いろんな報道: 【占守島の戦い】【DHC】2019/5/1(水) 井上和彦×藤井厳喜×居島一平 【虎ノ門ニュース】 51:43~昭和の英雄が語る大東亜戦争、偉大なる記憶。☆占守島で戦った戦車第11連隊に所属・小田英孝(91) 「もし敵が上陸したら、捨てるような戦車でもいいから 動く戦車に。どうせ残り少ない命なんだから、 爆薬でも積んで突っ込んで行く。北方領土問題の原点と千島樺太防衛戦! 国際法違反の日ソ不可侵条約一方的破棄! 北海道侵攻出来ずに腹癒せ侵攻した北方四島! 【樋口隆一×片山杜秀】。 「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男。 【水間条項国益最前線】第112回 第一部・実際にあった北海道占領計画書。旧ソ連の北方領土占領、米国が軍事支援していた …歴史の定説を覆す発見。「日本の身代わり」で東欧2カ国がソ連に支配されていた! 終戦後に日本が分割占領されなかった理由。 北海道開拓使150年、北海道分断を阻止した占守島の戦いを語り継ぐ…池田末男連隊長。 軍使・長島厚大尉。 占守島の戦い、少年戦車兵の証言~「どこでもいいから撃て。乱射せい」。 1945年、占守島…日本を分断から救った男たち。 【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長 神谷幾郎氏に聞く。 樋口季一郎~ユダヤ人救出、キスカ撤退、占守の戦い …「3つの奇跡」 を起こした男。 西部邁ノンストップ(2016年8月13日)-大東亜戦争敗戦時の記憶。 弁護士堤淳一 2015年08月01日 進駐軍が街にやって来た。

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2019年5月4日土曜日

【占守島の戦い】【DHC】2019/5/1(水) 井上和彦×藤井厳喜×居島一平 【虎ノ門ニュース】 51:43~昭和の英雄が語る大東亜戦争、偉大なる記憶。☆占守島で戦った戦車第11連隊に所属・小田英孝(91) 「もし敵が上陸したら、捨てるような戦車でもいいから 動く戦車に。どうせ残り少ない命なんだから、 爆薬でも積んで突っ込んで行く。北方領土問題の原点と千島樺太防衛戦! 国際法違反の日ソ不可侵条約一方的破棄! 北海道侵攻出来ずに腹癒せ侵攻した北方四島! 【樋口隆一×片山杜秀】。 「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男。 【水間条項国益最前線】第112回 第一部・実際にあった北海道占領計画書。旧ソ連の北方領土占領、米国が軍事支援していた …歴史の定説を覆す発見。「日本の身代わり」で東欧2カ国がソ連に支配されていた! 終戦後に日本が分割占領されなかった理由。 北海道開拓使150年、北海道分断を阻止した占守島の戦いを語り継ぐ…池田末男連隊長。 軍使・長島厚大尉。 占守島の戦い、少年戦車兵の証言~「どこでもいいから撃て。乱射せい」。 1945年、占守島…日本を分断から救った男たち。 【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長 神谷幾郎氏に聞く。 樋口季一郎~ユダヤ人救出、キスカ撤退、占守の戦い …「3つの奇跡」 を起こした男。 西部邁ノンストップ(2016年8月13日)-大東亜戦争敗戦時の記憶。 弁護士堤淳一 2015年08月01日 進駐軍が街にやって来た。

敬礼。 ※ツイートに動画あり
DHCテレビ 2019/05/01
「樋口隆一」氏、「片山杜秀」氏の論議。
近野宏明(日本テレビ報道局)
丸山淳一(読売新聞編集委員)
畑下由佳(日本テレビアナウンサー)
樋口隆一(明治学院大学名誉教授)
片山杜秀(慶応義塾大学教授)
※是非チャンネル登録をして他の動画もご視聴ください! 
http://www.youtube.com/channel/UCHuYH...


「 殿しんがり 」とは、退却する軍の最後尾で
敵の追撃を阻む部隊を指す(岩波国語辞典)。
勢いに乗る敵の前に立ちはだかり、
味方が難を逃れるまで時間を稼ぐという危険極まりない役目で、
古来、抜きん出た勇者たちが任に当たったとされる。
終戦時、中立条約を破ってソ連軍が近づきつつあった
北海道周辺にも、そんな将兵たちがいた。 

領土交渉のカギ「第二次大戦の結果」とは
北方領土をめぐる日本とロシアの交渉から
目が離せない日々が続いている。
安倍首相とプーチン大統領の首脳会談は
1月22日の会談で通算25回にのぼり、
早ければ6月に大筋合意を目指すというが、
領土交渉の先行きは厳しいとの指摘も多い。

 ロシア側はここにきて強硬な姿勢を示している。
ラブロフ外相は平和条約締結の前提のひとつに
「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れること」
をあげた。旧ソ連が北方4島を獲得し、
領土であることをまず認めよ、ということだろう。

 だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン
(1878~1953)が最初に目指した
「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、
北海道の北半分だった。
南樺太と千島列島でソ連軍と対峙たいじした
第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)
中将の決断がなければ、
スターリンの北海道占領の野望は実現していた可能性が高い。
加陳時計2019/01/17
正論のスクープ記事は次のURLで読めます。
https://bit.ly/2RR67tz
日本を怖れたスターリン
 第2次世界大戦の終了後、日本はなぜ
事実上ほぼアメリカ1国の
占領下に置かれたのだろうか。
なぜドイツのように、アメリカとソ連をはじめとする
連合国の分割占領とならなかったのだろうか。
 いまだ返還されない北方領土や、南北に分断された
朝鮮半島を思えば、日本の占領からソ連の影響力を
排除できたことは、われわれ日本人にとって
僥倖であったのは間違いない。
 あまり知られていないことだが、日本がアメリカによる
「単独占領」に置かれた背景には、日本の「身代わり」として、
ブルガリアとルーマニアの東欧2カ国がソ連に差し出されたという
歴史的事実がある。
 国際政治学者の細谷雄一・慶應義塾大学教授は、
アメリカとソ連の取引によって、日本と東欧2カ国が
「交換」されたことを明らかにしている
(以下、引用は同書より)
 ***
 終戦後、ソ連の指導者スターリンは、
「負かされても、日本人のような民族は必ず立ち上がってくる」と、
日本に対して強い恐怖心を抱いていたという。
そのことを細谷教授は次のように指摘している。
「ロシア人は半世紀の間に、日露戦争、シベリア出兵、
そしてノモンハン戦争と、強大な日本軍の侵攻を、
3度も経験していた。
その強大な軍事力による侵略を受けた記憶からも、
日本の将来について、ロシア人は根強い恐怖心と
不安を抱いていたのだ。
それは簡単に払拭できるものではなかった。
言い換えれば、規律正しく、組織的で効率的な日本国民が持つ
潜在的な資質に対して、ロシア人は畏怖を感じていたともいえる。」
 そしてスターリンは、日本が二度と立ち上がれないように
するために、過酷な占領政策を行うべきだと考えていたという。
だが一方でスターリンは、アメリカの原子爆弾に対して、
より大きな恐怖を覚えていた。スターリンは
ソ連国内の原爆開発担当者に次のように言った。
「ヒロシマは世界全体を揺るがした。バランスが崩壊したのだ。
爆弾を開発せよ。
それによって、われわれは巨大な危険から解放されるであろう」

核兵器開発とウラン
 しかし、ソ連が自前で核兵器を開発するには、
大きな難問が立ちはだかっていた。
ソ連国内で核兵器を作るために十分な量のウランが
見つかっていなかったのである。
そこでスターリンは、日本占領よりも、
高品質のウラン鉱石が埋蔵されているブルガリアと
ルーマニアを勢力圏に
組み入れることを優先して考えるようになる。
 1945年10月、スターリンはアメリカの
ハリマン駐ソ大使と会談し、アメリカが対日占領で
優越的な地位を独占するのを認めるかわりに、
ソ連がブルガリアおよびルーマニアとの戦後処理で
優越的な地位を独占すること認めるよう、
「交換取引」を持ちかける。
米ソの利害が一致した結果、日本と東欧2カ国の「交換」は
1945年12月のモスクワ外相理事会で外交的合意として成立する。
 冷戦終了後になって明らかになったこの「取引」を、
細谷教授は著書の中で次のように振り返っている。
「この1945年12月のモスクワ外相理事会では、
ソ連のルーマニアおよびブルガリア支配を承認するという
対価を払って、アメリカは日本の実質上の単独占領の
権利を確保する。
これは通常われわれ日本人は意識していないことであるが、
戦後日本の再出発は東欧諸国のソ連による支配という
犠牲の上に成り立っていたといえるのかもしれない」
 国際政治学者で慶應義塾大学法学部教授の細谷雄一氏と、
インターネット配信番組「国際政治チャンネル」で
ともに活動する篠田英朗氏のトークイベントが、
9月27日(木)19時より、東京・神楽坂にある
キュレーションストア〈la kagu〉にて開催される。詳しくは
そこまで言って委員会NP 2018年4月22日 180422
日本列島2分割統治の可能性
最後的戰役 —日蘇佔守島之戰(日文解說, 繁體字字幕
Dong Yang 2018/02/18
1945年8月,日本宣布接受波茨坦公告受降,
然而欲趁火打劫的赤色惡魔蘇聯,卻以雅爾塔秘密協定為依據,
對滿洲國以及日本領土樺太、千島群島等地悍然發動了侵略。 
蘇軍一路南侵,奸淫擄掠,殺人放火,無惡不作。
在日軍總部下達解除武裝的命令之後,因平民還未撤離,
滿洲的根本博中將拒絕接受命令,拚死一戰,
使得4萬平民以及35萬士兵安全逃離,免遭蘇軍毒手。 
8月18日淩晨時分,蘇軍又入侵日本北方的占守島,
駐守占守島的日本守衛隊在武器匱乏的狀況下與蘇軍殊死戰鬥,
士魂坦克部隊在池田大佐的指揮下重創蘇軍,
將進犯的蘇軍成功擊退。
這場戰役是在日軍總部命令所有的部隊停止一切軍事行動之後,
駐留北海道的日軍第五方麵軍司令官樋口季一郎中將審時度勢,
果斷地下達反擊指令,從而粉碎了斯大林侵略北海道的野心。

1945年8月、日本はポツダムの発表を受け入れ、
受け入れられたと発表しました。
しかし、火事で略奪されたソビエト連邦の赤い悪魔は、
ヤルタの秘密協定に基づいていました。
満州と、HuataiやQiandaoなどの日本の領土に対する
攻撃が開始されました。
ソビエト軍は侵略され、強姦され略奪され、殺害され、
発砲された。悪ではなかった。
日本の軍事本部での軍縮命令の発表後、
民間人はまだ撤退していません。
満州の基本的なブログは命令を受け入れて、
戦いのために戦うことを拒否します。
4万人の一般市民と35万人の兵士が無事に脱出し、
ソビエトの有毒手から解放されました。
8月18日の早い時間に、ソビエト軍は日本北部の
Zhashou島に侵入しました。
島に駐留していた日本の警備員は、
武器がない状態でソビエトと戦っていました。
サソリ戦車部隊は、池田大輔の指揮の下にソビエトを再発明した。
成功したソビエト軍は首尾よく敗北した。
この戦いは日本の軍事本部がすべての軍隊に
すべての軍事作戦を停止するように命じた後でした。
北海道にいた北海道の日本軍の第5軍の
司令官は状況を見直しました。
反撃命令に決定的に達し、スターリンの北海道侵攻という
…歴史の定説を覆す発見
2019.01.21 2 Biz-journal
文=粟野仁雄/ジャーナリスト
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「平和条約へ向けて加速的に」と意気込む安倍晋三首相は
21日から訪露する。だが実は北方領土問題において、
四島をめぐる現代史が国民には知らされていない。

 2017年12月30日付北海道新聞に貴重な記事が載った。
タイトルは『ソ連四島占領 米が援助』。
ロシア史の大御所、和田春樹東大名誉教授が
「北方四島を含む旧ソ連軍の対日作戦を
米国が軍事援助していたことは、日本国内では
ほとんど知られておらず、発見と言える。
四島占領はソ連が勝手に行ったのではなく、
米ソをリーダーとする連合国の作戦として
行われたということを示している」
と談話を寄せた記事を以下に引用する。

「1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による、
北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、
根室振興局が米国とロシアの専門家による
研究成果などを突き合わせ、明らかにした。
米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、
ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が
四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。
(中略)振興局の調査結果によると、
樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、
ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、
ともに連合国だった米ソは『プロジェクト・フラ
と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。
米国は45年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、
護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。
4~8月にはソ連兵約1万2000人を
米アラスカ州コールドベイの基地に集め、
艦船やレーダーの習熟訓練を行った。
コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、
ソ連兵の指導に当たったという。
訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や
千島列島の作戦に投入された。
8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、
米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。
ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、
四島の占領は9月5日までに完了した」

 日本のポツダム宣言受諾にもかかわらず、
ソ連は日ソ中立条約を破棄し千島列島を南下、
米軍がいないのを見計らって択捉、国後島、歯舞群島、
色丹島に侵攻し日本人を追い出したという
「ソ連軍独断の占領」定説を覆す大ニュースは
根室振興局が取り組む北方領土遺産発掘・継承事業の成果。
同局の谷内紀夫前副局長は、ソ連が樺太南部と
千島列島での作戦に投入した全艦船を調べた
イーゴリ・サマリン
(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)
の論文などを発見した。

都合がよかった「ソ連の独断占領」
 千島歯舞諸島居住者連盟の河田弘登志副理事長は
「千島でソ連と戦った元日本兵は、アメリカの船を
砲撃しようとしたらソ連の荷物を積んでいたので撃てなかった、
と話していた」をあり得ることと見る。
撃てなかったのは日ソ中立条約があったからだろう。
同連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、
「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、
当時、アメリカが強く非難したということは聞かない。
そうしたことからも、米国のソ連軍支援は
十分考えられる事実では」と話す。

だが、同連盟の宮谷内亮一根室支部長が
「驚いた。北方領土のソ連の占領にかかわっていたのなら
アメリカにも責任があるのでは」と話すように、
初耳という元島民が多い。
 日本政府が「米軍の援助」を知らないはずはないが、
冷戦下、米国の同盟国として米国に都合の悪い事実は
表に出されなかったのだろう。
納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も
「当時は連合国の一員、おかしくはない。
引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、
ロシアの船ではないと話していた。
でもソ連軍の四島の占領にアメリカが
かかわったという歴史を出さないほうがいい、
ということになったのでしょう」と推測する。

あとから出た「北方領土」という言葉
 根釧漁船保険組合元専務理事の
足立(あしだて)義明氏(80)は根室青年会議所で
活躍していた頃、北方領土問題を研究し講演もした。
「決してソ連が独断で決めて占領したのではなく、
アメリカが支援していたはずということも話しました」と語る。
「ソ連は釧路から留萌を結んだ線から以北をよこせと言っていた。
安藤さん(北方領土返還運動の父と呼ばれた安藤石典根室町長)
がソ連に対してではなくマッカーサーに占領軍の
管理下に置いてほしいということを求めた経緯からも、
占領時にも米軍が加担していたとみるほうが自然」とする。
45年12月、安藤氏は占領軍のマッカーサー連合国最高司令官に
対して、ソ連の不法占拠を訴え、国後、択捉、色丹、歯舞諸島を
米国の管理下に置くことを求める直訴状を送った。
足立氏は「尖閣諸島とか竹島とか言えばすぐわかるが、
北方領土とか北方四島なんて表現して
島の名を言わないから国民はわからない。
返還運動が国民的に
盛り上がらなかったひとつの原因」と指摘する。

 日本は戦後すぐにソ連に「四島を返せ」と主張したわけではない。
「北方領土」という言葉も冷戦下、米国の同盟国として
「ソ連敵視」の国論を煽るために後年、政府がつくり出したのだ。

「2島返還」でちょうちん行列
 元根室市総務部長の平山芳夫さん(90)は
根室半島の歯舞村(現・根室市歯舞)の出身。
戦前から村役場に就職し、56年の日ソ共同宣言締結時は20代。
「提灯行列となり行燈を担いで納沙布まで行進した」。
2島の返還だけでそんなに喜びに沸いたのだろうか。
平山氏は語る。
「歯舞諸島は歯舞村の管轄。奪われていた豊富な漁業区域も
村に戻ってくることが大きかった。
当時、根室には国後や択捉の人はあまり戻っていなかった。
住民大会も色丹と歯舞が還れば、という雰囲気。
四島全部返せ、では平和条約はないと思っていました。
しかし、すぐに国後や
択捉出身の人の反発が強まっていったのです」

 平山氏は「もともとは『島を返せ』ではなく
『島よ、還れ』だった。
いつしか『返せ』という言い方になりました」と回顧する。
強い言い回しに変わるのも対米追従が強まってからだ。
(文=粟野仁雄/ジャーナリスト)
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【撫子日和】終戦の後にも日本を護った方々に感謝
日本軍の97式中戦車改(写真提供:相原秀起氏)

相原秀起(北海道新聞函館支社報道部長)
終戦後の昭和20年8月17日深夜。
ソ連は千島、北海道の占領をめざし、
千島列島北東端の占守島への侵攻を開始する。
この暴挙に対し、日本軍は敢然と反撃。
結果、約300名の戦死者を出すものの、
ソ連軍には約3000名の損害を与え、侵攻を足止めした。
相原秀起著『一九四五 占守島の真実』(PHP新書)は、
この日本軍最後の戦いを
綿密な取材で描く迫真の記録である。
本記事では、その一部を抜粋編集したものである。

「どこでもいいから撃て。乱射せい」
小田英孝(旧陸軍元少年戦車兵)は戦車前方の
車載機関銃を握っていた。
だが、周囲は低木のハンノキやハイマツが茂り、
小さな覗き窓から前を確認しようとしたが、
木々の枝が視界を遮り、何も見えなかった。
併走しているはずの第四中隊の他の戦車の位置も
まったくわからなかった。
97式車載重機関銃は20発入り箱弾倉
(カートリッジ)を使用する。
撃発機構は単、連発を手加減で行う引金式を採用し、
引き金を引きっぱなしにすると連射が可能だった。
ところが、1回に発射する弾数を多くすると、
照準線が乱れて次第に弾は狙いを大きくずれるという
欠点があった。
連続発射の限度は約300発とされ、
それ以上の連続発射は銃身が過熱して
焼けつく危険性もあった。
このため、銃手は引き金を一度絞っては離し、
一度に3~5発ずつ発射する「点射」を心がけた。

伊藤は
「弾薬は豊富にある。
万一、戦闘になったら弾薬のことは遠慮せずに撃ちまくれ」
と常に訓示していた。
機関銃弾のカートリッジ75個は機銃の近くに並んで差し込まれ、
床下に置かれたものも含めて、
機銃弾の総数は約4000発にも達した。

小田にとっては初の実戦だったが、不安は感じなかった。
戦車帽をしっかりとかぶった。

戦車第11連隊にとって初めての本格的な戦闘が、
当初の「仮想敵国」のソ連軍と満洲の平原ではなく、
この北千島で相対することになったのも
運命のいたずらと言えた。

小田からはハンノキが遮って前が何も見えなかったが、
一段高い砲塔にいた車長兼砲手の宮沢は周囲が良く見えた。
軽戦車の車長には座席はなく、立ったまま指揮を執り、
肩から上を砲塔のハッチから出して周囲をうかがい、
操縦手の金谷に向かう方向を指示した。
言葉だけでは騒音で聞き取れないため、
右に旋回する場合は操縦手の右肩を足先で蹴り、
左旋回は左肩を蹴った。
急停止は後頭部を小突くのが合図だった。
現在の戦車のような防音対策などもなく、
小さな戦車内の3分の2はエンジンが占拠していた。

操縦手の左右には、現在の自動車の
サイドブレーキのようなレバーがあり、
「操向制動連動機」と呼ばれ、レバーはクラッチと
ブレーキに連結されていた。手前に半分だけ引くと
半クラッチ状態となり、さらに引くとブレーキが掛る。
左右それぞれが、左と右のキャタピラを制御しており、
例えば右のレバーだけをいっぱいに引くと、
左側のキャタピラだけが駆動するため、戦車は右旋回した。
九五式軽戦車
軽戦車は通常の道を走るだけならば、操縦は難しくなかったが、
戦闘中の操縦は高度の技術を要した。
敵の砲弾を回避しながら、自車から発射する砲弾の
命中率を高めるために安定走行をしなければならないからだ。
九八式三十七粍戦車砲
宮沢は中隊を代表する射撃の名手だった。
37ミリ砲を肩に担ぎ、体を動かして砲に備え付けられた
照準用の眼鏡を覗き込み、真ん中の十字に照準を合わせ、
引き金を絞り、次々に砲弾を放った。
「スターン」というかすかな音が砲塔内に響いた。
「小田。なにやっている。撃て、撃て」宮沢は怒鳴った。 

「敵が見えません」
「見えなくてもいい。前は全部敵だらけだ。
撃て。どこでもいいから撃て。乱射せい」
その声に応えて、小田は車載銃を右から左へ、
左から右へと振り向けながら機銃弾を放った。
「当たっている。当たっている。そのまま撃て、撃て」
宮沢の絶叫が聞こえた。

キャタピラによってずたずたに折られた枝が吹き飛び、
戦車に踏みつぶされたソ連兵の体がちぎれて飛んだ。
狭い軽戦車内は砲煙と機銃の白い硝煙が充満して、
小田は喉がひりひりし、目も痛かった。
足元には砲弾と機銃弾の空薬莢がバラバラとはねて転がった。

ソ連軍の小銃弾が戦車の装甲を削り、
火花とともに細かな鉄粉が飛び散った。
それが小窓から飛び込んで
硝煙の煙と入り混じって目に入り、
痛くて、小田は何度も目をしばたたかせた。
小田は「戦争とはこんなに息苦しいものなのか」と思った。
ソ連軍が攻め込んできた竹田浜
(写真提供:相原秀起)

火を噴く15サンチカノン砲
砲弾は、着弾時に炸裂して鉄片を四散させる
歩兵攻撃用の榴弾と、対戦車用の徹甲弾との
2種類を装備していた。
砲弾は砲塔部の内側の砲弾収納スペースに1発ずつ格納され、
榴弾が90発、徹甲弾20発だった。
これらは、ばね仕掛けで砲弾の尻を押すと砲弾が飛び出す。
各砲弾は通常、安全ピンによって暴発を防ぎ、
戦闘直前に安全ピンを抜くことになっていた。

徹甲弾は地面に突き刺さって爆発しないため、
宮沢は榴弾を選んだ。

戦車隊の猛攻にソ連軍は四嶺山からじりじりと後退した。
突然の戦車の来襲にソ連軍は動揺を隠せなかった。
この第一次攻撃は約40分間にわたって続いた。
各戦車は四嶺山の山麓に戻ってきた。

その時、小田は雷が落ちたような豪音を耳にした。
同時に地面が大きく揺れ、
戦車が一瞬、地面から浮き上がったような気がした。

四嶺山の山麓に設置されていた
日本軍最新鋭の96式15サンチカノン砲の砲声だった。

砲弾はロパトカ岬のソ連軍陣地に向けて発射された。

同砲の砲身は口径149ミリ、全長7メートル86センチ、
重量6.781トンあり、93式尖鋭弾、95式破甲榴弾、
96式尖鋭弾を発射し、最大射程は26.2キロにおよんだ。
大阪造兵廠第一製造所が昭和17年10月に調査した
完成数は計31門で、神奈川県三浦半島観音崎の
東京湾要塞花立新砲台や、津軽海峡を守る
津軽要塞汐首岬第二砲台、樺太南端の
宗谷要塞西能登呂砲台など、国内や朝鮮半島、
樺太の重要な港湾や主要海峡に置かれた。

対米戦を念頭に占守島と幌筵島にも、
朝鮮半島の羅津重砲兵連隊から抽出して、
両島に昭和19年夏に計4門が配備された。
この最新兵器が置かれたことだけを見ても
大本営が北千島の防衛をいかに重視していたかがわかる。

15サンチカノン砲は、狙いをロパトカ岬のソ連軍陣地に定め、
担当の砲兵らは距離や所定の仰角、方位角などの
数値諸元を割り出していたが、
終戦時に秘密書類とともにすべて焼却していた。
だがその数値を描き込んだメモが残っていた。

砲兵たちは訓練通り、カノン砲を整備し、
砲身を高く上げて、砲弾を発射した。
その砲弾は、3発目がソ連軍の弾薬庫に命中、
ロパトカ岬の砲声はやんだ。
小田はソ連軍陣地から黒い煙が上がるのを見た。

15サンチカノン砲に続いて、
10サンチカノン砲も火を噴き始めた。
高射砲は水平射撃でソ連兵をなぎ倒した。
小田は「これは勝ったな」と思った。
相原秀起(北海道新聞函館支社報道部長)
北海道新聞 動画ニュース 2013/09/11
北千島パラムシル(幌筵)島から幅約3キロのパラムシル海峡を
越えてシュムシュ(占守)島へ、チャーターしたゴムボートで
向かった。シュムシュ島は、68年前の1945年8月の終戦直後、
突如侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊の間で大激戦となり、
多数の死傷者を出した島だ。
太平洋とオホーツク海を結び、潮流が激しい同海峡だが、
この時間帯は穏やかだった。
エトピリカなど数多くの海鳥が海峡の上を飛び交う。
対岸のバイコボ(旧片岡)には、
日本時代のコンクリート製の船着き場が今も残る。
Copyright(c)The Hokkaido Shimbun Press. 
この映像の著作権は、北海道新聞社に帰属します。
シュムシュ(占守)島バイコボ(日本名・片岡)からは、
四輪駆動車で島北部の日ソ激戦地を目指した。
島最北端の国端崎(こくたんざき)までは、
バイコボから直線で26キロだが未舗装の悪路、
2時間近く掛かった。
途中、真っ赤にさびた旧日本陸軍の戦車を見つけた。
ソ連軍に反撃した戦車第11連隊だ。
国端崎にはクルバトワ岬灯台があり、
エレーナ・バルバシェワ所長(45)が歓迎。
日本時代の灯台は68年前の戦闘で壊されてすでにない。
「でも、ディーゼル発電機が置いてある建物や井戸は
日本時代からのもの。今でも大変役にたっています」
とバルバシェワ所長は語る。
Copyright(c)The Hokkaido Shimbun Press. 
この映像の著作権は、北海道新聞社に帰属します。
北海道新聞 動画ニュース 2013/09/09
北緯50度。 根室から約1200キロ、
カムチャツカ半島を望む千島列島の北千島北東端の
シュムシュ(占守)島と隣のパラムシル(幌筵)島。
現在、北海道からは最短でも4日間の行程だ。
北千島唯一の街となるロシア・サハリン州パラムシル島は、
短い夏を迎えて生命の輝きに満ちていた。
数多くのラッコが波間に浮かび、高山植物が咲き乱れる。
戦前、日本領だった島の中心街セベロクリリスク(柏原)は
今は人口約2600人の静かな町。
昼でも人通りは少ない。町から雪が完全に消えるのは6月。
わずか5カ月間に春、夏、秋が駆け足で通り過ぎる。
知られざる島の今を映像で紹介する。
 Copyright(c)The Hokkaido Shimbun Press. 
この映像の著作権は、北海道新聞社に帰属します。
(wikiより)
長島 厚(ながしま あつし、1921年 - ) は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍大尉。
2016/9/10(土) 北海道にまた行きたいなより
新書 – 2013/8/2 上原 卓 (著)
「占守島の戦いと軍使・長島厚大尉」
自由主義史観研究会2013全国大会が、
平成25年7月27日28日の2日間、
「領土教育をどうすすめるか」をテーマにして行われました。
 このビデオは「占守島の戦いと軍使・長島厚大尉」
と題した上原卓氏のお話です。Sonki Jack
 (PHP新書)新書 – 2017/7/15 
終戦後の昭和20年8月17日深夜。
ソ連は千島、北海道の占領をめざし、
千島列島北東端の占守島への侵攻を開始する。
この暴挙に対し、日本軍は敢然と反撃。
結果、戦車部隊を率いた池田末男連隊長はじめ
約300名の戦死者を出すものの、
ソ連軍には約3000名の損害を与え、侵攻を足止めした。
もし、この戦いがなければ、北海道はソ連に占領され、
日本の戦後は大きく変わっていたかもしれない。
だが奮闘した男たちは、シベリアに送られ、
さらに苦闘を重ねることになる……。
本書では、占守島で戦い、生き残った人びとの
詳細な記憶の積み重ねによって、息づまる戦場の実相、
日本軍最後の勝利の詳細、そして深くて重い
シベリア抑留の日々が克明に描き出される――。

〈ソ連軍の小銃弾が戦車の装甲を削り、
火花とともに細かな鉄粉が飛び散った。
それが小窓から飛び込んで硝煙の煙と入り混じって目に入り、
痛くて、小田は何度も目をしばたたかせた。
小田は「戦争とはこんなに息苦しいものなのか」と思った。
(本書第二章より)〉
貴重な証言から浮かび上がる、知られざる真実。

【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長
神谷幾郎氏に聞く氏に聞く 占守島の戦い[桜 H21/4/21]
大東亜戦争停戦後、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)で、
日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻してきたソ連軍を
迎え討った戦闘の生き残りでいらっしゃる神谷幾郎氏を訪ね、
当時の状況について貴重なお話を伺った
「証言シリーズ」をお送りします。 
[平成20年10月18日 三ヶ根山・士魂碑前にて]
「占守島の戦い」教科書には載ってない史実、
1945年8月15日戦争は終わっていなかった。

占守島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島の戦い
日本側は、陸軍第5方面軍(司令官:樋口季一郎中将)
隷下の諸部隊が、対アメリカ戦を予想して
占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。
1945年(昭和20年)になると本土決戦や
北海道本島防衛のため兵力が引き抜かれたが、
終戦時点でも第91師団(2個旅団基幹)を擁していた。
また、これまで北方方面はほとんど戦闘がなかったため、
食糧・弾薬の備蓄が比較的豊富であった。
さらに、満州から転進した精鋭の戦車第11連隊も置かれていた。
両軍の状況 · ‎戦闘経過 · ‎ソ連軍の上陸 · ‎時間表


戦車第11連隊 士魂碑
(愛知県幡豆郡三ヶ根山・比島観音霊場)
(平成17年4月3日)

第11戦車大隊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/第11戦車大隊
第11戦車大隊(だいじゅういちせんしゃだいたい、
JGSDF 11th Tank Battalion)は、
北海道恵庭市の北恵庭駐屯地に駐屯する、
陸上自衛隊第11旅団隷下の機甲科部隊である。
同駐屯地には第72戦車連隊も駐屯している。
 部隊マークは、”士魂”。 
1970年より「士魂戦車大隊」と称している。
これは旧陸軍の戦車第11連隊
(愛称:士魂部隊、十一を「士」と読ませたことによる)
に由来する。戦車第11連隊は満州で編成され、
大戦末期には本土防衛のため千島列島に移動していたが、
ポツダム宣言受諾後の1945年8月18日より ...
沿革 · ‎主要幹部 · ‎主要装備

特大発動艇+戦車第11連隊 - 艦隊これくしょん 
-艦これ- 攻略 Wiki*
wikiwiki.jp/kancolle/?特大発動艇+戦車第11連隊
2017/05/02 - 戦車第十一連隊は日本陸軍が
昭和15年に戦車第五連隊、戦車第九連隊要員から編成された
11番目の戦車連隊である。編成地は満州。
上級部隊はフィリピンでの戦いで有名な戦車第二師団だったが、
昭和19年に戦車第二師団指揮下を離れ占守島を含めた
千島列島の第91師団に転属する。 
通称は「士魂部隊」。
同隊所属の戦車には「士」の字をあしらったマークがついている。
命名の由来は漢数字の「十一」を縦書きで書くと
「士」と読める事からである。

第11戦車大隊 - 陸上自衛隊第11旅団
www.mod.go.jp › トップページ › 第11旅団編成

戦車第11連隊 「士魂」の由来
旧陸軍戦車第11連隊は、第11の11
(漢数字の十一)を武士の「士」(さむらい)と読み、
以後、士魂部隊と愛称しました。
(通称号:先497部隊)
【岩田義泰】証言シリーズ:知られざる戦車部隊の勇戦
[桜H22/8/25] 中編 後編

日ソ戦 占守島の戦場を調査 ロシアTV

1945年、占守島…日本を分断から救った男たち
2015年11月25日 2 3
早坂隆(ノンフィクション作家)
終戦後の「忘れられた戦い」
 日本は昭和20年(1945)の
何月何日に戦争を終えたのか――。
この問いに「8月15日」と答えない日本人は
まずいないと思います。
一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における
「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、
多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。

 しかし、「終戦の日」の2日後、
昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で
始まった戦いが存在したことについては、
知る人が少ないように思えます。
日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に
不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく
戦った「占守島の戦い」です。
現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。

 かく言う私も、占守島の戦いについて
ある程度の知識はあったものの、
「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」
を詳しく知ったのはここ数年のことです。
関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。

 樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前に
ナチスからユダヤ人を救った人物で、
占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官として
ソ連軍への反撃を命じました。
そんな樋口の手記を入口に、
私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。

運命の、昭和20年8月17日深夜
 最も印象的なのが、樋口の孫・隆一さんから伺った逸話です。
隆一さんは、季一郎から次のような話を
聞かされたと教えてくれました。

 「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。
しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、
だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。

 負け戦を語ることも大事だが、その一方で、
重要な勝ち戦があったことについても、
しっかりと語り継いでほしい……」

 自らの功を、公に喋るような人物では断じてない。
取材を通じて樋口に抱いた印象です。
そんな樋口が、占守島の戦いを「語り継いでほしい」
と漏らしたのは、なぜなのか。
樋口の胸の裡は、あの戦いの「意義」を知れば
おのずと見えてきます。

 占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、
その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。

 占守島は千島列島の北東端に位置し、
戦争当時は日本の領土でした。
なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、
南樺太も日本領として認められていました。

 昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる
占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。
ソ連と国境を接していますが、
「日ソ中立条約」を結んでいたため、
あくまでもアメリカ軍への備えです。

 しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、
相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。
ソ連は中立条約を一方的に破棄するという
明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。

 ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、
そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。
殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。
彼らは同じような手法で、千島列島の他、
南樺太までも攻略しようと企みました。

北海道までを狙うソ連の野望
 発端は、同年2月のヤルタ密約にまで遡ります。
アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、
ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に
千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。

 しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも
主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。
後の冷戦構造の萌芽ですが、
遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。

 ソ連は終戦近しと見るや、
千島列島や南樺太への侵攻を開始。
どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。
あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、
勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも
窺ったであろうことは想像に難くありません。

 結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような
分断国家になっていたかもしれないのです。
なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を
期待していました。
そんな史実も、あの戦争の一側面として
知っておくべきでしょう。

 陸軍きってのロシア通だった樋口は、
「ソ連軍、来襲」の報に接した瞬間、
ソ連の野望と日本が直面した
未曾有の危機を鋭敏に察しました。
戦後、樋口が
「占守島の戦いが今の日本の秩序や形を守った」
と指摘したのはそのためです。

 樋口は誰よりも占守島の戦いの意義を知るからこそ、
占守島で敢然と起ち上がり、肉弾と散った部下たちの姿を
後世の日本人にも知って欲しいという「本音」を
孫の隆一さんに語ったのでしょう。

故郷に帰る夢を脇に置いて
 ソ連兵が凄まじい艦砲射撃の援護の下、
占守島北端の竹田浜に殺到したのは、
8月18日午前1時過ぎでした。
ソ連軍は8,000を超えていたといいますが、
発見した偵察部隊は当初、どこの軍隊か分からず、
アメリカ軍だと思った者が大多数でした。

 <十八日は戦闘行動停止の最終日であり、
「戦争と平和」の交替の日であるべきであった。
(略)然るに何事ぞ。十八日未明、
強盗が私人の裏木戸を破って侵攻すると同様の、
「武力的奇襲行動」を開始したのであった>

 報告を受けた樋口は、当時の心境を『遺稿集』に
こう記しています。
彼は「斯る『不法行動』は許さるべきではない」
と続けており、すぐさま第五方面軍麾下の将兵に「
断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命じました。

 当時、日本軍大本営は「18日午後4時」を
自衛目的の戦闘の最終日時と指示していましたが、
樋口はソ連軍の日本上陸を水際で留めなければ、
その後にどんな惨劇が起こりかねないかを
充分に理解していたのです。

 絶対に占守島でソ連軍を食い止めなければならない。
そう考えていたのは、樋口だけではありませんでした。

 「故郷に帰ったら、何をしようか」
 8月15日の玉音放送後、第91師団の指揮下にあった
占守島の将兵たちは、酒を酌み交わしながら
談笑していたといいます。
懐かしい故郷に帰り、家族に再会できることを
心待ちにしていた者も少なくなかったでしょう。
しかし彼らは、手が届きかけていた安穏な暮らしを
脇に置き、再び武器を手に取りました。

精鋭「士魂部隊」
 占守島の日本軍の中核が、
精鋭として知られた戦車第11連隊です。

 彼らは「十一」という漢数字と「士」という
文字の連想から、「士魂部隊」と呼ばれました。
とはいえ、終戦の報せと武装解除命令で、
ガソリンも半分ほどは地中に埋めてしまい、
車輌も長時間の暖機運転が必要で、
出撃までに時間を要する状況でした。
前日には「戦車を海に捨てようか」
と話していたような状況ですから、無理もありません。

 それでも、兵士たちは寸刻を争う中、
懸命に出撃準備を進めました。
そして戦車第11連隊は18日午前5時30分に出撃し、
ソ連軍を次々と撃破。
「精鋭・士魂部隊」の名に恥じぬ奮闘を続け、
戦局を逆転させるのです。

 中には10代の少年兵もおり、
爆弾を抱いて敵陣に突っ込んだ兵士もいました。
自らの命を犠牲にしてでも、日本に暮らす人たちを、
大切な家族を守る。その想いのもと、
彼らは軍人としての
本分をあくまで全うしようとしたのです。

 戦車第11連隊において、
池田末男連隊長の存在は大きなものでした。
次のような話があります。

 池田は下着の洗濯や入浴など身の回りのことは
すべて自分で行ない、恐縮する当番兵に
「お前たちは私ではなく、国に仕えているのだ」
と語りました。
学徒兵には「貴様たちは、得た知識を国のために
活かすのが使命だ。自分たち軍人とは立場が違う」
と語ったといいます。

ソ連軍が驚嘆した戦いぶり
 池田は18日早朝の出撃に際して、

 「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を
胸にひたすら終戦業務に努めてきた。
しかし、ことここに到った。
もはや降魔の剣を振るうほかない」

 と訓示を述べました。自分たちが
「民族の防波堤になる」とも語り掛けたそうです。
心の底から信頼を寄せる池田の言葉に、
奮い立たない将兵はいませんでした。

 池田は占守島の戦いで常に先頭に立ち、
戦車の上に跨って指揮を執り、奮戦の後に斃れました。
しかし、戦車第11連隊の面々は連隊長を失ってもなお
勇戦を続け、その結果、ソ連軍は「簡単に抜ける」と
思っていた占守島で追い詰められ、
日本軍の精強ぶりに驚きました。

 ソ連軍が侵攻を開始してから4日後の8月22日、
両軍は停戦協定を締結。樋口や池田、
そして占守島の日本軍将兵すべての覚悟と奮戦が、
ソ連軍の侵攻を見事に撥ね返したのです。
死傷者は、日本軍800ほどに対して、
ソ連軍は2,300を超えました(諸説あり)。

 私はこれまで、先の大戦で戦場に立たれた
元将兵の方々に話を伺ってきましたが、多くの方が

 「戦争に対する怨みはある。
ただ、私たちは日本人としての誇りをもって戦い、
自分たちの国を守った自負もある」

 といった主旨の言葉を、時には涙を零しながら
語ってくれました。
占守島の将兵も、まさしく同じ想いであったでしょう。

知られざる樺太の悲劇
 さて、もう1つ忘れてはならないのが、
ソ連軍が北方で不法侵攻を仕掛けた地は
占守島だけではなかったという事実です。

 8月11日、ソ連軍は占守島に先立ち、
日本領南樺太への侵攻を開始しました。
樺太は千島列島以上に民間人が多く、
戦時中は40万人ほどが
居住していたと記録されています。

 日本軍守備隊は民間人を避難させながら
ソ連軍と戦いましたが、残念ながら
約4,000人もの無辜の市民が犠牲となりました。

 樺太では、「女性たちの集団自決」という
痛ましい出来事も起こりました。
真岡郵便電信局の電話交換手のうち、
9名が局内で服毒自殺を遂げたのです。
映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の題材にもなっていますが、
昭和49年(1974)の映画公開にあたっては、
各方面から圧力がかかって上映館が縮小されたともいわれ、
残念ながら多くの人々の目に触れる機会がなく、
今に至るまで史実が充分に知られているとはいえません。

 この真岡郵便局の話以上に語られてこなかったのが、
樺太・恵須取町で起きた大平炭鉱病院看護婦の集団自決です。

 8月16日、恵須取にソ連軍の空襲が始まり、
被害者が次々と病院に運び込まれると
「戦争は終わったはずなのに」と思いながらも、
目の前の救急活動に追われたと看護婦の片山寿美さん
(戦後、鳴海に改姓)は私に語りました。

 迫りくるソ連軍を前に、看護婦たちは
「最後まで、自分たちの職務を全うしましょう」と、
ギリギリまで看護活動を続けたといいます。
そして逃げ遅れた彼女たちは、
「ソ連兵に見つかったら何をされるか分からない」
と考え、自ら命を絶つ決断を下すのです。
手首を切った片山さんは
幸い朦朧としたところで救助されましたが、
23名のうち6名が命を落としました。

 なにも、自決することはなかったのではないか。
私たちが戦後の物差しで、そう語ることは簡単です。
しかし、彼女たちの脳裡には1920年、
満洲の日本人居留民がロシア人を主とする
共産パルチザンに筆舌に尽くしがたいほどの
酷い凌辱を受けた事件が強い印象としてありました
尼港事件)。

 ソ連兵の「実態」をよく聞いて育った
彼女たちが下した選択を、
私たちが軽々に論ずることはできないでしょう。
※    ※    ※
 占守島で戦った将兵や、樺太の女性たちに通じるもの。
それは、与えられた職務に誇りを持ち、
自分のためではなく人のために
全うしたということに他なりません。
そして、占守島に「日本の防波堤」
となった者たちがいたからこそ、
私たちは今の日本の国土で、
平和な暮らしを享受できているのです。

 依然、解決を見ない北方領土問題はもちろん、
現代の日本の安全保障を考察する上でも、
占守島の戦いは極めて重要な意味を持つのです。

 昭和20年8月、北方の島々で何が起きたのか。
沖縄戦などと比べて戦後、
あまりにも伝えられてきませんでした。
「忘れられた戦場」の事実を知り、
将兵たちのありのままの姿を「史実」として語り継ぐことは、
決して軍国主義でも、戦争の美化でもありません。

 占守島で戦った日本人に感謝の念を持って謙虚に頭を垂れ、
次世代へと歴史を語り継ぐことこそが、
「戦後70年」を経て「ポスト戦後70年」を迎えた現在、
私たちに必要な態度ではないでしょうか。(談)
「歴史街道」2015年12月号
2015年11月06日 歴史街道
 11月6日(金)に発売いたしました弊誌12月号総力特集
「占守島(しゅむしゅとう)の真実」につきまして、
担当編集者より、簡単に内容のご紹介をさせていただきます。

父祖の体験です! 忘れないで下さい! 子孫に伝えて下さい!
文責 山 本 晃 三
(占守島守備部隊戦死者の遺族)  
2006.8.11 作成 2010.8.11 補正

画像検索結果
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日
兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。
歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、
第9師団師団長等を歴任し、最終役職は
第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官

樋口季一郎~ユダヤ人救出、キスカ撤退、占守の戦い

…「3つの奇跡」を起こした男
2012年03月08日 2

中西輝政(京都大学教授)
『歴史街道』2012年4月号 PHP Online 衆知

その生涯において、3度もの「奇跡」を起こした樋口季一郎。
彼はどんな状況においても、
「日本人として大切にすべき人道」と
「合理的な思考に立脚した正しい決断力」を失うことはなかった。
樋口を通して見えてくる、
当時の日本の「真実」とは何であったのか。

樋口季一郎は、なぜ「3つの奇跡」を成し遂げら
れたのか
 日本はなぜ「あの悲惨な戦争」に突入したのか
――それについて戦後の日本人の多くが
暗黙の前提にしていたのが、「陸軍悪玉論」でした。
日本陸軍こそが暴走と謀略を繰り返して、
日本を「泥沼の戦争」へと導いたという見方です。
しかし、歴史をそんな単細胞的な
「悪玉論だけ」で語ること自体が、そもそも間違いです。
ようやく多くの日本人がそのことに気づいてきたようで、
歴史の真実を見直そうとする動きが、
今あちこちで現れています。

 当時の日本陸軍、あるいは当時の
日本の「真実」とは何だったのか。
それに迫ろうとするときに、非常に価値ある大切な
「歴史の素材」となるべき人物がいます。
終戦時に第五方面軍司令官を務めていた、樋口季一郎中将です。

 樋口季一郎の名は、あまり知られていないかもしれません。
しかし彼は、まさに「奇跡」ともいうべき
3つの事例に関与しています。

 1つ目は、昭和13年(1938)、
満洲のハルビン特務機関長在任中に、
シベリア鉄道経由で欧州から逃れてきたユダヤ人難民を、
満洲国に働きかけて救出したこと。
2つ目は、昭和18年(1943)、北方軍(後の第五方面軍)
司令官在任中に、圧倒的なアメリカ軍の包囲下、
玉砕を目前にしていたキスカ島の日本軍守備隊
6千名弱の将兵を隠密裏に撤退させるという
「奇跡の作戦」を成功させたこと。
3つ目は、昭和20年(1945)、日ソ中立条約を
一方的に破棄して参戦し、終戦後にも侵攻を続けた
ソ連軍に対して「断乎反撃」を命じ、
その野望を砕いたことです
(北千島の最北端の島・占守島での勝利、
そして樺太での奮闘によって、
北海道は辛くも護られたのです)。

 いずれも、容易に成し遂げられることではありません。
なぜ、樋口にはそれが可能だったのでしょうか。

 樋口は明治21年(1888)、淡路島に生まれます。
家業の廻船問屋が零落したこともあって
学費の安い陸軍幼年学校を経て、明治42年(1909)に
陸軍士官学校(21期)を卒業し、
陸軍将校としての道を歩み始めます。
その後、歩兵第一連隊での勤務を経て、
第一次世界大戦中に陸軍大学校に入学しています。

 樋口はドイツ語など多くの言語に通じ、
終生語学を得意としましたが、陸軍大学校では
ロシア語を割り振られます。これは樋口の生涯にとって、
きわめて重要な意味を持ちます。
なぜなら当時、陸軍の主敵はロシア(ソ連)であり、
しかも陸大在学中(1915年~1918年)に
ロシア革命が起きているからです。
さらに、彼が陸大を卒業した月(1918年11月)に、
第一次世界大戦の休戦協定が結ばれます。
つまり、その後の日本の歩みに重くのしかかってくる
「世界革命と総力戦」の時代に、
樋口はその圧力を最も鋭く受け止めざるをえなかった
陸軍のロシア畑を歩むことになったのです。

 陸大卒業後、樋口は情報将校として
インテリジェンスに携わり、
大正14年(1925)から3年間、
ポーランド公使館付武官を務めます。
その時、ダンスを学んで名手となり、社交界で
人気者となったことで、大いに人脈を広げました。
西洋人との社交界での付き合いを苦手とする日本人も多いなか、
樋口一流の柔軟さが見て取れる逸話です。

 当時、ソ連とドイツに挟まれたポーランドは、
インテリジェンス活動に大変な力を入れており、
ポーランド陸軍はソ連・ドイツ両国の暗号解読に
大きな成果を挙げていました。
実は樋口のポーランド在任と時を同じくして、
樋口と陸軍士官学校の同期である
百武(ひゃくたけ)晴吉がポーランドで
暗号研究に取り組んでいます。
これにより日本陸軍の暗号技術は
きわめて高度なものとなりました。

 大東亜戦争中、
ミッドウェー海戦の大敗でも明らかなように、
日本海軍の暗号は連合軍にほぼ完全に解読されており、
海軍の作戦計画はすべてアメリカ側に筒抜けでした。
これこそ日本の敗戦の最大要因といってよいでしょう。
一方、日本陸軍の暗号は最後まで解読されず、
逆に陸軍はソ連の軍事暗号を
かなりの程度解読できていたのです。

 樋口が広げたポーランドでの人脈が、
このような優秀な陸軍の暗号システムを築くことになる
百武の活動を支え、また日本とポーランドが
暗号解読を含む機密情報をやりとりできる関係
――国家間で最も探い信頼関係――
を結ぶ大切な素地となったのでした。

 樋口の柔軟さは、淡路島に生まれ育ったことと
無縁ではないのかもしれません。
関西出身の私は、淡路島の出身者と聞くと、
社交的でまろやかで、
常識に長けていて明るい人物をイメージします。
零落した商家の一人息子という点も重要です。
樋口の慎重さや理性的な側面、
また組織の壁にも挫(くじ)けない独立心と自我の強さは、
この境遇に由来するところも多いはずです。

 そんな樋口が、高い知性と合理的な思考を求められる
インテリジェンスという仕事に就き、
多くの人的交流の機会に恵まれ、
豊富な海外経験を積んだことは、
きわめて重要なことだと思われます。
あの時代のワルシャワや、樋口がよく訪れた
ウィーンなどの中欧(中部ヨーロッパ)には、
近代西洋文明の最後の輝きがありました。
日本人としてこのような「場」に触れた
感受性の高いエリートは、翻って「日本はどうか」
「日本の大切なものとは何か」を考えるようになります。
強固な愛国心と共に、必ずや、日本人が失ってはならない
普遍的な「人間性」や「人としての心」に
目を向けることになるのです。

 このような経験のなかで自らを磨いていくことで、
樋口は「広い視野」と「日本人として大切にすべき人道」、
そして「合理的な思考に立脚した正しい決断力」を
身につけていったのでした。

「人道主義の名において、私は衷心悲しむ」
 昭和12年(1937)、樋口は「関東軍の情報部長」
ともいうべきハルビン特務機関長になります。
そしてこの地で、ユダヤ人難民救出事件
――いわゆる「オトポール事件」に
直面することになるのです。

 当時、ナチスの迫害が吹き荒れる欧州から
シベリア鉄道経由で逃れてきたユダヤ人難民の満洲への入国を、
ナチス・ドイツの顔色を窺(うかが)う
日本の外務省への遠慮から満洲国が渋り、
満ソ国境の町オトポールで多くのユダヤ人が立ち往生していました。
その窮状をハルビンの極東ユダヤ人協会から訴えられた樋口は、
満洲国に働きかけて入国を認めさせ、
彼らの脱出ルートを切り開いたのです。
これは有名な杉原千畝(すぎはらちうね)の
「命のビザ」の話よりも、さらに2年ほど前のことです。
また樋口は、ハルビンのユダヤ人たちが開いた
この事件への謝恩大会で、
「今日、世界の一隅においてポグロム(ユダヤ人虐待)
が行なわれ、ユダヤに対する追及または
追放を見つつあることは、人道主義の名において、
また人類の一人として私は衷心悲しむ。
ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
と演説しました。

 これらは、当時の状況では、
決して容易なことではありません。
当初、満洲国や外務省が入国を拒んだのは、
ナチス・ドイツと防共協定を結ぶ関係にあったことを
慮(おもんばか)ってのことで、
現に、ナチス・ドイツは樋口を名指しして
日本に公式に抗議していますし、
陛軍内部でも樋口の処分論が高まります。

 また、もう1つ忘れてはならないのは、
当時日本でも「ユダヤ陰謀論」が根強く唱えられており、
陸軍内部にも四王天延孝(しおうてんのぶたか)将軍
などをはじめとして、
それに加担する一派が存在したことです。
これは事実として誤っていただけでなく、
日本の進路にとって大いに問題のある議論でもありました。
というのも当時、日本のマスコミ界ではとくに
「ユダヤ金融資本の陰謀」を書き立てる傾向が強く、
それがまた、「反英米」感情の
火に油を注ぐ結果となっていったからです。
さらに、そもそもベルサイユ会議(1919年)以降、
「人種平等」を国是のように唱えていた日本が、
本来ならば最も唾棄(だき)すべき
「人種差別主義者」ナチス・ドイツと
手を結ぶ下地にもなってしまったのです。

 このような状況下で、
「日本も満洲もドイツの属国ではないのだから、
ドイツの(ユダヤ人差別という)非人道的な国策に
協力すべき理由はない」と明言した樋口の勇気ある姿は、
その人物の大きさと共に、
日本人としての誇りを感じさせてくれます。

 ハルビン特務機関長の任を終えた樋口は、
陸軍のインテリジェンスを手掛ける参謀本部第二部長や、
金沢の第九師団長を務めた後、昭和17年(1942)に
札幌の北部軍(後に北方軍、第五方面軍)司令官に赴任します。
これは決して軍の中枢とはいえないポストですが、
この軍司令官時代に、樋口はアリューシャン列島の
アッツ島・キスカ島の戦い(昭和18年)と、
占守島の戦い(昭和20年)という
重要な局面に立ち向かうことになるのです。

 それぞれの戦いの詳細は別稿に譲り、
ここではその意義を述べたいと思います。

 アッツ島・キスカ島は、昭和17年6月に、
ミッドウェー作戦の陽動作戦として、
海軍の要請で占領したものです。
しかし、海軍はミッドウェー海戦で大敗。
そして翌年5月には、アリューシャン列島でも
米軍の本格的な反撃に直面します。
樋口は、アッツ・キスカからは早急に撤退させるか、
そうでなければ強力な増援部隊を送るように
大本営に強く働きかけますが、
この申し出を、海軍が
「燃料不足」などの理由から蹴るのです。

 当時、海軍大佐として軍令部作戦課におられた
高松宮宣仁親王も、昭和18年5月22日の日記で、
「熟田(引用者註 : アッツ島の和名)ノ守備(隊)
ヲ犬死サセル必要ハアルマイニト思フ」と嘆いておられます。
このお言葉は、重く響きます。
これは戦後あまり指摘されませんが、
海軍は当初、陸軍に派兵を要請しながら、
結果的に見殺しにしたのです。
ミッドウェーですっかり自信をなくした海軍の上層部は、
当時まだ十分な(空母)機動部隊を有していたにもかかわらず、
むやみに損害を恐れてアッツ救援のための出撃を
拒否したというのが真相です。

 大本営からアッツ島守備隊への玉砕命令が下ったとき、
樋口は号泣したといわれます。
もちろん、現場の指揮官として2千6百名の部下を
玉砕させることへの強烈な自責の念であったでしょう。
しかしそれだけでなく、海軍の不条理さによって
増援部隊を送れないことへの怒りの涙、
そしてそれを撥ね返せない陸軍参謀本部の
不甲斐なさへの悔し涙でもあったのではないでしょうか。

 樋口はそこで、
「アッツ島の将兵を見殺しにするのならば、
せめてキスカ島からの撤収作戦には
海軍が無条件の協力を約束せよ」と大本営に頑強に迫ります。
キスカ島の将兵6千の約半数は海軍陸戦隊でしたから、
海軍も「身内可愛さ」から必ず覚悟を固めるはず、
という読みもあったからです。
この樋口の強硬な主張があったからこそ、
「世界戦史上の奇跡」ともいわれる
キスカ撤退作戦が実現したのです。

 そしてもう1つ、樋口が第五方面軍司令官として
最後に下した決断が、「北海道の占領」をめざし
終戦後にも国際法を破って
侵攻を続けるソ連軍に対する、断乎たる反撃でした。

 そもそも日本は終戦時、
「整然たる降伏」にこだわりすぎました。
停戦後に一番危険なことは、丸腰になった味方が
殲滅され虐待されることであり、武装解除した後に
行なわれる敵の不法な行為によって、
決定的に国益が侵されてしまうことです。
簡単に武装解除せずギリギリまで条件交渉すべし、
というのが世界の常識なのです。

 にもかかわらず、大本営は8月16日に
戦闘行為の即時停止を命令、
そして「8月18日午後4時以降は、
自衛目的の戦闘行動も全て停止」と命じます。
「自衛目的の戦闘も停止」など、本来ありえないことです。
自衛権は、いつ、いかなる時でも許される
「人類普遍の自然権」だからです。
戦後日本の「倒錯と自虐の精神」の萌芽が、
すでにこの時点で現われているかのようです。

 それゆえ、広い世界的視野に基づく
合理的思考に立脚してその誤りを排し、
正面から反撃を加えてソ連軍撃退をやってのけた樋口は、
やはり「独りよがりの世界観」から
歩抜きん出た存在だったといえます。
日本を「分断国家の悲劇」から救った樋口のこの判断に、
すべての日本人は感謝すべきでしょう。


【樋口季一郎中将】アッツ島玉砕の悲劇が導いた、
北海道は、2018年(平成30年)に命名されて150年を迎えます。
これまで積み重ねてきた歴史や先人の偉業を振り返り、
感謝する節目と捉えながら、次の50年に向けた
未来の北海道を展望してまいります。

樺太の戦い (1945年)
(からふとのたたかい)は、太平洋戦争/大東亜戦争
末期の1945年(昭和20年)8月11日から8月25日にかけ、
日本の内地であった樺太南部で、
日本とソビエト連邦の間で行われた戦闘である。
1945年8月9日に対日参戦したソ連は、
8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。
その目的は南樺太の獲得と、
次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。

2016.11.25 01:00 産経ニュース
(5/5ページ)【日露首脳会談
【北方領土 屈辱の交渉史(2)】

占守島の戦い 
(しゅむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後
(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年
(昭和20年)8月18日 - 21日に、
千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と
大日本帝国陸軍との間の戦闘である。

 / 2016年を振り返る その2・世界編[桜H28/12/21]

https://ja.wikipedia.org/wiki/北方領土問題
ソ連の対日参戦 
8月15日 日本国民に向けて玉音放送
8月18日~8月31日 ソ連、カムチャツカ半島方面から
千島列島に侵入する(占守島の戦い)。
以後、得撫島以北の北千島を占領。
8月25日 南樺太を占領
8月28日~9月 1日 択捉・国後・色丹島を占領
9月 2日 日本、連合国への降伏文書に調印
(一般命令第一号発令。本命令により、
南樺太と千島列島の日本軍は赤軍極東戦線最高司令官に
降伏することが義務付けられた)。
9月 3日~9月 5日 赤軍が歯舞群島を占領

南樺太と千島列島のソ連軍占領は連合軍
「一般命令第一号(陸、海軍)」にしたがって行われた。
トルーマンの「一般命令第一号」原案では、
千島列島の日本軍がソ連に降伏すると記載されてなかったため、
スターリンは、ヤルタ協定に基づき、
赤軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。
トルーマンはスターリンの要求を受け入れた。
しかし、同時にスターリンが要求した、
北海道東北部の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。
他方、米国側はソ連に対し、千島列島中部の一島に
米軍基地を設置させるよう要求したが、スターリンに拒否された。

翌1946年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、
日本政府は、琉球千島歯舞群島色丹島南樺太
などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。
その直後、ソ連は占領地を自国の領土に編入している。
サンフランシスコ平和条約に調印していないソ連が
占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。
ヤルタ会談に臨む英国首相のチャーチルと
米国大統領のルーズベルト、ソ連首相のスターリン
(前列左から、米国立公文書館)
【日本史の中の危機管理 濱口和久】
『産経新聞』 2014/ 08/ 19 iRONNA(いろんな)
スターリンの野望
 69回目の終戦の日が過ぎた。
終戦直後である69年前のちょうどこの時期、
千島列島の北端で、日本軍とソ連軍との間で
戦闘が繰り広げられていたことをご存じだろうか。
 先の大戦末期の1945(昭和20)年2月4日から
11日まで、クリミヤ半島のヤルタで米国大統領の
ルーズベルト、英国首相のチャーチル、ソ連首相の
スターリンによる3カ国首脳会談が開かれた。
会談でルーズベルトは、ソ連による千島列島と
南樺太の領有を認めることを条件として、
スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。
これが「ヤルタ密約」といわれるものだ。

ヤルタ会談の2カ月後、ルーズベルトは急死。
副大統領から昇格したトルーマンは終戦工作を進め、
日本はソ連参戦と広島、長崎への原爆投下を経て
ポツダム宣言を受諾する。
そのトルーマンは8月15日、スターリンに対し、
ソ連が日本軍の降伏を受理する地域を規定した
一般命令第一号」を送付した。

外務省外交史料館 戦後70年企画 

そこではソ連軍の占領地域は満州と
北緯度以北の朝鮮となっており、
ヤルタ密約とは違って千島列島は含まれていなかった。
この内容を不満としたスターリンは翌16日、
直ちにトルーマンに次のような要求をする。
 (1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に
千島列島全土を含めること。
これはヤルタ会談における3カ国の決定により、
ソ連の所有に移管されるべきものである。

 (2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域には
北海道の北半分を含むこと。
北海道の南北を2分する境界線は、
東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線とする。
なおこの両市は北半分に入るものとする。

 あろうことかスターリンは、
北方4島を含む千島列島全島の領有を挙げたのみならず、
北海道の半分を要求してきたのである。
北海道の占領は、日本のシベリア出兵に対する
代償であると主張した。

 トルーマンからは北海道北部の
ソ連占領を認めないという返事が18日には届いたが、
スターリンはそれを無視する。

ソ連の戦史研究所所長、ボルゴドノフ大将は、
スターリンは終戦直前、
極東軍最高司令官、ワシレフスキー元帥
「サハリン南部から北海道に
3個師団の上陸部隊を出せるように準備指令を出した」
と語っている。
ブジョーンヌイ元帥(右)と話すヴァシレフスキー
<スクープ>実際にあった「北海道占領計画書」 

【動画】水間条項国益最前線 第1回後半

水間条項国益最前線レポート ブロマガ
有限会社オフィス存
近現代史研究家・ジャーナリスト水間政憲のホームページです。

 近現代史研究家の水間政憲氏は
ボルゴドノフ大将の発言を裏付ける証拠として、
ソ連の「北海道・北方領土占領計画書」を
『正論』平成18年11月号にその内容を発表している。
これを読むと、ソ連は北海道の半分どころか、
あわよくば全島の占領をもくろんでいたことが分かる。

占守島の戦い
 カムチャツカ半島の南端から海峡を隔てて10㌔余、
千島列島の最北端に、占守島(しゅむしゅとう)という島がある。
この島に、将兵の誰もが戦争は終わったと信じていた
8月18日午前0時過ぎ、カムチャツカ半島の
ロパトカ岬からソ連軍長射程砲の砲撃が開始された。
「ソ連軍、占守島に不法侵入を開始す」という電文が
北千島方面の第師団長、堤不夾貴(ふさき)中将から
札幌にある第5方面軍司令部に入ったとき、
司令部では幕僚たちが顔を見合わせるだけで
しばらく沈黙が続いたという。

 そのとき、司令官の樋口季一郎中将は、
自衛のための戦闘を命ずるべきか、
戦闘行為を禁じていた大本営の指示に
従うべきか悩んだ末、反撃命令を発した。

実際の戦闘では、ソ連軍は上陸用舟艇16隻など
計54隻の艦船、総人員8300人余りで、
18日午前2時に島北端の国端岬に急襲上陸を図った。
1日で全島を占領し、千島列島を南下する計画だったが、
日本軍の予想外の抵抗により大きな被害を出し、
変更を余儀なくされた。

 結局、ソ連軍は上陸地点にくぎ付けとなったまま、
戦闘は8月21日に終結した。
ソ連側の記録では、ソ連軍の死傷者は
日本軍をはるかに上回ったとされている。
ソ連のイズベスチヤ紙などは占守島の戦いを
「満州、朝鮮における戦闘より、
はるかに損害は甚大であった」と伝えていることからも、
いかに激しい戦闘が繰り広げられたかが想像できる。

教科書にない真実
 もし樋口中将の英断による占守島での
日本軍の頑強な抵抗がなければ、
その後のわが国はどうなっていただろうか。

 北海道はソ連軍に占領されていたに違いない。
そして満州や南樺太で起きた略奪、子女に対する暴行や
強姦が繰り返され、多くの民間人の青年が
シベリアに強制連行されていたことだろう。
さらには北朝鮮や統合前の東ドイツのように
共産主義独裁国家が北海道に誕生し、
津軽海峡を挟んで同じ民族同士で
対立していたであろうことは想像に難くない。

 ソ連の北海道占領計画は歴史の教科書に載っていないため、
学校では教えられていない。
そのため日本人の大半が知らない
「歴史の真実」となっているのである。
 (拓殖大学日本文化研究所客員教授) 

昭和20年の概念に疑問
 平成七年は戦後五十年の節目の年に当たるということで、
各種の記念的企画や行事が早くから取り沙汰されているようである。
そこでその「戦後五十年」とは元来如何なる概念なのか、
この際少々基本的なところから考え直してみる試みも
あってよいだろう。

 先づ昭和二十年八月十五日を以て大東亜戦争が
「終わった」と見られているが、この把握は正しいだろうか。
確かに、いわゆる「終戦の詔書」は
昭和二十年八月十四日付で渙発(かんぱつ)され、
それは翌十五日にラジオ放送を通じて
日本国の全軍隊と全ての一般市民に布告せられた。
その詔書の主旨は、昭和天皇が
〈非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲〉せられ、
その措置の具体的内容は
〈米英支蘇四国ニ対シ其ノ
共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメ〉
るというものだった。

 それでは天皇が政府をしてその受諾提案に
〈応セシムル〉ことを決断されたポツダム共同宣言とは
如何なる趣旨のものだったか。
これが日本に向けて発せられたのは七月二十六日のことで、
この時ソ連は未だ対日戦に参加していなかったから、
共同宣言は米(大統領)、中(政府主席)、英(内閣総理)
の三国の政府責任者の名に於いて出されており、
その主文はこの三国の代表が
〈協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ
終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ〉
というものだった。
そしてこの主文に附して
〈日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄〉は
三国の巨大な軍事力を以て最後的打撃を
加へ続けるであろうことを宣し、
その〈巨大ナル軍事力〉には原子爆弾攻撃が
含まれるであろうことを言外に、
しかしかなり露骨に示唆していた。
 日本政府はこの宣言を受けて、
相手の言う〈戦争ヲ終結スルノ機会〉を掴んだ。
その実現の第一段階として全軍隊に
〈抵抗ヲ終止スル〉ことを命じた。
政治的措置としての詔書が果たした役割は
ここ迄であり、それ以上のものではない。
世上往々にして、八月十五日は性格には
敗戦の記念日であるのに、
それを「終戦の日」と呼ぶことによって
国民は敗北の現実から眼を背けようとした、
という非難的論議が行われているが、それは当たっていない。
「終戦」という概念はポツダム宣言とその受諾という
外交的過程から自然に論理的に導きだされてきたことであって、
「敗戦」の言い換えであったという様な
意味は事実上有していない。

 問題は、昭和二十年八月十五日に生じたことは、
「終戦」という労多き大事業の第一歩を
踏み出したまでのことであって、この大事業は
一篇の詔書を以て一挙に完結できるような
生易しいものではなかった、
この事実についての認識が一般に欠けていることである。

攻撃を続行したソ連軍
 何よりも、八月九日に国境を侵犯して
満州国領内と樺太の日本領内に進撃してきたソ連軍が
日本軍の抵抗停止にも拘わらず、
八月十五日以降も攻撃をやめなかった事実があり、
さらにソ連軍が千島列島北端の占守島に
「敵前上陸」を開始したのは八月十八日の
午前二時のことだったという事も忘れてはならない。

これは冒頭に引いたほんの一節に微してみても、
相互的な義務履行の責任を課した外交文書である
ポツダム宣言への違反であることが明白である。
つまり戦争は決して八月十五日に終わっていたのではない。
千島ではそれ以後になってむしろ新たに始まったのである。

 ソ連軍の千島攻略の軍事行動は
二十年九月二日の東京湾での降伏文書への調印を
横目に見てやっと停止した
(但しその戦争目的は北海道本島への上陸・占領といふ
野望だけを除いてほぼ完全に達成された)けれども、
つまり戦闘行為は形の上では全面的に終わったが、
「戦争」はなほ続いていた。
八月末に始まった米軍主体の連合軍による
日本占領は軍事占領であって、
これは法的には戦争の一つの形態に他ならないからである。

 九月には占領という事態が現実化する。
そしていわゆる「戦争犯罪人」の逮捕、軍事裁判、
復讐的処刑という追撃戦が始まる。
報道・言論機関に対する厳重な統制、
一般市民の私信にまで及ぶ検閲体制の確立、
治安維持法違反の政治犯の釈放強制といふ
国内法への介入、神道指令を以てしての
国民道徳・習俗への攻撃、義務教育における
地理歴史の授業停止といった教育行政への介入、
財閥解体、農地解放。
こうした一連の占領政策の頂点に位するのが
ハーグ陸戦法規の締約に真っ向から違反する、
占領基本法とも称すべき
占領軍総司令部民政局即製の日本国憲法の採択強制である。

必要なのは過去の直視
 これら一連の占領政策の実施は、
連合国から日本に向けての「戦争の継続」という
観点からでなくては了解できない事態なのであり、
従って今必要なのは「停戦後」五十年の感慨に耽ることよりも
むしろこの観点からの過去の事態の直視である。

 それでは正確な意味での「終戦」の日は何時だったのか。
答えは簡単で、国際法上は、連合国との間の
平和条約が効力を発生した昭和二十七年四月二十八日である。
まだ七年先の平成十四年のことになる真の終戦五十周年を
どう扱うかはこの次の問題で、目下の急務は
戦争状態の継続としてこの六年半の占領期間中に
日本国民が背負い込んだ「負の遺産」を
どの様に処理するかという問題の方である。


CGS佐藤守 日本の軍事 第3回】

※先日、西部邁氏がいわゆる自裁死をされまして
北海道出身といっていい西部さんの動画を観ていたら
西部さんの記憶を語ってらっしゃる部分で
進駐軍である米軍らは戦車を伴ってきていて
当時のソ連を警戒していたようだと語られ
なるほど、やっぱり北海道が分断されていた可能性は
じゅうぶんにあったのですねと、つくづく実感しました。
ソ連が北海道に上陸していたら、
米軍は真ん中の大雪山をこえさせないぞということで
北海道からソ連を追っ払うつもりだったかは
私にはわかりません。
西部邁ノンストップ(2016年8月13日)
 - 大東亜戦争敗戦時の記憶

私は昭和16(1941)年6月、横浜市南区に生れ、
地元の中学・高校(横浜市立南高等学校)を経て、
昭和39(1964)年、中央大学法学部を卒業、
同年司法試験に合格し、昭和42(1967)年に
東京弁護士会に登録して弁護士となりました。

/事務所報LITS(Legal Information Tips) No.27)
 本誌第17号(平成12年2月15日号)に、
「横浜大空襲と飢餓」と題する一文を載せた。
その末尾に「米軍による横浜占領下における話は
また次回にでも」と書いたが、早いもので
あれから15年が経過した。
 そんなに長く経って続編もないものだが、
今年は終戦から70年。
改めて横浜の占領のことを書いてみようと思う。

本格占領
 8月30日午前9時半頃、横須賀では既に

米第31機動部隊から星条旗を掲げた上陸用舟艇が
次々に発進し、完全武装の海兵隊員約17,000名が上陸し、
次いで、同日11時過ぎバッジャー少将が上陸し、
鎮守府長官から施設の引渡しを受けている。

第三海兵遠征軍 - 在日米海兵隊ホームページ

 横浜関内地区及び厚木飛行場に進駐した先遣部隊の一部が、
9月1日から、鶴見・神奈川・磯子・高津(川崎)などの
軍施設や工場へ移駐しはじめていたが、
その動きは、降伏調印式以後、著しく活発化した。
 降伏文書調印後、本格占領が始まる。
9月2日午前11時半頃から、愈々横浜港の大桟橋等に、
米第8軍麾下の騎兵第1師団4~5000名が上陸を開始し、
引続き同日午後から翌3日にかけて、
第8軍の主力部隊が相次いで上陸した。
第1図 進駐部隊の主要司令部の所在地

進駐軍の展開
 進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、
9月末にはほぼ内地進駐を終え、10月には北海道の進駐
(旭川・10月6日)を完了した。
最も遅いのは松山で、10月22日である。
展開が迅速に成し遂げられたのは日本の官憲の協力に
一部を負うとしても、戦争中に上空から写真を撮影し、
これに基づいて飛行場や日本全土の道路地図を作製した
アメリカ陸海軍の空軍情報部隊による
情報活動に負うところが大きい。
日本各地への進駐兵力は、展開がほぼ終わった10月末には
総員30万人、11月末に43万人、12月中旬に45万人を超えて
ピークに達している。
 こうしてアメリカは、圧倒的な力を日本人にも、
そしてソ連にもみせつけることに成功した。

ギブミー・チョコレート
BABYMETAL - ギミチョコ!!- 
Gimme chocolate!! (OFFICIAL)

 "Give me chocolate"と言うと
米兵がチョコレートやガムを呉れたというのは本当である。
しかし我等がオンリーさんの彼は、ジープから降り、
子供たちが寄っていくと"Give me"などと言わなくても呉れた
(但し"Hello"位は言わなければならない。当たり前である)。
節分の豆撒きのように撒いたというのは、
話としては聞いたけれども私は見たことがない。
・・一部抜粋。

真岡郵便電信局事件
(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)とは、
太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が
集団自決した事件である。
当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、
1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。
真岡郵便局の電話交換手
(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、
疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。
8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、
勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、
9名が死亡した。
真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)[1]とも呼ばれる。

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、
当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、
射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる[2]
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編 シネマトゥデイ
2010/05/31 2010年7月17日(土)よりシアターN渋谷ほか順次公開 金子俊男原作の「樺太一九四五年夏・樺太終戦記録」を
『あヽ海軍』の村山三男監督が映画化した戦争映画。終戦にもかかわらず、
樺太に攻めて来たソ連軍の脅威にさらされながらも、最後まで通信連絡を行った
電話交換手9人の悲しい最期を描く。その女性たちを演じるのは、
『兄帰る』の二木てるみや『幼獣マメシバ』の藤田弓子ら。
1974年に製作されたものの、ソ連の圧力でお蔵入りになっていた
衝撃の物語に驚嘆する。配給: 太秦 オフィシャルサイトhttp://hyosetsu.com/ (C) 「氷雪の門」製作委員会
靖国神社の遊就館で終戦の日に放映されている、氷雪の門より 終戦後のソ連による樺太侵攻がもたらした悲劇 詳細は、こちらのブログに掲載されています http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-ent...

映画『樺太1945年夏 氷雪の門』 新城卓さんインタビュー
新城 (しんじょう たく、1944年2月1日 - )は日本の映画監督。
【スクープ!】真岡郵便局、「九人の乙女」の
同僚・工藤テルさんインタビュー[桜H27/8/6]
映画「氷雪の門」で知られる、樺太・真岡郵便電信局の
電話交換手の女性達の悲劇。
ソ連軍が侵攻してきたその日、非番であったために
生き残ることになった工藤テルさんに、
同僚であった「九人の乙女」達のお話をお聞きした
インタビューのさわりを御覧頂きます。 
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、
『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。
以下のページでご案内申し上げておりますので、
全国草莽の皆様のご理解、
ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
  http://www.ch-sakura.jp/579.html
【安全保障講座】樺太・真岡に散った乙女達の真実
[桜H27/1/20] SakuraSoTV 2015/08/21 に公開
日本がポツダム宣言を受諾した後も樺太・千島列島に侵攻し続けたソ連軍。
各地で日本人が虐殺されていく中、真岡に殺到する避難民を誘導すべく、
真岡郵便電信局に残留した9人の女性電話交換手達は
「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し自らの命を絶った…。
その9人の乙女の同僚で、たまたま非番であったために
運命を共にすることのなかった工藤テルさんへの貴重なインタビューを中心に、
70年前の「樺太の悲劇」と人々の思いを振り返っていきます。


日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく)は、
第二次世界大戦終了後の日本本土を連合国
分割統治しようとした計画案。
ソ連は、北方領土と北海道占領計画を持っており[1]
またアメリカもイギリス、ソ連、中華民国の連合国での
分割統治する案を検討したが、
結局、日本占領は分割占領でなく
連合国軍最高司令官総司令部による日本政府を介した
間接統治となった[2]

ソ連の北海道占領計画
ヤルタ会談でソ連は対日参戦の見返りとして
北方領土を占領することが認められていた[1]
しかし、 8月16日にスターリンは、北方領土だけではなく、
北海道の半分をソ連占領地とするよう、
トルーマン大統領に求めた[7][1]

占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、
太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の
1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、
千島列島東端の占守島で行われた
ソ連労農赤軍大日本帝国陸軍との間の戦闘である。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの軍命により
21日に日本軍が降伏し停戦が成立、
23日に日本軍は武装解除された。
捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、
単独統治 (SWNCC70/5・150/3)
8月18日、トルーマン大統領は、スター リンの要求を拒否し、
分割占領を回避することを勧告する国務省案である 
SWNCC70/5 を承認した[7][1]
8月22日、さらにトルーマン大統領は SWNCC150/3 を承認し、
日本政府を介した間接統治方式を最終的に承認した[7]

なお、スターリン8月23日に極東地域の日本軍捕虜50万人を
シベリアに移送するよう命じた[1]


2016年12月5日月曜日
【ヤルタ密約秘話】

2019年1月25日金曜日
【Front Japan 桜】アメリカが決める日露平和条約 。

  ロシア仕掛ける欧州危機。


2016年12月17日土曜日
【日露首脳会談】平和条約の重要性で一致 

2016年12月16日金曜日
【日露首脳会談】プーチン大統領帰国へ 最後に一礼、
プーチン大統領がきょう来日 北方領土問題など議論

 12月15日山口会談で領土問題解決への具体的な一歩を。



2016年10月23日日曜日
【江崎道朗の備忘録】「今上陛下はリベラルなのか? 

2016年9月6日火曜日
【Front Japan 桜】馬渕睦夫氏、ウラジオストック

2016年9月2日金曜日
【日露首脳会談】安倍首相「12月15日 山口県長門市で

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