いろんな報道: 【潜伏キリシタン世界遺産へ】日本はなぜ鎖国に至ったのか? 【CGS 茂木誠 超日本史 第17回】】。虎ノ門ニュース 大高未貴&上念司 長崎潜伏キリシタン資料館と韓国。キリスト教の伝来と大名。秀吉と伴天連【CGS 茂木誠 超日本史 第14回】。ポルトガル人来航!硝石と日本人奴隷【CGS 茂木誠 超日本史 第12回】。 【櫻LIVE】第300回 - 杉田水脈/衆議院議員 × 大高未貴 /ジャーナリスト × 櫻井よしこ(プレビュー版)。髙見三明大司教がコメント。消された信仰: 「最後のかくれキリシタン」 --長崎・生月島の人々 。潜伏キリシタンを生んだ鎖国の背景に「オランダのハッタリ」。世界遺産「潜伏キリシタン」の末裔が 「今は仏教徒」の理由。日本人がしがちな誤解を解いておこう、堀井 憲一郎。潜伏キリシタン世界遺産に=長崎など、国内22件目 -ユネスコが登録決定。

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2018年9月8日土曜日

【潜伏キリシタン世界遺産へ】日本はなぜ鎖国に至ったのか? 【CGS 茂木誠 超日本史 第17回】】。虎ノ門ニュース 大高未貴&上念司 長崎潜伏キリシタン資料館と韓国。キリスト教の伝来と大名。秀吉と伴天連【CGS 茂木誠 超日本史 第14回】。ポルトガル人来航!硝石と日本人奴隷【CGS 茂木誠 超日本史 第12回】。 【櫻LIVE】第300回 - 杉田水脈/衆議院議員 × 大高未貴 /ジャーナリスト × 櫻井よしこ(プレビュー版)。髙見三明大司教がコメント。消された信仰: 「最後のかくれキリシタン」 --長崎・生月島の人々 。潜伏キリシタンを生んだ鎖国の背景に「オランダのハッタリ」。世界遺産「潜伏キリシタン」の末裔が 「今は仏教徒」の理由。日本人がしがちな誤解を解いておこう、堀井 憲一郎。潜伏キリシタン世界遺産に=長崎など、国内22件目 -ユネスコが登録決定。

日本はなぜ鎖国に至ったのか?
【CGS 茂木誠 超日本史 第17回】】
ChGrandStrategy 2018/09/08 に公開
「超日本史」も今回で一旦終了。
今回は前回に引き続き、鎖国をしだした頃の日本のお話。
鎖国をすることになった理由は?
それでもなぜポルトガル人は懲りずにやってきた?
など知ってるようで知らない、驚きの史実が満載です! 
「世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる
教科書が教えない歴史」
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虎ノ門ニュース 大高未貴&上念司
長崎潜伏キリシタン資料館と韓国
2018/09/04
秀吉と伴天連【CGS 茂木誠 超日本史 第14回】
キリスト教の伝来と大名【CGS 茂木誠 超日本史 第13回】

ポルトガル人来航!硝石と日本人奴隷
【CGS 茂木誠 超日本史 第12回】
ChGrandStrategy 2018/08/04

【櫻LIVE】第300回 - 杉田水脈/衆議院議員 × 大高未貴
/ジャーナリスト × 櫻井よしこ(プレビュー版)
言論テレビ 2018/07/20 に公開
6:29~ 世界遺産に蠢く左翼的カトリック教会
西早稲田~長崎~韓国を結んだ反日街道報告
ユネスコは、7月に「長崎、天草の潜伏キリシタン関連遺産」を
世界文化遺産に登録しました。地元はお祝いムードにつつまれ、
メディアも無邪気に喜びの声を伝えました。
しかし、この登録の陰に隠された様々な問題を
検証したのでしょうか。
なぜ遺産登録を有利に運ぶために、遺産申請タイトルや
推薦文を途中で変えたのでしょうか、
誰が主体的にこの事案を推進したのでしょうか、
切支丹弾圧が行われた本当の理由は何だったのでしょうか、
世界中に発信される推薦文は
「第二の慰安婦問題」にならないのでしょうか。
大高未貴さんはまず長崎に入り取材を始めました。
長崎の教会を起点にして、西早稲田と韓国を結ぶ
「反日街道」が浮かび上がってきました。


非暴力 浦上から発信・高見 三明長崎大司教
2009/11/15(日) 午後 8:50
松尾竹文が全世界の皆さんに呼びかけ・表示名で拡散します。
高見三明(たかみみつあき、 1946年3月21日 - )は、
カトリック長崎大司教区の現任の大司教で、
長崎教会管区の管区大司教(首都大司教)である。

「潜伏キリシタン」世界遺産に 髙見三明大司教がコメント
国連教育科学文化機関(ユネスコ)
第42回世界遺産委員会は6月30日、
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
(長崎、熊本両県)を世界遺産に登録すると決定した。
登録されたのは、原城址(長崎県南島原市)、
大浦天主堂(長崎市南山手町)=写真=など12カ所。
江戸時代以降のキリスト教禁制下で信仰を守った
「かくれキリシタン」の独特の文化を
伝承する遺産群となっている。
国内の文化遺産は昨年の「沖ノ島」に続き18件目。
自然遺産と合わせると22件となる。

 今回の登録を受けてカトリック司教協議会会長の
髙見三明大司教は、これらの遺産が有する歴史的背景や
意義について解説した上で、
「世界遺産と認められた教会はそのほんの一部ですが、
キリシタンの繁栄と潜伏と復活の歴史を静かに証ししています。
世界遺産と認められた教会だけではなく、
他の教会を訪れるとき、それぞれの背後にある
人々の歴史に思いを馳せ、
こころの糧にしていただければ幸いです」
とのコメントを発表。
教会堂保全のための継続的な支援と、
拝観の際のマナー順守についても協力を要請した。

野村勝美「のむさんドットコム

2008年12月03日20:40 マスコミ不信日記
03年のカトリック長崎大司教就任後は、
被爆者団体代表や仏教関係者らと共に
「長崎県九条の会」の呼び掛け人にもなり、
HONZ 2 3 4 5
作者:広野 真嗣 出版社:小学館 発売日:2018-05-30
 ユネスコの世界遺産委員会で、
日本の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が
世界文化遺産に登録されることが決まった。
国内では22番目の登録遺産となる。

 この「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、
長崎から熊本にまたがる12の構成遺産からなり、
その中には、現存する国内最古のキリスト教関連建築物で
国宝の大浦天主堂(長崎市)なども含まれる。

 一時の熱狂的なブームは去ったとはいえ、
世界遺産への登録実現は、観光客を呼びたい
地方自治体にとっては悲願だろう。
今回も2015年の申請では登録に至らず、
資料の内容を修正した上で再挑戦し、登録へとこぎつけた。

 実はこの再挑戦の過程で、不可解な修正が
なされていたことはあまり知られていない。
第24回小学館ノンフィクション大賞受賞作
冒頭でいきなりこの謎を提示し、
読者を一気に歴史ミステリーの世界へと引き込む。

「守られている」が「ほぼ消滅」に
 修正されていたのは、構成遺産のひとつ、
「平戸の聖地と集落」に関する記述だ。
2014年に長崎県が作成したパンフレットでは、
次のように説明されていた。
(太字部に注目)
「平戸地方の潜伏キリシタンの子孫の多くは
禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる
独自の信仰習俗を継承していきました。
その伝統は、いわゆる<かくれキリシタン>によって
今なお大切に守られています」

 次に2017年に作り直された
パンフレットの記述をみてみよう。

「キリシタンの殉教地を聖地とすることにより、
自らのかたちで信仰をひそかに続けた
潜伏キリシタンの集落である。
(中略、禁教の)解禁後もカトリックに復帰することはなく、
禁教期以来の信仰形態を維持し続けたが、
現在ではほぼ消滅している」

「今なお大切に守られている」ものが、
3年後の資料では、「現在ではほぼ消滅している」
正反対の表現に変えられているのだ。
実に奇妙な話である。

 この修正の謎を解く鍵となるのが、
生月島(いきつきしま)だ。

 東シナ海に浮かぶ生月島は、
人口約6000人の小さな島で、九州本島からは
平戸島を介して橋でつながっており、
陸路で渡ることができる。

 この生月島は、「かくれキリシタン」の
組織的な信仰がかろうじて残る最後のエリアだ。
にもかかわらず、なぜかその信仰は、
「ほぼ消滅」したことにされているのである。

生月の信仰はカトリックとは別の独特なもの
本コラムはHONZの提供記事です

 ここで、この本の書影を見ていただきたい。
ちょんまげ姿の侍らしき人物が描かれた
不思議な画が目にとまるはずだ。
実はこの画は、生月島に伝わる
「洗礼者ヨハネ」と題された聖画である。
ヨハネは、荒野を流れるヨルダン川で
若きイエスに洗礼を授けたとされる人物だが、
生月島のヨハネは、新約聖書が伝えるその風貌とは
著しくかけ離れている。

 世間に広く流布する「かくれキリシタン」の
イメージをつくったのは、遠藤周作の小説『沈黙』だろう。
江戸幕府の禁教下で、信仰を棄てろと迫られてもなお、
それを拒んだ人々というイメージである。
もちろん当時多くの殉教者がいたのも事実だが、
この生月に伝わる「洗礼者ヨハネ」は、
そうした凄惨な歴史とはまた違った、
どこか素朴で、長閑な雰囲気を漂わせている。

 この画に象徴されるように、生月の信仰は独特だ。
たとえば「土用中寄り」という行事は、
信者が「御前様」と呼ぶ家屋の奥に座する
御神体の聖画を虫干しするというもの。
“土用”という旧暦がもとになっている上に、
“土用干し”という全国各地の農村に伝わる風習が、
長い年月の間にキリシタンの儀式と一体化している。

「かくれキリシタン」の末裔でありながら、
その信仰の形態は、カトリックとは
似ても似つかないものになっている。
だからだろう、専門家の中には、
「かくれキリシタン」の名称を、
“カタカナ表記”に改めるべきだという人もいる。

 日本のキリシタン研究の泰斗である
長崎純心大学の宮崎賢太郎教授は、
江戸の禁教期の「潜伏キリシタン」と、
明治期以降の「カクレキリシタン」を
分けるべきだと主張している。

 日本のカトリック史には、「キリシタン復活」や
「浦上四番崩れ」といった歴史的転換点があった。
詳細は本書をお読みいただきたいが、
簡単にいえば、明治期にそれまで隠れていた
信者たちが表に出てくることができるようになったのだ。
だが、もう隠れる必要がなくなったにもかかわらず、
仏教や神道、それに祟り信仰などの民間習俗と
渾然一体となった独特の信仰を続ける人々がいた。
その人々は従来のキリシタンとは切り離し、
“カクレキリシタン”と表記すべきではないか、
というわけだ。実際、宮崎氏の著作では、
「もう隠れていない」「純粋なキリスト教ではない」
という点が強調されている。

生月の独特の信仰はいささか不都合
 だが、宗教に「純粋である/純粋でない」という
線引きを持ち込むことは果たして妥当なのだろうか? 
信仰に純粋さを求めることが、歴史上さまざまな
悲劇を生んできたのではなかったか。

 本書の中で著者は、
遠藤周作の忘れられた文章を発掘している。
生月の信徒を写した写真集『かくれ切支丹』(1980年)
の巻頭エッセイの中で、遠藤は思いがけず
激しい言葉を使っている。
「かくれ切支丹は過ぎ去った時代の
ある残骸にしか過ぎぬ」
「一般の人々には
古い農具を見る以上の価値もない」

「古い農具」という言葉から感じるのは、近代人の目線だ。
遠藤は近代の視点から前近代的な信仰を
守り続けている人々を
一方的に断罪しているのではないか。

 とはいえ、明治に復活を遂げた潜伏キリシタンの
流れを汲む人々の気持ちもわからなくはない。
なにしろ宣教師が不在の250年もの間、
密かに信仰を守り続けた人々がいたという事実は、
バチカンにも衝撃を与えたほどなのだ
(ローマ・カトリック教会では「信徒発見」と呼ばれる)。
そのあまりに劇的なストーリーからすれば、
生月の独特の信仰は、
いささか不都合なものだったのかもしれない。

 だが、暮らしに溶け込んだ生月の人々の信仰が、
私たちの心に訴えかける力を持っているのも事実だ。
ある神父が著者に述べた、
「彼らの方が、教会が置き忘れてきたものを
持っているかもしれない」という言葉が胸に響く。

公式記録から消された枢機卿の面会
 聖人ザビエルの渡日400年となる1949年、
日本はかつてない熱狂に包まれた。

 ローマ教皇特使として、教皇に次ぐ地位にある
ギルロイ枢機卿が来日したのだ。
実は枢機卿はこの時、教皇ピウス12世の親書を携えており、
生月の信者代表らと面会し、信仰組織全体で
改宗するよう諭したとされる。
だが、生月の人々は、
たとえカトリックの最高幹部を前にしても、
自分たちの信仰を変えなかったという。
ちなみに、この面会の事実は、公式記録からは消されている。

 著者は、この謁見の場に臨席していたという老人の親族から、
その最期を聞き取っている。老人が亡くなった時、
その右手は、まるで十字を切った後のように、
親指が胸の上に立てられていたという。

 彼はきっと自らが信じていた
「パライゾ」へと旅立ったのだ。
なんと幸せな人生だろう。

 本書はスリリングな歴史の謎解きの中で、
「信仰とは何か」を問いかける良書だ。
この夏、彼の地を旅してみたいという人は、
ぜひ本書を携え出掛けてほしい。
首藤 淳哉 1970年生まれ。大分県出身。
ラジオ局で番組制作を担当。「本を読む」ことと
「飲み食いする」ことをただひたすら繰り返すという
単調な生活を送っている。
妻子持ちだが、本の収納などをめぐり年間を通して
家庭崩壊の危機に瀕している。
太っているのに綱渡りの日々。
好きなジャンルはノンフィクション、人文、サイエンス系。

カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰 (角川ソフィア文庫)
作者:宮崎 賢太郎
出版社:KADOKAWA
発売日:2018-02-24

潜伏キリシタンを生んだ鎖国の背景に
このほど世界文化遺産に登録された
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。
世界的にも珍しい信仰が生まれた背景には、
豊臣秀吉の伴天連追放令(1587年)や
徳川時代の鎖国体制下で徹底された
「キリスト教の禁教化」がある。
歴史作家で『ざんねんな日本史』著者の島崎晋氏が、
「潜伏キリシタン」を生んだ「鎖国体制」の
意外なエピソードを紹介する。
 * * *
 戦国時代の後半は西欧の大国による
大航海時代の中盤と時期が重なり、
世界進出では先行していたスペインとポルトガルを
後発のオランダとイギリス、フランスなどが
猛追する状況にあった。
日本国内では九州の諸大名に西洋との関係構築に
積極的な者が多く、豊後の大友宗麟や
肥前の有馬晴信をはじめ、キリスト教に改宗して
キリシタン大名と化した者も少なくなかった。

 織田信長が西洋人に敬意を表し、
キリスト教の布教を許可したうえ貿易も奨励したのに対し、
豊臣秀吉は伴天連追放令を発布するなど、
キリシタンの急増に過敏なまでの拒絶反応を示した。
徳川の世になるとキリシタンだけではなく、
西洋人そのものが排除の対象とされ、
三代将軍家光の治世には、いわゆる鎖国体制が完成された。
オランダを除く西洋諸国との交流が完全に断たれたのである。

 徳川幕府が鎖国へと大きく舵を切った背景には、
キリシタンの信仰の篤さがかつて三河国でも
猛威を振るった一向一揆と重なって見えたことにある。
現に九州のキリシタン大名から
町ごと教会に寄進された地域では、
神社仏閣の破壊や日本人が奴隷として
海外に売られるという事態が起きていた。
このまま放置していたら、
一向一揆以上の脅威になるのではないか。
こうした不安が幕府の外交方針を
鎖国体制の構築へと向かわせたのだ。

 この状況を巧みに利用したのがオランダだった。
西洋の大航海時代はスペインとポルトガルが先陣を切り、
スペインからの独立戦争継続中のオランダと
イギリスがそれに続くかたちだった。

 イギリスが北米大陸を重視したのに対し、
オランダは最初からアジアに的を絞った。
ときにインド洋から南シナ海、東シナ海一帯は
ポルトガルの独壇場と化していたが、
総人口の絶対的な少なさからすぐに息切れが始まり、
それに乗じたオランダは、スリランカやマラッカ、
台湾などの重要拠点を次々に奪取していった。

 かくして東南アジアの島嶼地域は、
フィリピンと東ティモールを除いては
オランダの勢力圏に取り込まれた。
オランダの次なる狙いは鉱物資源豊かな日本で、
オランダは何としても対日貿易を独占したかった。
目的を達成するためには手段を選ばず、
幕閣(幕府の最高首脳部)の耳に
聞き捨てならない情報を吹き込んだ。
キリスト教の国にはカトリックと
プロテスタントの二種類があり、
前者は布教と貿易が必ずセットだから、
交流をやめたほうがいい。
オランダのようなプロテスタントの国は
布教と貿易をはっきり分けているから、
経済面の付き合いだけで大丈夫、心配は無用。
今後はオランダだけを相手にするのがよい──と。

◆なぜポルトガルと断交したか
 島原の乱の平定された寛永一五年(一六三八)時点、
日本の最大の貿易相手国はポルトガルだった。
そのためポルトガルとの関係を断った場合、
オランダにその穴を埋める実力が
あるかどうかの不安があった。

 当時の幕府がポルトガルとの貿易に頼っていたのは
中国産の生糸や織物、薬、乾物などであったが、
その点に関してはオランダにも自信があった。
マカオと東ティモールは依然としてポルトガル、
フィリピンもスペインの手中にあったが、
東シナ海の制海権はオランダの手中にある。
そのため中国の産品を絶え間なく
供給することには何の問題もなかった。

 これで対日貿易の独占は確実かと思いきや、
オランダにはもう一つの障害が残されていた。
それは幕閣の中に、日本からも船を出し、
対外貿易に乗り出してはとの声があったことである。

 そんなことをされては元も子もない。
そこでオランダは脅しをかけることにした。
日本の貿易船が外洋に出れば必ずスペインと
ポルトガルの船から襲撃される。
最悪の場合、スペイン・ポルトガル両本国との
全面戦争になるが、そこまでの覚悟はあるのかと。

 これは完全にオランダによるはったりで、
スペイン・ポルトガルが地球の裏側にまで
大艦隊を派遣するなどありえないことだった。
一四九四年、教皇アレクサンデル六世の仲介のもと、
両国が西経四六度三七分をもって
世界分割を約したのは事実だが、
そんな一方的な条約が
国際的にまかり通るはずはなかった。
しかし、地球の大きさを実感できず、
海外事情にも疎い幕閣を
説得するには十分な効果をあげた。

 かくして江戸幕府はポルトガルとの断交にも踏み切り、
対外貿易の相手国を西洋ではオランダだけとしたのだった。

※島崎晋・著『ざんねんな日本史』
(小学館新書)より一部抜粋
【プロフィール】しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。
歴史作家。立教大学文学部史学科卒。
旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て
現在は作家として活動している。
著書に『日本の十大合戦 
歴史を変えた名将の「戦略」』(青春新書)、
『一気に同時読み!世界史までわかる日本史』(SB新書)、
『知られざる江戸時代中期200年の秘密』
世界文化遺産に正式に登録されたことを受け、
カトリック長崎教区の
髙見三明大司教が公式コメントを発表した。
同教区は、潜伏キリシタン関連遺産の構成資産の1つである
「大浦天主堂」(長崎市南山手町)の所有者。
高見大司教は「関連遺産が世界中のすべての人々にとって
価値を有すると認めていただいたこと、
日本初のキリスト教関連の世界遺産となることを
大変ありがたくうれしく思います」と述べた。

関連遺産の世界遺産登録は、
2001年に登録を目指す会が発足してから、
名称変更など紆余曲折を経て、17年かけて実現した。
髙見大司教は各方面の関係者に感謝の意を示し、
関連遺産は「日本における470年に及ぶ、
他に類を見ないキリスト教の歴史につらなり、
それを物語る『証し』」だと述べた。

公式コメントでは、イエズス会の
スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルらによる
キリスト教伝来から、徳川家康による禁教令と
それに伴うキリシタンの殉教と潜伏、
そして幕末に建設された大浦天主堂に
潜伏していた信徒が現れた「信徒発見」など、
一連の歴史を概観。キリスト教が伝来した当初、
1600年代初頭には日本の全人口約1200万人のうち
50万人近くまで信徒が増えたと推測されることや、
禁教令により殉教者が数万に及んだこと、
表面的には仏教徒を装いながらも、
秘密組織を作って潜伏しながら
信仰を守り通したことなどを紹介した。

禁教下の状況については
「キリストを信じること自体が違法でしたので、
『改心』すなわち棄教か、いのちを失うかの
二者択一を迫られるという理不尽な扱いを受けましたし、
周囲からは差別も受けました」と指摘。
「しかし、信者たちは為政者に抗うことなく、
声に出さずとも信教の自由という基本的人権を貫き、
この世限りのものよりも神への信仰を優先させ、
永遠に価値あるものを希望し続けました。
彼らのこの生き方は崇高でさえあります」とつづった。

「世界遺産と認められた教会はそのほんの一部」としつつも、
「キリシタンの繁栄と潜伏と
復活の歴史を静かに証ししています」と述べた。

1946年に長崎市で生まれた髙見大司教は、
潜伏キリシタンの家系に生まれ、
妊娠中の母の胎内で被爆した胎内被爆者でもある。
コメントでは「世界遺産と認められた教会だけではなく、
他の教会を訪れるとき、それぞれの背後にある
人々の歴史に思いを馳せ、
こころの糧にしていただければ幸いです」と述べた。

長崎教区では、関連遺産の世界遺産登録を記念して、
7月15日(日)午後7時から、
大浦天主堂で特別講演会を開催する。
長崎県世界遺産登録推進課の岩田正嗣氏が
「ユネスコが認める普遍的価値」、
長崎教区司祭の古巣馨(かおる)神父が
「カトリック教会から見た意義」と題して講演する。
参加無料。詳細はホームページを。

世界遺産「潜伏キリシタン」の末裔が
「今は仏教徒」の理由
2018.07.02 16:00 2  
NEWSポストセブン
 6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が
バーレーン・マナマで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)
の会議で、世界遺産に正式に登録された。
構成資産の所在地で暮らす「潜伏キリシタンの末裔」たちの
喜びの声が様々なメディアで紹介されたが、
実は彼らの中には現在、「キリスト教徒ではなく仏教徒」
という人たちがいるという。一体どういうことなのか。
新著『消された信仰』で“かくれキリシタン”の
知られざる歴史と現在を描いたジャーナリスト・
広野真嗣氏がレポートする。
 * * *
 九州本島の北西端に位置する平戸島の最高峰、
安満岳(標高538メートル)の西の谷筋には、
中腹からの斜面を埋め尽くすように棚田が広がる。

「全国にはいろんな棚田がありますが、
『春日の棚田』はちょっと違う。
私たちの先祖が代々、棚田を開拓しながら、
潜伏キリシタンの信仰を引き継いできた。
その苦労が報われたという思いで、感激です」

 そう話すのは、人口わずか60人ほどの
「春日」の集落の寺田一男さん(68歳)だ。
平戸島西岸は1549年のザビエルの上陸後、
イエズス会が日本で初めて民衆の一斉改宗を断行した地域だ。

 そして、16世紀末から平戸を治める松浦藩は禁教に転じる。
キリシタンの信徒たちは表向き仏教徒を装い、
安満岳への山岳信仰とキリスト教の神を重ねて拝むことで、
ひそかに信仰を続けた。
こうして禁教下で信仰を守った信徒たちが
「潜伏キリシタン」と呼ばれている。

 ただ、取り締まりを逃れるためとはいえ
「仏壇にも手を合わせる」といった信仰形態は、
一神教であるキリスト教の教義とは矛盾をはらむ。
明治になって禁教が解かれた後、
再布教のために宣教師を派遣したバチカンの賢者聖省は
これを異端とみて、キリスト教とは認めなかった。
宣教師たちは改めてカトリックへの改宗を求めたが、
それに応じることなく先祖が守った信仰形態の継承を
選んだ人たちがいたのだ。
「春日」の集落の寺田さんの家もそうだった。

「春日」の集落は、今回の世界遺産登録において、
禁教期に信徒たちが生業を営んだ遺構が
そのまま残されているとして、
12ある構成資産の一つに選ばれた。
寺田さんは、集落に残っていた
独特な信仰形態についてこう説明する。

「この集落にはキリシタン講という信仰組織があって、
私の家は麻縄をなって束ねた『オテンペンシャ』という
御神体を代々、守ってきた家なのです。
地域に病気の人が出ると『ちょっとまじないに来てくれ』と
私の家に声がかかり、御神体を持って出かけていったものでした」

 オテンペンシャは、信心に用いる鞭(むち)だ。
かつて中世のキリスト教の信仰に、信徒が鞭で体を打って
「悔い改め(ポルトガル語でペニテンシャ)」に
努める習慣があった。
春日のキリシタンの間では、
病を祓う道具として大切にされてきた。

 だが戦後、春日では後継者不足から信仰組織は先細り、
寺田さんの祖父の死後、平成に入って途絶えている。
寺田さんは、祖父がこの信仰を“残したい”という
思いを滲ませていたことをよく覚えているという。

「私が小学校に上がる前ですから、
60年ほど前のある正月のこと、祖父が何も言わず、
私を集落近くの高台に連れ出したことがありました。
そして西の沖合いに浮かぶ中江ノ島に向けてお祈りを始めた。
先祖が続けてきた信仰の姿を孫の私に
一度だけでも見せたかったのかもしれません」(寺田さん)

 中江ノ島は17世紀初頭、藩当局に捕らえられた
キリシタンたちが処刑され、殉教聖地となった無人島で、
やはり構成遺産の一つに選ばれている。

 平成の世になって春日のキリシタン講は途絶えたが、
並存してきた仏教の信仰は続いている。
春日の住民はみな真言宗の寺(平戸市中野町の妙観寺)の檀家で、
寺田さんはその総代を務めている。
世界遺産の喜びに沸く「潜伏キリシタン」の子孫が、
現在は「キリスト教徒」ではなく「仏教徒」なのだ。

 ちょっと妙な話に思えるが、今回の世界遺産を機に
考えるべきことのカギが、ここにあると筆者は考えている。

 イエズス会の宣教師が伝えた教えを源流とする信仰と、
仏教や神道を“同時並行”で拝む
──それが潜伏キリシタンたちの姿であり、
禁教が解かれた後に、
「神仏を捨ててカトリックになった人たち」と
「神仏も拝み続け、潜伏期の信仰形態を守った人たち」
の両方がいたのだ。

「春日」では潜伏期の形態を守る信仰組織が失われたが、
現在も組織的な信仰が続けられている地域がある。
平戸島のさらに西方にある東シナ海に浮かぶ離島、
「生月島(いきつきしま)」だ。
この島の信仰の歴史と現在は、
拙著『消された信仰』に詳述したが、
九州西岸各地に存在した信仰集落の中でも、
最もまとまったかたちで
伝統が保存されている地域である。

 だが、生月島は今回の構成資産に入っていない。
県が作ったPR用のパンフレットからも、
その存在は消されているのだ。

 今回の世界遺産登録の意義は、どこにあるのか。
これは単に、
「キリスト教が250年以上にわたる禁教と
弾圧を乗り越えた」ということへの評価なのか、
それとも「先祖が命がけで守ってきた
信仰形態を守ろうとする深い信心」にも
敬意を示す機会と捉えるべきなのか。
歓喜に沸く中で、一度立ち止まって考えてみたい。

【プロフィール】ひろの・しんじ/1975年東京生まれ。
慶應義塾大学法学部卒。
神戸新聞記者を経て2002年猪瀬直樹事務所に入所。
2015年フリーとなり、昨年末『消された信仰』で
第24回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
【須田慎一郎】 2018年7月2日 飯田浩司のOK! Cozy up!
今朝のニュース AM1242 / FM93 ニッポン放送 http://www.1242.com
飯田浩司のOK! Cozy up!
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コメンテ―タ― 須田慎一郎(ジャ―ナリスト)
(毎週月~金曜日 6時00分~8時00分放送)
●パーソナリティ 飯田浩司(ニッポン放送アナウンサー)
●アシスタント 新行市佳(ニッポン放送アナウンサー)
7月2日(月)今朝のニュースは…

▼「潜伏キリシタン」世界遺産に登録決定 リンク
長崎・熊本の関連遺産「潜伏キリシタン」世界遺産に
(2018/07/01 06:20) テレ朝ニュース

世界遺産登録 地元は歓喜 潜伏キリシタンの子孫も
(18/07/01) テレ朝ニュース


これだけは言っておきたい
堀井 憲一郎 コラムニスト プロフィール
2018年07月01日 2 3 4 5 現代ビジネス
大浦天主堂を建てたのは誰か?
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の
世界遺産への登録が決定された。

ニュース映像では、たびたび教会の映像が流れていた。
大浦天主堂や黒島天主堂である。

見逃しそうなところだけれど、しかし考えてみると、
奇妙な取り合わせである。

「潜伏キリシタン」はキリスト教徒であることを隠し、
「潜伏」していたから(表面上は仏教徒であったから)
潜伏(隠れ)キリシタンなのであって、
その文化に「どこから見てもキリスト教の象徴」である
教会は存在しないはずだ。

日本独自の文化である潜伏キリシタンと、大浦天主堂は、
本来は直接関係がない。
大浦天主堂は潜伏キリシタンが建てたものではない。

しかしニュース映像では、教会を映したいのだろう。
日本人が見たときに、あ、キリスト教徒の文化が
登録されるのだ、とわかりやすい。

大浦天主堂は、フランス人が自分たちのために
長崎に建てた教会堂である。
建てられたのは元治元年(1865年)だから
明治マイナス3年、つまり3年後が明治元年になるという、
幕末ぎりぎりの建立である。

日本人が、キリスト教を信仰するのは犯罪だった時代だから、
日本人信者のための教会ではない。

ただ、建立してまもなく、
浦上村の潜伏キリシタンがここを訪れ、
自分たちもカトリック教徒である、
とフランス人神父に告白した。
そういう「隠れ(潜伏)信徒の発見」の場所であるため、
今回の「潜伏キリシタン遺産」に入っている。

しかし、その告白が遠因となったのだろう、
しばらく経ってから浦上村の潜伏キリシタンは
それまでの埋葬方法を拒否した。
つまりキリスト教方式による埋葬を
自分たちでやろうとしたのだ。

残念ながら、フランス人の教会が建立されようと、
日本人のキリスト教信仰は犯罪である。
幕府に通報され、浦上村の信者は大量検挙され、
やがて流刑になり、流刑先で多くの信者が死んだ。

浦上四番崩れ、と呼ばれる事件である。

浦上村の史上四回目の信者摘発、という意味の呼称である。
つまり江戸期を通して、それまで三度、同様の摘発があったのだ。

本部からの「勧告」
教会堂として単体で登録されるのは、
この大浦天主堂だけである。

他のものは「長崎の教会群」で申請されたときは却下され、
周辺の「潜伏キリシタン施設」を含めたものとして、
つまり風景の一部として、申請しなおされたものである。

そういう教会には以下のものがある(カッコ内は建設完成年)。

黒島天主堂(1902年。初期建立は1878年)
旧五輪教会堂(1881年のものを1931年に移築)
旧野首教会(1908年。初期建立は1882年)
出津天主堂(1909年。初期建立は1882年)
大野教会堂(1893年)
頭ケ島天主堂(1919年)

もっとも古いものが、久賀島の五輪教会堂1881年建立であるが、
それはこの島の入り口に近い浜脇地区に建てられた教会を、
1931年(昭和6年)に五輪地区の山のエリアに移築したものである。

ここへはいまだにクルマで行けないらしい。
最後は山道を10分ほど歩くため、雨天やその直後には
到達困難との案内がある
(それで世界遺産として大丈夫なのかしら、
とちょっと心配ですが)。

たしかに他の教会に比べると、日本家屋のような建築で、
西洋建築が本格化する前の、土着の教会という雰囲気がある。
潜伏キリシタン時代に近い感じがしている。
でも、潜伏キリシタンの施設ではない。

ほかの施設は明治の後半から大正時代に建てられたもので、
西洋建築が流行していた時代の立派な教会堂である。

なかでも黒島天主堂が象徴的存在なので、
ここもニュースで映されていた。

立派な西洋建築で、威風堂々という印象を持った。

でも「潜伏キリシタン」(関連)施設として
紹介されているのは違和感がある。
映像だけを見たとき、一瞬、ここはキリシタンが
繋がれた牢獄かなんかだったのか、
と奇妙な連想をしてしまった。
キリスト教信仰が犯罪だった時代は、
見つかれば牢獄に繋がれてたわけだから。

最初、長崎の古い教会群を世界遺産に申請していたのが、
潜伏キリシタン施設に限って申請しなさい、
と勧告されたのは、そこに日本の独自性があるからで、
その勧告の意味はすごくわかる。

ただ、残念ながら「潜伏」の文化である。
キリスト教徒であることが外側からわかってはいけない文化だ。

隠れていた人たちの文化遺産というのは、
犯罪者が仕方なく残した証拠のようなもので
(実際にキリストを祀る道具が見つかれば
犯罪者として捕縛される状況だから、比喩ではない)、
人を圧倒するようなビジュアルを持っていない。

言ってしまえば地味である。

その背後にある精神史まで見ないと、
感得できない遺産であり、おそらく指示した本部は
そういう意味合いを持たせていたのだろう。

しかし、残念ながら、日本人には
あまり“キリスト教文化理解の基盤”がないようにおもう。

クリスマス歴史の新書
(『愛と狂瀾のメリークリスマス』)を書くために
日本のキリスト教史を調べて以来、
とても強く感じていることである。

潜伏か、隠れか
そもそも「潜伏キリシタン」という言葉にあまり馴染みがない。

今回の世界遺産報道で初耳という人もいるだろう。

ふつう「隠れキリシタン」と呼ばれている。

「鎖国」が「海禁」とされているのと同じく、
歴史の視点を変えて、
それに沿って歴史用語も変えていくようである。
ただ、この変換が
「新しい発見によって
いままでの概念では通用しなくなったから」
ではないように見える。
潜伏キリシタン』(大橋幸泰=著、2014年刊)
の説明によると、こういうものである
(ちなみに当書は新しい知見に満ちた刺激的な好著である)。

隠れるように活動していたことは事実なので、
江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが
直ちに誤りだとはいえないが、
「潜伏キリシタン」の呼称を使うのは、
明治時代以降、禁教が解除されていったにもかかわらず、
隠れるように活動していた
近現代のキリシタン継承者との差異を意識するためである。
江戸時代のほうはむしろ潜伏状態にあった、
というのがもっとも事実に近い。

幕藩体制下に弾圧されたキリシタンは、
明治政府によって解放された――。
このように思われている「日本社会の近代化」は、
歴史の真実なのだろうか

つまり、完全な禁教下で、見つかれば殺される
(つまり犯罪者として死刑になる)可能性の高い時代の信仰を
「潜伏」、表立った禁教が解かれた時期以降、
それでも隠れて活動していたキリシタンを
「隠れ」と分けているのである。
一瞬、なるほどと納得してしまうが、
しかし日本語として考えてみるとよくわからない。

「隠れ」と「潜伏」の使い方の差異が明確ではない。
そもそも「犯罪を犯した者の長期逃亡」を必ず
「潜伏」というわけではない。

「彼は隠れている」
「彼は潜伏している」

この二文の違いをどう感じるかという問題である。

たしかに潜伏のほうが、やや強めな印象を受けるが、
あくまで印象でしかない。
どちらも自分の意志で身を隠しているという意味に取れる。
外的な要因によってやむなく、という意味が、
どちらかに必ず含まれているわけではない。

わかりにくい。

しかし学術用語を決める権利は学者にあるのだがら、
学者がそういう意味で使っているなら従うしかない。

ただ、「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の意味の違いは、
通常日本語の範疇ではわかりにくいのはたしかである。
あまりセンスのいい言い換えではない。

明治政府もキリスト教を禁じていた?
「潜伏キリシタン遺産」はいくつも登録されており、
かなりの長い期間にわたる遺産が並ぶ。

ただ、じつは
「日本ではいつ、キリスト教の禁教は解かれたのか」
というポイントがはっきりしておらず、
少しわかりにくくなっている。
禁教時代の終わりが明確ではないのだ。

「徳川幕府が倒れて、明治になったら
キリスト教は許されたんじゃないの」、
とざっくり考えている人もいるだろう。でもそれは違う。

明治新政府は、べつだん開明的な存在ではなかった。

古い徳川政府から新しい明治政府になって
世の中がすべてよくなった、というのは、
明治政府自身がしきりに流し続けた
政治的プロパガンダであり、
現実はかなり違う。

明治新政府は、キリスト教は禁教のまま、
その信者は強く弾圧した。

政府発足当初は、仏教さえも外来宗教として扱い、
神仏分離令を出して、
全国の寺々の仏像が壊された時代を作った政府である
(その廃仏毀釈の騒動はわりと早々におさまったが)。
キリスト教信仰など認めるわけがない。

五箇条の御誓文とほぼ同時期に「五榜の掲示」を布告し、
キリスト教禁止を明確に打ち出している。

キリスト教は「解禁」されていない
秀吉が1587年に布告した伴天連追放令に始まった
キリスト教禁教の流れは、徳川幕府も継承し、
1610年代に禁教令を次々と出し、
1637年の島原の乱以降、
国内のキリスト教徒を一掃する政策を打ち出した
(俗に鎖国政策と呼ばれる
「キリスト教徒の殲滅施策」である)。

明治政府もその流れを継承した。

キリスト教信仰は引き続き禁止。

ただ、徳川時代とは状況がかなり違う。

なにせ、横浜や築地あたりに限られるにしろ、
異人さんがそこにいるのである。

キリスト教徒が我が物顔で歩いてる時代のキリスト教禁教は、
それまでと変わらざるをえない。

またキリスト教を信じる日本人を捕縛し、
牢に放り込んでいるのを知った西洋列強は、
強く非難しはじめた。欧米を歴訪している政府高官たちから、
キリスト教禁止を緩めないと、
条約改正がうまくいかないと報告もあり、政府も譲歩していく。
しかし明確に「これから日本人がキリスト教を信じても、
罪とはしません」と国民に向かって明言したことはついになかった。
ずっと「黙許」でしかない。


日本のキリスト教に多くの人が
興味ないのはしかたがないことであるが、
そのポイントだけは押さえておいてほしい。

「明治政府は発足時に「キリスト教信仰は禁止」と明言したあと、
その禁止を取り消すことは一度もなかった」
つまりキリスト教信仰解禁の年、というのは、
政府の公式発表を追う限り、日本史上、存在していないのである。

今回の潜伏キリシタン世界遺産への報道では、
「1873年にキリスト教解禁」という文字が見えた。

どうやら、それが歴史的事実という認識があるようだ。

残念ながら、錯誤である、というしかない。
世界キリスト教史に、わざと錯誤されるように流された情報であり、
日本史としては、間違っている、というべき事項である。

少なくとも「解禁」という事実はない
(日本人がなぜ、日本史側から追わないで、
世界キリスト教史から追おうとするのか、
その態度も問題だとおもうが)。

明治政府の公式見解
1873年の解禁と言われるのは
「五榜の掲示の撤去」のことである。

「五榜の掲示」は明治政府の民衆への五つの禁令である。

「五輪の道の遵守」
「徒党して強訴や逃散することの禁止」
「切支丹邪宗門の禁止」
「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」
「郷村からの逃散禁止」

これは新政府樹立のとき(戊辰戦争の真っ最中)に
打ち出された新政府の禁令である。
徳川時代と同じく、高札に書かれ、辻々に立てられた。

この五榜の掲示の立て札が1873年(明治6年)に撤去されたのだ。

各キリスト教国は、これにて
日本国はキリスト教信仰を認めたとして、自国へ打電した。

しかし、明治政府の見解は違う。

この撤去のあと、
イギリスの新聞が
「日本政府はキリスト教徒を処罰する法典を廃棄した」
と報じたのを見た外務省が驚き、
太政官政府にこれは本当なのかと問い質した。 

政府の回答は
「高札の文面は人民があまねく熟知したので、
取り除いたまでである。もとよりキリスト教を
黙許するという意思はない」というものであった。

高札での告知では、これからあらゆる分野の新法典を
公布していくのに追いつかないので、
告知スタイルを変えただけで、
書かれた内容は今後も続行である、というのが、
政府が行政機関に告知した内容である。

これが明治政府の公式見解だというしかない。

1873年の日本政府には
「もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」のである。

ひねり出された苦肉の策
じつは、明治政府がとった立場はダブルスタンダードだった。

外国に対する態度と、日本人に対する態度を変えていたのだ。

簡単に言えば
「日本人に向かってはキリスト教信仰は禁止」
「外国人に向かっては、キリスト教に対して
宥和的態度をとりはじめたかも、
と勝手に誤解したとしても、敢えて否定しない」
という面倒な両面である。

日本の国際的な評判を落とさないための苦肉の策である。

五榜の掲示を撤去したことによって、
キリスト教宥和に動き始めたと勝手に誤解した外国人たちは、
あえてそのままにしておいた。
それは違う、まだキリスト教信仰は許してない、
とこちらから出向いて通告することはしなかった。
それは世界相手に喧嘩を売るようなものだからだ。

日本人に向けては、
「日本人のキリスト教信仰は今後も認めない」
という態度は崩していない。
おそらく明治6年という時期に、
日本人のキリスト教信仰を認める、
などという衝撃的な発表をすると、
日本国中が大きく動揺し、政府転覆勢力に利用される、
という恐れを抱いたのだろう。

理由はどうあれ、200年間、
犯罪者だと指定していた切支丹を
いきなり解き放つと聞かされたら、
ふつうの庶民はただ驚いて怖がるだけである。
思想的背景まで考えて喜ぶ庶民が多かったとはおもえない。
だから切支丹禁制は継続である。

そういうダブルスタンダードである。

国際的立場の弱い国の政府判断としては、
しかたのないところだったのだろう。
正論だけを通したり、本音をぶちまけてしまっては、
政治は成り立たない。苦しい政治判断である。

この前年、1872年(明治5年)には
「自葬の禁止」を通達している。

自葬の禁止というのは、仏式か神道式でしか
埋葬をしてはいけないというものである。
日本人のキリスト教式の埋葬は「自葬」とされ、
たびたび捕縛されている。
明治政府による明確なキリスト教信仰禁止
(信仰は犯罪とする)という告知である。

明治6年に、その自葬禁止の令は継続中である。

日本人には、キリスト教信仰を許さず、
目立つ布教などは取り締まっていた。

そして黙許へ
1875年(明治8年)には、
函館でのキリスト教布教が妨害されたので、
イギリス領事が抗議したところ、
外務卿(つまり外務大臣)寺島宗則はこう答えている。

「耶蘇教(キリスト教)はいまもって
我が政府の制禁するところであって、
いまだこの制禁を廃したことはない」

こうイギリス領事へ明言している。

1875年になってもキリスト教信仰は
「解禁」されたとはいえない。

外務省のトップがそう通告し、
それが記録として残っている。

何度か、キリスト教解禁を告知すべし、
とキリスト教国側から要求されたことがあるが、
明治政府は絶対それに応じなかった。

ついぞ「日本人のキリスト教信仰を認める」とは
一度たりとも告知していない。

ただ、取り締まらなくなっただけである。
つまり黙許である。

だから、日本国内でキリスト教信仰が許された年は、
明確には特定できない。

これが歴史事実に対する謙虚な態度だとおもう。

あまりテレビで「1873年キリスト教解禁」という
文字を出さないほうがいいとおもいます
(インターネットや雑誌でもですけど)。

それは、私たちは、自国日本のキリスト教の
歴史についてさほど関心を持っていない、
と表明しているようなものだ。
キリスト教徒に対して優しい気持ちで言っているようでいて、
じつは真逆の態度になっている。

大日本国憲法下の「信教の自由」
「自葬の禁止」は1884年(明治17年)に規制が解かれる。

人種や宗旨にかかわらず、その土地で死んだ者
(およびその土地に本籍を持つ者)は、
そこに埋葬していい、ということになった。

地味な政令であるが、これがかなりわかりやすい
キリスト教信仰“黙許”の政令である。
ひとこともキリスト教に触れてないが、そういうことである。
1884年(明治17年)はひとつのわかりやすい黙許の転換点である。

明治政府樹立当初の理念のひとつに
「神道」を国の中心に置くことがあった
(少なくとも狂信的にそれを目指す集団がいた)。

しかしいくつかの挫折があり10年で諦めざるをえなくなった。

その明治10年までは、政府首脳は
(幕末の志士上がりの元勲たちは)、
日本人のキリスト教信仰を認めるつもりは
まったくなかったとおもわれる。
あらたな宗教的理念を作り出そうとしているときに、
そんなものを解き放つわけがない。

しかし神道国教化は失敗する。やがて民権運動も起こる。

明治10年代(1877-1886)に入り、
社会は別のタームへ入りだした。

その状況で、キリスト教信仰は黙許されるようになったようだ。

民衆レベルでは、キリシタンであると告白すると、
かなりの差別を受けたようだが
(ときに宣教師が暴力的に襲撃されることも起こった)、
政府が弾圧することは、なくなっていく。

1889年発布の大日本国憲法には信教の自由の条文がある。

キリスト教信者である、ということだけで、
捕縛され処刑される可能性は低くなった。

「なくなった」のではなく「低くなった」というのは、
この信教の自由の条文には留保事項があるからだ。

「安寧秩序を妨げす及び臣民たるの義務に
背かざる限において」信教の自由を有す、とされている。
日本国の安寧秩序を妨げたり、
臣民の義務に背くような宗教であれば、
断固、取り締まるというもので、
そこにはキリスト教徒を想定しているようにおもえる。

明治政府の立場からじっくり見ると、
常にキリスト教信仰は警戒されており、
国家安寧の敵になる可能性を
秘めていると見なされていただろう。

日本人とキリスト教の距離感

今回の世界遺産には、各時代の遺産が登録されている。

鎖国以前の島原の乱の戦場である
「原城跡」がもっとも歴史的に古い。
ただ、この時代のキリシタンは
「棄教しなかった者たち」であり、
潜伏キリシタンとは少し違う。

鎖国時代(1639年から1853年)が、
まさに潜伏キリシタンの時代である。
この時代の遺物を中心にキリスト教遺産が選ばれている。
しかし、見た目は地味である。

たぶんその地味さゆえに、
幕末開国期(1853年から1867年)、
明治禁教期(始まりは1868年、
終息は1880年代から1890年代)の
「西洋ものらしい文物」が取り入れられている。
わかりやすくいえば「古い教会堂」である。

目立つアイコンが欲しいからだろう。

おそらく、どこまで行っても、
キリスト教文化は日本人にとって異文化なのだ。

観光施設の目玉として
シンボリックな「教会群」を何とか入れたい。

ただそうしたことによって
「潜伏キリシタンの遺産」という
イメージがわかりにくくなってしまった。
繰り返しになるが、潜伏と教会は、基本、両立しない。

そのあたりは、世界遺産センターの指示と、
地元の思惑とが、少し行き違っている感じがする。

潜伏キリシタン世界遺産に=長崎など、国内22件目
2018/06/30-19:491 2 時事通信社
バーレーンの首都マナマで開催中の
国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は
30日、日本が推薦していた
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
(長崎、熊本両県)を世界文化遺産に登録すると決定した。
文化庁が同日発表した。

曲折経て登録実現=苦難の歴史、後世に-潜伏キリシタン世界遺産

 国内の世界文化遺産は、
昨年の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」
(福岡県)に続き18件目。自然遺産を合わせると22件目。
 登録されるのは、キリスト教が禁じられた江戸~明治初期に、
既存の社会、宗教と共生しながら信仰を守り続けた
潜伏キリシタンの集落や、島原の乱の舞台となった
原城跡(長崎県南島原市)、
国宝の大浦天主堂(長崎市)など12件。
 事前審査したユネスコの諮問機関は、
「禁教期にもかかわらず、ひそかに信仰を継続した
独特の文化的伝統の証拠だ」と評価。
30日の審議でも、「ユニークで傑出した歴史を語る
価値ある世界遺産だ」などと登録を支持する意見が
各国から相次いだという。
 政府は当初、キリスト教伝来から弾圧を経て
復活するまでの歴史的価値を伝える
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、
2015年に推薦書を提出。
しかし、諮問機関から日本の特徴である
禁教期に焦点を当てるべきだとの指摘を受け、
いったん取り下げて構成資産を絞った上で、
17年に再推薦していた。
奄美・沖縄地方の4島(鹿児島、沖縄両県)も

自然遺産に推薦していたが、5月に諮問機関から
「登録延期」との勧告を受けて取り下げた。
 今年2月に文化遺産として推薦した
「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)の審査は来年行われる。

2018年6月28日木曜日
【国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産】

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