慰安婦問題について、いろんな報道: 【昭和天皇の87年】産経ニュース、観察力と記憶力は抜群 “科学者天皇”の片鱗も。共同通信、「戦前も平和を念願しての外交」昭和天皇、元侍従日記に。昭和天皇85歳(1987(昭和62)年4月)、ご心情  故小林忍侍従の日記に記述、「細く長く生きても仕方がない。 戦争責任のことをいわれる」。天皇陛下が戦争を終わらせた理由 【CGS ねずさん 日本の歴史 13-1】。昭和天皇、ご巡幸。皇室と北海道。第277話 天皇のお蕎麦。「昭和天皇実録」 皇太子時代 生涯に影響与えた欧州の旅。「ご聖断」ソ連参戦で決意

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2018年8月25日土曜日

【昭和天皇の87年】産経ニュース、観察力と記憶力は抜群 “科学者天皇”の片鱗も。共同通信、「戦前も平和を念願しての外交」昭和天皇、元侍従日記に。昭和天皇85歳(1987(昭和62)年4月)、ご心情  故小林忍侍従の日記に記述、「細く長く生きても仕方がない。 戦争責任のことをいわれる」。天皇陛下が戦争を終わらせた理由 【CGS ねずさん 日本の歴史 13-1】。昭和天皇、ご巡幸。皇室と北海道。第277話 天皇のお蕎麦。「昭和天皇実録」 皇太子時代 生涯に影響与えた欧州の旅。「ご聖断」ソ連参戦で決意

画=豊嶋哲志
昭和天皇の身の回りの世話をする侍従を長年努めた
珍しい虫を見つけたので、裕仁親王に見せに行った。
すると裕仁親王は、「ああ、それはこの本にある」といって
ドイツの動物絵本を取り出し、
100ページ以上もある挿絵の中から
迷わず同種の虫を指し示した-。

 内相や首相を歴任した大正期の有力政治家、
原敬が保管していた「迪宮(みちのみや)殿下
御心意状態」に記されている、
裕仁親王9歳の頃のエピソードだ。
 同文書にはこのほか、明治43年度の報告として、
学習院初等学科3年の裕仁親王の発育状況が、
具体例とともに記されている。

 「年齢及学年ノ増進ニ伴ヒテ 
体力及諸心力ノ発達 非常ニ著シクアラセラレ 
学事上ニ関スルコトハ勿論(もちろん) 
其他一般日常生活 殊ニ遊戯等ニ於カセラレテハ
 一層知的ニ進マセラレ 
高尚複雑ニナラセラレシノミナラズ (中略)
従来ノゴトク単ニ架空的想像的ノモノヨリモ
 漸々実際的ニナラセラレタリ」

 養育担当者らの報告なので、
割り引いて考えなければならないが、体力も知力も、
周囲の期待以上に向上していたといえるだろう。

 「意志モ常ニ鞏固(きょうこ)ニアラセラレ 
学習院ノ規則其他何事ニテモ一度規定アラセラレタル事ハ
 極メテ正確ニ守リ遊バサル サレド又少シニテモ
納得アソバシカヌル事ノアラセラルヽ時ニハ 
飽クマデモ追及アソバサレ 然ル後服従アラセラル」

 同文書では、この頃の裕仁親王の長所として、
観察力と記憶力が優れていること、動物や昆虫の採集、
分類、標本づくりなどの才能が際立っていること、
人を思いやる心があることなどを挙げている。
その半面、たまに規則を
自分の都合のよいように解釈することや、
授業で発表するときの発音
(とくに濁音や促音など)に
問題があることを指摘する(※1)。

 担当教員らの回想によると、学業では算術が良くでき、
次いで理科、地理、歴史などが得意科目だった。
一方、不器用なところがあり、
図画や手工、体育は不得意だったという。

 気になるのは、やや神経質ともいえるほど潔癖な面が、
年少期からみられたことだ。
机上など「常ニ整然トシテ一糸乱レズ 
弟宮方ノ御机上トハ格段ノ御違ヒ」であり、
雑誌なども号を順番にそろえて整理しておく性格だった。

 学友の松平直国は、
「ゲームの時にはよく曖昧なことを我々がやることに対して、
相当な抗議をなされました」と述懐する。

 こうした性格は、のちに大きな長所にもなれば、
短所にもなりかねないおそれがあった(※2)。
× × ×
 ところでこの頃の昭和天皇実録にも、
裕仁親王の成人後の性格や言動につながる
エピソードが幾つか盛り込まれている。

 明治43年夏、9歳の裕仁親王は、海で小魚を捕まえたり、
山で虫取りしたりするのが何より好きな少年だった。

 8月1日《(神奈川県葉山の御用邸に滞在中)
海岸ではしばしば魚介類や藻類を御採集になり、
また御用邸近傍の地においては捕虫網にて蝶などの
虫捕りを行われることが多く、
捕獲された昆虫類は標本箱にて御整理になる》
(3巻46頁)

 8月3日《午前、子爵松平乗承(のりつぐ)参邸につき
謁を賜い、妹尾秀美ほか著『日本有用魚介藻類図説』の
献上をお受けになる。
(中略)同書はその後もお手許に留め置かれ、
御愛読になる》(同頁)

 8月28日《西洋罫紙(けいし)に「てふとがとせゝり」
(蝶と蛾とセセリチョウ)を題に、鉛筆にて
「本州に居るもの」とお書きになり、
名和昆虫研究所工芸部製作「蝶蛾鱗粉(りんぷん)転写標本」
により五十種ほどの名称を抜粋し、
分類してお書き取りになる》(同巻50頁)

 のちに生物学研究で10冊以上の専門書を著す
“科学者天皇”の素地は、この頃から備わっていたようだ。

 生涯を通じての相撲好きも、
初等学科時代から本格化していた。

 43年3月6日《皇后より拝領のゼンマイ仕掛けの
力士玩具などにてお遊びになる。
なお、この頃親王は御学友・側近等と相撲を取られるほか、
御自ら四十八手を御考案になるなど、
相撲に格別の御興味を示される》(同巻15頁)

 同年6月6日《雍仁(やすひと)親王・宣仁親王と共に
馬車にて両国の国技館にお成りになる。
東京大角力(すもう)協会員等の奉迎を受けられ、
(中略)貴賓席において力士の土俵入り
及び取組を御覧になる》(同巻33頁)

 角力観戦に付き添った側近の記録によれば、
裕仁親王はこの日、当日の取組表を手元に置き、
時々「最近角力便覧表」を取りだしては東西力士の年齢、
身長、体重、得意技を比較して勝敗を予想するなど、
「格別御興味深ク御観察」していたという。

 大関国見山の熱戦の後、裕仁親王は言った。
 「国見山、はじめ『突出し』で後で
『咽喉輪(のどわ)』よ。そうしてまた突いたの」
 一瞬のうちに決まり手を正しくみてとった観察力に、
側近は舌を巻いた。

 もう一つ、当時の昭和天皇実録に
たびたび記されていることがある。
両親である皇太子同妃をはじめ、家族との触れ合いだ--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)例えば「あべこべ」を「あぼぼけぺべ」、
「あたたかい」を「あたかい」などと発音した。

(※2)昭和天皇の4歳下の弟、高松宮は
昭和19年7月8日付の日記に、
「陛下(昭和天皇)の御性質上、組織が動いているときは
邪なことがお嫌ひなれば筋を通すと云ふ潔癖は
長所でいらつしやるが、組織がその本当の作用を
しなくなつたときは、どうにもならぬ短所となつてしまふ。
今後の難局には最もその短所が大きく害をなすと心配されるので、
さうしたときの御心構へなり御処置につき今からお考へを
正し準備をする要あり」「お上(昭和天皇)は
筋を踏み外すことが全くおきらひなため、
内大臣は政治向き、武官長は軍事、宮内大臣は宮中関係、
侍従長には側近のことと云ふ風に全くそれから
少しでも出たことを申し上げれば御気色悪く、
自らも決して仰せにならぬ」と記している
(原文はカタカナ)。
【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』2、3巻
○原敬文書研究会編『原敬関係文書 別巻』
(日本放送出版協会)に所収の「迪宮殿下御心意状態」
○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』
(長野新聞)所収の石井国次謹話「御学事と御武勇」
○同『聖上御盛徳録』所収の松平直国謹話
「御学友としての思ひ出」
○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)
○高松宮宣仁親王記『高松宮日記』7巻(中央公論社)


昭和天皇の侍従だった小林忍氏の日記の詳報は次の通り。
(表記は原文のまま。共同通信まとめ
昭和天皇「細く長く生きても…」 元侍従の日記に発言
特集:皇室とっておき
 1974年4月26日 田中氏から宮殿菊の間
つつじ庭の桐(きり)の花が咲き始めたとの連絡あり、
お上に申しあげたところ、お庭にお出まし。
お供してつつじの庭左側の桐というのでみて
回られたがわからずじまいで、
場所を確かめておくようにとのおおせ。

 5月5日 午前御散策。(中略)お上が最初
「小林、暑ければ上衣をとっていいよ」とおっしゃられた。

 9月13日 佐藤達夫氏(※注1)の献上の
アヅマシライトの所で
「遺品だな。持って来た人は死んでしまった。
遺品だな」とおっしゃった。しんみりさせられた。

 9月25日 東宮四殿下御参(中略)礼宮やんちゃで
広間のドラを一発ならす。 
75年4月28日 今日は沖縄…※一部

戦争責任「言われつらい」 昭和天皇、
元侍従に心情吐露
2018.8.23 8:47 共同通信

85歳の昭和天皇、戦争責任なお苦悩 側近に心情吐露
08/23 02:42 更新 北海道新聞
■元侍従の小林氏、日記に記す
 昭和天皇が85歳だった1987年(昭和62年)4月に、
戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと
元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。
共同通信が22日までに日記を入手した。
昭和天皇の発言として
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。
辛(つら)いことをみたり
きいたりすることが多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、
戦争責任のことをいわれる」と記述している。

2018.8.23 02:00 産経ニュース
「細く長く生きても仕方がない。
昭和天皇が85歳だった昭和62年4月に
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。
辛(つら)いことをみたり
きいたりすることが多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、
戦争責任のことをいわれる」と漏らしていたことが
22日、元侍従の小林忍氏が残した日記の記述で分かった。
 先の大戦を経験した昭和天皇が晩年まで
戦争責任について気にかけていた心情が
改めて浮き彫りになり、重要史料といえる。
62年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記され、
昭和天皇がこの前日に
住まいの皇居・吹上(ふきあげ)御所で、
当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。
当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。
 小林氏は昭和天皇の侍従になった
49年4月から平成12年6月まで日記をつづった。
共同通信が遺族から日記を預かり、
昭和史に詳しい作家の半藤一利(かずとし)氏と
ノンフィクション作家の保阪正康氏とともに分析した。
(日記の引用部分の表記は基本的に原文のまま)

「長く生きても…戦争責任いわれる」 
昭和天皇85歳 大戦苦悩
2018年8月23日 朝刊 東京新聞
昭和天皇が八十五歳だった
一九八七(昭和六十二)年四月に、
戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の
故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。
共同通信が二十二日までに日記を入手した。
昭和天皇の発言として
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。
辛(つら)いことをみたり
きいたりすることが多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、
戦争責任のことをいわれる」と記述している。 
 日中戦争や太平洋戦争を経験した
昭和天皇が晩年まで戦争責任について
気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。
小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、
日記は昭和後半の重要史料といえる。
 八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、
昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、
当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。
当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。
この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。
 小林氏はその場で
「戦争責任はごく一部の者がいうだけで
国民の大多数はそうではない。
戦後の復興から今日の発展をみれば、
もう過去の歴史の一こまにすぎない。
お気になさることはない」と励ました。
 既に公表されている先輩侍従の
故卜部(うらべ)亮吾氏の日記にも、
同じ四月七日に
「長生きするとろくなことはないとか 
小林侍従がおとりなしした」とつづられており、
小林氏の記述と符合する。
 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、
誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。
直近では、八六年三月の衆院予算委員会で
共産党の衆院議員だった故正森成二氏が
「無謀な戦争を始めて
日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」
と天皇の責任を追及、
これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。
八八年十二月には長崎市長だった故本島等氏が
「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、
波紋を広げるなど晩年まで度々論争の的になった。
 昭和天皇は、八七年四月二十九日に
皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で
嘔吐(おうと)し退席。この年の九月に手術をし、
一時復調したが八八年九月に吐血して再び倒れ、
八九年一月七日に亡くなった。
 小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった
七四年四月から、側近として務めた香淳皇后が
亡くなる二〇〇〇年六月までの二十六年間、
ほぼ毎日日記をつづった。
共同通信が遺族から日記を預かり、
昭和史に詳しい作家の半藤一利氏と
ノンフィクション作家の保阪正康氏と共に分析した。
<お断り> 「小林忍侍従日記」からの引用、
記述部分の表記は、基本的に原文のままとしました。

◆心奥触れる「昭和後半史」
<解説> 昭和天皇の侍従だった故小林忍氏の日記には、
晩年まで戦争の影を引きずる
天皇の苦悩が克明につづられている。
アジアの国を侵略した大日本帝国を率い、
太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ天皇の脳裏に刻まれた記憶が、
最期まで頭から離れなかったことが改めて確認できる。
貴重な「昭和後半史」だ。
 昭和天皇は「戦前も平和を念願しての外交だった」
(一九七五年五月十三日)と吐露したり、
「細く長く生きても仕方がない」
「戦争責任のことをいわれる」(八七年四月七日)と
弱音を漏らしたりしていた。
戦時中、学徒動員された二十二歳年下で
一侍従の小林氏に信頼を寄せ、
胸中を直接、明かした。
戦争責任を問う世評に
神経をとがらせる内情がにじむ記述だ。
 アジアの国にも配慮を見せている。
八〇年五月二十七日の記述には、国賓として来日した
中国の華国鋒(かこくほう)首相に
「陛下は日中戦争は遺憾であった旨
先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は
今更ということで反対の意向とか」とある。
小林氏は昭和天皇の考えに賛意を示すが、
幹部が、中国侵略を正当化する
右翼の反発を懸念し、封印してしまう。
 戦前の青年将校によるクーデター未遂で
閣僚らが犠牲になった
「二・二六事件」(三六年)があった
二月二十六日は毎年、「慎みの日」としていた
記述も多数ある。既に公になっているエピソードだ。
「臣下」を失った悲しみは、癒えることはなかった。
 敗戦から七十三年。戦争の記憶が遠くなる中、
昭和天皇が晩年、どういう思いで
「大戦」に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ。
 (共同・三井潔)
天皇陛下が戦争を終わらせた理由
【CGS ねずさん 日本の歴史 13-1】
ChGrandStrategy 2017/12/15
戦争を終わらせた天皇陛下の想い
【CGS ねずさん 日本の歴史 12-10】
ChGrandStrategy 2017/12/08


1954年08月12日 の出来事 えんがる歴史物語
昭和天皇・皇后両陛下が北海道の実情をご視察のため、
旭川から北見に巡幸の途中、13時23分、遠軽駅にご到着、
駅正面玄関まで臨幸されました。
日の丸の波と万歳の声のとどろく中で
奉迎の人々の歓呼に応えられ、
公設グランドの奉迎場では
列車を一分間停車し奉迎しました。



皇室と北海道 昭和43年の行幸啓より
去る昭和四十三年は明治維新百年の記念すべき年。
臨時大祭を厳かに斎行されました。
藤枝弘文官司以下衣冠の祭員が多数ご奉仕され、
まごころこもる臨時大祭。

北海道巡幸昭和天皇の全国巡幸
しかし、警備に万全を尽くせないという理由で
巡幸実施は見送られていた。
血のメーデー事件、吹田事件、大須事件といった
騒擾が相次ぎ、各地で労働争議が頻発していた。
昭和二十九年になってようやく情勢が沈静化し、
朝鮮戦争の休戦、駐日米軍の拡充、
自衛隊の発足など好条件が重なって
十分に安全が確保できるようになり
北海道巡幸実施が決定した。  

 北海道巡幸は、昭和二十九年8月7日、
青森港から御召船「洞爺丸」で函館港に入り、
十七日間で函館、大沼、長万部、室蘭、登別、
苫小牧、夕張、岩見沢、旭川、上川、北見、
美幌、網走、弟子屈、阿寒湖、釧路、帯広、
富良野、小樽、千歳を巡った。
昭和天皇は道内すべてを巡ることを希望したが、
日程の都合により稚内地方と根室地方は外された。
この北海道巡幸では、御不予の時を除いて、
ほぼ全行程にわたり皇后陛下が昭和天皇に同行されている。

  函館港では、七十隻の汽船と二百隻のイカ釣舟が
満艦飾で歓迎の意を表し、二十一発の花火が打ちあげられた。
昭和天皇御到着の様子は、その当時放映が始まったばかりの
テレビに映し出された。
多くの人々が街頭に据え付けられたテレビで
昭和天皇御到着の様子を視聴した。
植樹する昭和天皇

 今回の巡幸の道筋から外れた道北の人々が
昭和天皇の御姿を一目見ようと旭川に一斉に押し寄せた。
そのため旭川は十五万人の人出となり、
旭川行きの列車は超満員、臨時バスまで出る騒ぎとなった。
全国巡幸は佳境を過ぎたとはいえ、
依然として多くの国民を熱狂させたのである。  

 北海道各地を巡った後、
8月22日に昭和天皇は札幌に戻られ、
国体会場で開会の辞を賜った。
翌23日が北海道巡幸の最終日で、
昭和天皇は最後の視察先である月寒種羊場を御視察後、
一路千歳に向かわれた。
帰路は千歳から羽田まで飛行機である。
これが昭和天皇にとって初めての空の旅であった。
足かけ八年半、全行程三万三千キロ、
総日数百六十五日に及ぶ昭和天皇の全国巡幸は
ここに旅の終わりを結んだのである。

  全国巡幸はこうして幕を下ろしたが、
まだ一箇所のみ昭和天皇が御訪問になっていない場所があった。
沖縄である。
当時はまだ沖縄はアメリカの占領統治下にあった。
沖縄が本土復帰を果たすのは
昭和四十七年年5月15日になってからである。  

 復帰後三年経った昭和五十年には皇太子殿下
(現天皇陛下)と皇太子妃殿下(現皇后陛下)が、
沖縄国際海洋博の開会式に出席するために沖縄を訪れになられた。
ひめゆりの塔に亮殿下が花束を捧げ、
その前で説明に聞き入っていると、
突然二人の闖入者が火炎瓶と爆竹を投げつけた。
幸い怪我人はなかったが、この事件が起こったために、
昭和天皇が毎年毎年沖縄巡幸を希望されていたのにも拘わらず、
警備上の理由で巡幸が見送られることになった。
しかし、度重なる昭和天皇の御懇望と
知事や県民からの数多くの陳情により
1987年に沖縄県での沖縄巡幸が実現する運びとなった。
残念なことにこの計画は実現することはなかった。
昭和天皇が病に伏され
昭和六十四年1月9日に崩御されたからである。
昭和天皇は、沖縄巡幸への思いを次のようにお詠みになっている。
 思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを

御製
みづうみの面にうつりて小草はむ牛のすがたのうごくともなし
ひさかたの雲居貫く蝦夷富士のみえてうれしき空のはつたび
松島も地図さながらに見えにけりしづかに移る旅の空より
浜の辺にひとりおくれてくれなゐに咲くがうつくしはまなすの花
なりはひにはげむ人人ををしかり暑さ寒さに堪へしのびつつ
えぞ松の高き梢にまつはれるうすももいろのみやままたたび
水底をのぞきて見ればひまもなし敷物なせるみどりの毬藻
うれしくも晴れわたりたる円山の広場にきそふ若人のむれ


●「いろいろ苦しいこともありましょうが、
どうか力を落さず国家のため尽くすよう希望します。
なほ、ここに来られない方にも伝えて下さい」
(昭和29年8月11日)

 北海道巡幸の際に昭和天皇は旭川の奉迎場で
遺族席に足をお運びになり遺族を励まされた。 

●「綺麗だな」(昭和29年8月13日)
 北海道巡幸の際に昭和天皇は小清水海岸を歩き、
エゾカクラナデシコを見つけ思わずこう呟いた。

●「皇后が来られなくて残念でした」
(昭和29年8月14日)
北海道巡幸の際にご体調を崩された
皇后陛下を残してお一人で札友内小学校
ご訪問になった昭和天皇はこうおっしゃって
皇后陛下の不在を謝罪された。

●「もうパンは飽きた」(昭和29年8月15日)
 北海道巡幸の際、昭和天皇は洋食が続くのに
閉口された際のお言葉。
8月15日から和食に改められたが、皇后陛下が
御不予のためにお粥しか召し上がることが
おできになれないとお聞きになると、
昭和天皇もお粥で通された。

●「北海道は一番開発の余地があると聞いていますから、
合理的・科学的にしっかり開発してください」
(昭和29年8月21日)
北海道巡幸の際に昭和天皇は、
道庁で知事の奏上をお受けになったが、
その中でも泥炭地開発に特にご興味を示され、
こうおっしゃった。

●「本日ここに全国各地から選ばれた
諸君の元気あふれる姿に接することは
私の深く喜びとするところであります。
諸君は本大会の使命に鑑み、
明るく正しい日ごろ訓練した力を
遺憾なく発揮するとともに、
今後ますます心身の育成に努め、
国運の進展のため
貢献されることを望んでやみません」
(昭和29年8月22日)

 札幌で開催された第九回国民体育大会開会式
臨御された昭和天皇はこうおっしゃった。
北海道巡幸の日程は国体の開催に
あわせて設定されたのである。

●「こういう人たちの苦労によって、
北海道が開拓されたということがよくわかった」
(昭和29年8月22日)
北海道大学で昭和天皇は、
高倉新一郎教授から「松浦武四郎と北海道」
について奏上をお受けになり、ご感想を述べられた。

●「顧みれば、昭和21年以来全国各地を回り、
直接地方の人たちに会い生活の実情に触れ、
相ともに励ましあって国家再建のため
尽くしたいと念願してきたが、
今回の北海道旅行によって
一応その目的を達成出来て満足に思っている」
(昭和29年8月23日)
北海道巡幸を終えられ還御される前に
昭和天皇は全国巡幸についてご感想を述べられた。


釧路市 竹老園の歴史
1954年( 昭和29年 )
天皇、皇后両陛下、竹老園の蘭切りそばを召し上がり、
天皇のお代りを招く。

1958年( 昭和33年 )
皇太子殿下、竹老園に来園される。

1959年( 昭和34年 )
高松宮殿下、妃殿下、竹老園に来園される。

1960年( 昭和35年 )
秩父宮妃殿下、竹老園に来園される。

1984年( 昭和59年 )
皇太子殿下、美智子妃殿下、
湿原展望台敷設レストランにて
竹老園のそばをお召し上がりになる。

竹老園 東家総本店|
こちらは、天皇、皇后両陛下が召し上がった
「蘭切りそば」です。

卵切りの卵(らん)を蘭の字に当て、
竹老園 東家総本店の雰囲気に合わせて
「蘭の花」を表現した「蘭切りそば」は、
つなぎに卵黄を使ったお蕎麦。
純白の上更科粉は卵黄の色と風味によって
格別なものに仕立てられ、
噛めば噛むほど口の中に甘みが広がります。

1954年(昭和29年)釧路の六園荘に
天皇陛下がご宿泊された際、
「蘭切りそば」が大変美味しいと
「おかわり」を御所望されました。
伊藤徳治氏は涙を流して喜ばれたそうです。
このエピソードは今も語り継がれています。

【竹老園東家の蕎麦コース】
【寄蕎麦切恋御歌】

「天皇のお蕎麦」として知られる老舗蕎麦屋がある。
明治7年創業の「竹老園東家」だ。
北海道・釧路が本店だというから、
近くに行った折に寄ってみた。
古来より、わが国は何かにつけて五穀豊穣を願ってきた。
その五穀というのは、
米・粟・麦・小豆・大豆のことを指しており、
蕎麦は入っていない。
だから、室町時代あたりから宮廷で
麺が食べられるようになっても、
それは小麦粉製品の素麺であった。
とはいっても、蕎麦切をまったく口にしないわけではなかった。
たとえば、江戸前期の歌人冷泉家14代為久(1686~1741)が
霊元上皇から蕎麦切を賜ったときに献じたという
寄蕎麦切恋御歌」が残されているが、
それを見る限り宮廷でも江戸前期ごろには
薬味に葱を添えた蕎麦切が食べられていたようである。

呉竹の 節の間もさへ 君かそば きり隔つとも 跡社離れめ
とわまほし そばはなれ得ぬ 俤の 幾度袖を しほりしるとは
君なくば 誰が袖触れし 移り香の 匂を添えて 我をたづねき
― 冷泉為久 ―

さて、「竹老園東家」のお蕎麦であるが、
4代目の伊藤正司さんや5代目の純司さんのお話によると、
昭和・平成の天皇陛下が召し上がられたという。
先ずは昭和天皇皇后両陛下である。
両陛下の北海道巡幸の折の昭和29年8月16日の夕食に
「竹老園東家」のお蕎麦が加えられることになった。
当日の御献立は、「六園荘」の調理人加賀谷熊吉氏の
【女奮和え、ほっけの刺身、
秋刀魚の塩焼、鱈場蟹、三平汁など】の12品の郷土料理と、
「東家」3代目の伊藤徳治の
【蘭切りに大根卸と海苔の薬味】であった。
昭和天皇はお蕎麦をお代わりされた。
徳治は感激のため涙が止まらなかったという。
そして昭和59年には、皇太子殿下美智子妃殿下が
第39回冬季国体ご観覧のため釧路へお越しになり、
湿原のレストランにてご昼食をとられたが、
そのときは「東家」4代目の伊藤正司さんが
ご接待をお引受することになった。
両殿下は、
【蘭切り、茶蕎麦、蕎麦寿司、柏抜き】を召し上がられ、
妃殿下から「美味しくいただきました」
とのお言葉を頂いたという。
そういえば、一昨年だったか、
昭和天皇の料理番であった谷部金次郎先生と
深大寺でお食事をする機会があったので、
「昭和天皇はお蕎麦が大好きだったとお聞きしていますが、」
とお尋ねしたところ、毎月晦日には谷部先生が
打ったお蕎麦をお食べになられたということだった。
それをうかがって、お蕎麦はやはり日本の食文化だとの
深い確信をもった。
写真:竹老園東家より拝借、寄蕎麦切恋御歌・白遊書
〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる

釧路市の春採湖(はるとり湖と読む)近くに
竹老園という老舗の蕎麦屋がある。
緑色のそばが特徴の藪そばの流れをくみ、
全道各地にのれん分けの店を持つ東家の総本店である。
昭和天皇を感服させた「蘭切りそば」は、
特にそば通には見逃せない一品。

摩周湖ファイル vol.10
平成14年広報てしかが8月号掲載 弟子屈町みなさんもよく知っているとおり、
摩周湖にはたくさんのウチダザリガニが生息しています。
摩周湖のウチダザリガニは、このコーナーのVol.3
もお話ししたように、
同湖に放流したニジマスなどのえさとして、
昭和4年にアメリカから移入したものが繁殖したものです。
現在では、阿寒湖をはじめ道東各地の湖沼や
河川で見られるウチダザリガニですが、
そのルーツは摩周湖へ放流されたものと考えられています。
昭和29年8月14日、昭和天皇、皇后両陛下が北海道行幸の際、

当町を初めて訪問されましたが宿泊はされず、
およそ3時間の視察・滞在の後、
その日の宿泊場所である阿寒湖畔へ向かわれました。
(この日は濃霧のため、
両陛下は摩周湖を見ることができませんでした)
そこで昭和36年5月に両陛下が来道された際、
摩周湖のザリガニを召し上がってていただこうと考えた町は、
町職員数名を摩周湖へ派遣し
捕獲した20匹以上のザリガニを、
滞在先の札幌グランドホテルへ届けたのです。
なお、この時最初に輸送したザリガニは
途中で死んでしまったため、
再度、捕獲し送り直したということです。
戦前日本では現在の農水省の指導の下、
ウチダザリガニを摩周湖のように魚のえさとしてではなく、
国民の新しいタンパク源として
導入した時期もあったようですが、
高水温に弱いこともあってか定着しなかったようです。
しかし、現在はフランス料理で珍重される食材から、
阿寒湖や塘路湖のものなど人気が高まっているようです。

【軍事情勢】 昭和天皇と乃木大将
山川東京帝大総長の涙  
2014.9.22 11:32 2/5ページ3/5ページ 
4/5ページ5/5ページ
産経ニュース
産経新聞では9月14日より、
宮内庁が編纂した《昭和天皇実録》の内容につき
時掲載を始めた。
初回は先帝(昭和天皇)陛下と、
陛下の人格形成に影響を与えた
大日本帝國陸軍の乃木希典大将
(1849~1912年)に焦点を当てた。
明治天皇(1852~1912年)の大喪儀が行われた
大正元 (1912)年9月13日、乃木が妻とともに自刃し、
それを聴かれた当時11歳の昭和天皇は《御落涙になる》。

その一文の真上=一面題字横に
読者の投稿詩 を掲載する欄がある。
14日の題は《心》。「心約」の二文字を思い出した。
会津藩白虎隊出身で東京帝国大学総長を務めた
山川健次郎(1854~1931年)によれば、
約束には起請文などを記す
「証約」や「口約=口約束」
「黙約=黙契」の他に「心約」がある。
心約とは相手に知らせず、
己の心のうちに秘めた約束で、
乃木の殉死は心約の発露だったと説く。
乃木が心約を結んだ相手は、
日露戦争(1904~05年)の旅順要塞攻略で散った
1万5400人の名も無き 麾下将兵達。
多くの将兵を死なせた乃木が己に課した、
死を賭した約束であった。

「会津は朝敵ではない」
 山川は晩年、よく昔に思いを馳せたが、

心約を解す件も一連の回顧の中に見る。
ただし、戊辰戦争(1868~69年)で、
おびただしい戦没者を出した会津の悲劇を背負う
山川は生き抜くことの意味を訴え、自裁に批判的だ。
門司駅の構内主任が、

天皇行幸の妨げになるような脱線事故を起こしたとして、
責任を取って自殺した一件も評価しない。
当時の人は忠義の極みだと建碑 運動を起こしたが反対。
新聞でも反論した。
本当の忠義は恥を忍んで生き抜いて、
二度と事故が起きないようにする-との信念からだ。
 ところが、その同じ文脈の中で、山川は続ける。
 「乃木将軍の殉死は、いわば心約ともいうべきものだ。
幾多の戦役で大勢の部下を死に至らしめた。
お前方ばかり死なせんぞ、
おれも追付け死ぬから、君等も死んでくれと、
心に約束され、それを果たされたのだ」
  山川は乃木の心約に心打たれた。
一方で、生ある限り世のため人のために尽くして、
この世を去るといった姿勢には、
官軍・長州藩の支藩=長府藩士だった乃木と違い、
会津藩士の家に生まれた者として、
生きて朝敵の汚名を雪ぐ悲願も内在していたのではないか。
山川が1914年に流した涙が裏付ける。
この年、東宮 御学問所評議員に選ばれるが、
学習院院長になっていた乃木は殉死前、
山川を推薦していた。
時の皇太子、後の昭和天皇の御教育を担う名誉この上ない大任で、
山川は「会津は朝敵ではない」と感激し、涙している。

・・・佐賀県行幸での御落涙
 ところで冒頭、昭和天皇《御落涙》に触れたが、
涙を流される場面は乃木殉死時の他、
実録にはほとんどない、という。
ならば先帝陛下が昭和24(1949)年、
敗戦で虚脱した国民を励まされる全国御巡幸の一環として、
佐賀県に行幸された際の逸話を残しておかねばなるまい。

訪れた寺は境内で戦災孤児を養っていた。

陛下は笑みをたたえ、子供たちに腰をかがめて
会釈し、声を掛けて回られた。
しかし、最後の部屋では身じろぎもせず、
厳しい尊顔になる。
一点を凝視しお尋ねになった。

 「お父さん、お母さん?」
 少女は2基の位牌を抱いていた。

少女は「はい」と答えた。
陛下は「どこで?」と、たたみ掛けられた。

 「父は満ソ国境で名誉の戦死を。

母は引き揚げ途中で病のために亡くなりました」
 「お寂しい?」と質された。

少女は語り始めた。
  「いいえ、寂しいことはありません。

私は仏の子です。
仏の子はお父さんお母さんと、
お浄土に行ったらきっとまた会うことができるのです。
お父さんに、お母さんに
会いたいと思うとき御仏様の前に座ります。
そして、そっとお父さんの、
そっとお母さんの名前を呼びます。
すると、お父さんもお母さんも
私の側にやっ てきて抱いてくれます。
だから寂しいことはありません。私は仏の子です」

 陛下は少女の頭を撫で

「仏の子はお幸せね。立派に育っておくれよ」と仰せられた。
見れば、陛下の涙が畳を濡らしている。
少女は、小声で「お父さん」と囁いた。
陛下は深く深くうなずかれた。
 皇統を頂き、

乃木や山川を輩出できる国柄。実に誇らしい。
SANKEI EXPRESS 政治部専門委員 野口裕之)

【昭和天皇実録を読む】
軍部の暴走二・二六事件「真綿で我が首を絞めるのか」
鎮圧の意思一貫 2014.9.18 14:20 2/2ページ

【昭和天皇実録を読む】青年君主、
田中義首相を叱責、総辞職招く 
「若気の至り」との後悔、後の失敗へ
2014.9.17 14:41  2/2ページ


【昭和天皇実録を読む】
皇太子時代 生涯に影響与えた欧州の旅  
2014.9.15 13:34 (1/2ページ2/2ページ


英国王、ジョージ5世(右)とともに
バッキンガム宮殿に向かう
皇太子時代の昭和天皇
=大正10年5月、ロンドン

大正10(1921)年6月23日、訪欧中の昭和天皇
(当時は皇太子)の一行が、
仏アルザス地方の村に立ち寄ったときのことだ。
 予定の行事を終えて帰りの車に乗ろうとすると、
村長らが
「祝杯の準備をしているので、
村民に光栄を与えてほしい」と懇願した。
予定にない“ハプニング”だが、昭和天皇は快諾。
その様子が昭和天皇実録に生き生きと描写されている。
 《(乾杯後)アルザスの民族衣装を纏(まと)った
少女等が次々と同地方の菓子等を
(昭和天皇のテーブルに)運び、
屋外の村民はあるいは万歳を唱え、
あるいは喇叭(らっぱ)を吹き、
あたかも地方の祭日の如き様相を呈す》
 《(昭和天皇はこのときの歓迎を)
忘れることのできない
アルザスの思い出である旨を述べられる》

庶民との触れ合い
 同年3月から9月まで、
英仏など6カ国とローマ法王庁を巡った訪欧の旅は、
昭和天皇に強い影響を与えたようだ。
  前年に国際連盟の常任理事国となった
東洋の大国の皇太子を、各国元首らは
最上級の礼を尽くして歓待した。
だが、当時の日本では実現困難な庶民との触れ合いこそ、
あるべき立憲君主像を考える契機となったのではないか。
それはお忍びでパリ市内を観光し、一般客にまぎれて
地下鉄に乗った記述からもうかがえる。

6月21日《パレ・ロワイヤル駅より地下鉄に御乗車、
(中略)ジョルジュ・サンク駅にて御降車の際、
切符をお持ちのまま同駅の改札を通過される。
御帰国後、御生涯を通じてこの切符を大切に保管される》

戦争は悲惨なもの
 もう一つ、訪欧中の昭和天皇が、
心に深く刻んだことがある。
第一次大戦の激戦地・ヴェルダンを視察したときのことだ。
  6月25日《到るところに弾痕を留め、
砲弾の破片、防毒マスク等がなお地上に残存する。
付近に戦死者の遺族と思われる一婦人が、
僧侶と共に柩(ひつぎ)を携え
遺骨を収集する様子も一行の目に入る。
(中略)皇太子は戦跡御視察中、戦争というものは
実に悲惨なものだ、との感想を漏らされた》
 以後、昭和天皇はたびたび戦争反対の意思を示すようになる。

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昭和天皇実録公開 
激動の時代歩んだ生涯詳細に
9月9日 5時13分

昭和天皇実録
「理想と苦悩が浮き彫りに」
9月9日 19時20分

「昭和天皇実録」の
特別閲覧開始
2014.9.9 19:34


【昭和天皇実録公表】
自作の物語に「裕仁新イソップ」    
解剖したカエルに「正一位蛙大明神」
幼少期の新逸話
2014.9.9 15:53
 (1/3ページ2/3ページ3/3ページ
「昭和天皇実録」では、昭和天皇をめぐって、
さまざまなエピソードや話題が明らかにされている。
クリスマスで靴下におもちゃ
6歳の時、父の皇太子(大正天皇)と

皇太子妃(貞明皇后)から靴下に入った
おもちゃのクリスマスプレゼントをもらった。
皇室が異文化や他宗教に寛容だった様子がうかがえる。
(明治40年12月18日)

裕仁新イソップ
貞明皇后などから「イソップ物語」を聞かされていたことから、

11歳の時、物語を自作し、「裕仁新イソップ」と命名。
「海魚の不平」と題した作品は、
ほかの魚の才能をうらやむタイたちを、
目の見えないウナギがたしなめる内容で
「自分よりも不幸な者の在る間は
身の上の不平を言ふな」との教訓を付記している。 
(明治45年3月16日)

カエルの解剖
学習院初等学科の5年生になったばかりのころ、

授業でカエルの解剖を行った。
よほど興味を覚えたのか、帰宅してから再びカエルを解剖。
観察後はカエルの死骸を庭に埋め、
「正一位蛙大明神」の称号を与えた。(同年4月27日) 

戦艦大和の命名
 海軍が建造中だった世界最大の戦艦を「大和」と命名した。
当時、戦艦名には旧国名を用いており、
海軍が「大和」と「信濃」の候補を挙げ、
昭和天皇は「大和」を選んだ。
 同時期に戦艦「武蔵」、
航空母艦「翔鶴(しょうかく)」
瑞鶴(ずいかく)」も命名している。
(昭和15年7月25日)

ヒトラー批判
 「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲ…」
 ナチス・ドイツのヒトラーは、
降伏したフランスとの休戦協定の調印を、
第一次世界大戦に敗れた
ドイツの調印地と同じ仏コンピエーニュの森で行った。

 敗戦国に屈辱を与える手法について、
「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、
勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、
ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、
アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」
と批判した。
(昭和15年7月31日)

終戦の御前会議
 ポツダム宣言受諾の「ご聖断」を下した
昭和20年8月の最後の
御前会議の正確な開始時刻が
10日午前0時3分
だったことが実録の記述で明らかになった。
これまで「9日午後11時」「9日午後11時50分」
「10 日未明」の各説があったが、
時刻が確定したといえる。(昭和20年8月10日)

特例の陪食
  昭和天皇は昭和19年以降、外国人の陪食を中止していたが、
知日派のロバート・アイケルバーガー
米第8軍司令官が帰国する際には、特例として食卓を囲んでいた。
アイケルバーガーは、外交官で終戦連絡横浜事務局長を務めた
鈴木九萬(ただかつ)との往復書簡が明らかになったばかり。
この日の陪食には、鈴木も同席していた。
(昭和23年7月19日)

【昭和天皇実録】「ご聖断」ソ連参戦で決意  
報告の18分後「終戦」側近に指示 
公表の「実録」時系列から判明
2014.9.9 05:10 (1/3ページ2/3ページ3/3ページ
宮内庁は9日、昭和天皇の生涯を記録した
「昭和天皇実録」の内容を公表した。
事実として確認された言動や、
側近らの謁見日時が時系列で示され、
これ まで諸説あった終戦の
「ご聖断」の経緯が明らかになった。

昭和天皇が最終的にポツダム宣言受諾を決意したのは
ソ連軍が満州に侵攻したとの
情報を得た直後で、ソ連参戦が
「ご聖断」の直接原因だったとみられる。
実録には幼少期の生活ぶりなども詳細に記され、
公表により近現代史研究が大きく進むことになりそう だ。

実録では、連合国が

日本に降伏を求めたポツダム宣言を入手した
昭和20年7月27日から降伏の玉音放送が流れた
8月15日までの20日間を36ページにわたり詳述。
それによると、昭和天皇は広島に
原爆が投下された2日後の8月8日、
賜謁した東郷茂徳外相に
「なるべく速やかに戦争を終結」させたいとの希望を述べた。

翌9日午前9時37分、

ソ連軍が満州侵攻を開始したとの報告を受けると、
直後の9時55分、木戸幸一内大 臣を呼び、
戦争終結に向けて鈴木貫太郎首相と
「十分に懇談」するよう指示。
木戸内大臣から天皇の意向を聞いた鈴木首相は、
午前10時30分開催の
最高戦争指導会議
ポツダム宣言への態度を決定したいと答えた。

10日午前0時3分、御前会議が開かれ、
鈴木首相から「ご聖断」を求められた
昭和天皇は、ポツダム宣言受諾を決心したと述べた。
 昭 和天皇のポツダム宣言受諾決意の時期には、
広島や長崎への原爆投下時、ソ連参戦時など諸説あったが、
実録を分析した京都大の伊藤之雄教授(近現代史)は、 
広島への原爆投下時では2日後に
終戦の意向を閣僚の東郷外相に伝えたのに対し、
ソ連参戦時は直後に側近中の側近だった
木戸内大臣に指示した点を重視。
「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に
決意する原因だったことが改めて読み取れる」
としている。
 実録の記述により、連日の本土空襲や
原爆投下などで終戦の意向を強めた昭和天皇が、
ソ連参戦で万策尽きたと判断。
これ以上の犠牲を広げないため、
即時終戦に向けた動きを主導した当時の様子が
明らかになったといえる。
 また実録では、幼・少年期の手紙や作文を初めて公開。
初出のエピソードも多数盛り込まれた。
一方、即位後の政治的発言や側近らの
謁見内容が明かされないことも多く、
編纂(へんさん)方針をめぐり議論を呼びそうだ。

【昭和天皇実録公表】大正天皇と鬼ごっこ、
家族の愛情に包まれ固い絆 
終戦前に皇族一丸  
2014.9.9 17:00 (1/2ページ2/2ページ
宮内庁が9日公表した「昭和天皇実録」では、
幼少期の両親や実祖母との交流や、
弟宮たちとの絆に支えられ
激動の時代を乗り切る様子などこれまで知られていなかった
エピソードが記述され、
昭和天皇の87年にわたる生涯が家族の愛情や
皇族の協力に支えられたものだったことが分かる。
昭和天皇は生後間もなく両親の大正天皇と貞明皇后から離され、

養育掛に育てられた。
だが、6歳だった明治41年の学習院初等学科入学まで、
両親に少なくとも252回、明治天皇の側室で
昭和天皇の実祖母である柳原愛子(やなぎわら・なるこ)に
30回も会っていた。

大正天皇と鬼ごっこや映画鑑賞を楽しんだり、

貞明皇后に童話を読み聞かせてもらうなど、
家族水入らずの時間も過ごしている。
昭和天皇が皇室の伝統にとらわれない
家庭的な雰囲気の中で育ったことが分かる。

一方、昭和天皇は皇族たちとの親睦にも熱心で、

生涯を通じ皇族たちと食事会などを頻繁に催している。
とりわけ、1歳下の雍仁(やすひと)親王(秩父宮)、 
4歳下の宣仁親王(高松宮)、
14歳離れた崇仁親王(三笠宮さま)の3人の弟宮との関係は深く、
弟たちと、ときには衝突しながらも固い兄弟の絆で結ばれていた。

陸軍軍人の雍仁親王とは、
昭和15年の日独伊三国同盟などへの意見の違いから、
ときに衝突を繰り返した。
だが、雍仁親王の薨去(こうきょ)直前の27、28年には、
雍仁親王に手紙を送ったり、
容体を侍医に繰り返し尋ねたりするなど、
心配を募らせている様子がよく分かる。

 海軍軍人だった宣仁親王は、16年の日米開戦の直前に
「統帥部は戦争の結果は無勝負又は辛勝と予想している」と、
弟だからこその率直な意見を伝えた。
昭和天皇は弟の言葉をきっかけに
「敗戦の恐れありとの認識」を示している。
 終戦3日前の8月12日、昭和天皇は皇族たちを呼び、
終戦の決意を表明。
皇族は一様に賛同し協力を伝えた。
16日以降、皇族たちは一斉に内外に散り、
昭和天皇の代理として終戦の伝達役を
担うなど危機に直面した皇室が
一丸となったことも改めて確認された。

【昭和天皇実録公表】
「しんじゆくや、どう物園などへまゐりました」
幼少期の手紙や作文を初公開
2014.9.9 16:30
【昭和天皇実録公表】果たせなかった沖縄訪問
…平成に受け継がれた思い
2014.9.9 14:20


【昭和天皇実録公表】全国巡幸3万3千キロの8年半 
戦後復興、国民とともに 「四万人御身辺に押し寄せ」
2014.9.9 14:18 (1/2ページ
2/2ページ
22年12月に広島
9日に公表された昭和天皇実録。
戦後の記述で特筆すべきものの一つが、
終戦半年後の昭和21年2月から約8年半かけて、

戦禍で傷ついた国民を励まし た
「全国巡幸」だ。特に盛んだった21~25年は、
1年分ごとに1巻が割かれた。
詳細な描写は少ないが、

淡々と記された記録を追うだけで、
遺族や孤児、傷痍(しょうい)軍人、
外地からの引き揚げ者らと連日向き合い、
その傷痕と復興への努力に触れた
約3万3千キロの軌跡が浮かぶ。
巡幸は21年2月19日、神奈川県から始まった。

工場や戦災者宿舎、大空襲から再建した商店街を回り、
一人一人に「生活状況について御下問」もし、
終戦まもない国民と国内の実情に気を配った。

本格化すると、長い時は1カ月近く皇居を離れ、

朝から夜までほぼ連日10カ所近くを回った。
戦争に敗れた直後で世情が不安定な中、
宮内省(現・宮内庁)は国民ができるだけ近くで
昭和天皇と接することができるようにするため、
警備を簡素化した。
22年6月5~7日の大阪府訪問の記述からは、
その近さと当時の熱気が伝わる。
「約四万人の市民が御身辺に押し寄せ御歩行不能の状態に」

「府庁前に参集の約千五百名からなる学童合唱団による
奉迎歌の奉唱が聞こえてきたため、食事を中断され、
再びバルコニーにお出ましの思召しを示されるも、
再度の混乱を憂慮した侍従の願いを容(い)れられ、
お取り止めになる」
被爆地も訪ねた。22年12月に広島、24年5月に長崎へ。

広島では「自動車にて原子爆弾の被災中心地に向かわれ」
「車窓より平和の塔越しに
元広島産業奨励館(原爆ドーム)を臨まれる」。
当時はまだ原爆投下から2年ほど。
被爆した人や戦災孤児らも慰問した。

「戦災者の簡易住宅に眼をとめられ、

戦災者の耐乏生活等につき御下問」したり、
時には「雨後泥濘(でいねい)の畦道」を歩いたりと、
国民に寄り添った。
収録された御製(ぎょせい、和歌)には、
国民への深い思いがにじむ。

わざはひをわすれてわれを

出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ(21年)

国民(くにたみ)とともにこころをいためつつ

帰りこぬ人をただ待ちに待つ(24年)

20年11月29日、謁見した弟宮らに対し、

伊勢神宮への終戦報告のため
三重、奈良、京都を訪問
(同月12~15日)したことで
「国民との近接を図り得たと感じる」
との趣旨を述べている。
巡幸はこの体験が原点となったものとみられる。

【昭和天皇実録公表】
「退位により戦争責任者の聯合国への引渡しを
取り止めることができるや否や」
 主要記述抜粋(終戦~崩御)
2014.9.9 12:10

1/6ページ2/6ページ3/6ページ4/6ページ
5/6ページ6/6ページ
 「昭和天皇実録」の後半には、終戦の「聖断」にいたる過程や、
戦後の激動の時代での昭和天皇の動きが記されている。
(数字は洋数字に変換) 

終戦の御前会議・詔書
昭和20年8月10日 午前0時3分、

御文庫附属室に開催の最高戦争指導会議
臨御される。(中略)午前2時過ぎ、
議長の首相(鈴木貫太郎)より聖断を仰ぎたき旨の
奏請を受けられる。
天皇は、(中略)股肱(ここう)の軍人から武器を取り上げ、
臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、
大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、
人民を破局より救い、世界人類の幸福のために
外務大臣案にて
ポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる。

14日午前11時2分、侍従武官長蓮沼蕃(しげる)を従えられ、
御文庫附属室に開催の御前会議に臨御される。
(中略)開会後、首相は(中略)重ねて
御聖断を下されたき旨を言上する。
(中略)天皇は、国内外の現状、
彼我国力・戦力から判断して自ら戦争終結を
決意したものにして、変わりはないこと、
(中略) 国家と国民の幸福のためには、
三国干渉時の明治天皇の御決断に倣い、
決心した旨を仰せられ、
各員の賛成を求められる。(中略)午後9時20分、
内閣上奏書 類「帝国ノ方針ニ関スル件」を御裁可になり、
詔書に署名される。

退位論 
 同年8月29日 午後、内大臣木戸幸一をお召しになり、
(中略)自らの退位により、
戦争責任者の聯合国への引渡しを
取り止めることができるや否やにつき御下問になる。

昭和21年3月6日 御文庫に

木下(道雄侍従次長)をお召しになり、(中略)
天皇は自らの御退位につき、
新聞報道に関連して現状ではその御意志のない旨を
お伝えになる。

新日本建設に関する詔書の発布〈いわゆる「人間宣言」〉
同年1月1日 新年に当たり、詔書を発せられる。(中略)
本詔書は、天皇の国民と共に
平和日本の再建を希求された叡慮(えいりょ)を
お示しになったものであるが、
同時に天皇を現人神とすることを排した一文から、
後年、天皇の人間宣言と通称される。 

戦後巡幸
 同年2月19日 火曜日 

全国の戦災復興状況その他一般民情御視察の思召しにより、
その最初として神奈川県下に行幸される。
この日の行幸は、
以降昭和29 年の北海道行幸まで行われた
地方巡幸の嚆矢(こうし)となる。
(中略)宮内省では従来の慣例に固執することなく、(中略)
一般民衆に対しては
民業に支障を 来さざるよう特別の制限を行わず、
交通上も整理程度に留め、
可能な限り間近く
奉拝の機会を設け、天皇と民衆の接する機会を
多からしむるように図り、御服も 御平服をお召し頂くこととした。 
日本国憲法の制定過程
 昭和21年3月5日 午後5時43分より7時10分まで、
御文庫において
内閣総理大臣幣原(しではら)喜重郎
・国務大臣松本烝治(じょうじ)に謁を賜い、
憲法改正草案要綱についての奏上を御聴取になる。
昨日 午前、聯合国最高司令部に提出された
日本国憲法草案は、同司令部において
(中略)夜を徹しての改正作業が進められ、
この日午後4時頃、司令部での作業が終了する。
一方、首相官邸においては、この日、朝より閣議が開かれ、
同司令部から順次送付された改正案について対応策が協議される。
閣議においては、
改正案 を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう
同司令部から求められたことを踏まえ、
(中略)勅語を仰いで同案を天皇の御意志による
改正案とすることを決定する。
 
天皇の沖縄メッセージ〈シーボルト文書〉
  昭和22年9月19日 午前、内廷庁舎御政務室において
宮内府御用掛寺崎英成の拝謁をお受けになる。
なお、この日午後、
寺崎は対日理事会議長兼連合国最高 司令部外交局長
ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問する。
シーボルトは、この時寺崎から聞いた内容を
連合国最高司令官及び米国国務長官に報告する。
この報告には、天皇は米国が沖縄及び
他の琉球諸島の軍事占領を継続することを
希望されており、(中略)米国による沖縄等の軍事占領は、
日本に主権を残しつつ、
長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、
この占領方式であれば、
米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、
また他の諸国、とりわけソ連と中国が
類似の権利を要求し得ないことを
日本国民に確信させるであろうとの
お考えに基づくものである旨などが記される。

対日平和条約・日米安全保障条約
 昭和26年9月9日 
米国カリフォルニア州サ ンフランシスコ市において
「日本国との平和条約」の調印式が行われ、
日本時間の午前3時34分、
首席全権内閣総理大臣吉田茂以下
講和全権委員が条約書に署名する。
天皇は午前7時よりラジオ放送にて、
講和条約調印式の録音を中心とした
特別番組をお聞きになる。
 同年11月19日 午後5時、(行幸中の奈良県知事公舎で)
「日本国との平和条約」及び
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」の批准書に
御署名になる。
 昭和27年4月28日 天皇は
午後10時30分よりラジオにて条約発効の実況中継を
皇后と共にお聞きになる。
 
戦没者追悼〈靖国神社参拝〉
  昭和21年4月30日 
靖国神社例祭につき、幣帛料(へいはくりょう)・神饌料
(しんせんりょう)を御奉納になる。
また、勅使として掌典川出清彦に参向を 仰せ付けられるも、
同社より聯合国総司令部に手続きを問い合わせたところ、
不適当との意向により、急遽、勅使の御差遣を
お取り止めになる。
以後、昭和28年秋季例祭にて再開されるまで、
勅使参向は行われず。
昭和27年10月16日 靖国神社御参拝のため、
午前9時3分皇后と共に御出門、
同社に行幸される。
御着後、宮司筑波藤麿の先導により本殿の御拝座に進まれ、
御拝礼になる。
皇后も同様に拝礼される。
(中略)天皇の靖国神社御参拝は
昭和20年11月20日以来、皇后は
同年5月5日以来のほぼ7年ぶりとなる。 
昭和50年11月21日、
靖国神社及び千鳥ヶ淵戦没者墓苑に御参拝のため、
午前10時32分皇后と共に御出門になり、両所に行幸される。
最初に靖国神社に御到着、本殿御拝座にて御拝礼になる。
(中略)この御参拝に対して、
日本基督教協議会ほか6団体から宮内庁長官に
参拝中止の要望書 が提出され、
また野党各党からは反対声明が出された。
さらには衆議院議員吉田法晴(日本社会党)から
天皇の靖国神社参拝に関する
質問主意書が国会に提出されるなど論議を呼んだ。
なお靖国神社への御参拝は、この度が最後となった。
 昭和63年4月28日 午前、吹上御所において、
宮内庁長官富 田朝彦(ともひこ)の拝謁をお受けになる。
(中略)靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)、
御参拝について述べられる。
なお、平成18年には、
富田長官のメモとされる資料について
『日本経済新聞』が報道する。
 
訪米
 昭和50年10月8日 
(米カリフォルニア州のディズニーランドで観覧した
建国200年祭記念パレードで)天皇は、
次々と御座所の前を(山車などが)通過するのを
御覧になり、拍手を送られる。
これに寄せて詠まれた歌は次のとおり。

二百年のすぎゆきを示す
アメリカのパレードを見つ少年らとともに
 なおこの日 園内には約1万6千名の一般入場者がおり、
各所で拍手などによる歓迎があった。
また同園より非公式にミッキー・マウスの腕時計が贈られ、
以後数年間御愛用になる。
 
病気・崩御
 昭和63年9月19日 
御夕餐後、御床にてお休みのところ、午後10時前、
大量の吐血をされる。(中略)最高血圧は一時90台に下がる。
  昭和64年1月7日 午前6時33分、吹上御所において、
皇太子・同妃・徳仁親王・文仁親王・清子内親王・正仁親王・同妃・
故雍仁(やすひと)親王妃・故 宣仁親王妃
・崇仁親王・同妃・寛仁(ともひと)親王・
同妃・憲仁親王・同妃、並びに池田隆政・同厚子、
島津久永・同貴子・同禎久(よしひさ)、
近衛忠 ●(=火へんに軍)・同●(=ウかんむりの下に心、
その下に用)子(やすこ)、千政之・同容子(まさこ)、
東久邇(ひがしくに)信彦・同吉子、
壬生(み ぶ)基博・同幸子、東久邇真彦・同賀鶴子、
元皇族総代竹田恒徳・同光子に見守られる中、
遂に崩御される。 
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昭和天皇実録、両陛下に奉呈 
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2014.8.21 14:35
1/2ページ2/2ページ両陛下ご動静

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