慰安婦問題について、いろんな報道: 日曜ビッグ 戦争を考えるSP第8弾 池上彰の教科書に載っていない20世紀。厚木の凱旋将軍 「マッカーサーは失禁していた」 髙山正之。

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2016年8月7日日曜日

日曜ビッグ 戦争を考えるSP第8弾 池上彰の教科書に載っていない20世紀。厚木の凱旋将軍 「マッカーサーは失禁していた」 髙山正之。


2016/08/07(日)19:54 ビジネスオンデマンド

日曜ビッグ 戦争を考えるSP第8弾
池上彰の教科書に載っていない20世紀
2016年8月7日(日) 19時54分21時48分 テレビ東京
2010年からシリーズでお伝えしている『戦争を考えるSP』の第8弾。
今回は、戦後ニッポンの礎を築いた、
昭和天皇と連合国軍最高司令官を務めた
ダグラス・マッカーサーの知られざる秘話に迫る。

池上はアメリカに渡り、終戦直後に撮影された

昭和天皇とマッカーサーの2人の写真を取材。
日本中に衝撃を与え、戦後日本はここからスタートしたとも言える
有名な2ショット写真。
実は全部で3枚存在することが明らかになった。
その撮影秘話に迫るほか、当時の日本政府が
「天皇退位」を示唆したある文書に対して、
マッカーサーが残したメモを発見。
戦後ニッポンを創った2人の足跡を池上流にひも解いていく。
髙山正之(ジャーナリスト) iRONNA

2016年02月08日 Imperial Amber 
彼がここに来るわずか四週間前まで米艦船に向けて
それこそ死にもの狂いの特攻機が突っ込んでいた。

 二週間前にも降伏を潔しとしない青年将校が決起して、
皇居に殴り込み、上官を射殺もしている。
そうした恐れを知らない精鋭の将兵が
関東一円だけで二十二個師団三十万人もいた。
そのただ中を丸腰で、

コーンパイプを片手に悠然と降り立った。

強い米国、
「I shall return(必ず帰ってくる)」
の言葉を守り、今メルボルンからここに来た。
自信と誇りに満ち溢れた威厳ある姿。
しかし、マッカーサーのズボンの前立ての左側部分に
はっきり濡れ滲みが見える。光の加減ではない。
彼は強がっていた。
誰よりも先にタラップに出た。
しかし、心の底ではいつ襲われるか、
いつスナイパーの一発が彼の額を撃ちぬくか、
不安に打ち震えていたのだろう。
 一歩、二歩、降りるごとにその恐怖がいや増していった。
いくら強がったって体も交感神経もついていけなかったのか。
これが失禁のシミだと見るべきだと、

彼の過去のいくつかのエピソードが語っている。
以下、その状況証拠を挙げてみる。
マッカーサー四度目のマニラ赴任が
米陸軍退官後の1937年(昭和12年)だった。
米傀儡政権(かいらいせいけん)
ケソンの軍事顧問がその肩書きだった。
表向きは独立を前にしたフィリピンの国軍づくりだが、
実際は近く始まる対日戦争用の戦力に仕立てることだった。
英軍には弾よけにインド兵がいる。
白人米兵にはフィリピン兵というわけだ。

日本にどこで戦端を開かせるか。
本来は、そして今現在も
カリフォルニア州サンディエゴにある米太平洋艦隊基地を、
大統領はそれでこの時期に
日本軍の手の届く真珠湾に移している。
少なくとも四〇年(昭和十五年)春の艦隊訓練が終わったあと、
空母を除く主力戦艦を真珠湾に密集して置きっ放しにした。

 明らかに日本に襲わせるための囮だった。
海軍側がそれを指摘したが、大統領は取り合わなかった。
そして一年半後に日本軍はここを襲った。

 この米太平洋艦隊の真珠湾足止めと同じ時期に
米国は日本への鉄の禁輸を決めた。
経済封鎖で苛立たせ、
戦争に誘う最終段階がこのときに始まった。

■日本の攻撃に呆然自失

一方で、ルーズベルトはフィリピンの軍備に力を入れた。
追い詰められた日本が資源豊かな南方に出る。
その入り口にあるのがフィリピンだ。
だから必ず日本軍はここに来る。
現地兵の養成を急ぐ一方で、
大統領は米地上部隊と空軍の増強を急いだ。
 後にバターン死の行進の被害者と吹聴する
レスター・テニーも
このころ戦車隊の一兵員としてマニラに送られてきた。
 空軍増強の中心は四発重爆撃機B17。
これを四一年秋までに三十五機、送り込んだ。
「空飛ぶ要塞」の異名をとるB17は本当に無敵だった。
戦闘機に劣らない機速と厚い防護と
十丁の十二ミリ機銃は逆に戦闘機を撃ち落とし、
過去に一機も撃墜されたことがなかった。
B17の一機は高速巡洋艦一隻なみの破壊力を持つと評価され、
スチムソンは「B17は日米の力のバランスを変えた」と言い、
ルーズベルトも日本が対米戦争突入を諦めはしないか、
本気で心配したほどだった。
 英国も米国に倣う。
四〇年に入ると、九龍国境を要塞化し、
マレーにもジットラ・ラインを築いた。
そして想定開戦に間に合わせるように
戦艦プリンス・オブ・ウェールズと
巡洋戦艦レパルスをシンガポールに送ってきた。
 この二艦が入港してすぐ日本軍は真珠湾と香港を襲い、
マレー半島に大部隊が上陸した。
そしてフィリピンも当然標的になった。
 マッカーサーは午前三時過ぎ、
側近からの電話で真珠湾攻撃を知った。
彼は宿舎のマニラホテルから
米極東軍司令部に出向いたが、
その時点から丸半日、沈黙する。
午前五時、航空部司令官ルイス・ブレアトン准将が
先手を打って台湾の基地奇襲を提案したが、返事なし。
准将は夜明け後、
再度申し出るが、許可が出たのは昼前だった。
空中退避していたB17以下が
クラーク基地に降りて出撃準備中に日本軍機が襲来した。
 被害は同基地にあった二十一機のB17のうち
ブレアトンが偵察に出した三機を除く十八機すべてと
P40戦闘機五十三機など計百四機が破壊された。
施設は焼かれ、整備員の多くが死傷し、
フィリピン空軍は事実上壊滅した。

真珠湾から半日たった午後三時五十分、
マッカーサーの執務室をセイヤー高等弁務官が訪ねたが、
「彼は部屋の中を行ったり来たり」(増田弘『マッカーサー』)
ただ狼狽えるだけだった。
半日間、彼は何を下命すべきか何も分からずに過ごしたのだ。
しかし回顧録では
「真珠湾攻撃があったと聞いたが、
もちろん米側が反攻して勝ったと思い込んでいた」
と言い訳し、クラーク基地の全滅も
「敵軍は七百五十一機の大勢力で攻撃してきた。
貧弱な装備のわが軍の二倍以上の兵力だった」
から負けたと書いている。
実際の日本軍機は百九十一機。
対するフィリピン空軍機はB17を含め
二百四十機にも上る。この男は平気で噓をつく。

マッカーサーはその後、バターン半島の先、
コレヒドール島に逃げ込む。
フィリピンが攻められたときの手筈
「レインボー5」によればフィリピン軍十個師団と
在比米軍三万、B17以下の空軍力で
上陸日本軍を水際で抑える。
破られればバターンに退き、
六カ月間こもる間に太平洋艦隊が救援にくる予定だった。
 しかしマッカーサーはただおろおろし、
虎の子のB17を失い、なお日本軍主力部隊の
リンガエン湾上陸の阻止もできなかった。
米国の対日作戦はこの男一人によって崩れた。
尤も、英米側も誤算があった。

日本が強すぎた。
日本を震え上がらせると思った
プリンス・オブ・ウェールズは
開戦二日目に沈められた。
チャーチルが震えた。

B17も然り。欧州戦域では最強の機も
開戦二日目に日本の零戦に会って即座に落とされ、
まさかと思ったらその数日後、
ボルネオで二機まとめて落とされた。
そして半年後、ニューギニア・ラエ上空で五機の
B17の編隊と零戦九機が遭遇し、B17は全機落とされた。

 日本相手では「空飛ぶ要塞」もセスナと変わらなかった。
三カ月後、バターンの陥落が見えてくると、
彼は「I shall return」の一言と
すべての将兵を残して魚雷艇で逃亡した。
 魚雷艇とはなんと勇気ある行動だと評価されるが、
どうして、これも潜水艦が怖くて乗れなかったからだ。
マッカーサーは閉所恐怖症だった。

マッカーサーが敵前逃亡できた最大の理由は
英軍司令官パーシバルがシンガポールで
日本軍の捕虜となったからだ。
これで米軍司令官まで捕虜では
さすがの白人連合も恰好がつかない。
ルーズベルトにすればB17を潰され、
対日戦の手順もすべて彼によって狂わされてしまった。
大統領は彼に脱出を命じ、
以後、彼はメルボルンのビクトリア・バラックに一室を与えられ、
そこで例のバターン死の行進の噓っぱちを捏ね上げた。
半島から収容所まで百二十キロ。
半分は貨車で行く。
残り六十キロをコーヒーブレイク、海水浴つきで二泊していく。

 前述のレスター・テニーはそれを
「地獄の兵役」の題で書いたが、六十キロは六十キロだ。
すぐ歩き終わってしまうから、
収容所で「日本軍に水責めの拷問を受けた」という。
水責めは「板の上に大の地に寝かされ、
足の方を十インチ上げる。
それで汚水を漏斗で無理やり四ガロンも呑ませる」と。
それは米国がフィリピンを植民地化するとき、
抵抗する者をそうやって拷問した。
米上院公聴会には
「最後は土人の膨れ上がった腹の上に
米兵が飛び降りる。
土人は口から六フィートも水を噴き上げて絶命した」とある。

 日本人はそんな拷問は知らない。
テニーの噓がそれでばれる。
ういうのを蛇足という。(後略)

今回はマッカーサーを辱める意図はありませんが、
このコラムには、日米が開戦に至った
重要なことが記載されています。

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