慰安婦問題について、いろんな報道: 北海道開拓使150年、北海道分断を阻止した占守島の戦いを語り継ぐ…池田末男連隊長。軍使・長島厚大尉。【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長 神谷幾郎氏に聞く。西部邁ノンストップ(2016年8月13日) - 大東亜戦争敗戦時の記憶。弁護士堤淳一 2015年08月01日 進駐軍が街にやって来た。

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2018年4月22日日曜日

北海道開拓使150年、北海道分断を阻止した占守島の戦いを語り継ぐ…池田末男連隊長。軍使・長島厚大尉。【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長 神谷幾郎氏に聞く。西部邁ノンストップ(2016年8月13日) - 大東亜戦争敗戦時の記憶。弁護士堤淳一 2015年08月01日 進駐軍が街にやって来た。

そこまで言って委員会NP 2018年4月22日 180422
日本列島2分割統治の可能性
【撫子日和】終戦の後にも日本を護った方々に感謝
(wikiより)
長島 厚(ながしま あつし、1921年 - ) は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍大尉。
2016/9/10(土) 北海道にまた行きたいなより

新書 – 2013/8/2 上原 卓 (著)
「占守島の戦いと軍使・長島厚大尉」
自由主義史観研究会2013全国大会が、
平成25年7月27日28日の2日間、
「領土教育をどうすすめるか」をテーマにして行われました。
 このビデオは「占守島の戦いと軍使・長島厚大尉」
と題した上原卓氏のお話です。Sonki Jack

 (PHP新書)新書 – 2017/7/15 
終戦後の昭和20年8月17日深夜。
ソ連は千島、北海道の占領をめざし、
千島列島北東端の占守島への侵攻を開始する。
この暴挙に対し、日本軍は敢然と反撃。
結果、戦車部隊を率いた池田末男連隊長はじめ
約300名の戦死者を出すものの、
ソ連軍には約3000名の損害を与え、侵攻を足止めした。
もし、この戦いがなければ、北海道はソ連に占領され、
日本の戦後は大きく変わっていたかもしれない。
だが奮闘した男たちは、シベリアに送られ、
さらに苦闘を重ねることになる……。
本書では、占守島で戦い、生き残った人びとの
詳細な記憶の積み重ねによって、息づまる戦場の実相、
日本軍最後の勝利の詳細、そして深くて重い
シベリア抑留の日々が克明に描き出される――。

〈ソ連軍の小銃弾が戦車の装甲を削り、
火花とともに細かな鉄粉が飛び散った。
それが小窓から飛び込んで硝煙の煙と入り混じって目に入り、
痛くて、小田は何度も目をしばたたかせた。
小田は「戦争とはこんなに息苦しいものなのか」と思った。
(本書第二章より)〉
貴重な証言から浮かび上がる、知られざる真実。

【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長
神谷幾郎氏に聞く氏に聞く 占守島の戦い[桜 H21/4/21]
大東亜戦争停戦後、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)で、
日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻してきたソ連軍を
迎え討った戦闘の生き残りでいらっしゃる神谷幾郎氏を訪ね、
当時の状況について貴重なお話を伺った
「証言シリーズ」をお送りします。 
[平成20年10月18日 三ヶ根山・士魂碑前にて]
「占守島の戦い」教科書には載ってない史実、
1945年8月15日戦争は終わっていなかった。

占守島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島の戦い
日本側は、陸軍第5方面軍(司令官:樋口季一郎中将)
隷下の諸部隊が、対アメリカ戦を予想して
占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。
1945年(昭和20年)になると本土決戦や
北海道本島防衛のため兵力が引き抜かれたが、
終戦時点でも第91師団(2個旅団基幹)を擁していた。
また、これまで北方方面はほとんど戦闘がなかったため、
食糧・弾薬の備蓄が比較的豊富であった。
さらに、満州から転進した精鋭の戦車第11連隊も置かれていた。
両軍の状況 · ‎戦闘経過 · ‎ソ連軍の上陸 · ‎時間表


戦車第11連隊 士魂碑
(愛知県幡豆郡三ヶ根山・比島観音霊場)
(平成17年4月3日)

第11戦車大隊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/第11戦車大隊
第11戦車大隊(だいじゅういちせんしゃだいたい、
JGSDF 11th Tank Battalion)は、
北海道恵庭市の北恵庭駐屯地に駐屯する、
陸上自衛隊第11旅団隷下の機甲科部隊である。
同駐屯地には第72戦車連隊も駐屯している。
 部隊マークは、”士魂”。 
1970年より「士魂戦車大隊」と称している。
これは旧陸軍の戦車第11連隊
(愛称:士魂部隊、十一を「士」と読ませたことによる)
に由来する。戦車第11連隊は満州で編成され、
大戦末期には本土防衛のため千島列島に移動していたが、
ポツダム宣言受諾後の1945年8月18日より ...
沿革 · ‎主要幹部 · ‎主要装備

特大発動艇+戦車第11連隊 - 艦隊これくしょん 
-艦これ- 攻略 Wiki*
wikiwiki.jp/kancolle/?特大発動艇+戦車第11連隊
2017/05/02 - 戦車第十一連隊は日本陸軍が
昭和15年に戦車第五連隊、戦車第九連隊要員から編成された
11番目の戦車連隊である。編成地は満州。
上級部隊はフィリピンでの戦いで有名な戦車第二師団だったが、
昭和19年に戦車第二師団指揮下を離れ占守島を含めた
千島列島の第91師団に転属する。 
通称は「士魂部隊」。
同隊所属の戦車には「士」の字をあしらったマークがついている。
命名の由来は漢数字の「十一」を縦書きで書くと
「士」と読める事からである。

第11戦車大隊 - 陸上自衛隊第11旅団
www.mod.go.jp › トップページ › 第11旅団編成

戦車第11連隊 「士魂」の由来
旧陸軍戦車第11連隊は、第11の11
(漢数字の十一)を武士の「士」(さむらい)と読み、
以後、士魂部隊と愛称しました。
(通称号:先497部隊)

【岩田義泰】証言シリーズ:知られざる戦車部隊の勇戦

日ソ戦 占守島の戦場を調査 ロシアTV

父祖の体験です! 忘れないで下さい! 子孫に伝えて下さい!
文責 山 本 晃 三
(占守島守備部隊戦死者の遺族)  
2006.8.11 作成 2010.8.11 補正

画像検索結果
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日
兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。
歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、
第9師団師団長等を歴任し、最終役職は
第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官
北海道は、2018年(平成30年)に命名されて150年を迎えます。
これまで積み重ねてきた歴史や先人の偉業を振り返り、
感謝する節目と捉えながら、次の50年に向けた
未来の北海道を展望してまいります。

開拓使 かいたくし)は、北方開拓のために
明治2年(1869年)7月8日から

明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。
(からふとのたたかい)は、太平洋戦争/大東亜戦争
末期の1945年(昭和20年)8月11日から8月25日にかけ、
日本の内地であった樺太南部で、
日本とソビエト連邦の間で行われた戦闘である。
1945年8月9日に対日参戦したソ連は、
8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。
その目的は南樺太の獲得と、
次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。

2016.11.25 01:00 産経ニュース
(5/5ページ)【日露首脳会談
【北方領土 屈辱の交渉史(2)】

占守島の戦い 
(しゅむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後
(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年
(昭和20年)8月18日 - 21日に、
千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と
大日本帝国陸軍との間の戦闘である。

 / 2016年を振り返る その2・世界編[桜H28/12/21]
ヤルタ会談に臨む英国首相のチャーチルと
米国大統領のルーズベルト、ソ連首相のスターリン
(前列左から、米国立公文書館)
【日本史の中の危機管理 濱口和久】
『産経新聞』 2014/ 08/ 19 iRONNA(いろんな)
スターリンの野望
 69回目の終戦の日が過ぎた。
終戦直後である69年前のちょうどこの時期、
千島列島の北端で、日本軍とソ連軍との間で
戦闘が繰り広げられていたことをご存じだろうか。
 先の大戦末期の1945(昭和20)年2月4日から
11日まで、クリミヤ半島のヤルタで米国大統領の
ルーズベルト、英国首相のチャーチル、ソ連首相の
スターリンによる3カ国首脳会談が開かれた。
会談でルーズベルトは、ソ連による千島列島と
南樺太の領有を認めることを条件として、
スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。
これが「ヤルタ密約」といわれるものだ。

ヤルタ会談の2カ月後、ルーズベルトは急死。
副大統領から昇格したトルーマンは終戦工作を進め、
日本はソ連参戦と広島、長崎への原爆投下を経て
ポツダム宣言を受諾する。
そのトルーマンは8月15日、スターリンに対し、
ソ連が日本軍の降伏を受理する地域を規定した
一般命令第一号」を送付した。

外務省外交史料館 戦後70年企画 

そこではソ連軍の占領地域は満州と
北緯度以北の朝鮮となっており、
ヤルタ密約とは違って千島列島は含まれていなかった。
この内容を不満としたスターリンは翌16日、
直ちにトルーマンに次のような要求をする。
 (1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に
千島列島全土を含めること。
これはヤルタ会談における3カ国の決定により、
ソ連の所有に移管されるべきものである。

 (2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域には
北海道の北半分を含むこと。
北海道の南北を2分する境界線は、
東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線とする。
なおこの両市は北半分に入るものとする。

 あろうことかスターリンは、
北方4島を含む千島列島全島の領有を挙げたのみならず、
北海道の半分を要求してきたのである。
北海道の占領は、日本のシベリア出兵に対する
代償であると主張した。

 トルーマンからは北海道北部の
ソ連占領を認めないという返事が18日には届いたが、
スターリンはそれを無視する。

ソ連の戦史研究所所長、ボルゴドノフ大将は、
スターリンは終戦直前、
極東軍最高司令官、ワシレフスキー元帥
「サハリン南部から北海道に
3個師団の上陸部隊を出せるように準備指令を出した」
と語っている。
ブジョーンヌイ元帥(右)と話すヴァシレフスキー

<スクープ>実際にあった「北海道占領計画書」 

【動画】水間条項国益最前線 第1回後半

水間条項国益最前線レポート ブロマガ
有限会社オフィス存
近現代史研究家・ジャーナリスト水間政憲のホームページです。

 近現代史研究家の水間政憲氏は
ボルゴドノフ大将の発言を裏付ける証拠として、
ソ連の「北海道・北方領土占領計画書」を
『正論』平成18年11月号にその内容を発表している。
これを読むと、ソ連は北海道の半分どころか、
あわよくば全島の占領をもくろんでいたことが分かる。

占守島の戦い
 カムチャツカ半島の南端から海峡を隔てて10㌔余、
千島列島の最北端に、占守島(しゅむしゅとう)という島がある。
この島に、将兵の誰もが戦争は終わったと信じていた
8月18日午前0時過ぎ、カムチャツカ半島の
ロパトカ岬からソ連軍長射程砲の砲撃が開始された。
「ソ連軍、占守島に不法侵入を開始す」という電文が
北千島方面の第師団長、堤不夾貴(ふさき)中将から
札幌にある第5方面軍司令部に入ったとき、
司令部では幕僚たちが顔を見合わせるだけで
しばらく沈黙が続いたという。

 そのとき、司令官の樋口季一郎中将は、
自衛のための戦闘を命ずるべきか、
戦闘行為を禁じていた大本営の指示に
従うべきか悩んだ末、反撃命令を発した。

実際の戦闘では、ソ連軍は上陸用舟艇16隻など
計54隻の艦船、総人員8300人余りで、
18日午前2時に島北端の国端岬に急襲上陸を図った。
1日で全島を占領し、千島列島を南下する計画だったが、
日本軍の予想外の抵抗により大きな被害を出し、
変更を余儀なくされた。

 結局、ソ連軍は上陸地点にくぎ付けとなったまま、
戦闘は8月21日に終結した。
ソ連側の記録では、ソ連軍の死傷者は
日本軍をはるかに上回ったとされている。
ソ連のイズベスチヤ紙などは占守島の戦いを
「満州、朝鮮における戦闘より、
はるかに損害は甚大であった」と伝えていることからも、
いかに激しい戦闘が繰り広げられたかが想像できる。

教科書にない真実
 もし樋口中将の英断による占守島での
日本軍の頑強な抵抗がなければ、
その後のわが国はどうなっていただろうか。

 北海道はソ連軍に占領されていたに違いない。
そして満州や南樺太で起きた略奪、子女に対する暴行や
強姦が繰り返され、多くの民間人の青年が
シベリアに強制連行されていたことだろう。
さらには北朝鮮や統合前の東ドイツのように
共産主義独裁国家が北海道に誕生し、
津軽海峡を挟んで同じ民族同士で
対立していたであろうことは想像に難くない。

 ソ連の北海道占領計画は歴史の教科書に載っていないため、
学校では教えられていない。
そのため日本人の大半が知らない
「歴史の真実」となっているのである。
 (拓殖大学日本文化研究所客員教授) 

昭和20年の概念に疑問
 平成七年は戦後五十年の節目の年に当たるということで、
各種の記念的企画や行事が早くから取り沙汰されているようである。
そこでその「戦後五十年」とは元来如何なる概念なのか、
この際少々基本的なところから考え直してみる試みも
あってよいだろう。

 先づ昭和二十年八月十五日を以て大東亜戦争が
「終わった」と見られているが、この把握は正しいだろうか。
確かに、いわゆる「終戦の詔書」は
昭和二十年八月十四日付で渙発(かんぱつ)され、
それは翌十五日にラジオ放送を通じて
日本国の全軍隊と全ての一般市民に布告せられた。
その詔書の主旨は、昭和天皇が
〈非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲〉せられ、
その措置の具体的内容は
〈米英支蘇四国ニ対シ其ノ
共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメ〉
るというものだった。

 それでは天皇が政府をしてその受諾提案に
〈応セシムル〉ことを決断されたポツダム共同宣言とは
如何なる趣旨のものだったか。
これが日本に向けて発せられたのは七月二十六日のことで、
この時ソ連は未だ対日戦に参加していなかったから、
共同宣言は米(大統領)、中(政府主席)、英(内閣総理)
の三国の政府責任者の名に於いて出されており、
その主文はこの三国の代表が
〈協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ
終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ〉
というものだった。
そしてこの主文に附して
〈日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄〉は
三国の巨大な軍事力を以て最後的打撃を
加へ続けるであろうことを宣し、
その〈巨大ナル軍事力〉には原子爆弾攻撃が
含まれるであろうことを言外に、
しかしかなり露骨に示唆していた。
 日本政府はこの宣言を受けて、
相手の言う〈戦争ヲ終結スルノ機会〉を掴んだ。
その実現の第一段階として全軍隊に
〈抵抗ヲ終止スル〉ことを命じた。
政治的措置としての詔書が果たした役割は
ここ迄であり、それ以上のものではない。
世上往々にして、八月十五日は性格には
敗戦の記念日であるのに、
それを「終戦の日」と呼ぶことによって
国民は敗北の現実から眼を背けようとした、
という非難的論議が行われているが、それは当たっていない。
「終戦」という概念はポツダム宣言とその受諾という
外交的過程から自然に論理的に導きだされてきたことであって、
「敗戦」の言い換えであったという様な
意味は事実上有していない。

 問題は、昭和二十年八月十五日に生じたことは、
「終戦」という労多き大事業の第一歩を
踏み出したまでのことであって、この大事業は
一篇の詔書を以て一挙に完結できるような
生易しいものではなかった、
この事実についての認識が一般に欠けていることである。

攻撃を続行したソ連軍
 何よりも、八月九日に国境を侵犯して
満州国領内と樺太の日本領内に進撃してきたソ連軍が
日本軍の抵抗停止にも拘わらず、
八月十五日以降も攻撃をやめなかった事実があり、
さらにソ連軍が千島列島北端の占守島に
「敵前上陸」を開始したのは八月十八日の
午前二時のことだったという事も忘れてはならない。

これは冒頭に引いたほんの一節に微してみても、
相互的な義務履行の責任を課した外交文書である
ポツダム宣言への違反であることが明白である。
つまり戦争は決して八月十五日に終わっていたのではない。
千島ではそれ以後になってむしろ新たに始まったのである。

 ソ連軍の千島攻略の軍事行動は
二十年九月二日の東京湾での降伏文書への調印を
横目に見てやっと停止した
(但しその戦争目的は北海道本島への上陸・占領といふ
野望だけを除いてほぼ完全に達成された)けれども、
つまり戦闘行為は形の上では全面的に終わったが、
「戦争」はなほ続いていた。
八月末に始まった米軍主体の連合軍による
日本占領は軍事占領であって、
これは法的には戦争の一つの形態に他ならないからである。

 九月には占領という事態が現実化する。
そしていわゆる「戦争犯罪人」の逮捕、軍事裁判、
復讐的処刑という追撃戦が始まる。
報道・言論機関に対する厳重な統制、
一般市民の私信にまで及ぶ検閲体制の確立、
治安維持法違反の政治犯の釈放強制といふ
国内法への介入、神道指令を以てしての
国民道徳・習俗への攻撃、義務教育における
地理歴史の授業停止といった教育行政への介入、
財閥解体、農地解放。
こうした一連の占領政策の頂点に位するのが
ハーグ陸戦法規の締約に真っ向から違反する、
占領基本法とも称すべき
占領軍総司令部民政局即製の日本国憲法の採択強制である。

必要なのは過去の直視
 これら一連の占領政策の実施は、
連合国から日本に向けての「戦争の継続」という
観点からでなくては了解できない事態なのであり、
従って今必要なのは「停戦後」五十年の感慨に耽ることよりも
むしろこの観点からの過去の事態の直視である。

 それでは正確な意味での「終戦」の日は何時だったのか。
答えは簡単で、国際法上は、連合国との間の
平和条約が効力を発生した昭和二十七年四月二十八日である。
まだ七年先の平成十四年のことになる真の終戦五十周年を
どう扱うかはこの次の問題で、目下の急務は
戦争状態の継続としてこの六年半の占領期間中に
日本国民が背負い込んだ「負の遺産」を
どの様に処理するかという問題の方である。


CGS佐藤守 日本の軍事 第3回】

※先日、西部邁氏がいわゆる自裁死をされまして
北海道出身といっていい西部さんの動画を観ていたら
西部さんの記憶を語ってらっしゃる部分で
進駐軍である米軍らは戦車を伴ってきていて
当時のソ連を警戒していたようだと語られ
なるほど、やっぱり北海道が分断されていた可能性は
じゅうぶんにあったのですねと、つくづく実感しました。
ソ連が北海道に上陸していたら、
米軍は真ん中の大雪山をこえさせないぞということで
北海道からソ連を追っ払うつもりだったかは
私にはわかりません。
西部邁ノンストップ(2016年8月13日)
 - 大東亜戦争敗戦時の記憶

私は昭和16(1941)年6月、横浜市南区に生れ、
地元の中学・高校(横浜市立南高等学校)を経て、
昭和39(1964)年、中央大学法学部を卒業、
同年司法試験に合格し、昭和42(1967)年に
東京弁護士会に登録して弁護士となりました。

/事務所報LITS(Legal Information Tips) No.27)
 本誌第17号(平成12年2月15日号)に、
「横浜大空襲と飢餓」と題する一文を載せた。
その末尾に「米軍による横浜占領下における話は
また次回にでも」と書いたが、早いもので
あれから15年が経過した。
 そんなに長く経って続編もないものだが、
今年は終戦から70年。
改めて横浜の占領のことを書いてみようと思う。

本格占領
 8月30日午前9時半頃、横須賀では既に

米第31機動部隊から星条旗を掲げた上陸用舟艇が
次々に発進し、完全武装の海兵隊員約17,000名が上陸し、
次いで、同日11時過ぎバッジャー少将が上陸し、
鎮守府長官から施設の引渡しを受けている。

第三海兵遠征軍 - 在日米海兵隊ホームページ

 横浜関内地区及び厚木飛行場に進駐した先遣部隊の一部が、
9月1日から、鶴見・神奈川・磯子・高津(川崎)などの
軍施設や工場へ移駐しはじめていたが、
その動きは、降伏調印式以後、著しく活発化した。
 降伏文書調印後、本格占領が始まる。
9月2日午前11時半頃から、愈々横浜港の大桟橋等に、
米第8軍麾下の騎兵第1師団4~5000名が上陸を開始し、
引続き同日午後から翌3日にかけて、
第8軍の主力部隊が相次いで上陸した。
第1図 進駐部隊の主要司令部の所在地

進駐軍の展開
 進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、
9月末にはほぼ内地進駐を終え、10月には北海道の進駐
(旭川・10月6日)を完了した。
最も遅いのは松山で、10月22日である。
展開が迅速に成し遂げられたのは日本の官憲の協力に
一部を負うとしても、戦争中に上空から写真を撮影し、
これに基づいて飛行場や日本全土の道路地図を作製した
アメリカ陸海軍の空軍情報部隊による
情報活動に負うところが大きい。
日本各地への進駐兵力は、展開がほぼ終わった10月末には
総員30万人、11月末に43万人、12月中旬に45万人を超えて
ピークに達している。
 こうしてアメリカは、圧倒的な力を日本人にも、
そしてソ連にもみせつけることに成功した。

ギブミー・チョコレート
BABYMETAL - ギミチョコ!!- 
Gimme chocolate!! (OFFICIAL)

 "Give me chocolate"と言うと
米兵がチョコレートやガムを呉れたというのは本当である。
しかし我等がオンリーさんの彼は、ジープから降り、
子供たちが寄っていくと"Give me"などと言わなくても呉れた
(但し"Hello"位は言わなければならない。当たり前である)。
節分の豆撒きのように撒いたというのは、
話としては聞いたけれども私は見たことがない。
・・一部抜粋。

真岡郵便電信局事件
(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)とは、
太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が
集団自決した事件である。
当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、
1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。
真岡郵便局の電話交換手
(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、
疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。
8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、
勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、
9名が死亡した。
真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)[1]とも呼ばれる。

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、
当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、
射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる[2]
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編 シネマトゥデイ
2010/05/31 2010年7月17日(土)よりシアターN渋谷ほか順次公開 金子俊男原作の「樺太一九四五年夏・樺太終戦記録」を
『あヽ海軍』の村山三男監督が映画化した戦争映画。終戦にもかかわらず、
樺太に攻めて来たソ連軍の脅威にさらされながらも、最後まで通信連絡を行った
電話交換手9人の悲しい最期を描く。その女性たちを演じるのは、
『兄帰る』の二木てるみや『幼獣マメシバ』の藤田弓子ら。
1974年に製作されたものの、ソ連の圧力でお蔵入りになっていた
衝撃の物語に驚嘆する。配給: 太秦 オフィシャルサイトhttp://hyosetsu.com/ (C) 「氷雪の門」製作委員会
靖国神社の遊就館で終戦の日に放映されている、氷雪の門より 終戦後のソ連による樺太侵攻がもたらした悲劇 詳細は、こちらのブログに掲載されています http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-ent...


映画『樺太1945年夏 氷雪の門』 新城卓さんインタビュー
新城 (しんじょう たく、1944年2月1日 - )は日本の映画監督。
【スクープ!】真岡郵便局、「九人の乙女」の
同僚・工藤テルさんインタビュー[桜H27/8/6]
映画「氷雪の門」で知られる、樺太・真岡郵便電信局の
電話交換手の女性達の悲劇。
ソ連軍が侵攻してきたその日、非番であったために
生き残ることになった工藤テルさんに、
同僚であった「九人の乙女」達のお話をお聞きした
インタビューのさわりを御覧頂きます。 
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、
『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。
以下のページでご案内申し上げておりますので、
全国草莽の皆様のご理解、
ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
  http://www.ch-sakura.jp/579.html
【安全保障講座】樺太・真岡に散った乙女達の真実
[桜H27/1/20] SakuraSoTV 2015/08/21 に公開
日本がポツダム宣言を受諾した後も樺太・千島列島に侵攻し続けたソ連軍。
各地で日本人が虐殺されていく中、真岡に殺到する避難民を誘導すべく、
真岡郵便電信局に残留した9人の女性電話交換手達は
「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し自らの命を絶った…。
その9人の乙女の同僚で、たまたま非番であったために
運命を共にすることのなかった工藤テルさんへの貴重なインタビューを中心に、
70年前の「樺太の悲劇」と人々の思いを振り返っていきます。


第二次世界大戦終了後の日本本土を連合国
分割統治しようとした計画案。
ソ連は、北方領土と北海道占領計画を持っており[1]
またアメリカもイギリス、ソ連、中華民国の連合国での
分割統治する案を検討したが、
結局、日本占領は分割占領でなく
連合国軍最高司令官総司令部による日本政府を介した
間接統治となった[2]

ソ連の北海道占領計画
ヤルタ会談でソ連は対日参戦の見返りとして
北方領土を占領することが認められていた[1]
しかし、 8月16日にスターリンは、北方領土だけではなく、
北海道の半分をソ連占領地とするよう、
トルーマン大統領に求めた[7][1]

占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、
太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の
1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、
千島列島東端の占守島で行われた
ソ連労農赤軍大日本帝国陸軍との間の戦闘である。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの軍命により
21日に日本軍が降伏し停戦が成立、
23日に日本軍は武装解除された。
捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、
単独統治 (SWNCC70/5・150/3)
8月18日、トルーマン大統領は、スター リンの要求を拒否し、
分割占領を回避することを勧告する国務省案である 
SWNCC70/5 を承認した[7][1]
8月22日、さらにトルーマン大統領は SWNCC150/3 を承認し、
日本政府を介した間接統治方式を最終的に承認した[7]

なお、スターリン8月23日に極東地域の日本軍捕虜50万人を
シベリアに移送するよう命じた[1]

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