いろんな報道: 【樋口季一郎中将】”もう一人の杉原千畝” ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)、初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは(中)、晩年、多く語らず 樋口季一郎とは(下)。4370人のユダヤ難民救済で語り継がれる樋口季一郎陸軍中将 2018.08。アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡 2017年07月 歴史街道。アッツ島玉砕の悲劇~山崎保代と樋口季一郎 2017年05月 歴史街道。アッツ島の戦い 日本軍の玉砕について振り返る 画像 動画 まとめ。

Translate

【樋口季一郎中将】”もう一人の杉原千畝” ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)、初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは(中)、晩年、多く語らず 樋口季一郎とは(下)。4370人のユダヤ難民救済で語り継がれる樋口季一郎陸軍中将 2018.08。アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡 2017年07月 歴史街道。アッツ島玉砕の悲劇~山崎保代と樋口季一郎 2017年05月 歴史街道。アッツ島の戦い 日本軍の玉砕について振り返る 画像 動画 まとめ。

「御神酒ワイン」来春、誕生 広島
2018.12.24 07:59 産経ニュース
広島県福山市にある備後護国神社の「御神酒(おみき)」に、
地元産ワインを採用する計画が進んでいる
備後護国ワイン」と名付け、来春の販売開始に向けて、
同市山野町の「山野峡大田ワイナリー」で醸造中。

備後護国神社護持会 2018年12月30日
備後護国神社盛り上がってます!

ワイナリーを運営する「福山健康舎」が、
今季の新酒発売に合わせて発表した。
 “御神酒ワイン”は、これまで護国神社の運営を支えてきた
戦友会や遺族会の活動がメンバーの死去や高齢化で
低調になってきた現状を受け、若い層にもアピールできる
「御神酒」を検討する中で浮上。
御神酒ワインを販売することで、
神社運営の一助にすることも目指し、
備後圏域の福山市や岡山県井原市で収穫されたブドウで
赤ワインを仕込むことにした。
 ラベルは、神社の建物をあしらったものと福山市に
本営があった陸軍歩兵第41連隊の連隊長だった
樋口季一郎中将(1888~1970年)の肖像の2種類。
樋口中将は、ナチスドイツの迫害からソ連-満州経由で
逃れたユダヤ人難民数千人から数万人が通ったとされる
脱出ルートを構築したことで知られる。
2千本限定で、小売価格は750ミリリットル瓶
2500円を予定。市内酒販店などで販売する。
 また、一般販売2年目となる新酒は
「山野ワイン」の銘柄で赤と白をすでに発売。
どちらも700本限定で、
小売価格はキャンベル種のみを使った赤が
750ミリリットル瓶2200円、シャルドネ、
ピノ・グリ、ヤマブドウ系の北天の雫を合わせた白が
同2500円に設定されている。
樋口季一郎中将 (ひぐち きいちろう、1888年8月20日
- 1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。
兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。
第9師団師団長等を歴任し、
最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
札幌市平和バーチャル資料館 歴史と戦跡 さっぽろの戦跡
昭和15(1940)年に、国内が東部、西部、中部、北部の
4軍管区に区分され、軍司令部が置かれました。
北部軍司令部は、札幌の豊平区月寒東2条2丁目
(現在の月寒中学校の敷地)に置かれ、
月寒は軍隊の街として知られることになります。
かつての司令官官邸は現在は「つきさっぷ郷土資料館」
として開館し軍隊関係の資料を多く展示しています。
(豊平区月寒東2条2丁目)

”もう一人の杉原千畝”
第2次世界大戦中の1940年(昭和15)、
多くのユダヤ人難民を救う「命のビザ」を発行した杉原千畝。
「東洋のシンドラー」とも呼ばれた杉原の行動から
さかのぼること2年前の1938年(昭和13)以降、
旧満州国ハルビン市で、数千人以上のユダヤ人難民の
命を救った日本の軍人がいた。
兵庫県の淡路島出身で、私立尋常中学鳳鳴義塾
(現・同県立篠山鳳鳴高校)から軍門へと進んだ
陸軍中将・樋口季一郎だ。日本ではあまり知られていないが、
ユダヤ人国家のイスラエルでは今も恩人として感謝されている。
そんな「もう一人の杉原千畝」というべき存在であり、
後に「玉砕」という悲劇に向き合った軍人の生涯を追った。

東条英機に「弱い者いじめ正しいか」
 ナチス・ドイツの弾圧を逃れてドイツを脱出した
ユダヤ人難民が、シベリア鉄道で満州国との国境に近い
ソ連領オトポール駅に着いたのは、
1938年3月8日のことだった。

 当時、日本はドイツと防共協定を結んでおり、
日本の傀儡(かいらい)政権であった満州国は、
日本の目を気にして入国を拒否。
氷点下20度を下回る気候で凍死者も出始めるなか、
関東軍司令部付・ハルビン特務機関長であった樋口は、
独自の判断で難民救済に動く。

 満州国外交部に働きかけて特別ビザの発行にこぎつけ、
南満州鉄道(満鉄)総裁に訴えてハルビンまでの
救援列車を手配した。
ハルビンでは地元のユダヤ人有力者らと協力して
食事や衣服も用意。また東亜旅行社(現・JTB)に委託し、
出国のあっせんや、満州国内への入植、上海などへの
移動にも力を貸したという。

 この一件で後日、ドイツから日本へ抗議書が届き、
軍司令部に呼ばれて出頭した樋口は、参謀長だった東条英機に、
「ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることを
正しいと思われますか」と言ったというエピソードが残る。
結局、樋口の行為は不問に付されたが、
救出劇が歴史の表に出る事もなかった。

 樋口が開いたオトポールからのルートは、
「ヒグチ・ルート」とも呼ばれ、満州国境を通過した難民の数は、
数千人から2万人にのぼるという。
JNF(ユダヤ国民基金)のホームページには「2万人」とあり、
1つの定説になっているようだ。

 JNFがイスラエルに所有する寄付者名簿
「ゴールデンブック」には、当時の極東ユダヤ人協会長で、
樋口に難民救済を求めた医師のアブラハム・カウフマン、
現場で実務に奔走した大連特務機関長の安江仙弘、
そして樋口季一郎の3人の名前が特別に記載されている。

孫「目の前の人救いたい」
写真・樋口が開いたルートで命を救われた人の息子と
握手を交わす孫の隆一さん(左)
=2018年6月15日、イスラエル・テルアビブで
(樋口隆一さん提供)

 樋口の孫で、明治学院大学名誉教授の樋口隆一さん(72)は、
今年6月、日本イスラエル親善協会の招きで初めてイスラエルを訪問。
イスラエル建国70周年を記念して行われたイスラエル日本学会で
講演も行った。

 隆一さんは昨年、偶然、祖父の原稿束の下にあった、
1938年1月11日付「ハルビン新聞」の切り抜きを見つけた。
前年12月に行われた極東ユダヤ人コミュニティ大会の開催を許可し、
演説も行った樋口へのインタビューを掲載したもので、
「ユダヤ人問題解決の鍵はユダヤ人国家の建設しかない」
と述べている。

 隆一さんは「樋口がどういう考えを持っていて、
当時のユダヤ人がなぜ感激したのかが分かる」と話しており、
樋口がユダヤ人を深く理解していたことがうかがえる。

 イスラエル訪問で、祖父の名が書かれたゴールデンブックも閲覧。
ユダヤ国民基金から証書も贈られた。
また、日本大使館の協力のもと、ハルビンで生き残った
ユダヤ難民の子孫とも対面し、感謝を伝えられた。

 「思ってもいなかったような歓迎を受けて驚いた」と隆一さん。
「祖父はウラジオストック駐在時代にユダヤ人の家に
下宿したことがあり、ドイツ視察旅行でユダヤ人迫害も
見聞きしていた。
ユダヤ人の辛い運命に個人的な理解と共感があり、
とにかく目の前にいる人たちを救いたいという思いで
行動したのではないか」と話す。

”もう一人の杉原千畝” 
初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは(中)
旧満州国ハルビン市で数千人以上のユダヤ人難民の
命を救った陸軍中将・樋口季一郎だが、
1941年(昭和16)、太平洋戦争に突入すると、
軍人人生の厳しい局面に入っていく。
ユダヤ人の命を救いながら、
「玉砕」という言葉が使われた戦いで
司令官を務めたのも樋口だった。
孫の隆一さんは
「樋口にとって、
ユダヤ人を助けられたことはよかったが、
その後が本当に大変だった」と語り、
辛苦を味わった祖父の姿を浮かべる。

「玉砕」と「奇跡の撤退」
 日本軍は1942年(昭和17)、
アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島を占領。
樋口は同年、北部軍司令官として札幌市郊外の月寒
(つきさっぷ)に赴任した。

 戦況悪化で両島への食糧補給もままならない中、
翌年、アッツ島に米軍が上陸した。米軍1万人超に対し、
日本軍はわずかに2600人。
樋口は大本営に増援部隊を要請したが、
いったんは決まった派遣が中止となり、アッツ島は孤立。
そして、日本軍は全滅した。

 「玉のように砕け散る」という意味の言葉、
「玉砕」が初めて使われたのはこの戦いだった。
実際は玉のように美しいものではなく、
阿鼻叫喚の地だったことは想像に難くない。

 一方、隣のキスカ島は撤退が決まっており、
樋口は下を向く間もなく指揮を執る。
何度かチャンスをうかがいながら、
濃霧にまぎれて救援艦隊を送り込み、
約50分間で
キスカ島守備隊約5200人全員を収容して帰還した。
樋口が兵器や弾薬の放棄を認めたことが
速やかな行動につながり、奇跡の撤退戦となった。
写真・祖父の名前が入ったユダヤ国民基金の
ゴールデンブック証書を贈られる隆一さん。
このユダヤとの縁が樋口を救った
=2018年6月12日、イスラエル・エルサレムで
(樋口隆一さん提供)

ユダヤ人協会が「戦犯引き渡し拒否」訴え
 1945年(昭和20)8月15日に終戦を迎えたが、
樋口の戦いはまだ終わらなかった。
18日未明、ソ連軍が占守島(しゅむしゅとう)に奇襲上陸。
ソ連の戦法を知り抜いていた樋口は、
こうした事態も想定しており、占守島守備隊に
反撃の指令を出す。
激戦の末、米軍の進駐で21日に停戦が成立したが、
もしも占守島で食い止めていなければ、
ソ連軍は北海道を占領していた可能性もあり、
「国土を守った」ともいえる戦いだった。

 終戦後、小樽市郊外の寒村で家族と
細々と暮らし始めた樋口だったが、ソ連から
連合軍司令部に樋口の戦犯引き渡し要求があった。
マッカーサー総司令部はこれを拒否。
ニューヨークに総本部がある世界ユダヤ協会が、
引き渡しを拒否するよう、
米国防総省に強く訴えたためであった。
かつて樋口がユダヤ人を救ったことが、
この時、自分に帰ってきたのだった。
旧満州国ハルビン市で多くのユダヤ人難民の命を救った一方、
アッツ島では日本軍初の「玉砕戦」を経験、
その後、旧ソ連軍との死闘を演じて北海道を守るなど、
数奇な運命を辿った軍人・樋口季一郎。
彼を形成した生涯を振り返る。

軍人の名門校に進学
 兵庫県三原郡阿万(あま)村(現在の南あわじ市)の生まれ。
姓は「奥浜」で、16歳のころに
岐阜県大垣市の叔父の養子になり、樋口姓になった。
実家は由緒ある廻船問屋だったが、
幼少の頃に家業が立ち行かなくなり、両親も離婚。
樋口は姉、妹たちと母の実家で育った。
 高等小学校卒業後の1901年(明治34)、
叔父の薦めにより、軍人の名門校として知られていた
兵庫県多紀郡篠山町(現篠山市)の私立尋常中学鳳鳴義塾へ入学。
樋口が書いた「回想録」の冒頭は、
「私が笈を負って丹波篠山の鳳鳴義塾に入学したのは
明治三十五年四月であり、
私の15歳の時であった」から始まる。
 3学年上の堀内謙介(後の駐米大使)に影響を受けており、
回想録には「私は彼から鉄砲の持ち方、担い方、
射ち方一切を教わったのである。
彼は私ども生徒隊の小隊長であり、
長いサーベルを帯びた颯爽たる彼の英姿を
私は今に忘れることが出来ない」と書かれている。

ユダヤ人迫害を目の当たり
 樋口は翌年9月に鳳鳴義塾から大阪陸軍地方幼年学校へ進み、
陸軍士官学校、陸軍大学と陸軍のエリートコースを歩んだ。
1919年(大正8)、
ウラジオストク特務機関員としてロシアに派遣。
この約半年間のウラジオストク滞在時代、
ユダヤ人の家に身を寄せており、
ユダヤについての研究もしていたという。
 朝鮮赴任などを経て、1925年(大正14)、
ポーランド公使付武官としてワルシャワへ。
人生で最も華やかだった時代で、社交界にも出入りし、
人脈をつくりつつ、
ダンスや音楽などの芸術にも積極的に親しんだ。
約3年の滞在の間に、
外国人の入国が厳しく制限されていたソ連へ、
日本の軍人として初めて長期の視察にも訪れている。
 1937年(昭和12)、樋口はドイツへの視察旅行中で、
ナチス・ドイツが進めるユダヤ人迫害を目の当たりにしている。
 同年8月、関東軍司令部付としてハルビン特務機関長に就任。
妻、四女とともに満州へ渡った。
ユダヤ人難民救済の一件が起こったのは翌年8月のことであった。
若かりしころの一宿一飯への恩義、
そして、迫害される人々の姿を目の当たりにしていたことが、
難民の命を救う行動につながったのかもしれない。

毎朝、アッツ島に向かい祈り
 晩年の樋口は、戦争について多くを語ることはなかったが、
毎朝、アッツ島に向かって祈ることを日課としていたという。
玉砕戦の惨状は、生涯、脳裏に焼き付いていたことだろう。
 激動の人生を送った樋口は、1970年(昭和45)10月、
家族と過ごしていた自宅で、老衰で息を引き取った。
享年82歳だった。最期の瞬間、走馬燈に映った景色は、
どのようなものだったのか。
 樋口ら兵庫県篠山市ゆかりの先人について調べ、
隆一さんとも交流のある小山剛久さん(78)
=同市東岡屋=は「人道的な支援や、北海道の防衛など、
樋口は日本を代表するような功績の人。
あまり知られていないと思うので、
こんなすごい人がいたということを
祖国を護るために身を捧げた多くの軍人たちの生き方は、
我々に多くのことを語りかけてくる──。

 第二次世界大戦開戦直前の1938年3月8日、
旧ソ連領オトポールにユダヤ難民が押し寄せた。
ナチスの迫害を恐れ、ドイツ東部からポーランドを経て、
シベリア鉄道で逃げてきたユダヤ人たちだ。

 彼らは満州国への入国を希望したが、
満州国は日本とドイツが1936年に結んだ
「日独防共協定」を理由に入国ビザの発給を拒否。

 しかし、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎は
「人道上の問題」として受け入れを独断で決定した。

「ヒグチ・ルート」によって救済された難民は、
現在までに明らかとなった東亜旅行社の資料によると、
4370人にものぼる。

 多くのユダヤ人を救った樋口季一郎と部下の安江仙弘は
イスラエル建国の功労者の名を刻む
「ゴールデンブック」に記載され、
その名が語り継がれている。

 建国70周年を迎えた今年6月には、
樋口の孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏が
イスラエルを初訪問した。
隆一氏は「祖父、樋口季一郎」と題した講演を行い、
「ヒグチ・ルート」で難を逃れたカール・フリードマン氏の
息子らと対面した。

「今回の訪問で祖父の行為はイスラエル建国にとり
非常に大きな意味を持っていたと実感し、
大きな感動を覚えました」(樋口名誉教授)
●取材・構成/浅野修三(HEW)
※SAPIO2018年7・8月号

山崎 保代陸軍中将 (やまさき やすよ、1891年10月17日
- 1943年5月29日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
太平洋戦争(大東亜戦争)中に、アッツ島の戦いを指揮し
17日間の激しい抗戦の後戦死した。

アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡
2017年07月14日 2 歴史街道
「断乎反撃せよ!」知られざる戦記
「最後まで善戦敢闘し、武士道に殉じる」

「パーフェクト・ゲーム」。
アメリカ軍がそう言って驚嘆した
日本陸海軍の作戦をご存じでしょうか。
昭和18年(1943)7月のアリューシャン列島
キスカ島守備隊5,200人の全員脱出劇です。


しかしこの奇跡的な成功は、その約2ヵ月前の
同じアリューシャン列島アッツ島における、
2,600人の守備隊玉砕の
悲劇があったからこそといえるものでした。

昭和17年(1942)6月8日、日本軍はアメリカ領の
アリューシャン列島アッツ島、キスカ島に上陸、占領します。
目的はミッドウェー作戦の陽動と日本本土空襲の阻止、
さらにアメリカとソ連の遮断の意味があったといわれます。

しかしミッドウェー海戦後、日米の主戦場は
ガダルカナル島をはじめとする南方に移りました。
日本軍の主力もそちらに向けられたため、
北の2島の守備隊は取り残されることになり、
さらに昭和18年に入ると、
アメリカ軍が本格的な反攻を始めるのです。

同18年2月、大本営は樋口季一郎〈ひぐちきいちろう〉
陸軍中将麾下の北方軍にアッツ島、キスカ島の防備を任じ、
アッツ島守備隊の隊長(第二地区隊長)には山崎保代
〈やまさきやすよ〉大佐が就きました。
山崎は家族に惜別の手紙を残し、
4月18日、アッツ島に赴任します。

それから約1ヵ月後の5月12日、
アメリカ軍は強力な艦隊に護衛された
約1万1,000の部隊でアッツ島に上陸を開始。
山崎が指揮する守備隊の4倍以上の規模でした。

守備隊はまず水際で迎撃しますが、
圧倒的な兵力差に歯が立たず、
敵を山間部に誘い込んで徹底抗戦することにします。

敵上陸の報せを受けた北方軍司令官の樋口季一郎は、
約5,000の増援部隊を逆上陸させることにし、
山崎を激励する電文を送りました。ところが…。

大本営は「アッツ島の放棄、キスカ島の撤収」を
樋口に命じました。アッツ島の将兵は、
見殺しにされたのです。
命令を受けた樋口は怒りと悔しさに号泣したと伝わります。

樋口は断腸の思いでアッツ島の山崎に、
「敵を討ち、最期の時に至れば潔く玉砕せよ」
と伝えました。

樋口の電文を受けた山崎はすべてを理解し、
泣き言は一切言わず、「国軍の苦しき立場は了承した。
我が軍は最後まで善戦奮闘し、武士道に殉じる」と返します。

アッツ島守備隊の奮戦は凄まじく、
3日で占領できるだろうというアメリカ軍の読みは大いに狂い、
戦闘は実に19日間に及びました。
最後は指揮官の山崎自ら先頭に立って斬り込み、戦死します。

日本軍の抗戦に約1,800人の死傷者を出したアメリカ軍は、
次のキスカ島攻略に慎重になり、
来攻は大いに遅れることになるのです。

「帰ればまた来ることができる」
「将たる器に乏し」「臆病風に吹かれた」…。
昭和18年(1943)7月17日、キスカ島突入を断念して
幌莚〈ほろむしろ〉島に帰投した
第一水雷戦隊司令官の木村昌福〈きむらまさとみ〉に、
そんな心無い非難が向けられました。

キスカ島の将兵は必ず撤収させる
…それが北方軍司令官・樋口季一郎が、
アッツ島将兵を捨て石にする代わりに、
大本営に認めさせた条件であったといわれます。

しかし、最新のレーダーを装備した
強力なアメリカ艦隊が囲むキスカ島に接近するには、
濃霧にまぎれて高速の軽巡洋艦や
駆逐艦が敵の隙を衝いて突入し、
短時間で守備隊を撤収させるしかありません。
それは「激戦地に飛び込む以上の難事」
と誰もが認めるものでした。

そんな難事にあたったのが、
部下からの信望篤い木村昌福海軍少将です。
7月7日、木村率いる水雷戦隊はキスカ島に向け出港、
キスカ島では陸海軍将兵が、
いつ救援艦隊が来てもよいように
毎日、海岸に全員が整列して待機していました。しかし…。
写真:木村司令官が座乗した旗艦・軽巡阿武隈

7月10日、11日が当初の突入予定日でしたが霧が発生せず延期。
13日、14日、そして燃料の関係で最後のチャンスの15日も、
キスカ島自体は霧に包まれていますが、その南方は視界良好。
木村は反転帰還を命じます。
「帰ろう、帰ればまた来ることができる。
作戦はまだ終わってはいない」。
将兵を確実に救出するための木村の決断でした。

しかし、事情を理解していない軍の上層部は、
突入を断念して戻ってきた木村に
「なぜ突入しないのか。将たる器に乏しい」
と酷評を浴びせたのです。
木村はそんな非難を受け流し、全く動じません。

「また来る」という木村の言葉通り、
水雷戦隊は22日、再びキスカ島に向けて出港。
ところがその情報はアメリカ軍に探知されていました。
2隻の戦艦、5隻の巡洋艦を基幹とする
アメリカ艦隊が木村たちを待ち受けます。

ただ一つ、アメリカ軍の勘違いは、
木村の艦隊が増援部隊を
乗せていると思っていたことでした。
アッツ島守備隊の奮戦ぶりから、
キスカ島でもそれを上回る抗戦を
日本は企図していると考えたのです。

突入予定の26日、濃霧の中、
旗艦阿武隈に海防艦国後が衝突。
この事故で突入が29日に延期されますが、
それが幸運の始まりでした。

26日の夜、キスカ島から阿武隈に不思議な情報が入ります。
「アメリカ艦隊が砲撃戦を行なっている」と。
アメリカ艦隊は夜間にレーダーに映った影を
木村の艦隊と認め、猛烈な砲撃を行ない、
影が消えたことで全滅させたと判断、
補給のため海域を離れました。

この影は、実は遥かかなたの島々の反響映像であったとされます。
まるで天の配剤のような敵の隙を衝き、
木村らはキスカ島に突入することを得ました。

キスカ島から全員が無事撤収した守備隊5,200人は、
船上でアッツ島の方角を尋ねると、
皆、帽子をとって深々と頭を下げ黙禱しました。
この時、アッツ島の方角から「万歳」という声が
聞こえたともいいます。
アッツ島で玉砕した将兵を含め、
救出部隊、守備隊全員が一丸となって導いた「奇跡」でした。

2017年05月29日 公開 歴史街道編集部
今日は何の日 昭和18年5月29日
アッツ島の日本軍守備隊が全滅
昭和18年(1943)5月29日、
アッツ島の日本軍守備隊が全滅しました。
アッツ島の玉砕として知られます。

前年の昭和17年6月8日、日本軍はアメリカ領である
アラスカ州のアリューシャン列島ニア諸島の最西部にある、
アッツ島、キスカ島に上陸、占領しました。
その目的はミッドウェー作戦の陽動であり、
敵の目をアリューシャン方面に向けさせるためです。
しかしミッドウェー作戦は4隻の正規空母を失う惨敗となり、
アッツ・キスカ島占領の意味も虚しいものとなりました。
しかも島は陰鬱な気候で夏は雨、冬は雪が多く、
作物など育たないやせた不毛の土地です。

昭和18年に入ると、アメリカ軍の反攻が激化し、
アダック島に建設された飛行場からの両島への空襲も
頻繁となりました。 
さらに潜水艦や輸送船による補給も滞りがちとなり、
アッツ島の2600余名の将兵は孤立感を深めます。
アッツ島守備隊は北方軍の麾下にあり、
その司令官は樋口季一郎中将でした。

樋口は満洲で立ち往生したユダヤ人難民を独断で救った
オトポール事件で知られる、人道を重んじる武人です。
樋口は大本営に、アッツ・キスカ両島の守備隊を
撤退させることを進言しますが、大本営は耳を貸さず、
両島の保持増強を命じます。
そして4月18日には、アッツ島の新たな守備隊長として、
山崎保代大佐が赴任しました。
山崎は当時52歳。樋口は山崎がアッツへ赴く前に会い、
万一、敵が上陸戦を挑んでくるようであれば、
万策を尽くして兵員兵備の増強を行なうので、
自分を信じて戦って欲しいと激励しています。
樋口の言葉に偽りはなく、
その証拠に北千島には増援部隊を用意していました。

山崎が赴任してから約1ヵ月後の5月12日、
ブラウン米陸軍少将が指揮する第7師団1万1000人が、
米海軍第51任務部隊(戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、
駆逐艦19)の支援を受けて、上陸戦を開始。
これに対し、山崎指揮する守備隊は敵の4分の1以下の兵力ながら、
高地に築いた陣地に拠って果敢に敵を迎撃し、
一時はアメリカ軍を海岸にまで後退させる打撃を与えます。
しかし数と火力で圧倒する敵に、
次第に戦線を縮小していかざるを得なくなりました。

こうした状況下で16日、樋口は山崎に
「必ず増援するので、東浦要地は確保しておけ」
と緊急電を送り、
すぐさま増援部隊を向かわせる準備を整えます。
ところが、大本営からの命令は信じ難いものでした。
「アッツ島への増援計画は、都合により放棄す。
その他の作戦準備はすべて中止せよ」。
アッツ島を見棄てろというのです。
樋口は激怒し、また奮戦している山崎ら
将兵との約束を守れないことに、男泣きします。

5月21日、断腸の思いで電報を打ちました。
「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は
現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。
本官の力の及ばざること、誠に遺憾に堪えず、深く陳謝す」 。

翌日、山崎から返信が届きます。
 「戦する身、生死はもとより問題にあらず。
守地よりの撤退、将兵の望むところにあらず。
戦局全般のため、重要拠点たるこの島を力及ばずして
敵手に委ねるに至るとすれば、罪は万死に値すべし(中略)。
将兵全員一丸となって死地につき、
霊魂は永く祖国を守ることを信ず」。

そして29日、山崎から最後の電文が届きました。
「敵陸海空の猛攻を受け、第一線両大隊は殆ど壊滅のため、
要点の大部を奪取せられ、辛うじて本一日を支ふるに至れり。
地区隊は海正面防備兵力を撤し、
これ以て本二十九日、攻撃の重点を敵集団地点に向け、
敵に最後の鉄槌を下し、これを殲滅、
皇軍の真価を発揮せんとす(中略)」。
「他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを恐る。
英魂とともに突撃せん。従来の懇情を深謝すると共に
閣下の健勝を祈念す」と結び、
機密書類をすべて焼却した山崎は、
無線機を破壊して処分しました。

そしておよそ300の兵をひきつれた山崎は、
弾丸が雨あられと降り注ぐ中を、
敵の重砲陣地目がけて突撃を敢行。
この時、山崎は右手に軍刀、左手に日の丸の小旗をかざし、
自ら先頭に立って敵陣に斬り込んで、
奮戦の末に壮烈な戦死を遂げました。

この日、アッツ島守備隊は壊滅。
日本軍の死者は2638人、生存者僅か27人。
生存率1%。 一方、アメリカ軍1万1000のうち、
死者は550人、負傷者1140人、戦闘不能者1500人に及び、
日本軍は4倍以上の敵に痛撃を与え、
19日間も奮闘を続けたことになります。
戦後、遺骨収集の際、日本軍攻撃隊の最も先頭で
遺骨・遺品が発見されたのが、山崎でした。
最後まで、指揮官先頭を守り抜いていたのです。

また、このアッツ島の悲劇を繰り返させないために、
樋口は海軍と協力して、キスカ島守備隊の撤退を成功させました。 
実はアッツ島の奮戦があったため、
アメリカ軍はキスカ島守備隊も徹底抗戦するものと思い込み、
その錯誤が撤退作戦の成功を導きます。
キスカ島撤退の奇跡的な成功は、
アッツ島の将兵が命を代償にもたらしたものともいえるのです。

アッツ島の戦い 日本軍の玉砕について振り返る
画像 動画 まとめ
更新日: 2016年05月30日 matome.naver
PHP研究所2017/07/13
奇跡のキスカ島撤退、ソ連軍を撃退した終戦後の占守島、
インドネシア独立を助けた残留日本兵たち……。
後世に伝えたい誇り高き日本人。 
単行本(ソフトカバー) – 2017/7/15
『歴史街道』編集部 (編集) 

2019年3月8日金曜日
【占守島の戦い】『ニュース女子』 #199
(占守島の戦い・情報)。

検索キーワード「樋口季一郎」に一致する投稿を

2015年1月20日火曜日
ホロコースト被害者を利用する偽善者である

0 件のコメント:

コメントを投稿