではない公算が極めて高いとわかった。
そもそも、あとで述べる事情から、CIA創設前後は、
日本支局があったとしても、正式のオフィスは持てなかったし、
たとえブルームがCIA所属だとして、
局員は彼しかいなかったはずである。
また、支局長なら管理職なので、通常はケース・オフィサーなど
フィールド(現場)の仕事はしない。
 ブルームはダレスのもとで対日終戦工作に関わったのち、
終戦後スイスのアメリカ公使館員としてとどまったが、
47年にGHQ外交部(注3)の職員として赴任してきた。
この前後にダレスとの間でなされた手紙や資金のやりとりから、
ダレスの意向を受けた日本赴任だったことがわかっている。
【注3:日本は当時被占領国で独立国ではないので、
この外交部が国務省の出先機関である大使館の役割をしていた】
 なぜダレスがブルームを
GHQに送り込んだのかを理解するためには、
アメリカの情報機関の歴史を紐解く必要がある。
もともと、アメリカの情報機関といえば軍のもので、
海軍のONI(海軍情報局)と陸軍のG2(参謀第2部)があった。
 これら軍からあがってくるインテリジェンスに頼っていては
イニシアティヴを発揮できないと考えた
フランクリン・ルーズヴェルト大統領は、
戦争直前に直属の情報機関として
COI(情報調整局)を大統領令で創設した。
これから分かれたのがOSSとOWI(戦争情報局)だ。
 だが、自分の領分を侵された
軍関係者は大統領の措置を受け入れず、
軍の作戦地域ではこれらの情報機関を
活動させないという妥協案を引き出した。
ダグラス・マッカーサー元帥のOSS嫌いは有名で、
その後身であるCIAの日本での活動も
50年に朝鮮戦争が始まるまで極端に制限されていた。
 このため、47年に部局横断的に情報を集約するために
CIAが設置されても、日本からは、
マッカーサーが許可した彼に都合のよい情報しか流れてこず、
CIAは直接情報をとることができなかった。
バイアスがかかっていない日本情勢、
東アジア情勢についての情報を得るためには、
自前のケース・オフィサーを潜入させて情報提供者や
協力者をリクルートさせ、独自に情報を集めさせるしかなかったのだ。
ブルームが正式のCIA局員ではなく
GHQ外交部の国務省職員としてしか
日本に来られなかったのは、このような理由による。

ブルーム公認の伝記『ブルームさん!』(ボブ・グリーン著)には、
戦後の日本にやってきたブルームが、
まず朝日新聞で出世していた笠信太郎を探しだし、
次いで彼に赤貧洗うが如きだった
藤村義朗(旧名義一)を見つけださせ、
彼を貿易会社ジュピターの共同経営者に仕立てて、
「実業家」にしたことが記されている。
また、彼は笠と「火曜会」(注4)を共宰し、
日本の各界を代表する人物から情報を集めていた。
【注4:松本重治(国際文化会館理事長)、
松方三郎(共同通信社専務理事)、浦松佐美太郎(評論家)、
東畑精一(農業経済学者)、蝋山政道(政治学者)、
前田多門(元文相)、佐島敬愛(信越化学取締役)が
主なメンバーで当時首相の吉田茂も参加することがあった。
ブルームがこれらの人物を通じてさらに情報提供者や
協力者をリクルートしていたことは想像に難くない】
 その笠は高校、大学、朝日新聞を通じて緒方の後輩だった。
藤村は羽振りがよくなったあと
海上自衛隊創設に動いている野村に近づき、
54年の参議院選出馬の際には選挙資金担当者になっている。
この選挙にCIAは資金だけでなく選挙コンサルタントまで送っている。
 したがって、緒方と野村は、
ブルームが笠と藤村を通じてアプローチし
獲得したアセットだったと考えるのが妥当だろう。
それをCIA副長官、そして長官になったあと
ダレスがCIAの対日工作に利用したのだ。
 しかし、ダレスが正式にCIA関係者となるのは副長官となった51年
(長官就任はさらにその翌々年)なので、
それまでのブルームはCIA局員というより
国務省職員兼ダレスの個人的エージェントだったと考えるべきだろう。
 51年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、
翌年に7年間にわたる占領が終わり、GHQが引き揚げたあと、
CIAが正式に対日インテリジェンス活動を担うことになった。
緒方の日本版CIA創設の動きも、
野村の海上自衛隊設置の動きもこのころ活発化している。
これは占領が終わっただけでなく、
CIAが大手を振って活動できるようになったからだろう。
ただし、緒方の日本版CIA創設と野村の海上自衛隊設置に
ブルームが直接関わっていたかというと、それはまた別の話だ。
ブルームは野村が参議院選に当選したとき、
祝福する手紙を送っているが、
直接的当事者だったらこんなことをするだろうか。

◆1952年7月に名前が消えた
 その一方で、国務省政策企画部のフランク・ウィズナーは
野村が「われわれの機関の政治問題の
情報提供者だった」といっているが、
野村から情報を受け取ったのは藤村だった。
この場合は、ブルーム経由で
その情報がダレスに流れていたと考えるのが自然だ。
だが、これも、彼が情報をリレーしていたことを示しているだけで、
対日工作に関わっていたことまで意味するとはいえない。
 ブルームの名前は、52年の7月を最後に
外交部およびアメリカ大使館職員の名簿から消えている。
正式にCIA所属になったか、あるいは私人に戻ったと考えられる。
私は後者だと推測している。
CIA入りしたのなら、表向きの肩書があったほうがいいので、
名簿にそのまま名前を残したはずだ。
事実大抵のCIA局員は大使館職員の肩書を持っている。
 いずれにせよ、ブルームがそれまでに緒方と野村に対する
工作のベースとなる人的ネットワーク作りに
大いに貢献してきたということは疑いようがない。
これなしには、
ダレスのその後の対日工作は可能にならなかったのだ。
 晩年、ブルームは生涯買い集め続けた日本について
書かれた西洋の書物の一大コレクションを
横浜開港資料館に寄贈している。
彼がいかに日本を愛していたかを示す事実だ。
ここから私は、ブルームは日本を愛し過ぎて、
日本人情報提供者・協力者を獲得するところまではできたが、
それを利用してアメリカ側の国益を追求する
CIAの対日工作に手を染めることまではできなかったと推察する。
彼にとって、国籍上の祖国はアメリカだが、
心のふるさとは、彼が生まれ、
幼少時代を過ごした日本だったのではないだろうか。

ポール・チャールズ・ブルーム(1898-1981)
横浜市山手居留地で生まれる[1]
ユダヤ系フランス人の貿易商を父とし
ユダヤ系アメリカ人を母として横浜で生まれた。
その後フランスとアメリカで少年・青年期を過ごし、
アメリカ国籍を取得し、イェール大学を卒業している。
第一次世界大戦に従軍後、しばらくパリにいたが、
ナチスが台頭してきたため
にニューヨークに戻ってきたところ当時コロンビア大学生だった
ドナルド・キーンと出会い、彼に日本文学を専攻することを勧める。
日米戦争勃発後はOSSに入り、1944年からスイス支局に配属され
アレン・ダレスの部下となり、日米の終戦工作にも加わった。

【PROFILE】ありまてつお:
早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授。
著書に『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(新潮選書)、
『原発・正力・CIA』(新潮新書)、『アレン・ダレス』(講談社)など。
※SAPIO2016年7月号

2015.8.17 13:00更新
「軽井沢爆撃するな」大戦末期
軽井沢から米英に電報 
「国体護持」スイス仲介か
第二次世界大戦末期に長野県軽井沢町の「深山荘」に疎開していた
スイスのカミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、スイスの外交当局が
フランス語で「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)
と記載した電報を、本国の外務省や米英のスイス公館に
約2カ月間で19通送っていたことが
15日、軽井沢町と筑波大学の調査で明らかになった。
「イミュニテ カルイザワ」が「国体護持(天皇制維持)」の符号であるとの見方も浮上、
スイスが仲介役となって米英の意向を探る和平交渉が行われた可能性もある。
 軽井沢町と筑波大学がスイス連邦公文書館で戦時下の交換電報を調べたところ、
昭和20年6月8日から7月30日の間、ゴルジェ公使らが本国の外務省や、
外務省を通じて米英のスイス公館に打電した27通のうち19通に
「イミュニテ カルイザワ」などの記述があった。
 ゴルジェ公使は本国の外務省に送った6月8日の最初の電報で、
「そろそろ『イミュニテ カルイザワ』を働きかけるべきです。
(天皇制維持を主張した)米国の国務長官代理、ジョセフ・グルー前駐日大使も
よくご存じだ」などと打った。
これに対し7月7日、ゴルジェ公使は 
「ゴルジェ氏の提案は、すでに外務省に報告しているが、結果としてまだ、
正確な確証は得られていない」とするロンドンの回答などを受け取った。

 ゴルジェ公使は7月6日にも再び電報を打ち、20日に
「英国外務省は、日本への爆撃は、アメリカ当局がもっとも関心のあるところであり、
それが故に、かれらはコンタクトした」とする回答を受け取っている。
 東京などへの空襲は、都市部を標的としたもので町村は原則対象外だった。
このため、ゴルジェ公使が6月8日に「軽井沢を爆撃しないでほしい」と要請するのは
唐突との見方が浮上。スイス側が軽井沢を爆撃対象から外す要請について、
在外公館を総動員し複数回にわたり念入りに米英の意向を確認したのも不自然だ。
 東郷茂徳外相と軽井沢で会談していたことを記した
ゴルジェ公使の日記も発見されており、「イミュニテ カルイザワ」は
「爆撃対象から外す」ではなく、国体護持を意味する符号で、
ゴルジェ公使が日本を終戦に導く目的で米英に意向を確認した可能性がある。
 軽井沢町と筑波大学は22日午後2時から同町中央公民館大講堂で
「深山荘の謎を解く」と題して公開シンポジウムを開催。
ゴルジェ日記を発掘したフライブルク大学のクロード・ハウザー教授らが講演する。
(編集委員 岡部伸)

2015.8.17 13:00更新 2 3 4
スイス公使の謎の電報、米英方針確認?
終戦決断、根拠の一つか
「軽井沢爆撃するな」=国体護持の見方
 長野県軽井沢町に疎開していた カミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、
スイスの外交当局が2カ月弱の間に19通も「イミュニテ カルイザワ」
(軽井沢を爆撃しないでほしい)という謎の電報を交換したことが
15日、明らかになった。
中立国スイスが仲介役として米英から国体護持(天皇制維持)ができることを
聞き出して日本側に伝え、昭和天皇が確信をもって終戦決断の
根拠の一つとした可能性もある。(編集委員 岡部伸)
        ◇
  戦時中、軽井沢町の「深山荘」に疎開したスイス公使館は外交団の中心で、
連合国と交戦状態にあった日本はスイスを通じて交渉。
スイスは日本で米英豪などの利益代表を務める一方、
こうした国々では日本の利益代表を務めた。
開戦で双方の国に取り残された民間人の交換交渉や捕虜の問題も話し合った。
  ゴルジェ公使が最初に「イミュニテ カルイザワ」との電報を
本国に送ったのは昭和20年6月8日。
5月8日にドイツが崩壊して1カ月が経過し、
御前会議で 本土決戦の方針が確認された一方、
6月9日には木戸幸一内相が「時局収拾対策試案」(ソ連仲介工作)を
報告してひそかに戦争終結に向けた動きが出ていた。 
日本側の戦争終結の条件は国体護持だった。
7月20日の米英からの最終回答は
「英国外務省は、日本への爆撃は、アメリカ当局がもっとも関心のあるところであり、
それが故に、かれらはコンタク トした」。
「軽井沢を爆撃しないでほしい」という要請に対する回答としては、
「ほとんど何も意味をなさない」との指摘が出ている。
 しかしスイス政府はこの最終回答に対し、
「光栄です」「喜んで」
「このような内容をお教えいただきありがとうございました」と
好意的に反応しており、スイス側が最終回答を通じて
米英から国体護持に関するメッセージを受け取った可能性が指摘されている。
 この直後の26日にポツダム宣言が出され、
30日に「イミュニテ カルイザワ」と書かれた最後の電報が
ベルンからワシントンの公館に送られている。

 今年刊行された「昭和天皇実録」には、
「自ら戦争終結を決意した」
「国体については(連合国も)認めていると解釈する」と記されており、
昭和天皇が国体護持を確信して戦争を終わらせたことは明らかだ。
昭和天皇が天皇制維持の確信を抱いた根拠はこれまでいくつか指摘されている。
例えば、ドイツ降伏後の5月8日から8月4日まで14回にわたり、
米国のザカリアス大佐が「主権は維持される」などと、
天皇制存続を認める可能性があることを
短波放送で伝えたことはその一つとされる。
 軽井沢町の藤巻進町長は
「終戦に軽井沢町とスイス公使館が果たした役割が
解明されることを期待したい」と話している。
    ◇
スイス当局の符号
  昭和史に詳しい作家、半藤一利氏「『イミュニテ カルイザワ』は
スイス当局の符号だったのだろう。
『国体(皇室)をつぶすな』の意で使用していたと解釈す れば、
ゴルジェ公使を通じて中立国スイスが米英に『国体護持』の可能性を打診し、
和平交渉を行っていたことになり、興味深い。
スイス本国からゴルジェ公使を通じて米国の皇室保持の方針が
東郷茂徳外相らに伝わっていたならば、ザカリアス放送などとともに
天皇が阿南惟幾陸相に『確証がある』と語り、
終戦を聖断 した根拠の一つとなった可能性がある」
    ◇
【プロフィル】カミーユ・ゴルジェ  1893年生まれ。
第二次世界大戦中、駐日スイス公使を務めた。
1924年から27年まで日本の外務省に法律顧問として赴任。
日本に魅了され、13年後の 
40年に希望して公使として再び日本に着任した。
41年に日米戦争が始まると、スイスが中立を維持したため
終戦まで赴任を続けた。終戦後はスイスに帰国 し、78年に亡くなった。

<書評 「スイス諜報網」の日米終戦工作
―ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか―
有馬哲夫 新潮選書 2015年6月25日発行> 
2015年8月12日 終戦記念日3日前に) 日瑞関係のページ
<序>最初にお断りすると、今回の書評は、
見解の相違をかなり細かい点にまで入って論じているので、
事前に同書を読むか、評者の
藤村義一 スイス和平工作の真実」をお読みいただくと、
理解がしやすいと思います。

有馬哲夫氏に関して、評者はすでに

「昭和史を動かしたアメリカ情報機関
 平凡社 2009年1月15日 初版」について短いコメントを、
スイス和平工作 その後」の中に書いている。  
その後有馬氏は雑誌“新潮45”の2014年8月号、9月号に
「スイス終戦工作 空白期間の謎 1藤村電の真相」、
「同2 ダレスは何をしていたか」を書き、
本書はこれら2つの記事がベースになっている。
 そして終戦70周年の今年に出版されたわけであるが、
10年前の終戦60周年に出版された
「幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945夏」竹内修司著を、
かなり意識した内容になっている。
 何カ所かで竹内の書いている事が否定されている。
そしてその頂点は終盤の
「スイス終戦工作が(日本の)終戦をもたらした」という主張である。
つまり 「スイスからのインテリジェンス
(本書を通して説明はないが、有馬氏はこの言葉を
“情報”の意味で使っていると思われる)によってなにができて、
なにが できないかをはっきり認識していた東郷(茂徳外相)が、
(中略)ようやく終戦にたどり着くことが出来たと言える。」と説明し最後には
「この意味で、グルーとダレス、そして

ハック、ヤコブセン、吉村、北村、岡本、加瀬の終戦工作は
”幻“などではなく、真の終戦工作だったのだ。」と結んでいる。
ここで”幻“という語を用いたのは

竹内の著書を意識している事は間違いない。
ただし、お二人の著者が元にしている情報源はほぼ同じである。

たとえば加瀬俊一スイス公使が東郷外務大臣宛てに送った
ポツダム宣言受入れを提言する電報を、竹内は
「これが東郷の最終決断に資するところがあったのか?」と自問し、

「とてもそうは思われない」と自答して「幻の和平工作」となっている。
一方の有馬は述べたようにこれを「イエス」ととらえて、

冒頭の主張となっている。
しかしながらその根拠が挙げられていない。
乱暴な解釈をすれば
「海外の大公使館から入る電報を外務大臣は
全部に目を通しているだろうし、かつ加瀬公使の意見に
同意したはずである」と考えるのが根拠のようである。
二人の主張を比 べた場合、評者は竹内の方が誠実であると考える。
続いて細部に入っていく。

<藤村工作の先行研究>
有馬氏はこれを書き上げるに際し、スイスの連邦文書館、

アメリカのワシントン公文書館等を訪れているが、
評者が15年以上前に冒頭に紹介した
「スイス和平工作の真実」を書くためにたどったコースであり、
どこか懐かしさを覚えた。
 また藤村工作については、
評者がそこで紹介した史料にもかなり当たっているようだ。
ただし違う箇所を引いて、独自性を出しているように思われる。
例えば
 高木惣吉が戦後藤村にインタビューした記録に関し評者は
「東京から返電について6月15、6日と書いた後の箇所に

5月25、6日頃と直されているのも意味深長である。」と書いたが、
有馬氏は
「第2電を6月12日といったあとで、すぐに5月12日と

いいなおしていることだ」と書いている。
もう少し先行研究を素直に紹介、引用しても良いのではないか?

付け加えるとウィキペディアの「藤村義一(義朗)」の項目では
外部リンク先として以下のように評者のサイトが載っている。
日瑞関係のページ - 「藤村義一」の箇所に、
藤村自身の手記と資料とを比較照合した内容を掲載。
竹内修司(2005年)には本サイトが
主要参照・引用文献の一つに挙げられている。」
竹内氏の先述の著作もしくはこのウィキペディア情報から、

有馬氏は評者の書いたものに接しているはずである。
<藤村神話の崩壊?>
藤村証言に入り込んだ脚色に注目して、

それを否定するのは評者と同じ手法である。
ただしそれはかなり極端で、
「藤村ストーリーは、そもそも評価すべき中身はなかった」、
「歴史認識を誤らせる躓きの石」と藤村の工作を全否定して結んでいる。
しかし全否定となると、上手く説明できない部分も出てくる。
例を挙げると
「暗号電報の発信者は(津山重美ではなく)西原(大佐)だった」

という項目があるが、有馬氏は
「藤村と津山が和平工作をしていたこと自体がおかしい。
階級に厳しい海軍ゆえ百歩譲っても、工作の指揮を取っていたのは
西原だった」として、藤村の役割を矮小化している。
そこでは西原自身が、戦後海軍同窓会報に書いている回想も根拠としている。
(西原の回想を探し出したのは評者が先であるが、
これも有馬氏は別の記述、個所を紹介している。)
しかし西原主導とすることの誤りは、

評者が「スイス和平工作の真実」ですでに説明している。
そこでは次のように結んだ。
「この手記の最大の問題点は、文末に

“和平交渉に関する裏話はその詳細を、
昭和三十五年頃文芸春秋に載せた事がある”と書かれているものの、
記事はどこに も発見出来ないことだ。
おそらく藤村の文春記事のことを指しているのであろう。
細部は具体的でかなり正確であったが、西原は藤村の行為を、
自分の行為と混同してしまっていると考えて間違いない。」
付け加えれば有馬氏が多用するアメリカ側の文書でも、

7月5日付けでゲルベニエッツは、
「在スイスの日本の公人の中で、
それなりの才幹を持つのは只一人、(中略)藤村義一である。
(中略)米内海軍大臣に直接電で間断なく報告を送っている」とあるが、
西原の記述は全くない。
藤村が主体であったという根拠は他にもあるのだが、
これまでにしておく。
「単なる情報とりだった藤村」という項目もある。
そこでは日本側は藤村をただの情報とりとして見ていて、

それ以上の役割ではなかったという主張もしている。
根拠として引用されているのが、
近年話題に上った「海軍反省会」の第5巻である。
発言者である大井篤が東郷外務大臣が

次のような発言をしたと述べたことが根拠になっている。
「藤村のラインでダレスと話さえさせておけば(中略)、

まあ情報とりでもいいんですが、、、」
「海軍反省会」もスイス和平工作に関すれば、

「釈明会」の位置づけであろう。
その内容は充分吟味する必要がある。
東郷が発したとするこの発言であるが、
大井は当事者としてその場にいたのではない。
また日本の外務省は終戦の年の7月20日頃まで、
ダレスという人物について分かっていない。
結論を急げば東郷外相が、このような発言をしたとは考えられない。
という訳で「単なる情報とり」と言うのも事実に基づいた解釈ではない。
また和平工作の日付が1か月ずれている件に関し、

有馬氏は新説としてダレスが6月から異動で、
スイス支局長から「占領地高等弁務官」となりドイツに向かった。
不在のダレスと交渉していた事になるから、
1か月早めたのであると言っているが、どうもピンとこない。  
ダレスが異動し、管轄外となった以降も、スイスのOSSメンバーは
ダレスに報告をしている理由もよく分からない。
筆者は1か月早めたのは、藤村が自分の先見性を
際立たせるための言う自説に留まる。
 さらに戦後藤村は加瀬公使について「無能の人」と書くが、
それは自分の工作を「黙殺すべし」と外務省に報告した仕返しと
有馬氏は書く。
しかし加瀬公使の態度には
他の当事者からも疑問の声が上がっている。
朝日の駐在員で良識人と評される笠信太郎は、
加瀬の終戦に対する取り組みに
「もどかしさを覚えた」と戦後回想している。
またもう一人の重要な当事者である北村孝治郎も、
「私見だが、加瀬公使から真の協力を得る事は難しい。

彼は自ら動くに臆病すぎるからだ」と連絡員であるハックに語っている。
つまり加瀬公使に終戦工作の光を当てすぎるのも正しくはないであろう。
このように取り上げる史料によって、藤村の人物評価は変わるものである。
しかしひかえめに言っても、「藤村神話の崩壊}と書くのは極端であろう。
<朝日新聞チューリッヒ支局>
朝日新聞の支局のメンバーが3名ともOSSと結びついていたという。

そして重鎮である笠信太郎について、
スイス連邦文書館での入国管理記録から、
1943年1月15日にスイスに移り住んだことが確認できたと書いている。
しかし有馬氏がまさに訪問した連邦文書館の笠のファイルには

同年7月14日付けの手紙で、「もう何週間がベルリンにいる。
(スイスの)外交官待遇の書類は、到着後送り返した。」と書いている。
また同年9月23日に家族に宛てた手紙では
「この13日、飛行機でスイスに来た。

もう一度ドイツに旅行的に行くかもしれぬが、
大体このスイスが活動の本拠になりそうだ。」
(「戦時下、欧州からの手紙」より)と書いているので、
9月と理解した方が良いのではなかろうか?
そして1943年1月15日に「笹本たちと合流する」とあるが、

笹本は1940年4月にブダペストに移り住み、
1945年1月にスイスに戻るので、
笠がスイスに来た時、笹本はスイスにはいない。
またもう一人の支局員田口二郎については

「1942年1月15日、東京からスイスに入国して
公使館アタッシェになる」とあるが、これも正しくない。
田口が遊学先イギリスからスイスに移り住むのは1939年で、
以降スイスに滞在している。
(「スイスを愛した日本人」より)  
有馬氏は最後にスイスに移り住んだのは笹本ではなく、
笠という理解のもと、史料にある「新しいエージェント」は
笠を指すとしているが、大丈夫であろうか?
また田口は、日本がポツダム宣言を受け入れる大きな拠り所となった、
アメリカの対日プロパガンダ、ザカイラス放送に名前が登場するそうである。
1945年6月9日の放送で、

「田口の東郷外務大臣宛ての書簡に言及しながら、
ドイツの二の舞にならないよう早期に降伏することを呼びかけた」という。
これはダレスとザカライアスの繋がりを証明する貴重な証拠として、
本書では3度ほど、取り上げられている。
確かにそういう放送があったのであろう。
しかしながら田口の東郷外相宛ての書簡というのは、ありえない事ではないか?
26歳でスイスに来た田口と東郷外相との接点は見つからない。
面識もない外相に一現地採用のジャーナリストが何かを書き送るであろうか?
提言を書いたとしても、外相の目に留まる可能性は皆無であろう。
また”書簡“を送ったと書いているが、

ドイツの敗戦時、日本と欧州間の郵便、伝書使など一切機能していない。  
こうした精度の低い情報が、
ダレスからザカライアスに直接伝えられたのであろうか?
ザカライアスがOSS文書に
田口の名前を見てつまんだだけではないのか?
この疑問はすでに
「昭和史を動かしたアメリカ情報機関」に対する書評でも、
評者は指摘している。 付け加えると、
有馬氏はアメリカ側(英語)の史料を主体に分析を進めているが、
スイス側(ドイツ語)文書の分析が少ないようである。
<結論とその出典>
同書には研究論文のように、各所でしっかりと出典が記されている。

しかし重要な所でそれが見つからない。
ポツダム宣言の受諾を主張していた東郷外相に関し、
「キナ臭いと思った東郷は、5月14日以降

ヨーロッパの中立国の公使館などに、英米がどのような終戦条件を
考えているが探りを入れるように命じていた。
実際、5月7日から27日までに、

ポルトガル、スイス、スエーデン、バチカンの公使館員が
現地のOSS代表と接触して和平条件を聞き出そうとしている。」
という興味深い記述があるが、この出典がはっきりしない。
  一方同書においてスイスでは
「5月11日、ダレスの名を受けて
ハックが駐スイス公使の加瀬俊一と接触していた」と
接触がアメリカ側のイニシアチブであることを述べてもいる。
有馬氏はこの時の中立国からの回答で、東郷が

「アメリカは無条件降伏しか認めていない」という認識に立ち、
それが彼のポツダム宣言受諾の基になっていると
導く重要なポイントとしているが、ここでも中立国からの回答から、
東郷がそのように理解したと判断できる史料は示されていない。  
そして「このハック、ダレス、ヤコブセン、吉村、岡本、加瀬らが
数年をかけて確立した日米間のトップをつなぐ
コミュニケーションのチャネルが無ければ、そもそもこのような
終戦を巡るコミュニケーションもなく、
したがってドイツのように軍事力と政治機構の
完全なる消滅によってしか戦争は終わらなかった。」と書いているが、
ここまで言い切って良いかは、議論の余地があるところであろう。
また戦後の話であるが、笠は戦後になっても
ダレス、CIAとの関係があったので藤村、津山、北村、吉村などに、
つねづね自分がスイスで終戦工作に関わった事を口止めしていた」とあるが、
この出典も知りたいところだ。 <終わりに>
正直に申し上げて、かなり細部に渡った書評となった。

ドイツ語の慣用句に「スープの中の髪の毛を探す」
(あら捜しをする)というのがあるが、その感もぬぐえない。
しかしやや行き過ぎた部分は戻したい、というのが評者の主旨である。
そしてスイスでの和平工作の真実に、さらに少しでも近づければ本望である。

<書評 ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟 
高川 邦子 (著)芙蓉書房出版> 
2015年7月15日 同書発売の日に)日瑞関係のページ

<序> 著者である高川さん(以降著者と表記)と
日瑞関係のページ」を管理する筆者は2008年9月より、
研究を通じメールをやり取りしているい、わば同好の士である。
そして今回の出版に際し、ドイツ語のお手伝いなどをした関係で、
冒頭に筆者の名前も挙がっている。
よって今回の書評であるが、「推薦の書」であることをお断りしておく。
著者は戦時中にハンガリー公使を務めた大久保利隆の孫である。

その大久保利隆の祖父は明治維新の元勲大久保利光のいとこにあたるという。
“利”の字を継ぐのが、一族の慣わしであったのであろう。
 本書の特徴は、残された資料の少ない欧州における
外交官の足取りを、入念に調査したという点である。
例えば大久保公使が1941年1月28日、

ブダペスト東駅に到着した時の写真はハンガリー国立博物館で
発見されたものだという。
ここの資料が戦時下の邦人関係で紹介されるのは初めてではないか?
そして同年4月ブダペストを訪問した
大島大使の写真など、貴重な物ばかりである。 <帰朝>
また公使は1943年11月、貴重なソ連の通過ビザを得て、

日本に帰国するのだが、その理由をちょうど1年前の1942年11月、
ベルリンで行われた大公使会議にさかのぼっている。
各国に駐在する日本の大公使が集まる所で、

そのリーダー格の大島浩駐独大使が
「大公使全員で、本国政府に日本軍によるソ連攻撃を具申しよう」という提案に対し、
真っ先に反駁を行ったのが、大久保公使であった。
結果この具申は本国に送られなかったが、大島は怒りが心頭に達していた。
その時、条約局時代の上司であった三谷隆信フランス大使が大島に
「では、私が引き受けましょう」と、パリ公使に異動させる提案をした。
当時はフランスの政府があるビッシーに日本の大使館があり、

パリにはかつての大使館の建物の管理、
及び在留邦人の世話のために、公使がいた。  
これは大久保にとっては明らかな降格であった。
悩んだ大久保は
「パリには行く。でも病気なので、

その前にいったん帰朝させてほしい」と本省に願い出た。
これが経緯であるが、著者は日本に外交文書がない部分をアメリカ、

及びイギリスの公文書館の日本外交の暗号解読文書から探し出し、解明した。
なお筆者はこの日本の暗号解読文書に関し、イギリスのものは、

アメリカから提供されたものではないかと考えている。
それをに訪問し、実際見てきた著者に尋ねたところ、解説を頂いた。
詳しい所は省略するが、
「米英で情報を共有し、イギリスの方がよく整理されている」ということであった。
この英米の共有に関しては、筆者もさらに研究してみたいと考えている。
 

<御進講>
日本に戻った大久保は、親しい人間には

「ドイツは持ってあと1年か、1年半」と語っていた。
そして1944年2月29日、皇居に赴き天皇陛下に
「ハンガリー国の近況について」の御進講を行う。
本人の回想によれば
「40分位だったかと思う。松平恒雄宮内大臣へ報告したことを、

今少し和らげて結局同じことをご進講した。
その間、陛下は非常に熱心に聞いておられた。
勿論充分御理解いただいたと思う。」と、
当時日本ではなかなか口に出せなかった
ドイツに対する悲観的見通しを語ったという。
この回想録の言葉に対しても筆者は、慎重に対応している。そしてまず
「御進講したこと自体は、様々な記録に記されている。

だがその中身については一般公開されている文献の中に、
記述を見い出すことは出来なかった。」と語る。しかし生前、  
「“自分は陛下にドイツは負けますとはっきり申し上げた”と周囲に語り、
そのことを生涯誇りに思っていた事からも、
言ったことは言ったのであろうと筆者(高川氏)は考えている」と
控えめに結んでいるが、説得力がある。

<外務省軽井沢事務所長> 
終戦が近くなると、スイスなどの中立国外交人は軽井沢に疎開した
こうした外交団との折衝のため、外務省の事務所が軽井沢に開設された。
その所長に大久保 が任命されたのは、
フランス語で交渉が出来る事が第一の理由であった。
スイス公使がフランス語圏の出身であったからだ。
その“交渉”であるが、一部の外務種関係者の頭には
「終戦」も視野にあったとの事である。

軽井沢のこの事務所について書かれた本を、

筆者は寡聞にして他に知らない。
そこから分かることはいくつかあるが、例えば外交官を父に持つ
外国語の堪能な女性が数名、事務所では働いていた。
後に国連高等弁務官を務める緒方貞子もその一人で、
中村豊一元フィンランド公使の長女であった、
という興味深い話もある。 <終わりに>
最後にひとつ楽屋裏話を。この時のスイス公使は

カミーユ ゴルジェであった。
大久保所長とは当然何度も話し合いをした関係であった。
そこで著者高川氏は近年、
スイスでゴルジェ公使の親族とコンタクトを取れないか、
いろいろ努力をされたことを筆者は知っている。
本書を読む限り、残念ながらコンタクトは出来なかったようだ。
筆者の「日瑞関係のページ」に興味を持たれる方は、

ぜひこの本を買ってお読みいただきたい。
戦時下の欧州で活躍した邦人について、
新たな感動を得ることは間違いありません。

日本の降伏 2 終戦工作 ・・・しかし、すでにソビエト連邦は、
1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヶ月以内の
対日宣戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった
5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスの陸海軍駐在武官から
ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[9]、モスクワから帰国した
陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐からシベリア鉄道における
兵力の極東方面への移動が関東軍総司令部に報告されたり[10]していたが、
これらの情報は軍・外務省の間で共有されなかったり、
希望的観測のもとに軽視される結果となった。
7月のポツダム会談では近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で
両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に
決定した上でポツダム宣言に同意した。
一方、日本政府はソ連の仲介を期待して
「ノーコメント」とする方針を取り[11]8月の広島・長崎への原子爆弾投下、
ソ連の対日宣戦を回避することはできなかった。
大本営・内閣合同の「戦争最高指導会議」での東郷らの説得工作や、
御前会議」における、2度の昭和天皇の聖断を経て、
国体護持」を条件としたポツダム宣言受諾を決定したが、
最前線における日本軍の崩壊や原子爆弾の被害にも関わらず、
阿南陸軍大臣ら軍首脳は
「自主的な武装解除」・「自主的な戦争犯罪の処罰」
・「日本本土への占領を行わない確約」の追加を、最後まで要求した。
連合国側からの回答(国務長官ジェームズ・F・バーンズからの
いわゆる「バーンズ回答」)において、
「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」
とされたことに、「日本の国体を決めるのは天照大神の神勅のみである」
と憤慨する要人からの反発、更に8月15日には
本土決戦内閣を樹立するためのクーデター未遂事件(宮城事件)の発生など、
「神州不滅」を真理と考える戦争継続・本土決戦派の勢いは強く、
8月15日正午の「玉音放送」以後も松江騒擾事件厚木海軍飛行場での
小園安名大佐による決起事件(厚木航空隊事件)など
揺り戻しの可能性が尚も残されたまま、
降伏文書の調印まで緊張した情勢が続くことになった。
以下は他に、終戦工作として知られているものである。

燕京大学学長ジョン・スチュワート上海市長周仏海を仲介者とする和平工作。
日本軍今井武夫参謀副長と中国軍何柱国上将との和平協議。
水谷川忠麿男爵(近衛文麿異母弟)と中国国際問題研究所何世禎との和平工作。
ウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作。

スイスにおけるアメリカ戦略事務局アレン・ダレスを仲介者とした
岡本清福陸軍武官・加瀬俊一公使や
藤村義朗海軍武官らによる和平工作[15][16]
などがあるが、いずれも和平条件の問題や
日本側による仲介者への不信、タイミングなどから、
実現には至らなかった[17]

また、小野寺信駐在武官もナチス・ドイツの親衛隊諜報部門の
統括責任者であるヴァルター・シェレンベルクと共に
スウェーデン王室との間で独自の工作を行っている[12][13]だが、
ソ連との交渉に専念したい東郷の意向で延期されたまま終戦を迎えた[14]

消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い―
岡部伸 独ソ戦を予言し、対米参戦の無謀を説き、和平工作に砕身した
陸軍武官・小野寺信
同胞の無理解に曝さ れつつも、大戦末期、
彼は史上最大級のヤルタ密約情報を入手する。
ソ連の対日参戦近し――しかしその緊急電は「不都合な真実」ゆえに
軍中枢の手で握り潰された連合国を震撼させた不世出の情報戦士、
その戦果と無念を描く。
ISBN:978-4-10-603714-6 発売日:2012/08/24

堤堯『著者に聞く』#10(後編) ゲスト:岡部伸(産経新聞編集委員)
『「諜報の神様」と呼ばれた男消えたヤルタ密約緊急電と小野寺信の孤独な戦い』
「文藝春秋」の元編集長で本の鬼、堤堯が
「この人に会いた い!」と熱望する話題の著者にお話を伺うシリーズ番組。
【第10回 (後編)ゲスト:岡部伸(産経新聞編集委員)
『「諜報の神様」と呼ばれた男消えたヤルタ密約緊急電と
小野寺信の孤独な戦い』】 MI5が唯一警戒...
チャンネルに入会すると、動画を視聴できるようになります。
NHK特集 「日米開戦不可ナリ」 ~ストックホルム 小野寺大佐発至急電~

波 2012年9月号より
死活情報を発信した者、抹殺した者 手嶋龍一
 北海道の天塩山系で猟師に従って 
鬱蒼とした針葉樹林帯に分け入ったことがある。
この山麓のどこかにヒグマはきっと潜んでいると
手練れの猟師は自信ありげだった。
「果たしてヤマ親爺を仕留められるか。あとは俺の腕と運次第だよ」
 機密の公電を追ってインテリジェンスの森にひとり分け入る

本書の著者は練達のハンターを彷彿とさせる。
英国立公文書館と米国立公文書館は第二次大戦の
情報文書の機密指定を次々に解いている。
だからといって獲物がすぐに見つかるわけではない。
鍛え抜かれた情報のプロフェッショナルだけが標的を射止めること ができる。
 大戦中に欧州の地から打電された枢軸国日本の公電は、

連合国側にとってダイヤモンドの輝きを放っていた。
ベルリン発の大島浩駐ドイツ大使電はヒトラーの胸中を窺わせる決定打であり、
中立国スウェーデンの首都ストックホルムから打たれた
小野寺信駐在武官の機密電も国家の命運を左右するものだった。
英国の諜報当局は渾身の力を注いで、
暗号が施された小野寺電を読み解いていった。
 ソ連はドイツ降伏の後、三ヶ月をめどに対日参戦する――。

小野寺信は亡命ポーランド政府のユダヤ系情報網から、
ヤルタ会談の密約を入手した。
それは杉原千畝が亡命ユダヤ難民に与えた
「命のビザ」への見返りだった
その情報を東京の参謀本部に打電したのだが
ヤルタ密約電を受け取りながら、あろうことか参謀本部の中枢が
抹殺してしまったと著者は断じている。
和平工作をソ連に委ねていた彼らにとって「ヤルタの密約」こそ
日本の敗北を決定づける不吉な宣告に他ならなかったからだ。
 小野寺信はスウェーデン王室を頼りに終戦工作も進めていた。

日本は天皇制の存続さえ保障されれば降伏する
――ポツダム会談に臨むトルーマン大統領に伝えられた情報の背後には
スウェーデン国王グスタフ五世の影が動いていた。
さらに全体主義国家ソ連は新たな領土への野心を隠していないと警告し、
ソ連を頼むこ との愚を説き続けた。
だが大本営の参謀たちは、貴重なインテリジェンスのことごとくを無視し、
スターリンの外交的詐術に思うさま操られていった。
ヤルタ密約をめぐる小野寺情報を日本の政府部内で共有していれば、
広島、長崎への原爆投下を回避でき、ソ連の対日参戦、
そして北方領土の占領を防ぐことができていたものを――。
本書の行間には著者の無念が滲んでいる。
 貴重な情報が、決断を委ねられた指導者に届かない。

インテリジェンス・サイクルの機能不全は国家を災厄に突き落とす。
フクシマ原発の悲劇を目撃した読者なら、ヤルタ密約を抹殺して愧じない
官僚主義の奢りがいまのニッポンにも受け継がれていると
嘆息することだろう。 (てしま・りゅういち 作家・外交ジャーナリスト)
【ヤルタ密約】ソ連参戦、握りつぶされた小野寺電[桜H24/8/8]SakuraSoTV
2012/08/08 に公開
日本の8月は、ある人は大東亜戦争を回顧し、
またある人は戦史の検証を明らかにする季­節である。
8月8日付けの産経新聞報道に拠れば、ヤルタ密約によって
対日参戦するとい­うソ連の動向を伝えた「小野寺電」が、
大本営によって握りつぶされていたことが明かさ­れている。
徐々に明らかになってきた戦史の裏面についてお伝えいたします。

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