慰安婦問題について、いろんな報道: 【三笠宮さま薨去】両陛下が墓所をご参拝。今週の御皇室 三笠宮殿下の薨去、皇后陛下のお言葉に考える 「皇位」継承の在り方[桜H28/10/27] ロイターなど海外メディアが報道。両陛下、7日間ご服喪 比のドゥテルテ大統領とのご会見を中止 7日間ご服喪、秋の園遊会はお取りやめ。宮内庁が午前10時半すぎに発表。朝日新聞、「聖戦」批判、「紀元節」復活に反対 三笠宮さまの戦後。

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2016年11月5日土曜日

【三笠宮さま薨去】両陛下が墓所をご参拝。今週の御皇室 三笠宮殿下の薨去、皇后陛下のお言葉に考える 「皇位」継承の在り方[桜H28/10/27] ロイターなど海外メディアが報道。両陛下、7日間ご服喪 比のドゥテルテ大統領とのご会見を中止 7日間ご服喪、秋の園遊会はお取りやめ。宮内庁が午前10時半すぎに発表。朝日新聞、「聖戦」批判、「紀元節」復活に反対 三笠宮さまの戦後。

宮内庁外に掲げられた弔旗=27日、
宮内庁(伴龍二撮影)
=5日午後、東京都文京区の豊島岡墓地(代表撮影)
弔問を終え、三笠宮邸を出られる天皇、皇后両陛下
赤坂御用地を散策される三笠宮さまと
1915年(大正4年)12月2日 - 2016年(平成28年)10月27日)は、
日本の皇族、歴史学者(専攻は古代オリエント史)、
陸軍軍人(最終階級は陸軍少佐)。
大正天皇貞明皇后の第四皇男子。
昭和天皇の弟、今上天皇の叔父にあたる。
御称号は澄宮(すみのみや)。
身位は親王皇室典範における敬称は殿下。
お印若杉(わかすぎ)。

「三笠宮」の宮号[注釈 1]は、1935年(昭和10年)12月2日に
崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、
奈良市の三笠山にちなんで命名された。

2016.11.5 19:54 【三笠宮さま薨去】産経ニュース
両陛下が墓所をご参拝
三笠宮さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」から
一夜明けた5日、天皇、皇后両陛下が豊島岡(としまがおか)墓地
(東京都文京区)に設けられた三笠宮さまの墓所を参拝された。
両陛下は、慣例に従って
葬儀に参列しなかったため、日を改めて訪問された。
 喪主の三笠宮妃百合子さまをはじめとする
皇族方が見守られる中、喪服姿の天皇陛下、皇后さまの順で、
ご遺骨が納められた墓の前に進み出て、
玉串をささげて深々と拝礼された。

 退出する間際には、百合子さまにいたわりの言葉をかけられた。
百合子さまは車いすから立ち上がって応じられたという。

 これに先立ち、百合子さま、皇太子さま、
秋篠宮さまをはじめとする皇族方も墓前で拝礼された。

 6、7日には、墓所での一般参拝が行われる。
午前10時~午後3時に墓地正門から入る。
服装は自由で、供花、供物は受けない。
安倍晋三首相や政財界関係者、各国駐日大使らも
【三笠宮さま薨去】百合子さま「宮さま、宮さま」とお声がけ
【三笠宮さま薨去】「夫唱婦随」辛苦ともに 百合子さまにみとられ (2016/10/27 11:46) テレ朝ニュース
【今週の御皇室】三笠宮殿下の薨去、皇后陛下のお言葉に考える
「皇位」継承の在り方[桜H28/10/27]
【Front Japan 桜】変節した典範改悪派の正体 /
イトマン事件の闇と背後関係と日経新聞/田村秀男[桜H28/10/27]

2016.10.27 19:58 【三笠宮さま薨去産経ニュース
ロイターなど海外メディアが報道
三笠宮崇仁親王殿下の薨去に関し、
海外のメディアでも報道が相次いだ。

 ロイター通信は「皇室最高齢者が100歳で死去」と報道。
皇位継承資格者がわずか4人となり、
今後は女性・女系天皇に関する議論が注目を集めるだろうと指摘した。
三笠宮さまが古代オリエント史の研究者として
広く知られていたことなども伝えた。

 中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報(電子版)は、
三笠宮さまが日中戦争のときに南京にいたことや、
「和平派」として東条英機首相らの政策に
反対されていたことなどを紹介した。
江沢民元国家主席が訪日した1998年11月には
「中国人民に謝罪したい」と述べていたと報じた。
 韓国の聯合ニュースは、三笠宮さまが戦後、
「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえないのは、
戦争の罪悪を十分に認識していなかったことだ」
と著書で回想されたことに言及した。

2016.10.27 18:33 【三笠宮さま薨去産経ニュース
両陛下、7日間ご服喪 秋の園遊会は中止、
宮内庁は27日、三笠宮さまが薨去(こうきょ)されたことを受け、
天皇、皇后両陛下が同日から7日間、
三笠宮妃百合子さまは90日間の喪に服されたと発表した。
これに伴い、両陛下のご主催で
11月1日に催される予定だった秋の園遊会を中止とした。

 また、天皇陛下が27日に予定していた
フィリピンのドゥテルテ大統領との会見は取りやめられた。
秋元義孝式部官長を通じ、大統領に伝えられたという。

「聖戦」批判、「紀元節」復活に反対
 三笠宮さまの戦後
2016年10月27日15時38分 朝日新聞デジタル
三笠宮さまは戦後、一転、学問の道を歩む。
三笠宮崇仁さま逝去
三笠宮崇仁さま逝去 100歳、天皇陛下の叔父
 東京大名誉教授(社会人類学)の中根千枝さん(89)は
1947(昭和22)年に入った東京大文学部で、
研究生だった三笠宮さまと一緒によく同じ講義を受けた。

 ほかの学生たちが遠慮がちに接するなか、
中根さんは隣の席に座った。
「宮さまが公務で授業を欠席すると、
私が自分のノートを貸したり、私が遅刻すると、
宮さまが『きょうはここまで』とノートを見せてくれたり。
普通の友人のように接していただいた」と懐かしむ。

 戦争に対する反省、一般の人々への接し方、
そして学問への探求心――。
三笠宮さまの振る舞いに対して、中根さんは
「縛られない自由さ」を感じていたという。
「それは、特別な地位にあったからであると同時に、
精神の純粋さがあったからでしょう」と話す。

 その純粋さは、言動にも表れた。
 戦後、2月11日が「神武天皇即位の日」だとして
戦前の「紀元節」を祝日として復活させようという動きに対し、
三笠宮さまは歴史学者の立場から「歴史的根拠がない」と、
56年ごろから学者の会合や論文で反対を表明した。

 大本営陸軍参謀などとして
かかわった戦争への思いも率直につづった。
56年刊行のオリエント学入門書「帝王と墓と民衆」
「わが思い出の記」と題した章では
「罪もない中国の人民に犯したいまわしい暴虐の数かずは、
ここにあげるまでもない」「聖戦という大義名分が、
事実とはおよそかけはなれたものであった」と記した。

 84年出版の自伝的著書「古代オリエント史と私」でも
「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえないのは、
戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」とつづり、
その反省が戦後、
歴史研究に向かうきっかけになったと明らかにした。

 現憲法の制定に際しては46年6月、昭和天皇も出席して
憲法案を採択した枢密院本会議で発言した記録が
国会図書館に保存されている。
記録によると三笠宮さまは、新憲法案の戦争放棄を積極的に支持、
日本の非武装中立を主張した一方、
「マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」
などと述べて、採決は棄権したという。

 55年、東京女子大講師に。
軍関係以外の大学の教官になった皇族は、
当時初めてだったという。
昼は学食で1杯20円のきつねうどんを好んで食べた。
その後、「宮さまうどん」と名付けられた。
講義は青山学院大学などで行われた。

 同年にはラジオで古代オリエント史を講義し、
57年にはテレビの教養番組「オリエントの旅」に出演した。
75年に英ロンドン大、85年には東京芸術大の客員教授を務め、
87年にブルガリアのソフィア大から名誉博士号を受けた。

 東京・三鷹市にある中近東文化センターは、
三笠宮さまの後押しで75年に設立された。
三笠宮さまは週に3~4回通い、研究に取り組んだ。
2階には三笠宮さまが研究でまとめたノートやファイルが
壁の棚にぎっしりと保管されている。
三笠宮さまは「後進のためになるなら」と
他の研究者らに譲る意向を示していたという。

 2015年3月には百合子さまとともに花見に訪れた。
予定時間を過ぎて2時間ほど滞在し、
あまりに熱心に桜に見入る様子に、
百合子さまは
「これまでにも殿下はよく見ていらっしゃったんじゃないですか」
などと話しかけた。

 毎年花見の時期には俳句仲間と集まって創作も楽しんだ。
100歳を迎える前の同年10月にはお祝いの会が開かれ、
百合子さま、孫の彬子さまが見守る中、
ケーキのろうそくの火を吹き消した。
三笠宮さまが作った歌「月と雁」がピアノの演奏で合唱され、
三笠宮さまは喜んでいたという。
 センターによると、三笠宮さまは小さなことでも
「ありがとう」と感謝の気持ちを述べていたという。

宮内庁は27日、三笠宮崇仁親王殿下の薨去を受け、
天皇、皇后両陛下が同日から7日間の喪に服されたと発表した。
これに伴い、両陛下が主催されて
11月1日に催される予定だった秋の園遊会も取りやめる。

 皇太子ご一家、秋篠宮ご一家、常陸宮ご夫妻も
7日間の喪に服される。三笠宮妃百合子さまは
90日間、寛仁親王妃信子さま、三笠宮家の彬子さま、瑶子さま、
高円宮ご一家は30日間それぞれ服喪される。
 前日には百合子さまとお話しに
【三笠宮さま薨去】「痛惜の思い、禁じえない」 寺田逸郎最高裁長官が謹話
【三笠宮さま薨去】激動の時代を生き抜かれ 歴史ご探求「学者肌」の一面も

【産経新聞号外】三笠宮さま薨去[PDF]
 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる
三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、
心不全のため、東京都中央区の
聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。
100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。
戦時中は陸軍の軍人、
戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。
本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は
約1週間後に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で
執り行われるとみられる。薨去により、
皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。

 宮内庁は27日午前10時半すぎから、
加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、
三笠宮さまの薨去を発表した。
 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、
ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。

 昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、
幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。
学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、
陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、
先の大戦中の昭和18年、
お印の「若杉」から「若杉参謀」と名乗り、
支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。
19年には大本営参謀となり、
終戦時は陸軍少佐であられた。

 16年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、
百合子さまと結婚し、寛仁親王殿下、桂宮宜仁親王殿下、
高円宮憲仁親王殿下、●(=ウかんむりの下に心、
その下に用)子(やすこ)さん(近衛忠●(=火へんに軍)夫人)、
容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、
平成14年に高円宮さま、24年に寛仁さま、
26年に桂宮さまを相次いで亡くされた。

戦後は東京大学文学部の研究生となり、
歴史学者の道を歩まれた。
メソポタミア地方(イラク)の学術探検、
トルコの古代遺跡視察のほか、友好親善や葬儀参列のため、
北欧や東南アジアなども訪問し、
戦後の皇室による国際親善に大きな足跡を残された。
 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、
20年6月に急性心不全との診断を受けてご入院。
21年と23年にも軽い心不全で入院された。
寛仁さまが薨去された直後の24年7月には、
心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために
血液が逆流する鬱血性心不全と診断されて
96歳で手術を受けられた。
 手術後は公の場に出る機会が減ったが、
27年12月2日に100歳となり、28年1月2日には、
皇居で行われた新年一般参賀で元気な姿を見せられた。
しかし、5月16日に急性肺炎で同病院に入院後、
心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。
 最近は容体が安定していたが、
27日午前7時40分ごろに容体が急変して
同8時ごろに心停止となり、
百合子さまが付き添われる中で息を引き取られたという。

【三笠宮さま薨去】民進・山井和則国対委員長

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