慰安婦問題について、いろんな報道: 【北見市、平手嘉一(ひらて・かいち)とスタルヒン】スタルヒン長女、ナターシャ・スタルヒンさんが始球式 生誕100年で記念試合。朝日新聞2015年7月15日の記事、(戦後70年 途絶えた球音)エース、 戦犯で絞首台 高校野球100年。美幌音楽人、加藤雅夫氏ブログ。北海道函館俘虜収容所長,、江本 茂夫中佐は無罪放免。日本軍 捕虜収容所・快適な場所だった・十分な食事 ・温泉・イギリス軍 元兵士の証言。

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2018年4月2日月曜日

【北見市、平手嘉一(ひらて・かいち)とスタルヒン】スタルヒン長女、ナターシャ・スタルヒンさんが始球式 生誕100年で記念試合。朝日新聞2015年7月15日の記事、(戦後70年 途絶えた球音)エース、 戦犯で絞首台 高校野球100年。美幌音楽人、加藤雅夫氏ブログ。北海道函館俘虜収容所長,、江本 茂夫中佐は無罪放免。日本軍 捕虜収容所・快適な場所だった・十分な食事 ・温泉・イギリス軍 元兵士の証言。

41年11月ごろ、陸軍少尉に任官した平手嘉一。
処刑された後、その生涯を後世に伝えたいと、
少年時代の野球仲間だった田村重見が
日記や裁判記録などを集めた中の一枚。

北見市の野付牛中(現・北見北斗高校)で
野球部のエースだった平手嘉一(ひらて・かいち)。
甲子園をめざし、スタルヒンと投げ合ったこともある。
室蘭に連合国の捕虜収容所があったことは、 
いまではあまり知られていない。 
そこで所長の任にあたっていた平手は
戦後、 捕虜に対する虐待を理由に
B級戦犯として死刑判決を受ける。 
裁判は不当であると、同級生たちが
助命嘆願を集めるも思い届かず、 
平手は1946年8月23日 
絞首刑により人生に幕を下ろした。享年28歳
「かつての巨人軍の300勝投手、スタルヒン(=写真)は
(ロシア語: Виктор Старухин、
1916年5月1日 - 1957年1月12日)は、ロシア帝国生まれ、
北海道育ちのプロ野球選手(投手)。白系ロシア人
旧制旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)に入学し、
剛速球投手として鳴らした。
ただ、全国中等学校優勝野球大会の北海道大会では2年連続
(1933年、1934年)で決勝に進むも、
味方のエラー等により惜敗しており、
夏の甲子園にはあと一歩届かなかった。

旧制中学1年時に、父親が自ら経営していた
喫茶店「バイカル」の従業員に対する殺人事件を起こし、
懲役8年の有罪判決で服役中に獄死した。
「殺人者の息子」となってしまったスタルヒンではあったものの、
既に旭川中学校の投手として有名だったスタルヒン本人には
同情が集まった[1]
しかしながら、この事件の為に経済的に追い込まれ、
旧制中学の授業料や生活費すら同級生らによる
カンパに頼るほど生活に困窮するようになっており[2]
また日本国籍を取得できない遠因の一つになっていた。
当初は早稲田大学に進学することを希望していたものの、
この事件の影響で経済的に困窮したこともあり、
事実上大学進学はかなり難しい状況になっていた。
謎の死 1957年1月12日22時40分頃、都内で行われた
中学校の同窓会に出席するため、自宅のある港区南青山から
自動車を運転し、世田谷区三宿にある国道246号を走っていた。
しかし、当時敷設されていた東急玉川線三宿駅付近で、
前の車を追い越そうとして二子玉川園行き電車と衝突、即死した。
友人の証言によれば、スタルヒンは同窓会の会場と
逆方向へ車を走らせている上、乗っていた同窓生を車から降ろし、
電車で行くように指示しているなどしており、
いささか不可解な死として伝わる。
亡命から最期まで無国籍だった。享年41歳

=旭川市・旭川スタルヒン球場(撮影・高橋茂夫)
スタルヒン像(旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場)

スタルヒン長女が始球式 生誕100年で記念試合
2016.6.7 19:41 産経フォトニュース
日本プロ野球初の300勝を達成した
ビクトル・スタルヒン投手の生誕100年を記念して、
7日、北海道旭川市のスタルヒン球場で開催された
プロ野球日本ハム-広島の始球式に、
スタルヒンの長女ナターシャさん(64)が登場した。

 スタルヒンは1925年、ロシア革命から逃れ
9歳で日本へ亡命し、旭川市に移住。
191センチの長身で剛速球を投げ、
戦前に巨人の黄金時代を支えたほか、
戦後も各球団で活躍した。
 ナターシャさんの投球はワンバウンドとなり「緊張した。
もっと格好よく投げたかった」と悔しがったが、
「亡命して祖国のない父にとって
旭川が唯一の故郷で心のよりどころ。
こうして記念事業をしてもらい、
父が一番喜んでいると思う」とうれしそうに話した。
旭川市民ニュース(2016年6月18日放送分)
旭川市役所 2016/06/19 に公開

(2016/06/07)北海道新聞


野球がパスポートだった。 (スタルヒン・郭源治)

心の中の国境~無国籍投手スタルヒンの栄光と挫折~
HTBテレビ 2012年8月3日 18:53
北見市の野付牛中(現・北見北斗高校)で
野球部のエースだった平手嘉一(ひらて・かいち)。 
甲子園をめざし、スタルヒンと投げ合ったこともある。 
室蘭に連合国の捕虜収容所があったことは、 
いまではあまり知られていない。 
そこで所長の任にあたっていた平手は
戦後、 捕虜に対する虐待を理由に
B級戦犯として死刑判決を受ける。 
裁判は不当であると、同級生たちが
助命嘆願を集めるも思い届かず、 
平手は1946年8月23日 絞首刑により人生に幕を下ろした。
 残された後輩たちは、 平和への祈りを込め、
追悼の碑を建てた。 平手の死は何だったのか。
戦後70年、改めてその意味を問う。 
※権利の関係上、一部映像のない箇所がございます
(2015.8.14イチオシ!で放送)

朝日新聞2015年7月15日の記事、
(戦後70年 途絶えた球音)エース、
 戦犯で絞首台 高校野球100年。
(平井良和) 2015年7月21日17時16分
戦争で途絶えた夏の大会が復活し、
全国大会の開会式が開かれた1946年8月15日。
かつてそこを目指した元球児は、獄中で日記に
「既に生の圏外にあるが如(ごと)き今の我」と記した。
野付牛(のつけうし)中(北海道、現・北見北斗

のエースだった平手嘉一(ひらてかいち)。
元陸軍大尉でB級戦犯として、
捕虜虐待などの罪で絞首刑を宣告されていた。
 平手は33年、北海道大会東部予選を勝ち抜いた。

甲子園へ続く道大会初戦の相手、
旭川中(現・旭川東)のエースはビクトルスタルヒン
平手は被安打6と健闘したが
味方はノーヒットノーランで敗れた。
 進学した大阪外国語学校(現・大阪大)でも、野球を続けた。
陸軍予備士官学校に入った40年、友への手紙に
「(野球を)二、三回やった。
白いユニホームにスパイクの感触、
若い溢(あふ)れる様なファイトが恋しい」
と記している。
 地元の第7師団に所属したが、肺を患って療養。
師団の部隊は43年5月29日にアッツ島で全滅したが、
平手はそこにはいなかった。
病歴の影響か、 前年の11月に
函館第一俘虜(ふりょ)収容所
室蘭分所の所長の任を受けていた。
平手は訪れた友に
「言うことを聞いてくれない部下がいる」と漏らした。

 戦後、平手が問われたのは

「多数の捕虜を殴打した」など33の罪。
所内で窃盗を犯し営倉の懲罰中に体調を崩し、
病院で死亡した英国人捕虜の事件が焦点だった。
46年1月14日、横浜軍事法廷で 裁判が始まり、
米軍の検察官は
「平手が故意に虐待し、殴打し、
飢えさせて死なせた」と主張。
米国人弁護士は
「搬送の遅れは落ち度だが、虐待はない」
と訴え たが、
11日後、判決は絞首刑とされた。
米軍の任務で平手の通訳をした
日系2世の通訳官は後に
「戦犯裁判は公正であり得るのか」
と書いている。

 北見北斗野球部OBの

渡辺和勇(かずお)(82)は
旧制中学1年の同年1月末、
全校生徒が集まった体育館で
「平手先輩を救おう」と
呼びかけられたのを覚えている。
米公文書館に残された裁判記録には、
7千人以上の助命嘆願の署名記録や
手紙が付されている。

 平手は獄中から恋人に婚約破棄を申し出た。
死への心の準備を進め、
仏教を学ぶ平手が心を躍らせたのは、
新聞記事で見つけた、
兄の邦夫が率いる野球少年の試合だった。
 8月22日、邦夫に宛て
「一勝は/たしかめたれど/その後を
/知る由もなし/兄の野球を」と記した。 

 翌23日、平手は処刑された。

絞首台へと向かう前、故郷の方角へ一礼した。
再開された全国大会の決勝の2日後。
28歳だった。

 今、北海道北見市高台寺には

高さ1・9メートルの慰霊碑が立つ。
彼の死の意味を問い続けた
同級生らが97年に建てた。
5年前に亡くなった邦夫は、
体が続く限り命日に碑を訪れたが、
長男の正機(72)に弟のことを話しはしなかった。
=敬称略  (平井良和)

 ◆キーワード
 <BC級戦犯> 第2次大戦後、

連合国によって捕虜虐待など
人道に対する罪」や
「通例の戦争犯罪」に問われた元軍人ら。
約5700人が起訴され、
後に減刑されたケースも含めて
約1千人が死刑判決を受けたとされる。
日本の軍人・軍属らは、
横浜やマニラなど各地の軍事法廷で
米国軍人の検察官や裁判官らによって裁かれた。 

第7師団(だいしちしだん)は
大日本帝国陸軍の師団の一つ。 
北海道に置かれた常備師団として
北辺の守りを担う重要師団であり、
道民は畏敬の念を多分に含め、
「北鎮部隊」と呼んでいた。


「俘虜収容所」だった建物。 2015年12月07日
函館湾に臨む函館市船見町のカフェ
ティーショップ夕日」は明治期の建物を活用し、
ノスタルジックな雰囲気を色濃く残す。
外国人墓地にほど近いこの地にはかつて
「俘虜(ふりょ)収容所」が置かれ、
この建物が使われていた。

 収容所は戦時中、国内では
函館など7カ所を拠点として配置。
函館には1942年、函館検疫所構内に開設され、
その建物が転用された。
函館市史などによると、炭鉱などに
収容所の分所が置かれた。
収容されたアメリカ兵やイギリス兵らは
造船や港湾荷役などの労働を課され、
終戦時には約1600人に上ったとされる。

 2006年、かつて収容された
元イギリス兵が函館で講演した。
「函館空襲を記録する会」の講演記録によると、
日本の軍歌を歌うことを強制され、
満足な衣服や食事を与えられずに
造船所で重労働をさせられたと語ったという。

 同市昭和の永全寺にも収容所の建物が残る。
先代住職の故・斉藤大全(たいぜん)氏が
1969年に移築したという。
現在は建物内部が墓地となり、平和を祈る慰霊碑もある。
息子で現住職の斉藤隆明(りゅうみょう)さん(46)は
「戦争ではお互いが加害者であり被害者だ」。
二つの建物は戦争の悲惨さを今も静かに伝えている。
(磯崎こず恵)
この他に、昭和17年12月、
函館市台町27番地の函館検疫所構内に
函館俘虜収容所が開設され、アメリカ人・イギリス人
・オランダ人・オーストラリア人などの
白人俘虜約800名が収容されていた。
収容所は昭和19年4月現在では、
本所(函館市)のほかに第1分所(室蘭市)と
第1派遣所(上磯町)があった。
20年3月に第2派遣所(函館市)が開設されたが、
6月に第1・第2派遣所はいずれも閉鎖され、
本所は美唄町の三井美唄炭鉱に、
第1分所は芦別町の三井芦別炭鉱にそれぞれ移転し、
新たに設置された第2分所は赤平町の
住友鉱業赤平鉱業所に置かれた。
以後も第3分所が歌志内町の北炭空知鉱業所に、
士官を収容する第4分所が芦別町に設置された。
このように俘虜収容所全体が
内陸の石狩炭田地域に移転したが、
函館俘虜収容所という名称は変わらず、
収容所の指揮系統も函館市に残されていた。
収容された俘虜の数は、昭和18年度末が1360名、
19年度末が912名、20年の敗戦時は1591名であった
(『函館市史』通説編第3巻)。
日本軍 捕虜収容所・快適な場所だった・十分な食事
・温泉・イギリス軍 元兵士の証言・第2次世界大戦
2017/10/26  Hello Hello

江本 茂夫 (えもと しげお、1889年12月25日 - 1966年没)は、
大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐
昭和19年3月 北海道函館俘虜収容所長
英国人らの俘虜に得意の英語で接し、俘虜から慕われる。
江本は元々日本軍の俘虜の待遇について不満を持っており、
収容所長には志願したとされる。
着任すると早速彼は、看守のみならず俘虜を使役する
工場の従業員に至るまでに、体罰の禁止を申し渡した。
また俘虜への給与も改善し、持ち前の英語力で彼等と
積極的にコミュニケーションをとった。
横浜専門学校時代、日本一の英語教師といわれた人だけに、
英国人俘虜の中には、かれのことを
「オックスフォードのプロフェッサー」と呼ぶ人もいた。
しかし、江本の俘虜に対する配慮は陸軍から
よく思われていなかったらしく、1945年4月に
江本は北海道の炭鉱で
朝鮮人労働者を監督する地位に落されてしまう。
しかししかし、1945年8月15日、日本は敗戦し
世の中がひっくり返る。英国人俘虜だった者
(もはや戦勝国の軍人である)の暴動が起きる。
この暴動を止められるのはもはや、江本中佐しかいなかった。
当局は函館に江本中佐を呼び戻した。
江本中佐はビールを調達し函館収容所に向かった。
「Bottoms up!乾杯! 君たちの勝ちだったな」と江本は言った。
何よりも外国語の実力と国際感覚、
それに3ケ月前までの人道的扱いは元俘虜たちの身にしみていた。
江本中佐のお陰で暴動は沈静化した。
当時の英国人俘虜は皆深く日本を恨んでいる。
しかし江本のことを悪く言う人は一人もいないという。

語学将校 陸軍中佐 江本茂夫 : 軍人として教師として

恩師・江本茂夫傳: かかる師ありき
吉村和嘉, 2008 - 1770 ページ

2013年函米捕虜館訪問の詳細記録は、
浅利政俊先生のご要望で伊吹がまとめたものです。
外務省による第4回米捕虜と
日本人の友好プログラムの一部ですので、
旅の全体の報告と合わせてご覧下さい
:「捕虜日米の対話」に掲載 伊吹由歌子 報告
ヒーア夫妻の函館訪問:2013年10月17,18日
「エモトは僕たちの収容所へも来て
スピーチしたのでよく覚えている。
彼はこう言った:日米関係は重要だ。
戦争が終わったら君たちと友人になりたい。
どうか日本を憎まないでもらいたい、と。
彼が『戦争が終わったら』と彼の言った言葉は希望を与え、
僕は嬉しかった。」

日本の捕虜収容所 素晴らしい待遇だった
 アメリカ軍兵士の証言 第2次世界大戦
2016/10/15 に公開

自分の国は自分で守らないと多くの人が犠牲になる

[PDF]旧軍における捕虜の取扱い - 防衛省防衛研究所
[PDF]諏訪収容所 - US-Japan Dialogue on POWs諏訪収容所(東京第6分所)
メモ (マージン・マックグルーさんの亡夫、
アルフレッド・マックグルー氏が収容)
1945.6.4、東京捕虜収容所第6分所として、
長野県諏訪 郡北山村 6037(現・茅野市北山)に開設。
捕虜 250人が入所。
(本所、第 5 派遣所、第24 派遣所などから) 
1945.8.15 終戦 1945.9.6 帰国の途に着く 
●終戦時収容人員 243
(蘭 91、米 57、英 55、加 34、豪 4、
中国 1、チェコスロバキア 1)
●捕虜たちは日本鋼管諏訪鉄山鉱業所に使役された。
鉱山は収容所の入口から 1.2 キロほど離れた丘の急斜面にあった。
鉄を産する露天掘りの鉱山で、捕虜たちはツルハシや
スコップで鉄鉱石を採掘したり、鉱石とコークスを混ぜて
溶鉱炉で溶かす作業をした。
労働時間は午前7時~午後4時で、
そう過重な労働ではなかったという。
●所長:①林純勝中尉 ②川辺長康中尉
初代所長の林中尉は長野善光寺の僧侶だったが、
大森収容所勤務や横浜収容所所長などを歴任。
温厚な人柄で捕虜たちに慕われ、米軍捕虜から贈られた
ペナントが善光寺裏山の万国慰霊堂に祀られている。
●食料が乏しく、捕虜たちは周辺の畑から作物を盗んだり、
野草を食べて飢えをしのいだ。
●収容中の死者 4 人。うちイギリス人とカナダ人は
品川 捕虜病院入院中に死亡。
オランダ人2人のうち 1 人は毒草を食べて死亡した。
●1945 年 9 月 6 日の午後3時過ぎ、
中央線笹子駅で列 車が転覆し、
死傷者 130 名を出す大惨事となった。
その直後、収容所を引き揚げ、茅野駅から
東京に向かう米軍捕虜 80名を乗せた列車が笹子駅に到着した。
捕虜たちはすぐに列車を降りて、持ち合わせた医薬品で
負傷者の手当をしたり、食料や衣類、毛布などを与えたりした。
このエピソードが翌日の朝日新聞に載り、
横浜にいる捕虜たちに小日山運輸相からお礼の印として
甲州名物の葡萄が贈られたという。
●1995 年 6 月、この収容所にいた
アルフレッド・マックグルー氏が妻のマージンさんと
娘のビッキーさ んと共に諏訪を再訪し、
当時を知る住民たちと交流した。 (文責:笹本妙子)

単行本 – 2009/8 伊藤岩廣 (著) 長野日報社


広島原爆で被爆したアメリカ人
(ひろしまげんばくでひばくしたアメリカじん)は、
1945年8月6日広島市への原子爆弾投下で被爆したアメリカ人。
アメリカ政府は直接被爆したアメリカ人捕虜が10人いたと認定、
日本の民間団体・歴史研究家の調査では12人いたとしている。
朝日新聞社系のみ2014年現在直接被爆者を13人としている[1]
内訳は不明。その他にもアメリカ政府は認定していないが、
入市被爆したアメリカ人捕虜が10人、日系アメリカ人および
日本国籍を取得したアメリカ系日本人にも被爆者はいる。

アメリカ・イギリス
原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から
「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたが
これを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報
(45年7月30日付)によると同司令部は長崎には
アメリカ人捕虜収容所があることを確認、
ワシントンに打電されたが、投下は強行された。
結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、
約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。

2014/08/27掲載(北見市/社会・歴史)
戦犯として処刑…故・平手 嘉一氏を追悼
命日の23日、北見の高台寺で遺族らが  
戦後、GHQ(連合軍司令部)からB級戦犯とされ、
昭和21年8月23日に処刑された
北見市出身の平手嘉一氏=当時28歳=。
その追悼碑が北見市大町の高台寺境内にたたずんでいる。
68回目の命日を迎えた23日、
遺族らが追悼碑前に集い、静かに手を合わせた。

 平手氏は後志管内黒松内町生まれ。
その後北見に移転し、
野付牛中学校(現・北見北斗高校)に入学。
野球部で投手、4番打者を務め、後にプロ野球で活躍した
旧制旭川中学校(現・旭川東高校)時代の
スタルヒン投手と投げ合ったこともある。

 戦時中は捕虜収容所の所長を務めたが、
戦後の裁判で捕虜虐待の罪により処刑の判決を受けた。
同期生らは裁判の不当性と無罪を主張して
署名活動を行ったが、その思いは実らなかった。
 追悼碑は平成9年、野付牛中の同期生らが
鎮魂の祈りと平和への願いを込めて建立。
碑には平手氏が詠んだ辞世の句
「ますらをの道にしあれば
ひたすらにつとめはたして今日ぞ散りゆく」
が刻まれている。
 この日は千葉県在住の甥など数人が参列し、

祈りをささげた。(柏) 高台寺 平手氏

ある日系二世が見たBC級戦犯の裁判 Amazon
単行本 – 1991/10/1 ウイリアム・M. 大須賀 (著),‎ 
大須賀 照子 (翻訳),‎ 逸見 博昌 (翻訳)


…具体的には、四十数年前に
私が直接かかわりをもった
元日本帝国陸軍大尉平手嘉一と、
元日本帝国陸軍大尉坂本勇七
二つの戦犯裁判について語ってみたいと思う。
両人とも日本国内にあった俘虜収容所長であった。
 平手大尉が所長をしていた収容所では、

五百人の俘虜が収容され、五十三人の死者を出し、
一方、坂本大尉が所長をしていた収容所では、
九百人の収容者のうち百三十三人の死者を出している。
 坂本大尉に関する資料は少なく、

裁判の内容もこれだけであれば
とくに取り上げて書くほどのものではないのであるが、
人間の性格の面でも、
また軍人として の生い立ちの面でも
きわめて対照的な二人の俘虜収容所長の裁判を
比較してみていただくために、
あえて両者の裁判の様子を語ることにした。
 そして、「戦争」という人間にとって

きわめて異常な状況のなかで、
しかも敵方の兵士を収容する
「俘虜収容所」という特殊な場所で、
いったい人間同士のあいだで
どういうことが起こったのか、
あるいは起こったとされているのか、
そして、その責任を負わされた
二人の俘虜収容所長が
それぞれどういう裁きを受けることになったのか、
その事実を知っていただきたいと考えている。
 そのうえで、

このような戦勝国による戦犯裁判が
そもそも公正なものでありうるのか、
あるいは公正なものであったのか、
また、その裁判の結果が
適切なものであったといえるのか、
さらには、そもそも戦争とは
どういうものかについて、読者の皆様にも
考えていただければ幸いである。
 横浜軍事法廷でおこなわれた

BC級戦犯裁判の多くは、
俘虜収容所で起きた虐待行為の責任を問われたものである。
日本にあったどの俘虜収容所でも、
連合国 軍俘虜たちはほぼ同様の虐待行為を受けたが、
なかには、逃亡を試みた俘虜や、
撃墜された飛行機の搭乗員に対する死刑執行、
銃剣による刺殺、生体解剖、医学 研究のための
人体実験といった例外的な事件もあった。
 平手、坂本両大尉の収容所では
このような異常な事件は起こらなかったため、
その点では刺激的な要素に欠けるかもしれない。
しかし、それは、大部分の収容所で
共通に起こったこと
(たとえば、俘虜を殴ること、
病気やけがをした俘虜を虐待すること、
医薬品や食糧、医療品を与えなかったこと、
俘虜に分配されるべ き赤十字社
その他からの供給品を日本兵が
懐に入れてしまったことなど)を
示しているという点では、
かえって重要な意味をもっているのである。
 二人の裁判は、それぞれ六人の

アメリカ陸軍の幹部将校によって構成された
軍事委員会のもとでおこなわれた。
約二週間にわたる裁判のあいだ、
私は弁護人、被告人とともに
裁判のなりゆきを逐一見守っていたのであるが、
時がたち、裁判の詳細についての
記憶はだいぶ薄れている。
そこで、アメリカのメリーランド州
スーツランドにある
ナショナル・レコード・センターに所蔵されている
記録を求めることとし、約二千頁に相当する
マイクロフィルム化された平手元大尉に関する資料と、
約九百頁に相当する坂本元大尉に関する資料を入手した。
入手した資料の内容は次のとおりである。
 (1)罪状項目

 (2)検察官側と弁護人側の証拠物件
 (3)法務官検審書
 (4)裁判に関する法規
 (5)平手元大尉助命の嘆願書九十一通
 裁判から四十数年も経過したいま、

これらの資料をもふまえ、当時を回顧しつつ、
戦犯裁判の様子を語ってみたいと思う。
 一九九一年、今年は太平洋戦争がはじまって
ちょうど五十年目に当たる。
そして、半世紀にわたる時の流れのなかで、
この戦争について、また、その後おこなわれた
戦争犯罪人を裁いた軍事裁判について、
確たる知識をもつ人は
きわめて少なくなっているのではなかろうか。
 こうしたなか、本年一月、湾岸戦争がはじまった。
日本をはじめ世界中の人びとが、
テレビなどを通じ、生々しい「戦争」
(それは、太平洋戦争当時のものとは
まったく異なる様相で展開された)
の姿を身近に見せつけられた。
また、多国籍軍およびイラク軍双方の
「俘虜」の姿を見、
イラク軍兵士によるクウェート国民などに
対するさまざまな「残虐行為」が報じられるのを聴いた。
 また、この戦争のさなかに、
アメリカ政府筋から戦争終了後、
イラクのサダム・フセイン大統領を
「戦争犯罪人」として「国際裁判」に
かけるべきだという主張がなされ、
さらに、戦争が終わって俘虜の交換が
おこなわれたのち、多国籍軍の兵士が
イラク軍兵士によって虐待を受けたとし、
虐待したイラク兵を「戦争犯罪人」として
裁く必要があるとの主張がなされた。
 全世界の人びとの願いもむなしく、

ふたたび大きな戦争がはじまり、
そして終結したが、まさにこの時期に、
私が長いあいだ抱きつづけてきた
テーマ(戦争、戦争犯罪、軍事裁判など)について
私の体験をまとめたものが出版されることの
不思議なめぐりあわせに、
何ともいえぬ感慨をおぼえている。
 この本が、戦争のない世界を願い求める

日本の人びとに読まれ、あらためて
「戦争」について考えていただくことになれば幸いである。 

http://www.city.kitami.lg.jp/
市史編さんニュース ヌプンケシ目次 | 北見市
109号 B級戦犯 平手嘉一大尉(1)  
110号 B級戦犯 平手嘉一大尉(2)
111号 B級戦犯 平手嘉一大尉(3)  
112号 B級戦犯 平手嘉一大尉(4)
113号 B級戦犯 平手嘉一大尉(5)  
114号 B級戦犯 平手嘉一大尉(6)
115号 B級戦犯 平手嘉一大尉(7)  
116号 B級戦犯 平手嘉一大尉(8)
117号 B級戦犯 平手嘉一大尉(9)  
118号 B級戦犯 平手嘉一大尉(10)

日米開戦のウラ kankyomondai 2010/03/20
アメリカABC、20/20バーバラ・ウォルターズ女史の
「ルーズベルトの秘密計画」という番組だ。

ビデオの後、バーバラは「アメイジング」と発する。驚いたわ。
話は、1941年12月の真珠湾に先んじる半年前の6月、
中国大陸から日本を空襲するという先制攻撃計画である。
アメリカは、中国からの補給路としてのビルマルートの確保と、
中国の制空権確保のために、「フライングタイガー」という
義勇軍を組織し、その夏、アメリカの作戦として、
5千万ドルを使い、パイロットを募集した。
第二陣は、戦闘部隊、第三陣は爆撃部隊として、
真珠湾に先んじて、日本を空襲するという秘密計画である。

もちろん時の大統領、孤立するイギリスに乞われて、
第二次大戦への参戦の機会を狙っていたルーズベルト以下、
米政府の計画である。
フライングタイガーのリーダーは、
クレアーシュノートという人で、
彼は、紙と木でできた日本家屋は、焼夷弾の投下で、
ことごとく消滅すると意気込んでいた。

当時、89歳で南米に健在だったルーズベルトの
補佐官などを務めたオカリーン・カリーンという人が、
シュノールトの計画を支持していたと証言する。
JB355」という計画案である。

そこには、中国各地域からの長崎、大阪、東京への距離が書かれ、
爆撃にはロッキード社のハドソン機を使うことになっていた。
1941年7月23日に、ルーズベルト大統領以下の
承認のサインがなされている。
66機の爆撃機を送るが、すぐにそのうちの
24機を送るとされていた。

エール大学のスミス教授は、この計画について、
大統領以下、海軍長官、陸軍長官、海軍情報部の
ターナー提督も関わっていると、その重要性を認める。
しかし、もし実行されても、ハドソン機が、
日本の優秀なゼロ戦に立ち向かえたかは疑問だとする。

記者の「ルーズベルトは、日本を挑発していたのか?」
という問いに、「確信を持って明確にそうだ」と答える。

エドレスターという人は言う。
「友人のブリットから聞いた話だが、ルーズベルトと会い、
インドシナに行くというと、ルーズベルト大統領は
どういうルートで行くのかと、聞いた。
パンナムで太平洋を越えるつもりだと言うと、
ルーズベルトは『私なら中東廻りで行く。
太平洋は戦争でだめだ』と言った」のだという。

日本軍の南部仏印進駐に対して、
ルーズベルトは石油輸出禁止で対抗して日本を追い込んだが、
「JB355」計画へのサインは、その二日前のことだった。

バーバラ女史「日本は、その先制攻撃を押し止めて、
真珠湾を攻撃したのか」
男性記者は「米国の先制攻撃案は日本も知っていただろう。
偵察飛行でアメリカのパイロットが、
中国機に扮して乗っていることは、ラジオでも放送されていた。
空爆計画を日本が知っていたことは、間違いない」と答えた。

(角川ソフィア文庫) 文庫 – 2016/7/23
チャールズ・A・リンドバーグ (著), 新庄 哲夫 (翻訳)
 (学研M文庫) 文庫 – 2002/2
チャールズ リンドバーグ (著), Charles A. Lindbergh (原著), 
新庄 哲夫 (翻訳)
リンドバーグの衝撃証言・戦争犯罪 
大東亜戦争(太平洋戦争)の真実
真紫真 2014/12/26 に公開

(目次)
大戦前夜――米本国で(承前)
第四章 ファシスト呼ばわりされて―― 一九四一年
逆風にもめげず/進む参戦づくり/真珠湾火だるま
/戦時下――米本国で
第五章 現役復帰、かなわず―― 一九四二年
大統領のしっぺ返し/ゼロ戦は勇敢で優秀だ
/B24は欠陥爆撃機だ/バターン惨敗の真実/
愛犬ソニーの死/生還率の高いB17/フォード帝国ゆらぐ
戦時下――米本国で
第六章 戦場も根回しだ―― 一九四三年
最前線―南太平洋で
第七章 日本軍と対峙した日々― 一九四四年
ラバウル爆撃行/捕虜をとるな/空中戦の一騎討ち
/残虐行為の悪循環
終戦時――ヨーロッパで
第八章 廃墟の中に立つ―― 一九四五年
殺人と凌辱と略奪/科学者を取り込め/生と死の尊厳
主要登場人物
リンドバーグ略年譜
訳者あとがき
2006年 08月 30日
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
1944年、陸軍航空隊の一パイロットとして、
南太平洋の史上最悪の戦場に派遣されたリンドバーグは、
軍人としての本分を尽すべくラバウルでの空爆、
零戦との一騎打ちなど、日本軍との壮絶な戦闘を繰り広げる。
また、アメリカ兵による日本軍捕虜への残虐な行為などを、
日記の中で率直に記録した。
これは、戦争の残虐性に対する国際的な批判が高い昨今、
必ず引き合いに出される衝撃的な証言である。

平成24年3月10日更新
「戦時中、日本兵は、アメリカ兵捕虜を虐待した」
などと叫んでいる者があきれたことに日本でも後を絶たないが、
実態は完全に逆である。
確かに日本兵の一部には捕虜に対して残忍な行いをした者が
ゼロだったとはいえないかもしれないが、
ほとんどは国際協約に則って、自分たちの分を減らして
乏しい食料を配給し、アメリカ兵捕虜に分け与えていたのだ。

チャールズ・リンドバーグは、1927(昭和2)年に、
大西洋横断の単独無着陸飛行に史上初めて成功した人である。
彼は第二次世界大戦中、空軍の顧問として太平洋各地を回ったが、
そのときの日記の中に再三にわたって書かれているのは
「アメリカ軍は日本兵を捕虜にしない」
ということへの嘆きである。
この日記にはアメリカ軍の
日本兵捕虜に対する目を覆わんばかりの
残虐行為が赤裸々に描かれている。
「わが軍の兵士たちは日本兵の捕虜や
投降しようとしているものを
射殺することを何とも思っていない。
彼らは日本人を動物以下のものとして取り扱い、
それらの行為がほとんどみんなから大目に見られている」
ニューギニアでは2000人ほどの日本兵捕虜に
機関銃が乱射された。
「ジャップの病院を占領したときには、
病院に生存者を一人も残さなかった」。
捕虜として投降してきた者は即座に射殺、
そのため日本人同胞は投降もままならず、
ジャングルの中で飢えに苦しみぬいて死んでいった。
日本人の死体は切り刻まれた。
金歯を抜き取る者、面白半分に耳や鼻を切り取り、
乾燥させて本国に持ち帰る者、大たい骨を持ち帰り、
それでペンホルダーやペーパーナイフを作る者さえいた。
リンドバーグは「わが国民が拷問で敵を殺し、
その遺体を爆弾穴に投げ込んで、その上に
生ゴミを投げ捨てるほどに堕落しているとは、
吐き気をもよおす」と同胞達の日本兵に対する虐待を嘆いている。

「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、
われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。
・・・地球上の片側で行われた蛮行はその反対側で行われていても、
蛮行であることには変わりがない。
『汝ら人を裁くな。裁かれざらん偽りなり』。
この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない。
あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ」

連合軍による戦争犯罪 (第二次世界大戦)
太平洋とアジアの戦場における連合軍将兵は、降伏しようとした、
もしくは降伏した日本軍将兵を殺害することがあった[37]
第二次世界大戦時に日本軍が捕虜に対して行ったこと
日本兵捕虜に対して行われたこと 世界から愛される日本へ
2017/03/02 に公開
連合軍による日本兵捕虜虐待と日本人女性強姦─日本の南洋戦略1
810cojp2013/11/25 に公開
日本の南洋戦略  http://amzn.to/13gsBiJ 
南太平洋で始まった新たなる〈戦争〉の行方 
丸谷元人著 ハート出版

特集 第1次大戦100年と日本
バルトの楽園
(バルトのがくえん、独題:Ode an die Freude)は、
2006年公開の日本映画。タイトルの「バルト」とは
ドイツ語で「ひげ」の意味。
主人公の松江豊寿やドイツ人捕虜が
生やしていたひげをイメージしている。
第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の
板東俘虜収容所が舞台で収容所所長・松江豊寿の活躍や、
捕虜となったドイツ兵と地元の住民の交流などを
史実に基づいて描いた作品。
松江は俘虜に対し人道的な扱いを心がけ、
捕虜による楽団が
交響曲第9番歓喜の歌』を日本で初めて演奏した。

二つの山河 (文春文庫) 文庫 – 1997/9/1
中村 彰彦 (著) Amazon
かれらも祖国のために戦ったのだから―。
大正初め、第一次大戦でドイツに宣戦布告した日本は、
中国大陸で多数のドイツ人を俘虜とし、日本に送った。
多くの収容所は過密で環境は劣悪だった。
そんな中、徳島の板東収容所では例のない寛容な処遇がなされた。
ドイツ人俘虜によるオーケストラを結成。
日本人将兵・市民とドイツ人俘虜との交歓を実現した。
板東収容所の所長、真のサムライと讃えられた
会津人・松江豊寿。なぜ彼は陸軍の上層部に逆らっても
信念を貫いたのか。
そこには、国のために戦ったにもかかわらず
明治にあって辛苦をなめた会津出身者としての思いがあった。
国境を越える友愛を描いた直木賞受賞作。。

〔写真1〕は1916年4月始めに撮影された、
香川県の丸亀収容所での収容所所員と捕虜将校との記念写真である。
収容所長石井彌四郎大佐退任記念写真と思われる。
前列中央の石井所長は病気がちであったこともあって、
どことなく縮こまっているのに対して、
両脇にいるドイツ人将校の方は脚を組んで堂々としている。
とても捕虜のようには感じられない。
収容所での捕虜取り扱いの一面を示しているといえよう。
日独戦ドイツ兵捕虜(にちどくせんドイツへいほりょ)とは、
第一次世界大戦中の日独戦争で、中国青島(チンタオ)および
南洋群島等で捕虜になり、日本に収容された約4700名の
ドイツ軍およびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵および民間人。
著名な捕虜
カール・ユーハイム - ユーハイム創業者
アウグスト・ローマイヤー - ローマイヤ創業者
ハインリヒ・フロインドリーブ
(ドイツ語の正しい発音はフロイントリープ)
 - フロインドリーブ創業者
フリードリヒ・ハック
カール・ヤーン - ソーセージの製法を伝えた。
ヘルマン・ウォルシュケ - ホットドッグ
日本で初めて売ったとされる。
ハインリッヒ・ハム - ワイン醸造技師。
戦争前にワイン醸造の指導のため日本に招かれていた経歴を持つ。
ヨハンネス・ユーバーシャール - 日本研究者
カール・フォン・ヴェークマン - 日本研究者
アルフレート・マイヤー=ヴァルデック - 膠州湾租借地総督
ヘルマン・ボーナードイツ語版) - 日本研究者

株式会社ユーハイム(英語: Juchheim Co., Ltd.)は、
兵庫県神戸市中央区港島中町に本社を置く製菓会社である。
沿革 ドイツ人菓子職人のカール・ユーハイム夫妻は
1919年第一次世界大戦青島攻略時に日本軍により占領された
青島より、日本(大阪市西区にあった大阪俘虜収容所
→広島市南区の似島にあった似島検疫所)へ連行され、
広島県物産陳列館(現:原爆ドーム)にて開催された
「ドイツ作品展示会」で日本初のバウムクーヘンの製造販売を行った。
その後、東京での喫茶店勤務の後に夫妻は横浜へ移り住み、
1922年に店を開く。 ユーハイムの歴史

ローマイヤ株式会社は、栃木県那須塩原市に本社を置く
ハムソーセージローストビーフなどの製造・販売を中心とする
食品会社である。
1892年6月19日 - 1962年12月19日)は、
ドイツ人実業家ドイツ租借地であった青島市から
第一次世界大戦後にドイツ人捕虜として日本へ連行され、
食肉加工業に携わり、ロースハムを生み出した。

ハインリヒ・フロインドリーブ
(独: Heinrich Freundlieb、1884年 - 1955年[1][2][3])は、
日本で活動したドイツ出身のパン職人。
ドイツ語の正しい発音はフロイントリープであるが、
通常フロインドリーブと呼び習わされている。
第一次世界大戦中に捕虜として連行された日本に留まり、
敷島製パン初代技師長を経て兵庫県神戸市に
有限会社ジャーマンホームベーカリー(フロインドリーブ)の
前身となるパン屋を開店した[2]
NHK朝の連続テレビ小説『風見鶏』のモデルとして知られる[2][3]

日本の国際法遵守とドイツ兵捕虜たちの収容所生活
瀬戸 武彦【Profile】 nippon.com
政治・外交 [2014.07.14]
第1次世界大戦当時、日本各地に約4700名の
ドイツ兵捕虜たちが収容された。
日本は国際法遵守を重視した取り扱いを行った。
文化活動にもいそしんだ捕虜たちの生活を、
当時の資料から掘り起こす。

平手嘉一の 最後の言葉 (Hirate Kaichi)
2014年08月31日(日) 0:17


雲の涯迄 : 故平手嘉一命遺稿集
平手嘉一(1918-1946)著
市立北見図書館 1999年
現在八十八歳の平手正幸氏は、恐らく巣鴨の
戦犯処刑者の父親としては、現存する最年長者ではなかろうか。
十月だというのにすでにストーヴに火が入り、
背広をきっちりと着た平手老人は
日がな一日同行して下さったのは、
北見から車で一時間余の留辺葉町の
公民館長・玉置正夫氏である。
立てつけの悪い戸をあけて一歩踏み込んだ部屋に、
室蘭捕虜収容所長として巣鴨で
三番目に処刑台に上った平手嘉一(大尉)の実父、
正幸氏は、たった一人でストーヴにあたっておられた。
その玄関の正面に「平手正幸」と、目ざす人の ...

第133回 戦後牛蒡が生んだ悲劇
 - 山下敏明さんのあんな本、こんな本
t-yamashita.info/book/133
ところで,中島入口にあった捕虜収容所の所長,
平手嘉一も,捕虜虐待と言う,
あらぬ疑いをかけられて処刑された人です。
友とその生と死の証
『処刑』あるB級戦犯の生と死 北海道新聞社
1992年3版 平手嘉一 巣鴨プリズン

凍れる瞳凍(しば)れる瞳 (文春文庫) 文庫
– 1991/5 西木 正明 (著) の3冊は,
無実の人平手の悲劇を扱った本です。
室蘭の人ならば知っておくべき悲劇です。
 ・・・と思います。

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2016年6月12日日曜日
【マイケルヨン氏】朝鮮人捕虜の証言を記録した米軍資料、

2014年12月29日月曜日
リー・マービンと三船敏郎の「太平洋の地獄」と、


↑2カ月の訓練を終え、
捕虜監視員になりたての朝鮮人軍属たち
つかの間の外出許可がおりた際に
撮られた写真であること が、腕章からわかる。
前列右下が、戦後補償裁判の原告のひとり、故・文済行さん。
戦犯として逮捕されたとき、
所持品はすべて押収されたが故国の家族に送っていた
数枚の写真だけが現在も手許に残っている。

2014年12月27日土曜日
どうやら、駄作・・・。

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