慰安婦問題について、いろんな報道: 1945年の旧ソ連対日参戦、 正当化論調に異議「約束守るべきだった」 アレクセイ・キリチェンコKGB元大佐インタビュー。(核といのちを考える)原爆、元ソ連スパイの証言 終戦直後、広島・長崎へ (2014年11月9日 朝日新聞朝刊)

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2016年8月19日金曜日

1945年の旧ソ連対日参戦、 正当化論調に異議「約束守るべきだった」 アレクセイ・キリチェンコKGB元大佐インタビュー。(核といのちを考える)原爆、元ソ連スパイの証言 終戦直後、広島・長崎へ (2014年11月9日 朝日新聞朝刊)

インタビューにこたえるソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、
アレクセイ・キリチェンコ氏(遠藤良介撮影)
知られざる日露の二百年 単行本 – 2013/3/6
アレクセイ・A・キリチェンコ (著), 川村秀 (編集), 名越陽子 (翻訳)
ミハイル・イワノフ氏(右)とアレクセイ・キリチェンコさん

2016.8.19 10:15 2 3 4 産経ニュース
1945年の旧ソ連対日参戦、
第二次大戦後の北方領土問題や
「シベリア抑留」の悲劇を生んだ旧ソ連の対日参戦
(1945年8月9日)について、ロシアでは当時の
日ソ中立条約(41年締結)の効力を否定して
正当化する論調が強まっている。
ソ連による抑留問題の実態を暴露した
ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐の歴史家、
アレクセイ・キリチェンコ氏(79)は産経新聞のインタビューに応じ、
こうした見方が誤っていると論破した。
一問一答は次の通り。

 --ソ連は45年4月5日、中立条約を延長しない旨を
日本に通告した。
これをもって、対日参戦に問題はなかったとの主張がある
 「ソ連のモロトフ外相は当時、日本の佐藤尚武大使に
条約を延長する意思がないことを表明した。
しかし、老練な佐藤大使は、条約が
46年4月25日まで有効であることをモロトフに認めさせている。
後にスターリン首相がこれを“修正”して
対日参戦したということになるが、
外相の約束は破られるべきでなかった」

 --ある日本専門家は最近の論文で、
41年の日本軍人らの発言や松岡洋右外相の「北進論」を挙げ、
日本には中立条約を守る意思がなかったと強調している
 「戦争のことを考えるのが軍人の仕事である。
ソ連との戦争に反対する者が陸軍にも海軍にも存在していた。
松岡は政府と見解が相いれず、同年7月に更迭されている。
誰にどんな『計画』があったとしても、それに意味はない」

 --ソ連の極東戦力が
日本の対ソ攻撃を抑止したとも主張されている
 「実際には、日本は41年秋、
満州の関東軍からの部隊引き抜きも含め、
南方へと兵力を迅速に集中させた。
9月にはソ連にも、当時の関東軍の構成では、
日本に戦争はできないということが明らかだった。
10月末には、スターリンが極東の軍や共産党指導者との
少人数の会合を持ち、極東の部隊を
西部(対ドイツ戦)に投じることが決まった。
日本が攻撃してこないとの確信があったのだ」
 「ほかならぬ極東の部隊が41年11月7日に
モスクワの『赤の広場』でのパレードを行い、
そこから(西部の)戦闘に向かった。
それによってモスクワは攻撃されることを免れたのだ。
41年から43年の間に、
極東から西部へと
完全に訓練・武装された42個師団が振り向けられた」

 --満州からソ連への国境侵犯が頻発し、
それが日本の「攻撃意図」の表れだともされている
「日本はノモンハン事件(39年)以降、
ソ連国境を破らないようにということを徹底していた。
日中戦争があり、ソ連を挑発して
『2正面』で戦うことはできなかったためだ。
逆に、関東軍がソ連からの脱走兵や送り込まれた諜報員を
収容所に入れていた事実があり、
越境はソ連からの方が活発だったのではないか」

 --ソ連はどう対日参戦に向かったのか
 「戦争の前半には、中立条約はソ連にとっても
日本にとってもきわめて有利なものだったのだと考える。
しかし、独ソのスターリングラード攻防戦(42~43年)の後、
ソ連は自らの力を認識し、日本との戦争準備を始めた。
国防委員会は対日戦に備え、
シベリア鉄道の予備支線として
コムソモリスク・ナ・アムーレ-ソビエツカヤ・ガバニ間の
鉄道敷設を決め、
それは予定された45年8月1日より数日早く完了している」

 --原爆投下でなく、ソ連こそが
第二次大戦を終結させたのだとして
対日参戦を正当化する主張も強い
 「満州の実態を見るならば、
当時、片道分の燃料しかない航空機が380しかなく、
その多くは8月半ばに日本に戻ってしまった。
ソ連側は5000機以上も戦闘態勢にあったが、
空中戦はほとんどなかった。
満州には戦車もたいへん少なく、
この頃には完全に弱体化していたというのが事実だ」

 --“公式史観”と異なる見方を公にする理由は
 「私は、日本をソ連の敵国の一つとして研究し始めた。
だが、日本の現実を深く知るにつけ、
ソ連とその後のロシアが少なからぬ過ちを犯し、
それが今日に至るまで両国関係に
本質的な影響を与えていることを理解した。
むろん、日本も天使にはほど遠かった。
将来の悲劇と困難を避けることには
意味があると考える」(モスクワ 遠藤良介)

ソ連の対日参戦 ソ連軍は1945年8月9日、
当時有効だった日ソ中立条約を破って
日本に対する戦闘を開始し、
満州(中国東北部)や樺太(サハリン)などに侵攻。
日本がポツダム宣言を受諾し、
15日に終戦の詔書が発表された後も一方的な侵略を続けた。
ソ連軍が日本の北方四島を占拠し終えたのは、
日本が降伏文書に調印した9月2日よりも遅い同5日だった。
ソ連はまた、武装解除した日本将兵など約60万人を
旧ソ連各地に連行して強制労働を課し、
6万人以上の死者が出た(「シベリア抑留」)。

アレクセイ・キリチェンコ氏 
ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、
ロシア科学アカデミー東洋学研究所上級研究員。
1936年、旧ソ連のベラルーシ生まれ。
64年にKGB大学を卒業しKGB第2総局で
対日防諜を担当。
80年代に研究所入りして日本人強制抑留問題に取り組み、
日露間での真相解明に向けた原動力となった。

杉原千畝: 戦場の外交官 - 242 ページ - Google ブック検索結果
https://books.google.co.jp/books?isbn=4569764045
櫻田啓 - 2015ソ連 KGB の対日防課部局の責任者(大佐)だった
アレクセイ・キリチェンコ博士(『知られざる日露の二百年』
《現代思潮新社》の著者)は、「無電が届かないことはあり得ない」と証言しており、
受信後、参謀本部や外務省で握りつぶされたことは明らかになっている。

モスクワで今年、101歳の男性が生涯を閉じた。
原爆が投下された直後の広島、長崎へ、
米国よりも先に調査に入ったソ連軍(当時)のスパイだった。
同僚は放射線障害で死亡し、自らは生き延びた。
報告書の所在は被爆70年が迫る今も分からないが、
元スパイは晩年、親しい友人にその内容を明かしていた。

 ■「SFのよう」 晩年、友人に
 スパイはミハイル・イワノフ氏。第2次世界大戦末期は
東京のソ連大使館に在籍し、ソ連軍参謀本部情報総局
(GRU)の一員として活動していた。
戦後も1970年代に武官(軍人外交官)として日本で勤務した。
 「彼が日本人を悪く言うのを聞いたことがない」。
日ロ関係史を研究するアレクセイ・キリチェンコさん(78)は、
自宅があるロシアのモスクワでこう振り返った。
かつて旧ソ連国家保安委員会(KGB)第2総局
(防諜〈ぼうちょう〉局日本担当)に勤め、
「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)の著者でもある。

 スパイの諜報活動内容は漏らしてはならないとされるが、
生前のイワノフ氏はキリチェンコさんに対し、
国家の命令で調査した
原爆投下直後の広島、長崎での体験を語っていた。
キリチェンコさんはその証言の記録をまとめていた。

 ■爆心地真っ平ら
 米軍は45年8月6日と9日、広島、長崎に原爆を相次いで投下した。
8日に参戦し、日本に宣戦布告したソ連は
原爆を開発しておらず、威力の解明を急ぐ必要があった。
 「現地調査を命じる」。イワノフ氏と同僚の
ゲルマン・セルゲーエフ氏は上層部から指示され、
終戦翌日の8月16日に広島へ、翌17日に長崎へ入った。
米国が広島で予備調査を始める20日以上も前だった。
 2人は列車で広島駅にたどり着いた。
想像した被害をはるかに超える「
SF世界のような光景」に言葉を失った。
「恐ろしい病気がはやっている」。
日本の公安職員から「視察」を控えるよう説得された。
 爆心地を突き止め、爆発でできたくぼみの深さを確認する――。
爆弾の威力を算定する
データとなる状況をつかむことが最大の任務だった。
だが、爆心地で見たのは約1キロ四方の真っ平らな空間。
巨大なローラーで突き固めたようだった。
 異様な色に溶けた石を拾っていた時、
吐き気をもよおすような臭いがした。
残留放射線の影響や怖さを知らないイワノフ氏ら
はそれらを包み、かばんに入れていった。
 長崎では、米国の偵察機が原爆投下前に空からまいたという
警告の紙片を見つけた。
生き残った人はがれきを使い、
一時しのぎのあばら屋を建てていた。
死体から出る臭い、うめき声、叫び声……。
役所の建物の床で一夜を過ごしたが、一睡もできなかった。

 ■初報告書どこに
 イワノフ氏とセルゲーエフ氏は、原爆投下直後の被爆地で
残留放射線を浴びていた。
日本で戦後にできた被爆者援護法に照らせば、
「入市被爆者」にあたる。
調査後、セルゲーエフ氏は体調を崩して死亡。
だが、イワノフ氏は生き延びた。

 イワノフ氏らが作ったとされ
る「最も早い報告書」はどこにあるのか。
 原爆の投下から62年がたった2007年11月。
95歳になったイワノフ氏はキリチェンコさんに
「調査報告書や回収品、
写真は全て最高指導部に上げた」と語ったという。
 だが、調査報告書の所在は今も分かっていない。
イワノフ氏は今年2月に101歳で亡くなり、
モスクワの墓地で眠っている。

 ■ソ連、重ねた現地調査

 米国の原爆投下で幕が開いた米ソの対立は、
核武装を競い合う冷戦へとつながっていった。
「米国がソ連の20都市を核攻撃する」という
秘密計画までもたらされたソ連は躍起になり、
1949年に原爆の開発にこぎつけた。
 イワノフ氏の報告書の所在は分かっていないが、
ソ連が45年9月と46年9月に被爆地に送った
別の調査団の報告書はロシア外務省の外交史料館
(モスクワ)で保管されている。
朝日新聞が閲覧を求めたところ、今年に入って認められた。
 「原爆/広島・長崎への原爆使用の結果に関する資料」
と題された45年の報告書は、東京のソ連大使館が
スターリンら5人の幹部にあてて作った。
46年の報告書は連合国の視察団に加わった
ソ連情報将校が作成。長崎の被爆を示す写真が
十数枚添付されていた。
広島の写真は添えられていなかった。
朝日新聞デジタル「核といのちを考える」
 (http://t.asahi.com/bbke)に詳報

 ■生死分けたのはウイスキー?
 「イワノフのコップ」伝説に
 イワノフ氏とセルゲーエフ氏の生死を何が分けたのか。
ソ連当局は調べた。
 広島と長崎での視察後、イワノフ氏は
モスクワの軍事病院に1年間入院させられて、
徹底した検査を受けた。
その結果、ある結論が導かれた。

 「命を救ったのはウイスキー」
 イワノフ氏は東京から広島へ向かう列車の中で、
サントリーのウイスキーを1人で1本空けた。
セルゲーエフ氏は酒を断っていた。
 その後、ソ連は原子力施設で働く職員に
少量のアルコール摂取を義務づけ、原子力潜水艦では、
摂取のための一杯を
「イワノフのコップ」と呼ぶようになったという。
 放射線の防御にはアルコールが有効との「伝説」が広がり、
チェルノブイリ原発事故(1986年)や
東京電力福島第一原発事故(2011年)の際も、
ロシアでは「ウオツカや赤ワインが効く」
という話が流れた。
 独立行政法人「放射線医学総合研究所」によると、
アルコールと放射線をめぐっては、
「ビール成分に防護効果を確認した」とする研究成果がある。
一方で、科学的な定説にはなっていないという。
 「伝説」は、広島・長崎の原爆が原点だった。
イワノフ氏の95歳の誕生日を祝った際、
キリチェンコさんはサントリー・ウイスキーを贈った。
 (核と人類取材センター・副島英樹)


[PDF]満ソ国境紛争
www.kaikosha.or.jp/old/_userdata/kin-12.pdf
重忠裁判の矛盾の象常日ソ関係史. ドイツが 
一 方的に侵攻した独ソ戦と. ソ連が 一 方的に ...
 任研究員A . キリチェンコ
 (「東京裁判へのクレムリン秘密指令」 『正論』. 平成H年7月)

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